第19話 乾いたかさぶた ウィルヘルミナ
夫が戦場に発って以来、ウィルヘルミナはシャスティエの離宮を訪ねるのをほぼ毎日の日課にしていた。身重のシャスティエや、まだ赤子のフェリツィア王女の体調もあるから、必ずという訳ではないけれど。マリカもできるだけ妹姫と会わせたいと思いつつも、必ずしも機嫌が良い訳でもないから、やむなく留守番をしてもらうこともあるけれど。
彼女がそうする理由は、主にふたつある。
ひとつは、夫の居場所や動向を伝える使者の都合を考えてのこと。夫が戦地から送ってくれる使者が、まずは王妃と王女の住まいへ、次いで側妃の離宮へと広い王宮を彷徨わなければならないのは気の毒だと思ったからだ。
夫を、父を案じる思いは彼女たちが同じく持つもの。無事の報せにシャスティエと微笑み合い、マリカのために堅苦しい報告の言葉を噛み砕いて言い聞かせ。まだ何も分からないであろうフェリツィア王女にも語りかける。喜びを分かち合う相手がいるということは、待つことしかできない身の不安と寂しさを和らげてくれるようだった。それに、夫の無事と勝利は、父の死と敗北を意味するのだという恐怖に気付かない振りをすることもできる。
シャスティエの安堵したような微笑み、御子に向ける優しい眼差しを見れば、それを脅かそうとした父はやはり間違っていたのだと思える。父の罪を改めてくどくどと言い聞かせることはしないけれど――マリカにも、多分伝わっているだろうと思うのだ。
そしてもうひとつは、夫のもうひとりの妻であるシャスティエと過ごすということ、それに慣れることが、彼女には必要なようだったから、だった。
単にお喋りをしたり共に茶菓を摘まんだりした機会は、これまでにも何度もあった。シャスティエがイシュテンの王宮に来たばかりの頃も、側妃になってからも。でもそれは親しい友人としてであって、ひとりの夫を分かち合う妻同士の席ではなかった。これまでそのようにできなかったのは、ウィルヘルミナの無知と――無意識かもしれないけれど――嫉妬が、原因だ。長く夫のたったひとりの妻であったのに、もはやその地位が彼女だけのものではないということに戸惑い、受け入れることができなかったのだろうと思う。
今でもまだ、若く美しく子供にも恵まれたシャスティエを間近に見ると、時に胸の痛みを感じることはある。でも、ウィルヘルミナの胸を波立たせるのは暗く厭な感情ばかりではなくて――喜びというか、温かく柔らかいものを感じることもあるのだ。守られるだけで何もかも遠ざけられた日々では無縁だった複雑な感情は、彼女の中では大切に愛しむべきものになっていた。
「ファルカス様も変わられたわ……。前は、こんなに頻繁に使者を送ってはくださらなかったの」
「前、と仰いますと……」
夫からの報せをもたらした使者が辞した後ふと呟くと、それを聞きつけたシャスティエが首を傾げた。囚われの身から解放されてしばらく経ったから、顔色も大分良くなって安心できる。御子については、まだまだ油断も無理も禁物だというけれど。それでも、使者の目から隠すために毛布で覆ったシャスティエの腹は、御子の順調な成長を示していた。
使者の言葉遣いは難しくて退屈だったのか、マリカは長椅子に
「あ……ミリアールトの時も。その前の内乱でも。無事に終わった、これから帰る……くらいのお知らせはあったのだけど。それも官吏の方々に知らせるから伝わってきたくらいで、私宛にということではなかったと思うわ」
御子のためにも、シャスティエの心を騒がせてはならないと思うのに。祖国の名を聞いた途端に形の良い眉が下がってしまって、ウィルヘルミナは自身の迂闊さを悔やんだ。夫が祖国を滅ぼしたことなど、簡単に忘れてしまえるようなことではないだろうに。愛する者が愛する者の仇であるということ――ウィルヘルミナが近く味わうことになる思いを、シャスティエはずっと抱えて悩んできたのだろう。
シャスティエを悲しませることは決して本意ではない――けれど、美しい人の表情が曇るのを見れば、この方も憂いなく満たされているだけではないのだと確かめることもできた。彼女たちはそれぞれに儘ならない想い、相反する愛情を胸の中に収めている。そうと実感すると、やはりこの方で良かったと思う。
何より、夫の変化はシャスティエがいてこそに違いない。否、夫だけではない。ただそこにいるだけ、人形のように守られて愛でられるだけの存在ではなくて、歴とした妻として見てもらえるようになったのは。ウィルヘルミナが自ら考えてものを言うことができるようになったのは、イシュテンの女ではあり得ないシャスティエのあり方を間近に見たからだと思う。
「ブレンクラーレの時からだったと思うの。残された者のことも考えてくださるようになったのね。……シャスティエ様のお陰よ、きっと」
「そのような……」
フェリツィア王女と生まれてくる御子のため、刺繍と布地を手に取っていたシャスティエが少しだけ頬を染めて微笑んだ。照れたような表情を見ると、この方は美しいだけでなく可愛らしくもあるのだと分かる。
――そう……あんなお顔ではいけないわ……。
ブレンクラーレから戻ったばかりのシャスティエと、久しぶりに会った時のことを思い出してウィルヘルミナの胸は痛んだ。あの時のシャスティエは、ウィルヘルミナやマリカから夫を奪ってしまったと、青褪めて引き攣った顔で跪いて見せたのだ。そもそもシャスティエが夫と離れがたく思うほどに怯え、更には異国に攫われてしまったのは、ウィルヘルミナの父の仕業だったというのに。
信じがたいことではあるけれど、彼女が父のことで負い目を感じているのと同様に、シャスティエも側妃の立場に後ろめたさを持っているのを、ウィルヘルミナは知らされた。気にしなくても良いのに――などと軽々には言えないのは、自分自身の心を顧みれば良く分かる。
だからこそ、支え合いながら心の痛みを庇いながら、共に夫の妻としてどのようにあるべきか、どのような関係に落ち着くべきかを探り合わなければならない。そのためにも、ウィルヘルミナはシャスティエと多くの時間を過ごしたかった。
「ティグリス王子の時は、確かに待つばかりでした。……あの頃の私は、陛下の心配をするどころではありませんでしたが。ミーナ様はさぞご不安だったのでしょうね……」
「ええ。お会いできていれば、良かったのだけど」
そうすれば、シャスティエの懐妊を不意に知らされて動揺することもなかった。夫の子の誕生を待ちわびて、夫の無事を祈って、共に過ごすこともできていただろうに。父やエルジェーベトに言われるがまま、閉じこもってシャスティエに会おうとしなかった自身の愚かさを、悔やむばかりだ。
だから今度こそは、と思いながら呟くと、シャスティエもしっかりと頷いてくれた。
「はい。ひとりだと――それに小さい子供がいると――思い詰めてしまいますものね。ミーナ様が来てくださるから、今はとても安心して過ごせますわ」
とはいえ、シャスティエの声も表情も言葉ほどには明るくなかったけれど。父の訃報を待つしかないウィルヘルミナを案じてくれているのか――それとも、腹に手を置いた仕草からして、御子の存在が彼女の心を害するのではないかと恐れているのかもしれない。
いずれにしても、シャスティエの懸念は正しいと思う。ウィルヘルミナは父を思って心を乱しているし、ふたりも赤子を育てることができるシャスティエを羨む気持ちも、ある。でも、それは全てではない。
どうすれば伝えられるかしばし悩んでから、ウィルヘルミナは笑顔を浮かべてみた。少し悪戯っぽく、シャスティエの碧い目を覗き込んで囁く。
「――ねえ、楽しい話もしてみない? ファルカス様が無事に戻られたら、どちらに先に会いに来てくださるかしら」
「それは……」
ウィルヘルミナとしては、自らかさぶたを剥がしたような気分だった。シャスティエと夫の愛を競うようなことを口にするのは。顔では笑っていても、確かに心には
「ミーナ様とマリカ様の方に決まっていますわ」
「そうかしら? フェリツィア様や、お腹の御子様もいるのに?」
「王妃様ですもの。それに、ミーナ様のお心の方が……」
――そう、お父様のことは確かに悲しいのだけど……。
父を殺されることになるウィルヘルミナの方こそ、夫は哀れんで気に懸けるはず。シャスティエは言葉を濁したけれど、言わんとすることははっきりと伝わった。どちらかというと鈍いウィルヘルミナだったのに、最近は人の顔色から言葉にしないことを読み取ることが得意になってしまった。あるいは、今までどれだけ何も考えずに来たかの証左なのかもしれないけれど。
「そういうことではなくて。どちらの方が好きかということよ」
これまで無知で無邪気だったウィルヘルミナなのだから、気付かない振りをしても許されるだろう。自ら傷を掻きむしるような胸の痛みを無視して、あくまでも朗らかに食い下がる。目の端でマリカの様子を窺って、眠っているのを確かめながらだったけど。母たる者が、若い娘のように浮ついたことを語っているのは、少し気恥ずかしい気がするから。
競うこと、ふたりの女がひとりの男を愛することを、暗くどろどろとしたものにしてはいけないと思う。そういうものとして、触れないようにしてはいけないと思う。
ウィルヘルミナが夫を愛する想いには何ら後ろ暗いものはなく、シャスティエに抱く好意も憧れも曇りのないものだから。――だから、恐れることなく踏み込んでいかなければならないと思うのだ。
「それも、ミーナ様でしょう。私など可愛げがありませんもの。ミーナ様の優しさは、きっとあの方の慰めにもなる……!」
それでもシャスティエは頑なで、また自らを貶めるようなことをいう。とはいえ、碧い目には確かに夫への想いが過ぎった気がした。好きな方が好きな方を思うというのは素敵なことだ。決して辛いことなどではない。そう、確かめたくて。ウィルヘルミナは更に図々しくなってみることにした。
「じゃあ、シャスティエ様は? ファルカス様のことがお好きなんでしょう? 早くお会いしたいでしょう?」
「それは……」
シャスティエはまた口ごもって言葉を濁した。でも、目尻まで赤く染まった表情を見れば、この方の本心は明らかだった。刺繍をしていたはずの指先にも力が入って、赤子のための柔らかい生地がくしゃりと握り潰されてしまっている。
――ああ、可愛らしい……!
