第22話 吉報 ファルカス
人質が捕らえられているという屋敷に兵を送った後も、ファルカスはそれまでと変わらぬ速度で進軍を続けた。リカードに従わせられている者たちを離反させることができたら、などとは虫の良い皮算用に過ぎないから、必ず宛てにできるものではない。何より、エルジェーベトを心から信用する気になどなれなかった。あの女のこれまでの言動からして、陰では何を企んでいるのか知れたものではない。殺されるのを承知で彼の手中に飛び込んできたからには、あの女にとって自身の死に勝る利益を見込んでいると考えるべきでさえあるだろう。
――何を企んでいようと、耳を傾けるつもりはないが……。
得体のしれない不気味さや、ミーナのために手段を選ばない怖さはあっても、エルジェーベトはただの女だ。詭弁を弄する暇も与えず首を刎ねてしまえば良いはずだ。人質のことが嘘なら王の軍を惑わすための策と糾弾できるし、仮に救出に成功したとしても、側妃に毒を盛ろうとした罪を改めて問えば良い。剣の一閃で絶命させてやるのは、あの女に対しては慈悲にすらなるだろう。屋敷に向かわせた男にも、エルジェーベトから決して目を離さぬよう、逃がすことがないように厳命している。
ことの成否はすぐに知れるし、離れた場所では何ができるという訳でもない――だから、エルジェーベトの言葉の真偽について、ファルカスはひとまず考えないことにしたのだ。そもそも思いがけず飛び込んできた事態でもある。それよりもリカードとの対決のため、彼の側で打てる手を尽くさねばならないだろう。
そうして進むこと数日、ファルカスが率いる軍は、ティゼンハロム侯爵領内に有力な街のひとつ、ケレペシュをほぼ抵抗なく占拠することに成功した。
マリカがごく幼い頃に、リカードのたっての願いで訪れたことがある場所でもある。つまりは幼児を連れた旅でもさほど問題にならない、王都からの街道沿いに位置する交通の要ということになる。もっとも、旅の疲れと見慣れぬ城を目にした興奮で、マリカは数日熱で寝込むことになったのだが。孫娘を掌中で甘やかす機会に恵まれたリカードは、むしろその事態を歓迎しているように見えた。苦しむ子供よりも、自身の欲望を優先させる歪んだ性根は、思えばそのような場面からも窺うことができていたのだ。
そのような身勝手な祖父でも、ミーナは娘を会わせることができて喜んでいたし、マリカも菓子だの玩具だのを惜しみなく与えられて喜んでいた。――王宮で戦いの帰結を待つふたりは、さぞ心を痛めているのだろうが。だが、妻子を慰めて心の傷を癒してやるのは、勝利を収めてからなければならない。だからこれも今考えるべきことではない。
妻子との思い出がある城に、ファルカスは当面の拠点を置くことにした。城壁の内には国外からも商隊の行き交う大都市を擁するだけあって、近郊の農村からは食料の供給にこと欠かない。各地からの情報を集めやすい立地でもあるし、天幕ではない、まともな建物での寝起きは兵たちの心身を休め体力を温存させることにもなる。
だから、この城にいる間にリカードとの対決の地の見当をつけ、策を練っておこうというのが彼の肚だった。
王の居場所こそが玉座というイシュテンの伝統によって、かつてリカードが来客をもてなした広い食堂がこの地での玉座の間となった。大方の調度は取り払って、室内に残したのは長い卓と幾つかの椅子だけ。そしてその卓に乗るのも、美食を並べた皿や杯ではなく、ティゼンハロム侯爵領の地図だった。リカードとの付き合いを通して入手していた大まかなものに、今回各所へ送った斥候が持ち帰った情報を書き加えている。この地を長年治めたリカードの知識に及ぶことはできないだろうが――そろそろ、決戦の地と敵の兵力の全容は明らかになろうかというところだった。
「ティゼンハロム侯爵領内に兵の影は見えませぬ。街も砦も、守り切れぬものは捨てて一点に集中していると見るべきでございましょう」
軽装とはいえ鎧をまとった男たちばかりが卓を囲むのも、本来は宴が似合う城の一間には似合わないことだろうか。王宮でも将を集めて軍議を行うことはあるから、同じことなのかもしれないが。
ともあれ、取りまとめた情報を整理して総括した者が示した地図の一点に、その場の者たちの視線は集中した。視線に力が宿るならば、地図のその箇所だけに穴が開くであろうほどだ。イシュテンの未来を決するべき戦いが行われるであろうその地に、街や城を示す記号は描かれていない。使われている色は草原を表す緑だけ――リカードは、平野で、正面から兵をぶつけ合う意思を見せているのだ。
追い詰められたからといって、怯えてどこかの城塞に引き籠るようなことがないのは流石、と言えるのだろう。憎むべき敵であり、油断してはならない戦いではある。だが、それを承知の上で、ファルカスの口からは思わず感嘆めいた声が漏れた。
「籠城をする気はないということなのだな。それほど愚かではないというか……」
籠城とは援軍や講和のアテがある時にするもの、今のリカードのようにどこからも救援が望めない場合にはじわじわと追い詰められるのを待つだけの愚策にしかならない。
だが、そのように追い込まれた時に自ら打って出ようというのは勇気がいるものだ。力づくで無理矢理に従えた諸侯は、もはや麾下とも呼べない烏合の衆でしかないだろうに、とにかくも戦いの体裁を保つことができるというのは、リカードならではの手腕ではあるのだろう。たとえ人質を取って脅しつけるという、卑劣な手段に訴えてのことであっても。
「閉じこもっていたところで、どうなるものでもないですからな。ブレンクラーレの女狐にも見捨てられたことでございますし」
ファルカスの感慨を、臣下たちは必ずしも理解したようではなかったが。追従めいた相槌を打ってきた者の声にも表情にも、リカードを嘲る色が満ちていた。少し気が緩んでいるのではないか、と思ってしまうほどに。
「俺を討てば逆転できるとでも思っているか。ティグリスのように毒でも用意しているかな」
だから彼は少し脅かしてみることにした。今回のように平野で激突すると見せかけて、ティグリスは罠を仕掛けていた、そのことを思い出させたのだ。その卑劣さに怒らぬ者はいないだろうが、同時に恐怖を――表面に出すことは決してないにしても――覚えずにもいられないだろう。馬の脚を封じられて身動きが取れないところを、弓矢で狙われるなどとは。それこそブレンクラーレのような陰の支援者はもはやなく、それにそのような策に従う者がいるはずもない以上、リカードが同様の罠を仕掛けているとは考えづらいが。
だが、戦いの結末などその時にならなければ分からないのだ。今現在の情勢に関わらず、王が斃れればリカードは勝ちを拾うことになる。その可能性を忘れるな、と――彼は臣下たちに警告してやったということになる。
「そのような――」
「不吉なことは仰いますな」
既に勝った気でいたところに水を差されたからか、シャルバールの惨状が脳裏を過ぎりでもしたからか。その場の者たちは居心地悪げに身じろぎして顔を見合わせた。互いに促し合うような気まずい雰囲気の中、そのうちのひとりが取り成すような猫撫で声を出す。
まるで彼が何かしら我が儘を言っていているから、機嫌を取ろうとするかのように。事実を指摘してやっただけなのに、おかしなことだと思うのだが。
「大勢は既に決したようなもの。陛下が先頭に立たれずとも良いかと存じますが」
とはいえ、その言葉自体は忠誠心から発せられたものだろう。王が危険を冒すことへ諫言するのも、戦いの前に士気を下げることを懸念するのも、当然のことではある。
臣下の意を汲んだ上で、だが、ファルカスははっきりと首を振った。
「そうは行くまい。王族と侯爵では格が違うが、ブレンクラーレまで巻き込んで国を乱してくれたのだ。俺がこの手で討たねば気が済まぬ」
シャスティエの従弟の時と同様、妻の身内だからといって自身の手を汚すことがあってはならない。彼はイシュテンの王であり、統べる国を害する者には容赦しないと、民にも臣下にも示さなければならないのだ。
――それが、弱味といえば弱みになるのだろうな。
敵を前にして隠れることが許されない、ということが。彼が退くことを知らないのはリカードも重々承知していること。毒のことを口にしたのは、半ばは軽口――だが、残る半分ではリカードならばやりかねない、とも思っている。
あまりに非道な策に訴えては、後の世の汚名を恐れた者たちが一斉に離反しかねない。人質を取られているとはいっても、ティグリスがやったような誰もが眉を顰める所業に関わったと見做されれば、どの道係累はことごとく冷遇され、時には命さえ狙われることになるだろうから。
仮初の味方の目をも欺いて、ファルカスの命だけを狙う術――それはどのようなものか。戦場にいたる経路に幾つかある隘路や渡河せざるを得ない場所。机上の論としては、罠を仕掛ける場所も幾つか考えられなくもないが。その中のいずれが実行可能なのか、あるいは思いもよらぬ策を凝らしてくるのか。戦場となる地を探りながら、見極めていかなければならないだろう。
「――そろそろ敵の兵力の見当もつくか? あれ以来、降って来る者はいないが……」
話が具体的な戦いのことに及ぶと、臣下たちの表情も改まった。決して負けられない戦いが近いこと、この者たちも分かっているのだ。
「やはり人質の存在は大きいのかもしれませぬな」
「リカードに背けば罪を減じる、と――陛下のお言葉が届いていないことも考えられますが」
そして口々に訴えられたのは、意外にもというか頭の片隅に追いやろうとしていた人質の件だった。リカードに与する者とは、即ちファルカスの――王のもとに参じなかった者、と考えてほぼ間違いないから、計算自体はそう大きく間違うことはないのだろうし、こちらが兵力で勝るということも、もはや覆ることはないのだろうが。
とはいえ、リカードに不満を持つ者と剣を交えることになるのはいかにも惜しい、とも思われた。
――しばしこの城に留まってことの成否を待っても良いか……?
戦いが長引けば、領地を気にした諸侯の士気が下がるということは考えられるし、兵の維持にも金がかかる。そこを押しても待つ意味があるかどうか、ファルカスが検討を始めた時だった。
慌ただしい足音と共に、食堂の扉が大きく開かれた。誰何するまでもない、戦いの前の王がいる場に駆けつける者がいるとすれば、重要な情報を携えているに決まっている。
ゆえに、誰もが口を噤み、入室した者が剣と鎧と鳴らしながらファルカスの前に跪くのを見守った。彼自身も、先触れのない非礼を咎めることなく、無言のうちに発言を促す。誇らかに顔を上げた使者の様子からは、急ぎとはいえ良い報せであろうと窺えたのだが――
「我が主からの報告でございます!」
「主とは何者か?」
「遅参の不忠を雪ぐため、奥方と若君の仇を討つため、風のごとく馬を駆って参りました。そして間に合いましてございます! あの女の言葉にも嘘はございませんでした。リカードに捕らえられていたご婦人方を、無事に救出いたしました!」
高らかに述べられたのは、望外の成功の報告だった。驚きと喜びのどよめきが上がる中で、ファルカスも思わず席を立って叫んでいた。
「真か!? よくやった!」
「恐れ入ります……!」
短いが万感を込めた賞賛に、使者は深々と頭を垂れて謝意を示した。
――何と時期の良いことか……!
これでリカードに従う者は一層減るだろう。妻子の命を案じて背くことができなかった者たちも、その懸念が払拭されれば反逆の汚名の方こそを恐れるだろうから。どのようにして女たちの無事を伝えるか、その算段は整えなければならないが。
高揚に駆られるまま、それに忙しく働く頭に思い浮かぶまま、ファルカスは跪く使者に問いを重ねる。
「助けた者たちの素性は分かっているのか」
「少しずつですが聞き取っております。囚われの日々に怯え、心労に口が重くなっている方もいらっしゃいますので」
「無理もない。この城に居場所を整えさせるからゆっくり休ませることにしよう」
「はっ」
その後は、一旦は王都に送るか、少なくともティゼンハロム侯爵領からは下がらせる必要があるだろう。彼女たちの元の住まいに帰すにしても、乱が終わってからでなければ。夫や息子が大人しく帰順すれば良いが、今度はこちらが人質として使わなければならなくなる可能性もある。
無論、従わなかったとしても女たちを虐げるつもりはファルカスには毛頭ないが。あらゆる面でリカードのやり口を真似ることはすまいと、彼は心に決めている。
「来たばかりで悪いがすぐに主のもとへ戻れ。女たちをここに落ち着かせるように言付けよ。俺が直々に褒美をやる、とも」
「ありがたきお言葉。主も恐懼することでございましょう」
使者は満面の笑みで頷くと、さっと立ち上がった。疲れていたとしても、それを全く感じさせない機敏な動きは頼もしかった。颯爽と踵を返しかけて――だが、その男はファルカスに再び向き直った。改めて片膝をつきながら、述べる。
「あ……ご婦人方の中に、人質では
「何? どういうことだ?」
「ヴァールのジョルト卿の奥方と令嬢でございます。卿の亡き後捕えられ、お気の毒に召使い同然の扱いを受けておられたとか。特に令嬢はリカードめの兵に危うく暴行されるところだったと――そう、もう少しで毒を呷られるところだったので、それで間に合った、と申し上げたのです」
「ふん、それは良かった……のか?」
些末といえば些末な――だが、思いもよらぬ報告、気にも掛けていなかった者たちの消息を聞かされて、ファルカスは軽く眉を寄せた。
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