第20話 毒の杯 捕らえられた娘
あのエルジェーベトという人は、彼女が気付かなかったところにもよく目を配って、しかも記憶に留めていた。
ティゼンハロム侯爵の兵たちは、捕らえた女たちを掌握できていると思っているのかもしれない。事実、部屋ごとに閉じ込められた人たちは監視の目を恐れて口を開くことさえ憚っているようだ。でも、屋敷の全てに目を配ることができているかというと、決してそうではない。厨房で、水場で。その気になれば、彼女とエルジェーベトが密かに言葉を交わす機会は幾らでもあった。
見咎められたらどうしよう、と。彼女の方では気が気ではなかったなかったものだけど、エルジェーベトはいつも沈着な表情で彼女を宥め、励ましてくれた。その会話をしたのも、そのような機会のひとつだった。初めてこの状況を打開する――侯爵を出し抜く計画を打ち明けられたのと同じ、人質たちの食事の支度をしながらのことだった。
『あの方々を連れて行った兵たちは、旅装を整えておりましたね。殿様の本陣は、一日やそこら馬で駆けて届く距離ではないのでしょう』
『そう、でしたか……?』
エルジェーベトが言及したのは、ティゼンハロム侯爵を寝返った者の妻子が――多分、見せしめのために――屋敷から去った時のことだった。捕らえられている他の人質たちは、もしかしたら耳を塞ぐこともできたのかもしれないけれど。でも、屋敷の諸々の仕事を言いつけられた彼女と母は、部屋の中に閉じこもることも手を休めることもできなかった。それどころかやって来た兵たちに酒や食事を出したり馬を休めるために厩舎に案内したりと、恐ろしい場面を間近に見ることを強いられてしまった。
腕を取られて引きずられる女性の甲高い悲鳴やすすり泣き。抵抗した際に敗れたのであろう衣装、それをしっかりと握りしめる幼い子供。男の子だからか、気丈に唇を結んで泣き叫ぶことはなかったけれど、恐怖に目が揺らいでいるのは傍目にも明らかだった。
恐ろしい運命が待ち受けているであろう方々を助けることができない後ろめたさ。彼女自身もいつ同じ悲運に見舞われるか分からない恐怖。そんな思いは彼女の顔を伏せさせて視界を狭めた。だから、エルジェーベトと同じものを見て聞いていたはずだったのに、彼女はまともに相槌を打つこともできなかったのだ。
『ええ。水や食料で馬が重そうでしたし、天幕の用意もお持ちでしたね』
曖昧なことしか言えずに赤面する彼女を気にも留めない様子で、あの人は続けた。言葉と同じく手元も淀みなく、整然と食器を並べながら。
『そもそも、お父君のお屋敷からここに移されるにも八日かかりました。殿様の方でも移動されているのでしょうが――少なく見積もっても、ここでの変事が伝わるのに五日は掛かると見ても良いでしょう』
愚かで気弱な小娘のことなど、あの人はどうでも良い――とまでは言わずとも、彼女の理解を待っていては話が進まない、くらいには思っていたのかもしれない。続いた言葉を聞けば、エルジェーベトが言わんとすることは彼女にも伝わったから、構わず進めてもらった方が結果的には正解だったのだろう。
『五日……程度には、猶予があるということですね……』
『報せを受けた殿様が兵を向けるのに、更に何日かは掛かるでしょう。その間に、王の軍に辿り着き、助けを呼べば――』
そう聞けば、案外簡単なことだと思えなくもなかった。侯爵領の地理の知識があるというエルジェーベトが言うには、王都から進行する経路、それも大軍が通れるような街道は限られるという。捜すまでもなく領民の噂で居場所は知れるだろうし、王の方からも刻一刻と近づいているはず。何より、人質の窮状は王も哀れんでくれるだろうと信じたかった。
『もうすぐ、行かれてしまうのですね……』
でも、彼女は手放しで喜ぶことはできなかった。だって、計画を進めるためにはエルジェーベトはこの屋敷を密かに離れなければならないのだから。母や彼女を、兵たちの不躾で厭らしい目線から庇ってくれる人がいなくなるのだ。それどころか、エルジェーベトの不在を誤魔化すのは、彼女たちの振る舞いにかかっていると言っても過言ではない。
――たとえ露見しても、数日なら猶予がある、ということだけど……。
エルジェーベトは、彼女の心を少しでも軽くするために時間と距離の話をしたのだろうとは思う。でも、彼女の弱い心は悪いことばかりを想像してしまうのだ。
彼女たちの企みが知られて、ティゼンハロム侯爵のもとへ急使が走るとしたら、それはどのような時か。計画の全容を吐かせるために、彼女は一体何をされてしまうのだろう。ティゼンハロム侯爵が兵を寄越すよりも早く、王が助けを送ってくれれば人質の女たちは救われるのかもしれない。でも、王に庇護される中に、彼女や母はいるのだろうか。取り返しのつかない傷を負わされたり――殺されて、しまったとしたら。
――でも、そうしなければどの道……!