もう答えを言ったも同然だというのに、頬を緩ませたのも一瞬のこと、シャスティエはすぐに唇を固く結んでしまった。真面目さを装おうとするかのような、無理をして背筋を正しているような。そんな様子も、微笑ましいと持ってしまうのだけど。
「でも、私から望むことはできませんわ。また、あんなことは……」
「お伝えするのは良いと思うわ。私だって、言わなければ分かっていただけなかったと思うもの」
黒松館のことをまだ気に病んでいるらしいシャスティエの心を解そうと、ウィルヘルミナは手を伸ばしてシャスティエのそれを包み込んだ。
待つだけの身は辛いこと、飾りものの妻では不満だということ、役目が欲しいということ。最初はその望み自体が不可解とでも言いたげな夫も、やがて分かってくれたのだから。まして、好きだとか会いたいだとかなら、もっとずっと簡単なことのはずだ。
――いえ、そういうことを仰っているのではないのかしら?
だが、ふと、嫌な予感のようなものを覚えた。黒松館で何があったか、夫からもシャスティエからも詳しく聞いた訳ではないけれど。ただ無邪気に想いを伝えれば良いとか、そういう問題ではないようなシャスティエの口ぶりに思えたのだ。もしかしたら、もっと根本的なことのような。
「……もしかしてシャスティエ様は……あの、ファルカス様に好きとか愛している、とか言ったことがない、のかしら……?」
「そんなこと……!」
予感が的中したのを、ウィルヘルミナはまた言葉ではなくシャスティエの態度と表情によって知らされた。今度こそ針も糸も投げ捨てて、マリカを憚って口元を抑えて。雪の女王と喩えられる常の怜悧さが嘘のように、シャスティエは普通の少女のように恥じらっていた。
「だって、恥ずかしいですし……ミーナ様がいらっしゃるのに、私が、そのようなこと……」
「いいえ、むしろ言わなければダメよ。だって……私は何度も、何年も言っていることなのに」
「でも」
逃げようとするシャスティエの手を追って、ウィルヘルミナは身を乗り出し指に力を込めた。
「いけないわ、シャスティエ様。遠慮で、言わないなんて。……言ったらファルカス様を奪うと思っていらっしゃるの? それくらいで私に勝ち目がなくなってしまうのかしら?」
咄嗟に言ったのは深く考えてのことではないし、決して本心という訳でもなかった。シャスティエが縋れば、夫はまたこの方だけを見てしまうのではないかと。でも、ウィルヘルミナを憚ってシャスティエが口を閉ざしてしまうのだとしたら、その方がよほど憂うべきことだろう。
「いえ……まさか」
シャスティエが顔色を変えたことからして、ウィルヘルミナの言葉は思いのほかの効果があったのかもしれなかった。ゆっくりと瞬きするシャスティエの表情は、言われた言葉を噛み締めているかのよう。今なら遠慮という盾を剥ぐことができたのでは、と見て、ウィルヘルミナはシャスティエの手を胸元にそっと引き寄せた。
「シャスティエ様。私は、お父様や寡妃太后様のようにはなりたくない――ならないわ。王妃と側妃が同時にいたとしても、争い合うのではなくて、一緒に愛する方を支えたいの。子供たちも仲良くさせたいし……」
「はい。それはもう。私も、同じ思いですわ……」
「一緒に愛するの。そこも、分かってくださらない?」
そこが一番大事なところだと思う。好きな人に好きだと伝えることが争うことになるのはおかしい。ウィルヘルミナは、シャスティエと夫が愛し合っていても憎いとは思わないし、シャスティエの方もそうだと思いたい。嫉妬や悩みがあるとしても、相手への好意の方がずっと勝ると信じたかった。
「はい。……すぐには、難しいと思うのですが。でも、そうなれたら良い……です」
やがて、シャスティエの指がウィルヘルミナの手を握り返してきた。
「ファルカス様が戻られたらちゃんとお伝えしましょうね。あの方が困ってしまうくらい、取り合いましょう」
「ええ。……負けないように、頑張りますわ」
シャスティエは、多分心からそう言った訳ではなかっただろう。指先の力の入れ具合やはにかんだ微笑みこそ優しかったけど、声はおずおずとして躊躇いを露にしていたから。どれほど言葉を尽くしても、この方はまだウィルヘルミナに遠慮がある。
「私も。負けないわ……」
でも、今はこれで十分。温かい感情の波が胸を満たすのを感じながら、ウィルヘルミナもそっと決意を口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます