第25話 無為の日々 シャスティエ
横たわって天井を見上げるのが、この数か月でシャスティエの身体に馴染んだ体勢になってしまった。ブレンクラーレで仮に滞在した城と、イシュテンに向かう馬車の中。そして今は、我が家とも言うべき離宮の寝室で。それぞれに視界に映る意匠や装飾は異なるし、何よりも信頼できる侍女や医師が間近にいるという安心感はこれまでとは全く違うけれど。
それでも、戦いの只中にいる夫や、夫と父君の間で――それにシャスティエとその子供たちのことで――思い悩んでいるであろうミーナを思うと、寝台の中でぬくぬくとしていることに忸怩たるものを感じずにはいられない。侍女たちは、休むことこそが今の彼女の務めなのだと言ってくれるけれど。無事に胎の子をこの世に送り出すことができれば、そしてその子が王子ならば、イシュテンの情勢は安定するのだから、と。
自分にできること、目の前のことに心を傾けることしかできないのは分かっている。でも、シャスティエには何かをしているという感覚さえないのだ。腹が日々大きく重くなっていくのは自然の理というものだし。腹が張るのや下血は怖いけれど、それも彼女の意志でどうにかできることではない。医師に言われるがまま薬を飲み横になり、子が子宮に留まってくれるのを祈るだけだ。心労を覚えないように、気を強く持つように、とも言われているけれど――これまでのことと今の状況を見て、思い悩まずにいるのは不可能というものだ。
娘のフェリツィアだけは、常に変わらず一点の曇りもない輝きであり希望なのだけど。今のシャスティエは、母としても失格だと思えてならなかった。
シャスティエが閉じこもる寝室に、赤子の甲高い歓声が響いた。侍女たちに抱かれて庭に散歩に出ていたフェリツィアが戻ったらしい。
「フェリツィア様、お母様にご挨拶を」
外の――春の気配を纏った風が寝室まで届く。その源は、イリーナによって寝台に降ろされたフェリツィアだった。先ほどまで庭を走り、這って遊んでいたのだろう。離れている間に赤子特有の甘い香りはなくなってしまっていたけれど、娘が纏う土や草葉の爽やかな香りはシャスティエの心を和ませてくれる。
「フェリツィア……お日様の匂いがするわ」
「庭の花がお気に召したようで、
「ありがとう。本当は私が遊ばせてあげたいのだけど」
母の顔の傍へと這いよって、小さな手を伸ばすフェリツィアに指先で応えながら、シャスティエの声は少し沈む。娘と触れ合うと、愛しさと幸せで胸が締め付けられて苦しいと思うほど。起き上がることさえ控えるように医師から厳命されてさえいなかったら、自身の手で抱いてやりたいし、もっと構ってもやりたいのに。
「……夏になる頃には、きっと。弟君か妹君や――王妃様やマリカ様とも、ご一緒できると良いですね」
「ええ、きっと……」
フェリツィアの髪についた小さな葉の欠片を取り除いて捨てると、赤子にはそんなものさえ玩具に見えるのか、不満げな声に抗議された。それも、抱き寄せて揺すってやると、すぐに機嫌の良い満足げな表情になるのが愛らしい。腹の子に障ることがないよう、寝たきりの体勢が許す程度の動きでも、母との触れ合いを喜んでくれているなら幸いだった。掛ける言葉も段々理解するようになってきたようだし、早くお喋りができるようになりたいものだと思う。
――ミリアールト語を教えても良いのかしら。前に、ファルカス様はそんなことを仰ってたけど……。
『ミリアールト語だろうとブレンクラーレ語だろうと好きに仕込めば良い』
夫に言われたのは、フェリツィアが生まれてすぐのことだった。婚家名の意味を知られる前のことでもある。あの時のシャスティエは、娘には祖国の言葉を教えることなどできないと思ったのだ。
祖国の血を継がせるはずの我が子に、祖国との繋がりである言葉を教えられなくなってしまうという事態に気付かなかったこと――それもまた、シャスティエの愚かさだったのだろう。子供を、復讐のための手段としてしか考えず、このように愛しくて堪らなくなるのを予想だにしなかったことも。
だから、婚家名の意味が露見したのは、決して悪いことだけではない、と思いたかった。祖国に、言葉を禁じられるという屈辱を味わわせることになってしまったし、そのために遺恨も多く生じたのだろうけれど。でも、秘密を知られたからこそ王と心の裡を明かし合い、分かり合う――多分――こともできた。王はミリアールトにとって残虐な支配者にはならないだろうし、シャスティエもさせない。復讐のために欺き続けるよりは、長い目で見れば祖国のためにも良いはずだった。
――だから、これで良いはず。王の勝利を願い、王の子を生むの。そしてあの方が無事に帰ったら、ミーナ様と一緒に支えるの……。
