第26話 エルジェーベトという女① アンドラーシ

 ケレペシュの街で過ごした数日は、兵たちにとっては鋭気を養う良い機会になっただろう。まだ冷たい大地に野営するのではなく、しっかりとした屋根と壁のある屋内で休むことができるのは何ものにも代えがたい。そもそもは交通の要衝の街だけに、食糧も調味料もこと欠かなかったし。アンドラーシのように身分ある者は、城や、その周辺に位置する屋敷に滞在を許されたから、兵よりもさらに快適な一時を過ごすことができた。かつてリカードの膝元だった都市からは、その主が挙兵したのに伴って多くの人間が去っていた。その、空き部屋を使わせてもらった格好だ。


 敵の領内に深く入り込んだ状況にあって、心身共に充実した兵を率いることができるのは、普通ならば願ってもないことだ。この間に季節は更に進んで日は伸び、一日に進むことができる距離も伸びている。人質の女子供も取り戻して、王の軍は一層有利な条件でリカードとの戦いに臨むことができる――はず、なのだが。




 暇を見て剣を取ったり近郊を馬で駆けたりはしていたものの――数日振りに完全な武装を纏ったアンドラーシは、声を潜めてジュラに囁いた。春の日差しと新緑の中、ケレペシュの城門から溢れる兵を眺めながらのこと、これから戦いに赴くという時に背を丸めての内緒話の内容は、少々後ろ暗いものだった。


「あの女を殺したら、やはり陛下はお怒りになるかな……?」

「何を言い出すかと思えば……」


 彼も友人も、それぞれに率いるべき兵たちがいるし、王によって命じられた居場所がある。にもかかわらず、こうしてわざわざ馬を寄せて話しかけに来るのは、逸脱を咎められても仕方のないことなのかもしれない。だが、アンドラーシとしては、心に懸かることをどこかに吐き出しておかずにはいられなかったのだ。


 馬上にいれば、徒歩の兵たちの耳を自然と遠ざけることができるし、盗み聞きしようとしている者を高い視点から警戒することもできる。何より、長い付き合いのこの男なら、彼が言うべきでないことを口にしたとしても、余人に漏らしたりはしないはず。むしろ、彼と同じ懸念を抱いている可能性さえある。だから、戦いの前に少しでも迷いを晴らしておきたかったのだ。


「見張りがいるのだろう。そもそも死を賜るべき罪人のために、無辜の兵を斬るとでもいうのか?」


 アンドラーシの期待通り、ジュラは多くを語らずとも何の話をしているか察してくれた。あの女――王妃の乳姉妹で、リカードの愛人。アンドラーシとはラヨシュの母ということで知らぬうちに縁ができていた。そして王にとっては、人質の救出に一役買ったこと、ティゼンハロム侯爵領の情報を引き出すために同行させざるを得ない、厄介な存在。身分としては取るに足らないはずなのに、やけに考慮すべき立場が多い――エルジェーベトとかいう女のことだ。


「逃げるのを防ぐための見張りだ。外から襲われることは考えてはいないだろう。陛下のお気が変わった、とでも言うさ」


 無論、口で軽く言って見せたようなことを実際にやろうとは、アンドラーシも思っていない。ジュラが軽く眉を顰めつつ強く窘めようとしていないのも、本気ではないと分かっていてくれるからだろう。

 それでも、本心ではないとしても、アンドラーシはジュラの耳だけに届くように声を抑えていた。王はあの女を当面は生かしておくと決めたのだ。それも、リカードとの戦いに役立てるために。その王の意志に背くようなことは、口にすることはおろか、臣下としては本来考えることさえ不敬にあたると心得るべきなのだ。


 ――だが、陛下もあの女を一刻も早くこの世から消し去りたくて仕方ないのではないか? 良い駒が手に入って喜んでおられるようには、とても見えないのだが……?


 主君の心の裡を慮ることもまた、臣下には許されないはずのこと。アンドラーシがそのように思うのも、王が彼と同じ考えであって欲しいと願っているからというだけかもしれない。――とはいえ、彼の推察も、全く根拠がない訳ではないと思うのだ。




 そもそもの話、人質の話の真贋に関わらず、王はあの女の首を刎ねると言明していた。ただ、偽りを述べていた場合には死に至るまでの苦痛がより激しく長引くと脅していただけで。だから、あの女が呼吸をしていること自体がおかしいと言えばおかしいのだ。


 人質の安否を確かめると同時に行われるはずだった処刑が延期されたのは、その人質たちの言葉によるものらしい。正確には、人質ですらない――リカードに父親を殺されて囚われていたジョルト卿の娘が特に強く主張したらしいが、とにかく不安に暮れた日々を慰めたその女が、無惨に殺されるのは忍びないと訴えた元人質も何人かいたとか。

 女の訴えが王の判断に影響したなど信じたくないのだが、リカードに従う諸侯の妻子となれば、乱の後の統治も見据えて疎かにすることはできないということらしい。


 ――王に背く反逆者など、纏めて斬り捨ててしまわれても良いと思うのだが……。


 ミリアールトの征服に、ティグリスの乱の平定。一番最近のブレンクラーレ遠征まで待たずとも、王が従うに足る主君、戦馬の神の正しい騎手であると知る機会は幾らでもあっただろうに。そのいずれも見逃してリカードについた者たちなど、大した器も力も持っていないだろうとアンドラーシとしては思う。


『まあ同感ではあるが、それでは幾らなんでもイシュテンの地を収める者が減り過ぎる。兵を率いる者もな。かつての乱でも、勝者に背いた者の全てが死を賜った訳ではなかろう』


 王のその決断を聞いた時も、彼はジュラに不満を漏らしていた。そして友人は例によって、冷静な見方を示して彼を多少落ち着かせてくれた。彼らふたりの間ではよくあることだ。アンドラーシの短慮を、ジュラが宥めてくれるというのは。


 今回も、王やジュラの言い分は間違っていない。それはアンドラーシも納得した。助け出された女たちが、王の恩を忘れて夫や息子にリカードからの離反を訴えないというのも、女の弱さを考えれば仕方ないことと諦めもしよう。家名を気にしているらしいジョルト卿の娘が、ただひとりリカードの非道を喧伝する役を請け負ったのも、それ自体は感心なことだ。

 だが、協力する見返りに、あの女を最期に王妃と会わせてやりたい、などというのはあまりに図々しい願いではないだろうか。第一、多少世話を焼かれたからといってジョルト卿の娘が罪人をそこまで案じる理由が分からない。あのエルジェーベトという女だって、長年リカードに仕えていた――つまりは、その娘にとっては父の仇に入るのだろうに。


 どういう訳か、エルジェーベトという女に都合の良いように事態が進んでいる気がしてならなくて――アンドラーシとしては、どうも気に入らないのだ。




 気に入らないからといってどうすれば良いのかというと、全く案はないのだが。

 エルジェーベトの罪――懐妊中の側妃に毒を盛ろうとした、という――は全軍に知れ渡ってはいるが、だからすぐに殺すべきだ、と考える者は残念ながらごく少ないようだ。むしろ、過去の罪を悔いて償いたいというのは殊勝なことだ、という雰囲気すら漂っている。王は、苛烈な命を下すことで士気に影響を及ぼすのも懸念しているのだろうとも分かる。エルジェーベトは、人質の件で信用を稼ぐことに成功したのだ。女ひとりで逃げられるはずもなし、首を刎ねるのは知っていることは全て吐かせてでも遅くはない、と――誰もが考えているのだろう。


 だから、アンドラーシの不満は彼の感情の問題でしかない。確たる理由も根拠もないのに、感情に任せて王の意志に背くことなどできはしない――だから、これはあくまでも愚痴のようなものなのだ。少々過激かもしれないし、聞かされるジュラの方は困惑したように苦笑しているのだが。


