第18話 歪んだ忠誠 ファルカス

 地面に直にうずくまってひれ伏す女を見下ろして、ファルカスは努めて嫌悪を顔に出さないようにしていた。枯草を押し退けて新緑が芽生え始める季節ではあるが、剥き出しの大地はまだ冷え切っているだろう。疑わしい捕虜とはいえ女相手ならば、本来は敷物のひとつも用意してやるべきなのだろうが――ことこの女に対しては、その程度さえも過ぎた慈悲だと思えてならなかった。


 ――よくも俺の前に顔を出すことができたものだな。


 エルジェーベトと名乗った女の顔は、見れば確かにミーナのもとで何度も視界の端に入れたことがあるものだった。いくら苦痛に表情を歪めていたとしても、他人の首で誤魔化されるべきではなかったし、自らの命を長らえるために迷わず他者を生贄に差し出した性根は忌まわしい。

 何よりもこの女は、彼の子の命を狙ったのだ。その背後にいたリカードと共に、母のシャスティエまでも葬ろうとしていたのは疑う余地がない。リカードを動かすため、ティゼンハロム侯爵邸へと帰してしまっていたから、もしかしたら捕らえることはできないかもしれないとも思っていたのだが。こうして自ら彼の手中に飛び込んできた以上は、仔細など問わずに今度こそ首を刎ねてしまいたい。


 だが、この女が持つと自称する情報を思えば、安易にそのようなこともできないのだ。


「リカードの愛人でございますな。ティゼンハロム侯爵邸で何度も見ました。その……重要な場にも、欠かさずに……」

「そうだったか」


 ファルカスに注進したのは、彼が凱旋してすぐに王都に参じた――元々はリカードに従っていた――者だった。人質を取られることも反逆者の汚名を着ることもなく、王への忠誠を示すのにぎりぎりのところで間に合ったということになる。重要な場とは、つまりは王の力を削いでリカードの権勢を強めるための陰謀の場、とでも言うことか。かつての不忠を恥じ入るかのようにその男は声を潜めて語尾を濁したが、彼の耳は全く違うところを聞き咎めた。


 ――娘の乳姉妹を愛人に、とは……!


 女は軽装で、それも単身で馬を駆けさせていたとのことで、髪も衣装も乱れ土埃に汚れていた。その擦り切れた様子を見下ろしながら、ファルカスは頬を一層の嫌悪に歪める。


 リカードとこの女の関係は、彼とジョフィアのそれに等しい。フェリツィアのために命をなげうった女の娘だということを差し引いても、シャスティエの腕の中に守られていた小さな存在だ。今後どのように成長しようとも、女として見ることなどできそうにない。実の娘と同じ女の乳で育った子供に劣情を抱くなど、獣同然の卑しさと断じるべきだ。


 ――だが、そこまで通じ合うからこそ、だったか。


 新たに知った事実は、ファルカスにとってはリカードを嫌う理由がひとつ増えたというだけに留まらない。同時に幾つかの重要な意味を持つことに気付かざるを得ないし、無視することもできななかった。


 まずはシャスティエに毒を盛ろうとした罪を、リカードに問おうとした時のことが思い出される。あの時糾弾が成功しなかったのは、第一にはリカードの長年に渡る周到な準備のためだった。自らの家の紋章を場合によって使い分けていた、などという。

 エルジェーベトという女でさえも知らされていなかったのは驚愕の表情からも明らかで、だからこそこの女の独断ということで引き下がらざるを得なかったのだ。驚いていた割に、すんなりとリカードに話を合わせて罪を被って見せたのが不思議でもあり忌々しくもあったのだが――あれは、ミーナへの忠誠ゆえであると同時に、リカードとの関係があればこそ、だったのだろう。


 そしてエルジェーベトがリカードの愛人だったのならば。信を置かれる――かどうかはまた別かもしれないが、陰謀の全容を見聞きすることができる立場にいたというならば。その言葉をただの妄言と切り捨てることもまたできないのだ。


「ならば人質の場所を知っていても当然、ということになるな……」


 呟いたのは、女の答えを期待してのことではない。本心の窺えない相手との会話を試みるなど時間の無駄だ。むしろその一言を切っ掛けに、臣下たちが各々の考えを述べることこそを、ファルカスは狙っていた。彼の傍に配置していたアンドラーシに、偵察から戻ったばかりだったジュラ。それに、騒ぎを聞きつけた者たちが集まりつつある。初春の涼しい気候だというのに、遮る天井や壁のないというのに、辺りには人の熱気が立ち込め初めてさえいた。


「罠に決まっている! 人質を餌にして引き付けておいて、その隙を突こうという……!」

「そもそもリカードについていた者たちの身内なのです。あえて危険を冒してまで助ける必要はないのではございませんか?」


 まず上がるのは、当然の疑問だった。確かに、この女は王への忠誠など持ち合わせていないはず。王の子を毒殺しようとし、更にその罪を被るのを良しとするほど侯爵家への忠誠こそが強いのだろうし、胎児に対して容赦しなかったのに人質の女たちを哀れんだなどということも考えづらい。リカードが今従えているであろう兵力を考えても、無理をしてでも人質を取られた諸侯たちを取り戻さなければ危ういという戦況でもない。


 だが、それは今回の戦いだけを考えれば、の話。乱が終わった後の統治を見据えれば、諸侯の間に残る禍根は少ないに越したことはない。人質を救える可能性があったのに見捨てたとなれば、その身内は王を恨むことだろう。人質の夫や父たち本人は反逆者として処罰するとしても、妻たちの実家にまで累が及ぶとは限らないのだから。

 そして逆に、彼の判断によって人質を救うことができたなら。その恩を盾に、彼らを抑えることも幾らか容易くなるだろう。


 だから問題は、エルジェーベトの証言を信じて良いかどうか、どう見極めるか、になるだろうか。王であるファルカスの内心を、臣下たちはどこまで察しているのかどうか――最初の声に対する反論も上がり始める。


「疑われることなどリカードも承知だろう。ましてあからさまに怪しい女などを罠で寄越すか?」

「そもそも人質を助けるのにそれほどの兵は要らぬはず。偽の情報で惑わすならば、本陣の場所だとか伏兵の居場所とかの方が……」


 無論、いずれの主張も言い合うだけでは答えの出ない類のもの。双方が相手に対する反論を探す隙を縫って、乱暴な発言を投げ込む者も現れてくる。


「たかが女ひとりでございます。リカードめに何を命じられたのか、吐き出させればよろしいでしょう」

「それも良いが……」


 拷問を仄めかされても顔色ひとつ変えない女を見やりながら、ファルカスは臣下の進言に苦々しく頷いた。


 ――だが、それも時間の無駄になるかもしれぬな。


 無論、この女が肉を焼かれ骨を砕かれる様な苦痛を味わったことなどないのだろうし、どのような固い決意も痛みの前には崩れ去るのかもしれないが。痛めつける前と後で言うことが変わったとしてどちらを信じるか。仮に変えなかった場合には真実と判じて良いのか、もっと痛めつけるべきなのか。その加減は依然として難しく、誤れば捕虜を死なせてしまいかねない。

 期せずしてこうして捕らえた以上、この女を見逃す気はさらさらないが――それは、加減を誤った拷問の果てではなく、罪を正しく告げた上でのことであるべきだ。狂った忠誠を抱いた頭が自身の罪を理解することはなかったとしても、その方がミーナやマリカの心情は納得させやすいだろう。


「臣からその者に尋ねたいことがございます」

「許す。言え」


 と、先日リカードの陣営を離れて彼のもとに参じたばかりの男が一歩前に進み出た。この男は人質に取られた妻子と忠誠を天秤にかけて、彼の方を選んでくれていたのだ。ならば平静でいられないのも道理、と促すと、その男はエルジェーベトに対し硬い声を投げつけた。


「貴様が真実捕らえられた女たちと共にいたというなら、俺の妻と子を知っているはずだな。俺が陛下に降った後、裏切り――リカードにとっての――の見せしめに……何か、された者はいなかったか?」

「ああ……」


 エルジェーベトの暗い色の目がゆっくりと瞬くと、理解と納得の表情を浮かべた。リカードに担わされた役の重さから考えても、決して愚鈍な女ではないのだろう。自身の言葉の正確さを試されているのだと、すぐに察したようだった


「殿様の兵に連れて行かれた方々はいらっしゃいました。奥様は小柄でふくよかな方で栗色の髪とはしばみ色の目、小鳥のような高い可愛らしい声をしておいででした。若君様は五歳くらい、目は奥様の色で、髪は黒っぽい巻き毛――そちらは、お父様に似られたのですね」


 すらすらと述べられた言葉は、問い掛けた男の妻子の姿を正確に形容するものだったのだろう。男の顔から血の気が引き表情が強張る様は、エルジェーベトが嘘を吐いていないということを、どのような言い訳よりも雄弁に伝えていた。


「お気の毒に、奥様は大層怯えたご様子でした。御子様だけは見逃して、と叫ばれていたのが耳に残っております。旦那様に対しては私たちを見捨てるなんて、とも仰っておられましたね」


 この女の言葉に耳を傾けるべきことは分かった。リカードは必要があれば人質を傷つけるのに何ら躊躇いを持たないということ、だから可能であるならば救出を急ぐべきだということも。だが、それでもエルジェーベトの口上を聞き続けるのはファルカスにとって耐えがたいこと、吐き気にも似た嫌悪を催すことにほかならなかった。


 ――この女、何がおかしいのだ……!?


 絶句して青褪める男を前に、エルジェーベトは愉しそうに笑っていたのだ。男の悲嘆を嘲るかのように、ことさらに詳細に、言わずとも良いはずの恨み言まで余さず伝えて。

 疑いを受ける囚われの身であることを弁えていないとしか思えない態度に、思わずファルカスは口を開いていた。


「女たちを哀れんで、ということもないようだな。どうしてリカードを裏切る気になった」


 人質を助けたいからリカードを裏切った、などという言い訳は通らぬぞ、と言外に告げる。エルジェーベトの口ぶりからは、連れ去られた母子を悼む感情は全く窺えないのだから。

 言われて初めて、嗤っていることに気付いたかのように――エルジェーベトは、軽く目を見開くと口元を抑えた。挑発という訳でもなく、無意識の笑みだったとしたらこの女の性根は思った以上に腐り果てている。

 だから、エルジェーベトが表情を改めて身体を地に投げ出しても、白々しいとしか思えなかった。


「私は、決して侯爵様に忠誠を誓っていた訳ではございません。大変な罪を犯してしまったことも、決して許されないことも重々承知してはおりますが――それも全て、マリカ様……王妃様のため」

「王妃の名を呼び間違えるな。あの者はミーナ。イシュテン王の妻であるウィルヘルミナだ」

「申し訳ございません。子供の頃からの呼び慣れた方の御名でしたから」


 婚家名ではない、婚前の名で結婚した女を呼ぶことは、本来ならば夫との婚姻を否定するこの上ない非礼。その非礼を犯しておきながら、エルジェーベトの態度はあくまでも悪びれない。腰低く許しを乞うのは言葉だけ、ファルカスを見上げる眼差しは揺るぎなく、自身の正義を疑ってもいないかのようだった。


「私は、父君様の汚名を着ることになるあの方が心配でならないのです。ですから、侯爵様の罪と呼ばれることはできるだけ減らして差し上げたい。侯爵様の命によって命を落とす方々が少しでも減るように。そして私のこの行いが、もしも功績として挙げられるのならば。それは私の減刑のためなどではなく、王妃様のものになるように……!」


 ――ミーナのため……ミーナに罪の責任を負わせるというのか。


 エルジェーベトが述べたことの一言一句まで、ことごとくファルカスの神経を逆なでた。真実ミーナのためを思うならば、親しい者が罪を犯すことをあの優しい女がどう感じるかを慮るべきだ。自分のために他人の血が流れることを、ミーナは決して喜ばない。それどころか、父が国を揺るがす乱を起こしたのを――結局のところリカードの欲が原因だというのに! ――自身のせいだと捉えて心を痛めているようだった。


 いかにもミーナを思い遣る振りで、この女はミーナの心を痛めつけている。幼い頃から共に育った乳姉妹だからというだけで、ミーナはこの罪に塗れた女でさえも哀れんでいるのだ。


 剣の柄にかかった手を引き剥がすのに、意識して指に力を込めなければならなかった。この女は彼の妻たちを傷つける存在、一秒たりともこの地上で呼吸するのを許してはならない、一刻も早く息の根を止めてやらなければ、とファルカスの心は猛るのだ。

 だが、一方で。理性はエルジェーベトの言葉を冷静に吟味していた。この女のミーナへの忠誠は――向けられた方が喜ぶかどうかとは全く別に――本物だ。リカードよりもミーナを思っての行動だというのは、一応筋は通っている。


 ――誰も……俺も、シャスティエも。ミーナにリカードの罪を問うことなどしないというのに……!


 内心の思いは、歯軋りと共に呑み込んだ。今この場で口にしたところで、エルジェーベトも臣下たちも信じないことだろう。

 代わりに、妻子の末路を聞いて立ち尽くす男に向けて、低く命じる。


「……この者の言葉に従って行け。人質となった者たちを助け出すのをそなたに与える最初の命にしよう」

「陛下……」

「そなた自身の妻子は間に合わずとも、被害を減らすことができれば手向けにもなろう。――そもそも道半ばで加わった者だ、万が一戻らぬことがあっても問題はなかろう?」


 続けた言葉の後半は、異議の声を上げかけた者たちに掛けたものだ。女の言葉を信じるなというのか、降った者に与えるには過分の役だというのか――いずれにしても、王は考慮した上でのことだと告げたのだ。

 有無を言わせぬ強い語調に、臣下が頭を垂れて恭順の意を示したのを確かめてから、改めてエルジェーベトにも目を向ける。


「貴様の言葉に少しでも偽りがあれば、人の形を留めなくなるまで馬で引きずってやる。そして仮に真実だったとしても、命が助かるなどとは期待するな。側妃と王女を狙った罪で、改めて首を刎ねてやる」

「ご随意に……!」


 やはり、というべきか。自らの命を失うことについて、この女には何らの恐れはないようだった。だから、ファルカスは結局はこの女の願いを叶えてやっただけということになるのだろうか。


 そう思うと、エルジェーベトのいっそ晴れやかな笑顔が忌々しくてならなかった。

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