第21話 黒い天啓 ラヨシュ
今日は、王妃は側妃の離宮を訪ねることはしないらしい。側妃の――というかその胎の御子の、なのか――体調が優れないということで、来客を迎えられる状況ではないとのことだ。だから今日はラヨシュもずっと王妃の傍に控えて、王女の話し相手や遊び相手を務めることになる。それ自体は、良いことなのだけど。
「心配ね……産み月もまだ先だというのに」
ラヨシュとしては、側妃よりも王妃の憂い顔の方が心配だった。自身と王女を脅かすであろう方たちのことをどう考えているのか。案じる言葉と表情は真実なのか。
――もしものことがあった方が良いのでは……?
王妃だって内心はそう願っているのではないか――そんな不吉かつ不敬な考えに囚われているのに気付いて、慌てて首を振る。心優しい王妃がそのようなことを考えるはずがない。邪悪な考えは彼自身の――あるいは母のもの。多分、普通なら思いついてしまう方がおかしいような類のことなのだろう。罪もない赤子が生まれずに流れた方が良い、などとは。
マリカ王女も、ふわふわとした声で母君の呟いた言葉をなぞる。
「……心配ね……?」
首を傾げて頬に手をあてた格好も、王妃にそっくりだった。ただ、眉を顰めて心の底から心配そうな表情を浮かべている王妃と違って、王女にはどこか戸惑ったような気配が見える。幼い方には、懐妊している方に起きる不調とはどのようなものなのか想像しきれていないのかもしれない。それとも、側妃のことを親身に案じる気にはまだなれないということだろうか。
でも、たとえそうだとしても、王女だって側妃たちの不幸を積極的に望む訳ではないのだ。父君の関心を奪われた不満を抱え、
――なのに、どうして私は……。
母に教えられてきたことは、多分間違っているのだ。王は側妃との間に男児を儲けても王妃や王女を蔑ろにはしない。側妃も、王妃たちに害意など持っていない。もしも側妃に含むものがあるとしたら、毎日のように離宮を訪ねている王妃にだって分かるはずだ。まして王女は母君よりもよほど疑り深くて側妃に対する目も厳しい。離宮に行くたびに目を凝らしても、あの金の髪の美しい人の態度にひび割れひとつ見つけることができなくて、王女は不思議がってさえいるようなのだ。
だから彼の心配は余計なことのはず――なのに、どうして安心しきることができないのだろう。王妃たちのことを思えばこその取り越し苦労なのか、それとも彼は実は邪悪な質で、波風のないところにも謀を見出さずにはいられないということなのだろうか。
母ならば、主の妨げになり得るものは、たとえどんなに小さな芽でも摘み取って悔いることをしないのだろう。だからこそあの方は生まれてもいないフェリツィア王女の命を狙ったし、王妃たちを王宮から逃がそうと――もしかしたら、攫おうと……? ――した。そしてその行いによって、王妃を悲しませティゼンハロム侯爵を言い逃れのできない逆賊に仕立て上げてしまった。
母の行いは侯爵の意を受けてのことではあるだろうから、侯爵はそのことでは母を咎めはしないのかもしれないけれど。でも――忠誠は言い訳にならないことを、ラヨシュは既に学ばせられてしまった。母だけでなく、彼が手にかけた哀れな犬からも。今となってはアルニェクを殺めたのは全くの無駄で、王女のためと言いながら何よりも王女を悲しませる結果になってしまった。
――だから、よく考えないと……!
母のせいにするのではなく。ましてや王妃や王女のため、などと忠義面して悦に入るのではなく。何が主の最善になるかを見定めて動かなければ。
王妃たちは、今日は刺繍や人形遊びに興じるのではなく勉強に励むらしい。これもまた側妃の薫陶によるものなのか――興味深げに大きな本を覗き込む王女の表情は、ラヨシュには珍しいと思える。書物を好む変わった女性だという側妃が、王女に刺激を与えることもあるのだろうか。
「ラヨシュもいらっしゃい」
「は、はい」
王妃に手招きされて、ラヨシュも慌てて大判の本が広げられた卓へと向かった。王女の傍に仕えるならば全くの無学という訳にはいかない、と言われてはいるものの、最低限の読み書きは侯爵邸でもならったものの、アンドラーシは学問については頼りになる師ではない。だから、今は良い機会でもあるのだ。剣の修業は進まないとしても、王宮に所蔵の書物に触れることができるのだから。
――学んだところで、使う機会があるかは分からないけど。
母の罪、彼の罪を考えれば、活かされているのが不思議なほどなのだ。この先の風向き次第で、いつ死を賜ってもおかしくないし、ラヨシュ自身も死によっての贖罪を切望している。でも、まだその時でない以上は、進み続けなければならないのだろう。
王妃が広げているのは、イシュテンの地図が描かれた頁だった。草原は緑、川は青、主要な都市や要塞は城壁の絵で示されている。目につく地名から、ティゼンハロム侯爵領の地図だとすぐに分かった。
「お父様は、今はこの辺りにいらっしゃるそうよ。ケレペシュのお城に行ったのは覚えているでしょう?」
「うん。……おじい様が、お菓子を沢山くれたわ……」
王からの報せを教材に、地理の勉強をするということらしい。王女が父君の安否を気に懸けるのは当然のことだし、そもそもは祖父君の領地ということもあって、実際訪ねたことともあるのだろう。王妃の言葉に王女はしっかりと頷いて、授業への興味を示していた。自国のことを学びつつ、現状の把握にもなる好機――と考えるには、ラヨシュにはまだ蟠りがある。
――王妃様と王女様だからこそ、侯爵様は領地に招いたのだろうに……。
祖父に孫娘を会せるための里帰りには、王も同行したはずだ。王妃が言及した以外にも、王一家がティゼンハロム侯爵領を訪ねる機会があったのを、侯爵邸で育ったラヨシュは知っている。今、王宮に侯爵領の詳細な地図があるのは、それらの訪問の際に侯爵が提供したからこそ。つまり、王は娘婿に対して義父が示した厚意を利用する形で、侯爵領に攻め入っているとは言えないだろうか。
――違う……侯爵様が王にちゃんと従っていれば何事もなかった。臣下が主君に背くのは、大罪なんだ……。
母の理屈で考えそうになるのを、王妃に諭されたそれによって必死にねじ伏せる。国を分ける乱に至ったのは、侯爵の数々の企みのせい。最も直接には、王妃と王女を攫おうとしたせい。決して、側妃の魔手から娘と孫を救おうとした訳ではない。王妃が父君を陥れようとしたのでも、ラヨシュがその策の一端を担ってしまったのでもない。
生まれた時から教え込まれたこの世の在り方を疑い、逆の立場から考えること。それこそが、最近のラヨシュが努めて意識していることだった。とても難しく、しばしば足元が揺らぐような不安を覚えさせられることでもあるのだけど。
王妃の言葉だけを聞いて従っていれば良いという訳でもないのが、なおのこと厄介だった。ラヨシュが特別に意地悪く捻くれた質という訳でも――多分――ない、というところも。
王妃と王女が側妃の離宮を訪ねている間、ラヨシュは王宮のあちこちに出入りすることができる。アンドラーシに言いつけられた鍛錬はあるとしても、ひと通りの課題をこなせば水浴びもするし厨房で食事だってもらう。それでも時間が余るようなら、これまでと変わらず使用人の仕事を手伝うこともある。確たる身分のない彼だからこそ役に立つところは見せておきたかったし、何もすることがないと悪い考えに取り憑かれそうだから。常に、身体を動かしているようにしたいのだ。
そうすると、嫌でも聞こえてきてしまうのが使用人たちの噂話だ。王妃や王女の前でならば目を伏せ口を閉ざし、恭しい態度を保っている者たちが、陰ではどのようなことを言っているか。無論、子供といえども王妃たちに近しいラヨシュに面と向かって無礼なことを口にする者はいない。
でも、主たちのいない場では彼ら彼女らの気も緩むのだろう。厨房で食器同士がぶつかる音、厩舎での馬の
『王妃様は今日もクリャースタ様のご機嫌伺いか。王女様まで連れて』
『必死でいらっしゃるのだろう。ティゼンハロム侯爵の余命も残り少ないことだし』
『離宮に伴われるのはいつも少ない人数だな。そこも気遣われているのか?』
『侍女たちが嘆いていたぞ。側妃に顔を売っておきたいのに王妃が連れて行ってくれないと』
必ずしも、誰に対しても悪意がある訳でもなく、ただ高貴な方たちの噂に興じるだけならばまだ良かった。王妃への忠誠が薄い侍女がいるのも。決して愉快なことではないけれど、一面の事実ではあるのだろうし、傍からはそう見えるのは仕方ないと諦めもつく。ラヨシュの心を抉るのは、もっと声を潜めて、そしてもっと愉しそうに囁かれることだ。
『クリャースタ様に毒を盛ろうとしているなんてことは?』
『まさか。今何かあれば陛下も疑うだろう。折角ブレンクラーレの女狐から取り戻したというのに』
『ティゼンハロム侯爵の手引きがなければ、王妃様が毒を手に入れることはできないのでは?』
『それにあの乳姉妹の。フェリツィア様を狙ったのはあの女なのだろう?』
『と、いうことになっているが。まあ、ご主人の罪を被るのに躊躇しないような質ではあったな』
訳知り顔で語らうのに盛り上がって声量も上がりかけて――そういった者たちは、ラヨシュが気付かぬ振りで声を掛けたり物音を立てたりすると、慌てて話題を変えるものだった。大っぴらに話すべきでないことだという自覚はあるのだろうし、彼があの母の息子であることを、知っている者もいるのだろう。
それでも今のラヨシュは王の慈悲によって見逃されているだけの存在だ。母の罪も重々承知しているから、声高に彼らを非難することなどできるはずもない。――むしろ、彼はほんの少し安堵さえしてしまうのだ。
やはり、王妃の立場ならば側妃やその御子を害そうとするのが当然と、傍目にも見えているということだから。だから、母のこととは関係なくラヨシュもその方向へと考えを彷徨わせてしまうのだ――というのは、やはり言い訳に過ぎないのだろうが。視野を広く持とう、偏らずに考えようというのなら、使用人たちの声にも耳を傾けても良いように思われた。
『でも、クリャースタ様にはその方が良いのでは? 御子が、流れた方が……』
『フェリツィア様も母君に似ていらっしゃるとか。言い訳ができないことはないのだろうが』
『あの方の美貌を前に我慢できる男がいると、誰が信じる? ブレンクラーレの王子はいかにも好色そうな男だったとか』
『陛下は騙されておいでなのか……まあ、確かに流産なら丸く収まるというものだな』
王宮のどこでだったか――不敬極まりないはずのやり取りを聞いて、でも、ラヨシュはそれを天啓のように感じたのだ。縋るに足る閃きを、やっと見つけたかのようだった。側妃の不幸を望んでも、決して罪ではないのではないか、と信じることができそうで。
ラヨシュの心中の黒い思いなど全く気付いていないのだろう、王妃と王女は頭を寄せ合って勉強を続けている。ふたりのしなやかな黒髪が首筋から本のページへと落ちて黒い川を造り出す。
「シャスティエ様に次にお会いする時には、お教えできるようにしましょうね」
「うん……お父様は、もうすぐおじい様と戦うのね……」
「マリカ」
母娘が語らうその内容は、決して見た目ほどに和やかなものではなかったけれど。使用人たちが語る通り、王と侯爵の衝突が近いのを、ふたりはどのように思っているのか。その様子に心を痛めながら、ラヨシュは願ってしまうのだ。
――側妃に御子が生まれても良い……男児でも良い。でも、今は駄目だ……!
ティゼンハロム侯爵が敗れるのも、側妃が王妃と同等の寵を受けて権勢を揮うのももはや仕方のないことと受け入れよう。だが、王妃たちが後ろ盾を失おうという今、この時に、止めを刺すように新たな御子に恵まれるというのは、あまりにも酷なことだと思うのだ。そう、それに、側妃の御子に不義の噂がつきまとうのは、誰にとっても不幸なことではないのだろうか。だから、
無論、彼は母のやり方に倣ってはならない。王の胤であろうとなかろうと、側妃の胎の御子には何の罪もないのだ。だから彼自身が何かしらの手を打つということではない――そもそも彼にはそのための手段がない訳だし。だから密かに、けれど切実に祈るだけだ。
――側妃の御子が生まれなければ良い……。
そうなれば、彼の心も平穏を得られそうな気がした。王妃と王女と同じだけの苦しみと悲しみを、側妃も負うのだとしたら。世継ぎの母という名誉を手にするとしても、イシュテンの状況がもっと落ち着いてから――例えば、彼が犬を殺した罪を打ち明けて裁きを受けることができるような――だとしたら。侯爵の最期に悲しむ王妃たちを他所に、幸福の絶頂を味わうようなことがないのだとしたら。
今度こそあの方の幸せも願うことができるかもしれない。たとえ王妃と王女に味方がいなくなったとしても、側妃と仲良く王の傍にある、などという図を信じることができるかもしれない。
「……フェリツィアもお母様が寝てると退屈かしら」
「そうね。早く遊んで差し上げられると良いのだけど」
「そうね……」
王妃と王女の語らいは続いている。優しく側妃と妹姫を案じる言葉を紡ぎながら、王女の表情はどこか無理をしている……ような気もする。たとえ思うところがあるのだとしても、マリカ王女はフェリツィア王女に会えば姉君らしく振舞うのだろうけど。
王妃と側妃も、ふたりの王女も、当分会う機会がなければ良い――それどころでは、なくなれば良い。そんなことを、ラヨシュは考えてしまうのだ。
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