「利用できるうちは利用すれば良い、のではないか? 陛下は何もその女を助命するなどとは仰っていない」

「それはそうだが……もうすぐ死ぬ相手と引き合わされても、王妃も困るだろうに。まさか助けろなどとは言いださないだろうが……だからこそ、余計に悩むことにならないか?」

「お前が王妃様のことを気遣うとは珍しいな」


 心にかかるもやをはっきりと掴めぬままに言葉を連ねると、ジュラの目が驚きを示して軽く見開かれた。確かにアンドラーシはかつて王妃を嫌っていたものだが。今は、その思いも変わりつつあるのだが――そこを突かれるのは何となく面白くない気がして、彼は友人から視線を反らした。


「王妃に限ったことではないさ。クリャースタ様のこともフェリツィア様のことも……グルーシャも。できることならこの手で殺してやりたいと思うくらいだ」


 彼の妻のグルーシャも、リカードとあの女のはかりごとと無関係ではないのだ。同じくリカードの策略で死を賜ることになった父の復讐のため、グルーシャたち姉弟から望んだことではあるが。当時は、クリャースタ妃の侍女として何度か言葉を交わしたことがある、程度の関係ではあったが。グルーシャに毒を渡したのはあの女、それも、標的のクリャースタ妃と共にそれを呑むように命じていた。到底、忘れられるものでも許せるものでもない。




 そして、ジュラは知らない事情がもうひとつある。アンドラーシが最近鍛えている、ラヨシュという子供のことだ。王妃が気に懸けるからには、ティゼンハロム侯爵家に縁があるのだろうとは漠然と考えてはいたのだが――まさか、エルジェーベトの息子だとは思わなかった。

 アンドラーシがその事実を知らされたのは、今回の戦いに赴く直前のこと。というか、王自身もブレンクラーレ遠征から戻った時になって初めて王妃から打ち明けられたのだという。


『本当に大丈夫なのですか? 王妃様や王女様に対してはともかく、クリャースタ様に対しては――』


 ラヨシュ本人については、アンドラーシは生意気だが見どころがある子供だと思っていた。だが、あの強気な眼差しも、母親のことを聞くと意味合いが変わってくる。あの、アンドラーシの王妃への敬意が足りないと、責めるような目つき――あれが、母親の影響を受けてのことだったとしたら。大罪を恐れず側妃に毒を盛ろうとした母親と同様に、側妃たちに良からぬことを考えたりはしないだろうか。


『二度はないことは言って聞かせた』


 当然のことながら、アンドラーシが考えるようなことは王もとうに気付いていたのだろう。その眉間には深く皺が刻まれていた。


『次に何かあれば、王妃の責になるとも。あの子供の、ミーナとマリカへの忠誠は間違いないようだ。……マリカが懐いていることでもあるしな』


 だから当面は信用するしかない、と王は苦々しげに言っていた。恐らくは、最後の部分が最も重要なことなのだろう。マリカ王女には確かに同年代の友人や話し相手はいない。違う性で、ラヨシュの方が歳上ではあるけれど、それでも大方の大人よりは親しい存在ではあるのだろう。あの強情な王女のこと、貴重な友人を奪われると知ったらさぞ機嫌を損ねてむくれるだろうとは想像に難くない。


 ――リカードのことがあるからな……。王女様のご機嫌伺いには気を遣われるということか。


『リカードと引き離した以上は、何ができるということもあるまい。離宮も十分に守らせる』


 不機嫌そうに告げた王に、アンドラーシもそれ以上強く異を唱えることはできなかった。ただ、無事に戦いから帰った暁には、一層厳しく鍛えてやろうと固く心に決めた。それで、側妃に対する――もしかしたら、王へも――反発も彼に向けば良い。ティゼンハロム侯爵家への忠節も忘れさせることができれば良い、と。




 ジュラは、アンドラーシが遥か王宮にいる子供に思いを馳せていることなど知らない。彼が――非常に珍しく、更にないことに――その子供のために頭を悩ませていることも。だから、ジュラにはアンドラーシが単にエルジェーベトの処遇に不満を持っているのだとしか思っていないのだろう、宥めるような調子の声を掛けてくる。


「あの女を許せぬのは、恐れながら陛下も同じことだろう。ならば、決して情けをかけることも隙を見せることもなさるまい」

「うむ……」


 ジュラの言葉はやはり正論だ。アンドラーシがこの男の口から聞いて、心を落ち着けたかったことでもある。


 ――全てが終われば改めてあの女は死を賜る……その結果に、変わりはない……。


 これからの戦いでまた役に立つようなことがあれば、その功を持って減刑しても良いのでは、などと言い出す輩も現れそうなのは不安ではあるが。王は決して認めないだろうし、未遂とはいえ王族殺しの大罪は、死をもってしか償えない。いかに冷酷で邪悪な性根をしていたとしても、女ひとりのこと――逃れる術は、ないはずなのだ。


「そう、だな。そうなのだろうな」


 正論に対して、アンドラーシにはやはり反論が浮かばない。だから決して口にはできない。たかだか女ひとりのことが、不気味でならない――などとは。


 エルジェーベトがジョルト卿の娘を篭絡した手管は仄かに聞こえている。手管、と認識している者はせいぜいが王と彼くらいで、さほど多くはないのだろうが。王妃への忠誠と我が子への思いを切々と涙ながらに訴えて、若い娘の――それだけでなく、人質の女たちの何人かの――同情を買って見せたのだとか。多くの者が哀れみ、悔恨の表れと捉えた女の言い分を、だが、アンドラーシは信じ切ることができない。


 ――息子が心配ならどうして俺を呼ばぬのだ……!?


 エルジェーベトは、息子のラヨシュが王妃と王女の傍にいることを知っていたらしい。あの女が最近までリカードの元にいたなら驚くべきことではない。問題は、ラヨシュの境遇を知るなら、当然彼に師事していることも知っているはずだということ。息子の身や将来を案じるならば、何よりも彼との接触を試みるべきなのだ。なのにそれをせず、ひたすら同情を得ることに汲々きゅうきゅうとしているのだとしたら――それは、ただの方便ではないのだろうか。首筋に刃が押し付けられているような状況でなお、何かしらを企んでいるのではないだろうか。


 アンドラーシが思い出すのは、リカードの手の者から王妃と王女を守った日のことだ。ラヨシュに託された王妃の手紙によって、間一髪で王宮に駆けつけることができたあの日、王女を広い庭園から見つけ出したラヨシュは泣いたのだ。単に緊張が緩んだためかと思っていたが、母の息子がリカードに背く決断をしたのだと知った今では、あの涙はまた違った意味合いを持ってくる。


 ――あの子供は、リカードだけでなく母も裏切ったのだな。


 ラヨシュが母の罪と生存を知っていたのかどうかは分からないが。王でさえも睨みつけるほどに侯爵家への忠誠を植え付けられた子供が、それを裏切ったのだ。心の呵責はもちろんのこと、かつての主家を頼れなくなった不安もあったということなのだろう。年端もいかない子供にそれほどの思いをさせておいて、エルジェーベトの態度はあまりに無情ではないかと思う。陰謀への懸念だけでなく、王妃への配慮だけではなく。あの子供をもこれ以上思い悩ませないためにも、あの女は生かしておいてはならないのではないかと思うのだが――


「戦いの前につまらぬことを言った。おかしなことはしないから安心してくれ」

「なら良いが。くれぐれも――」

「良い歳になってまで説教は勘弁してくれ。戦いで剣を鈍らせなどはしない」


 気に入らないから、というだけではやはり王の命に背く理由には足りぬのだ。だからアンドラーシはあえて明るく笑ってジュラを安心させてやった。


 ――油断はしない……戦いでも、その後でも。


 今の段階で動くことができないならば、彼にできるのはそれくらいだ。リカードに勝ち、かつエルジェーベトからも目を離さない。戦いにあって全力を出すのは常のこと、ほんの少しやることが増えるだけのはずだ。


 そう自らに言い聞かせながら、アンドラーシはジュラに軽く手を振り、同時に手綱を取って馬を駆け出させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る