一度は仇と憎んだ男を夫として愛することも、ひとりの男にふたりの妻がいることも、更に
遊び足りないのか、腕の中でもがくフェリツィアを抱きしめて。シャスティエは自身にそう言い聞かせた。
食事の時間が来たフェリツィアは、侍女たちによってまた別室へと連れて行かれた。入れ替わりにシャスティエのもとにやって来たのは、グルーシャだった。
「クリャースタ様、王妃様のもとに陛下からの使者が参っていたそうです。お見舞いにいらっしゃることはできないからと、手紙でお知らせくださいました」
「まあ、わざわざ……」
受け取った手紙を広げると、見覚えのあるミーナの筆跡が綴られている。読み書きが苦手で、と恥ずかしげに呟いていたのを聞いたこともあるけれど、どうして、あの方の人柄が感じられる丁寧な書面だと思う。
――マリカ様も。案じてくださっているなんて。
母君よりもぎこちない筆跡で、マリカ王女も見舞いの言葉を綴ってくれていた。活発な王女が、駆け回りたいのを我慢して筆を執っているところを思い浮かべると、シャスティエの口元は綻ぶ。無論、父君と祖父君の争いや、母君の憂いを間近に見て、側妃へ向ける感情が気遣い労わるたけのものではあり得ないことは分かっているけれど。良い言葉だけを選んで手紙にしてくれた心は、やはり嬉しくありがたかった。
「クリャースタ様、陛下は何と……?」
「ええ……」
珍しいことに、グルーシャはやや不躾に、身を乗り出すようにして手紙の内容を知りたがった。彼女の夫であるアンドラーシも、弟のカーロイも、王の軍に従っている。だから現在の様子が気になってしかたないのだろう。侍女に急かされるまま、シャスティエは数枚に渡る手紙を繰り、彼女には馴染みのないイシュテンの地名を指先で追った。
「――ケレペシュというところの城を抑えたそうよ。そこで体勢を整えて、今度こそティゼンハロム侯爵との対決に備えると。……それに、人質として捕らえられていた方たちを助けられたとか。これで、侯爵に従う諸侯の離反も期待できるだろう、ということよ」
人質、という単語を、シャスティエは複雑な思いで発音した。かつては彼女こそが人質として捕らえられていたのだ。
しかも、この度助け出されたという女性たちは、そもそもはティゼンハロム侯爵に与する諸侯の妻や娘なのだろう。イシュテンの王宮に迎えられたばかりの頃、王妃を脅かすと見做されてか――そして奇しくもその懸念は現実となった――、侯爵家に縁ある女性たちからは辛辣な態度で接されたものだけど。もしも、人質の中に茶会や狩りの場で顔を合わせた人たちがいるとしたら、見事なまでに立場が逆転したことになる。
――だからといって、仕返しなんて考えないけど……。
恐らく彼女たちは夫などの意向を受けた振る舞いをしただけ。そしてその夫たちの方も、ティゼンハロム侯爵に気に入られるようにと努めた結果のことなのだろう。侯爵に従っていれば安泰と思えばこその振る舞いだったろうに、当の侯爵に裏切られるような事態になったのはいっそ気の毒ですらあった。
「人質、ですか……侯爵もそこまで追い詰められているのですね……」
グルーシャの父も、侯爵の謀略に巻き込まれる形で死を賜った。更に、仮に父君が存命だったら、今回の乱では敵方になっていたかもしれない。人質として囚われるのは、グルーシャ自身にも起き得たことなのだ。だからだろうか、女性たちへの仕打ちにも侯爵の凋落ぶりにも思うところがあるようで、形の良い眉が顰められている。ただ、シャスティエに仕え始めた頃のような、侯爵に対する激しい感情は見られないような気もする。
ティゼンハロム侯爵は、もはや畏怖や憎悪ではなく、せいぜいが嫌悪と――哀れみの対象でしかないのだろうか。女に哀れまれるなど、あのいかにも傲慢な老人には剣を取っての戦いで敗れる以上の屈辱になるのかもしれない。
――侯爵の負けは、多分ほぼ決まったこと……? 油断してはならないし、ファルカス様もそんなことはなさらないのでしょうけど。
敗者の側に落ちた者を哀れむのは、勝利が決まってからにするべきだ。ミーナやマリカの立場を慮るのも。万が一にも夫が戦場で斃れるようなことがあれば、シャスティエと子供たちこそが命を狙われる立場にもなりかねないのだ。
自身を戒めながら手紙の続きに目を落として――シャスティエは、小さく溜息を吐いた。
「人質の方々を、王都に送る可能性もあるそうよ。落ち着くまではそれぞれの領地に戻すことも難しいから、と。陛下にとっても、人質には変わりないのかもしれないわね」
「……それも、仕方のないこととは存じます」