父は、王に背いた逆賊のままで死んだのだ。その娘として生き永らえたところで、彼女の未来はどの道暗い。だから、どうあってもここで手柄を立てておかなければ。人質の救出に、一役買わなければ。
でも、怖いものは怖い。
『心配なさらず……といっても、確かに危険は皆無ではありませんものね。怯えられるのも無理はありません』
『……ごめんなさい』
口も手も止めて立ち尽くした彼女に、エルジェーベトは軽く苦笑したようだった。一番の危険を冒すはずの人を前に情けない有り様に縮こまるばかりで――でも、そんな彼女に、あの人は優しく囁いてくれたのだ。
『もう守って差し上げられない代わり――幾つかの技をお教えしておきますからね』
そのエルジェーベトが夜の闇に紛れようにして発ってから、もう五日も経った。月と星の灯りを頼りに馬を駆けさせるのはかなり難しいことのはずだが、あの人は大丈夫、と笑っていた。
『王妃様は馬がお好きで――私も、一緒に練習したのですよ』
エルジェーベトは王妃の乳姉妹で、かつては親しく仕えたのだという。彼女は遠目にしか見たことがない王妃を語る時、いつもは平静なエルジェーベトの目に確かに温かなものが宿ったと思う。侯爵を裏切るような働きも、乱が終わった後を見越して、王妃の立場を考えてのことだとか。
――私も、もしかしたら……。
王妃はこの上なく優しく美しく、清らかな心の持ち主なのだとか。もしも父が健在で、王とティゼンハロム侯爵が争うようなことがなければ、彼女も父の紹介で王妃への目通りが叶っていたのかもしれない。今となっては夢のまた夢、無事に生き延びることができるかも分からない身の上だけど――だからこそ、もう会うことができない王妃の姿は朧げながら尊ぶべきものとして想像された。その王妃のために我が身を顧みず危険に飛び込もうとするエルジェーベトのことも。
『どうか、ご武運を……!』
『ええ。ありがとうございます』
あるかないかの微笑みを残して、エルジェーベトは闇に溶けて行った。そして彼女は、母と共に自身の役割を果たさなければならなくないのだ。
「あの年増、ここ数日見かけないな」
人質の部屋部屋から回収した洗い物を抱えて廊下を急いでいたところに不意に呼び掛けられて。彼女は小さく飛び跳ねた。多分、不審に思われないほどの動きだったはず。それに、彼女がびくびくしているのはいつものこと。たとえ気付かれたとしても、だから隠し事をしていると思われるようなことはないはずだった。
「あ、ああ……エルジェーベトさんのことでしょうか?」
声の方へ向いてみれば、中年の男が彼女に笑いかけていた。といっても親しみを示すような表情ではない。父が亡くなって――侯爵に殺められて以来、男たちが彼女に向けるようになった類の表情だ。彼女の服の下まで見通そうとするかのような欲望を湛えた視線は、おぞましくも恐ろしい。
「そんな名だったか……何かあったか?」
「特に何も。どこで何かお仕事があるのでしょう……ご用でしたら、お探ししますが」
内心の怯えを努めて表情に出さないように、わざとらしいほど朗らかに彼女は聞き返した。エルジェーベトからの忠告に従っての振る舞いだ。いかにも隠し事があるような態度など見せてはならない。逆に、自分から探しに行くくらいの姿勢を見せた方が疑われないだろう。どうせ、男たちがはっきりと女の区別をつけているはずもない。どうしてもエルジェーベトでなければならない用事などそうそうないのだから、と。
実際、これまでに何度か同様のことを言われた際は上手く行ったし、今回の男も彼女の言い訳を聞くとあっさりと首を横に振った。だが――
「いや、あの女は陰気だし口うるさいからな。いないならいない方が良い。それよりも、若い娘の方が――」
「え……」
安堵したのも束の間、ぐいと荒々しく腕を掴まれて彼女は喘いだ。爪先が浮いてしまいそうなほど引き上げられて、抱えていた洗い物が何枚か床に落ちた。身を竦ませたところに、低く熱い声が耳元に囁かれる。
「あの女とこそこそと何か企んでいただろう。安心しろ、言わないでおいてやる――だが、分かっているな……?」
ほんの少し前までの彼女だったら、何を仄めかされているか分からなかっただろう。でも、今なら分かってしまう。父の庇護がなくなったことで、彼女は本来なら直に言葉を交わすこともないはずの男たちから品定めの目で見られるようになった。ひそひそと、あるいは直接に投げられる言葉は――正確な意味は理解できないけど――彼女を
――どうしよう……!
唇をわななかせたまま、何も言うことができない。でも、男が激昂しだすことはなかった。彼女が断ることができないのを、どうせよく分かっているのだろう。
深夜になると、彼女は言われた部屋を訪れた。これもまた言われた通りに、厨房から持ち出した酒を携えて、心もとない薄着だけを纏って。
父の屋敷では上階の広い部屋を宛がわれ、侍女も召使いも従えていた彼女も、今は使用人用の暗く狭い一角に母と身を寄せ合って寝起きしている。兵たちも待遇は似たようなものだったが、それでも招かれた部屋は彼女たちが使うそれよりも幾らか広く快適で、それがなおのこと彼女を惨めにさせた。
「良く来たな――」
「本当に、これで黙っていてくださるのですね? どうして……!?」
満面の笑みで扉を開けた男に抱き寄せられながら、彼女は必死に抗った。この男はティゼンハロム侯爵の命で女たちを監視しているはず。エルジェーベトの計画の詳細は分からないまでも、侯爵に背く気配を放っておいてはいけないはずなのだ。
彼女自身のことなど、父の罪を
小娘の抵抗など大したものではないのだろう。男は彼女の髪の匂いを嗅ぎながらああ、と機嫌良く笑った。
「ティゼンハロム侯爵はどうせ負けるだろう。あの年増が早々に逃げ出したなら賢いことだ」
「負ける……」
「俺たちも良いところで失敬するつもりだ。王に首を刎ねられるのはご免だからな」
エルジェーベトと同じことを、男たちも気付いていたということなのか。下々の兵にまでも見切られて見捨てられていく――それが、イシュテンで最も強大な、と謳われた名家の末路なのだろうか。
「だから、それぞれ好みの女も連れて行ってやろうと話していてな。お前も、母親と一緒の方が良いだろう?」
力強い腕に抱きかかえられて、部屋の奥へと連れ込まれる。男が今朝起き出したままなのであろう、乱れた寝台が目に入って気が遠くなる。それは、今夜されることだけでなく、男が仄めかしたこれからのことを思ったからこそでもあった。
男は、彼女を無料の娼婦のように扱おうというのだ。母も助けてやる――決して、そのような境遇を救いとは思わないけど! ――からと、どこまでも連れ回して思い通りにしようというのだ。
――終わり、なのね。
全身から力が抜ける感覚は、血が抜き取られていくように感じられた。彼女はもう死んだようなものだ。エルジェーベトは今頃王の陣に辿り着いているのかもしれない。兵たちに戦う気がないこの有り様では、人質の女たちは救われるのかもしれない。でも、少なくとも彼女はもう死んだようなものだ。父親がいない上に卑しい男の慰み者になった娘にまともな幸せなど望めない。
「お酒を……私も、飲ませてください。とても、怖くて……」
「ああ、初めてだろうからな」
気力が失われたと同時に、唇からも水気が失せたようだった。男に乞う言葉を紡ぐと唇がひび割れる痛みが微かに感じられた。自身の声もその痛みも、どこか遠い世界のことのようだったけど。
『もしもの時のために差し上げましょう』
今この場で起きていることよりもはっきりと聞こえるのはエルジェーベトの声、見えるのはエルジェーベトの微笑みだった。あの人が発つ前に、彼女と母に授けてくれた
『もちろん、とても恐ろしいとは思いますが。女には、死ぬより恐ろしいこともありますからね……?』
そう言いながら、エルジェーベトは彼女にそっと毒の包みを握らせてくれた。首を絞められたり折られたり、剣で心臓を貫かれたり、頭蓋を床や壁に叩きつけられて割られたり。紙の包に封じられた粉薬は、そんな恐ろしい死に方よりもずっと楽で穏やかな死を約束してくれるのだと言って。
エルジェーベトの言う通り、死ぬのは怖い。でも、犯されて弄ばれて虐げられて、それがいつ終わるか分からない生の方が怖い。兵たちの士気が緩み切ったのを見て、ティゼンハロム侯爵が勝ち誇る未来はほぼあり得ないことを確かめることもできた。――だから、もうこれで良い。明日の朝にでも彼女の死を知れば、母もしかるべき決断を下すだろう。
「少し、お待ちくださいね……」
彼女が酒杯を満たすのを眺める男は、だらしない笑みを浮かべていた。彼女の震えを、恥じらいか何かとか都合よく考えているようだった。本当は、毒を入れるところを見咎められはしないか、ちゃんとひと息に飲み干すことができるかを恐れていたのだけど。
でも、とにかくも彼女はやりおおせることができた。ふたつの酒杯を並々と満たす酒、そのうち彼女の手元に近い方には、例の粉薬を溶かすことができた。
「……いただきます」
震える両手で杯を持ち、口元に運ぼうとした時だった。大きな音を立てて部屋の扉が開き、複数の足音が走る音、
「何だ!?」
男が叫ぶ。その声量と外から聞こえる音に驚いて、救いとなるはずの毒が入った杯を、彼女は取り落としてしまう。
――ああ……!
「分からないが……敵襲だ!」
「何だと? 一体何者が……!?」
絶望に打ちのめされて床に
「知るか! さっさと来い!」
「あ、ああ……」
男に呼び掛ける者も、彼女を見咎めることはなかった。彼女が何をされようとしたか、男の振る舞いは、明らかな逸脱なのだろうに。
――何なの……?
疑問を持つ余裕ができたのは、完全にひとりになったと確信を持つことができてからだった。毒の酒が床を伝い、彼女の服に染み込もうとしているのにも不意に気付いて、慌ててずり下がって不吉な水たまりを避ける。
そして恐る恐る立ち上がり、扉に近づく。一体何が起きているのか、先ほどの男が言った
高らかな声が響いたのは、その時だった。剣や鎧がぶつかり合う音、捕らえられた女子供の悲鳴の間を縫うようにして、はっきりと聞こえる檄のような声が。
「奥方たちの助けに参った! これ以上逆賊ティゼンハロム侯爵の思い通りにはさせぬ!」
――ああ。
その宣言に呼応するような頼もしい鬨の声を聞いて、知らず、彼女の頬を涙が伝っていた。エルジェーベトがやってくれた。間に合ってくれたのだ。本当にぎりぎりのところだったけれど。毒が零れてしまって良かった。命を奪う酒を呑まずに済んで良かった。
彼女は、助けられるのだ。
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