グルーシャが複雑な面持ちで頷いた心情もよく分かる。遠い前線での話ではなく、身近に彼女たちが留め置かれることになれば、顔を合わせることもあるだろう。というか、あちらの方から挨拶をしなければならないと思うはず。その時にどのような顔で対すれば良いものか、想像するだに気が重い。立場が逆転したシャスティエはもちろんのこと、一歩間違えば同じ立場にいたかもしれないグルーシャも、気まずさは同じはずだった。それに、かつては彼女たちに
『皆様が王都にいらっしゃるとしたら、不安のないようにして差し上げたいと思っています。でも、私が表に出るのは良くないのではないか、とも。私の顔を見れば父を思い出してしまうでしょうし、不快に思う方もいるでしょうから。シャスティエ様から皆様の安全を保証していただいた方が良いのではないかと思うのですが、ご体調が許すかどうか分からないし。どうするのが良いか、ご相談できると良いのだけど』
ミーナの優しさは、人質の女性たちにも分け隔てなく向けられていた。手紙の後半には、人質の処遇について、それに父君の所業によって憎まれているのではないかという不安が綴られていたのだ。シャスティエとは違って、親族や友人としての交わりもあったからこそ、なのだろうか。ひとりひとりの人柄や家柄を知るからこそ、ティゼンハロム侯爵抜きでの関係がどのようになるものなのか、恐ろしいということかもしれない。
――侯爵は、やはりあの方々のことを考えてはいない……!
シャスティエの手の中で、手紙がくしゃりと音を立てて歪んだ。折角ミーナたちが贈ってくれたものを、とは思うのだけど、指先に力が入るのを止められない。娘や孫のためと言って縛りながら、自身の所業のために厳しい目で見られることには頓着していない――結局は、自身の権勢欲のことしか頭にないとしか思えないティゼンハロム侯爵への憤りがそうさせた。
ミーナが訴えている通り、女たちは女たちでどう振る舞うか、王妃と側妃でどのように役割を分けるか相談しておいた方が良いだろう、とは思う。なのに起き上がることさえままならない我が身が歯がゆくてならなかった。
「……この子を早く生んであげたいわね」
「クリャースタ様……? 産み月には、まだ早いですわ。まだ、しっかりとお腹で育てて差し上げませんと」
腹をさすりながら思わず愚痴めいたことを呟けば、グルーシャが目を見開いた。我が子に早く会いたい、というよりは、早く楽になりたい、という思いが強く出たのが伝わってしまったらしい。確かに、横になるのも薬を呑むのも、全て胎児を子宮に留めておくため。早産の危険も、教えられてはいるのだけど。
侍女の目に、不心得を咎められているような気がして――シャスティエは、言い訳のように呟いた。
「でも、この子を抱えていてはまともに動けないし。――早産のくらいのほうが、
「クリャースタ様」
そしてグルーシャの顔が青褪めるのを見て、今度こそ余計なことを言ってしまったと悟る。
攫われた女が身重の身体で戻ったら、誰もが同じ想像を浮かべるに決まっている。レフもマクシミリアン王子も、シャスティエにとっては縁のある相手でもあったし。彼女自身は我が身の潔白を確信しているけれど、他の者は――夫は、どうだろう。彼女に対しては疑いさえ口にしていなかったけれど、心の中でどう思っているかは分からない。
フェリツィアのように、二番目の子も母親似の淡い色の髪と瞳を持って生まれてきたらどうしよう、と。夜中に不安で目が覚めることもあるのだ。たとえ王子だったとしても、臣下は従ってくれるだろうか。
だからこの子は早く生まれてくれた方が良いかもしれない、と思ってしまうのだ。生まれた時期からして、王以外が父親ではあり得ないと、世間も信じてくれるかもしれないから。――そう、だから、決して儘ならない我が身の自由のためだけに、子供の危険を願っている訳ではないのだけれど。
「……でも。それでも――今は安静にしなくてはなりません。ただでさえお心にもお身体にも大変なことがあったのに。せっかく守り切った御子様なのに。時期でないお産は、母君様にとっても危険ですもの。だから、どうか――」
「……そうね。ごめんなさい」
硬く、そして震える声で諭し慰めてくれるグルーシャの必死さからして、やはり口にすることはおろか、考えることすら許されないことだったのだろう。だからシャスティエは大人しく謝罪の言葉を口にした。
「ちゃんと寝ているから。――お茶を、淹れてくれるかしら」
グルーシャの強張った表情こそが、胎の子の胤を疑う者が決して少なくないと教えてくれてもいたけれど。それに触れても侍女を困らせるだけなのは分かっていたので、シャスティエは気付かない振りをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます