第17話 戦地で妻を想う アンドラーシ

 季節が確実に春に近づいているのが、アンドラーシにも良く分かった。空気は温かく緩み、重い武装に身を包んでいると暑いと感じることもあるほどだ。馬を駆けさせることで生まれる風の心地良さがせめてもの慰めだろうか。無論これは気楽な遠乗りなどではなく、今のイシュテンは内乱のただ中にある。特にティゼンハロム侯爵領に入った以上は、本来ならば一時たりとも気を抜いてはならないのだが。


 ――まあ、冬の行軍よりは遥かにマシというものだな。


 目下のアンドラーシには、ミリアールトの遠征を思い出して今と比べるほどの余裕がある。深い雪をかき分け、寒さによる消耗も激しく。兵や馬が凍傷に侵されることがないよう、凍てつく夜が明けた後に目覚めない者が出ないよう、装備や燃料にも気を遣わさせられた。クリャースタ妃とその侍女だけは、北上するにすれて生き生きと顔を輝かせていたのが不思議だったが――あの陰鬱な行軍を思えば、今回は行楽のようなものだ。

 何しろ侯爵領に入ってからもまだ戦闘はなく、のどかな森や草原が広がるばかり。たまに行き過ぎる村や街も、王の威光を恐れてか抵抗することもない。領主としてのリカードはそれほど非道を働いているという噂も聞かないが、やはり反逆の罪に問われるのは逃れたいのだろう。中には王の一行を積極的にもてなそうとする街さえあった。食糧や薬の類ならまだしも、生娘を差し出して機嫌を取ろうとした向きはかえって王の不興を買っていたようだったが。


「リカードを狩り出せば良いだけなのだ。これはもう狩りと思っても良いのではないか?」

「何を言い出すかと思えばまた呑気な……」


 あまりにも順調な道行きにふと思いついて言ってみると、ジュラからは呆れたような苦笑が返ってきた。ブレンクラーレ遠征の間に留守番を務めた功績で、アンドラーシは今回は王のすぐ傍に配置される栄誉を賜っていた。自然、王に報告や挨拶に訪れる者たちと言葉を交わす機会も増える。ジュラもまた、偵察を命じられて本隊に帰ったところだったのだ。この男が焦った様子も見せていないことからして、やはりまだ敵影は遠いということらしい。

 ティゼンハロム侯爵領の中でも、戦場になり得る平野、あるいは籠城に向いた城塞や城壁を備えた都市は限られる。軍が領内に深く進攻するにつれて、その候補もさらに絞られていっている。この分なら、そう遠くないうちに決戦の場所は判明するだろう。緊張を覚えるのは、それからで良い。


 ――常に気を張っている方が無駄に疲れるというものだ。


 だから今のうちに、という訳でもないのだが。馬の蹄が雪解けでぬかるんだ地を踏む音を聞きながら、友と語らう。


「奇襲も何もないのではな。そろそろ退屈になってしまった」

「奇襲と言えばティグリスの乱の時か。だが、あれは悪足掻きと見せた布石だった。十分苛立たせた後で、ティグリスの姿に、我を忘れて突っ込ませようと――それで、あの罠を仕掛けて待っていたのだぞ」


 アンドラーシが軽口を叩き、ジュラがそれを窘めるのが彼らふたりのお決まりのやり取りだった。とはいえ、彼も本心から油断し切っている訳ではなくて、場を和ませるための冗談のような意味合いでもある。ジュラの方だって、苦言を呈する振りで状況を整理し考えを纏める意味合いもある――だろうと、思いたい。


 ともあれ、ティグリスの乱もまた、今回と良い対比になる記憶だった。季節は冬に向かう頃だったから今回と真逆だし、ジュラが指摘した通り、戦場までの道中では煩い奇襲に苛立たせられたものだった。

 ただ、何もかもが正反対という訳ではない。ティグリスとリカードと、状況に追い詰められてやむを得ず挙兵したという点ではよく似ている。劣勢を覆すために――ティグリスの方はブレンクラーレの後援があったそうだから多少話は違うかもしれないが――同じく卑劣な手段に訴えるところなど、嗤えるほどにそっくりだった。


 ――人間、窮すると考えることは似てくるということなのかな。


 嘲りに緩んだアンドラーシの頬を、初春の風が撫でていく。兜は馬首に括りつけて、いつでも手に取ることができるところに確保してはいるが、この陽気だと風を感じながらでないと暑苦しいと感じてしまう。ジュラも同様の軽装だから、これについては文句は言わせない。第一、兜越しのくぐもった声ではお互い喋りづらくて仕方ないのだ。


 だからアンドラーシは、内心の侮蔑を思い切り表情に出して嗤ってやった。戦いを前に驕ってはならないという話とは全く別に、リカードの所業には一分の理もなく、ただひたすらに見下げ果てるべきものでしかなかった。


「この平穏さも策の内だと? ――だが、リカードのやつめ、人質を取って脅すくらいしか手が残っていないようだぞ? 大した罠が仕掛けられるとも思えないのだがな」


 人質、のひと言にジュラの表情が翳った。寡黙で生真面目なこの男が、こうも内心を露にするのは珍しいかもしれない。アンドラーシの気楽さを咎めたり戦いの雲行きを案じたりというだけではないだろう。ジュラの精悍な頬に影を落とすのは、嫌悪と怒り――友人も、彼と同様にリカードの行いに不快を覚えているのだ。


「……この期に及んでもリカードに背くことがないというなら、その連中の離反はもう期待できないだろうな」


 人質を取られた者たちは必死に抗うから、接戦になるだろうとでも言うのだろうか。内心はどうあれ、まずは自らを戒める方向に考えようとするのは全くジュラらしい。だが、それだけではないだろう。妻も子もある男として、身内への情と王への忠誠を天秤にかけ、そして人としてののりに反する方を選ばざるを得なかった者たちへの哀れみも、その目には確かに浮かんでいた。


 ――まあ、俺もこれがグルーシャだったらと思うとな……。


 かつてのアンドラーシならば、あるいは迷わず王のもとに馳せ参じないのは不忠だ、とでも断じていたのかもしれないが。妻を思うと――それと、先日リカードを裏切った者の妻子に起きたことを思うと、完全な他人事と切って捨てることもできないのだった。




 リカードを裏切って王の軍に加わりたいという者が現れた時、アンドラーシは真っ先に言った。


『一度裏切った者が二度裏切らないとどうして言える? 悔い改めた振りで、獅子身中の虫になろうという肚ではないのか?』


 別に混ぜ返そうということでもなく、いっそ礼儀として疑いをかけたつもりだった。どうせ同じことを考えている者も多いのだろうから、彼のように軽薄だと思われている者が言ってやる方が軋轢はまだ少ない。王は、立場上はよく来てくれたとしか言うことができない訳でもあるし。


 だから相手としてもこの程度の難癖は想定の内だろうと思っていた。多少怒りを見せるのも狼狽するのも、それ自体は無理からぬこと。ただ、少しでも「多少」の枠を越えた反応を見せることがあれば、信用の程度をはかる尺度になるかもしれない、と――その程度の考えだった。


『ふん、当然の疑問だろうな。どうせ日和見の臆病者とでも思われていることだろう』


 だが、その男の反応はアンドラーシの予想とはいささか異なっていた。王の前に跪いた姿勢のままで彼を横目で睨み、口元には皮肉げな笑みさえ浮かんでいた。反逆者の陣営から降ったばかりだというのにふてぶてしい態度、その皮肉が男自身に向けられているのだと気付かなければ、アンドラーシこそ危うく激昂するところだったかもしれない。


 ――何だというんだ? 何が言いたい?


 相手を怒らせて余裕を失わせ、それで本音を引き出すのが彼の手管のはずだった。なのに、その男の表情に現れる奇妙な影、そのあまりの色の濃さに、思わず次の挑発を思い浮かべることができなかった。その隙に、男は王の前に深々と頭を垂れた。


『真に、臣は長く不明でございました。戴くべき王を見極めることができず不忠を犯してきた愚か者です。ですが、神に誓って二度と裏切ることはございません』

『頼もしい言葉だな』


 王も、その男にどう対するべきか迷いと戸惑いがあったのだろう。、眉は微かに――厳しさを保って、と表現できる程度に――寄せられ、声も硬く張り詰めていた。疑心をあからさまにすまいと努めつつ、完全に信頼しきることもできないでいるであろう王に、その男は更に苦笑したように見えた。


『……ティゼンハロム侯爵は、臣の妻子を人質に取っておりました』

『では――』


 その声を発したのは、王でもアンドラーシでもなかった。ただ、その場に集って投降者の態度を見守っていた者の誰の声でもあり得た。その場の誰もが、同じく抱いた思いではあっただろうから。では、なおのことリカードを裏切ることなどできないではないか、と。


『ですがもう生きてはおりますまい。侯爵がヴァールのジョルト卿にしたことを思えば当然のこと……! むしろ、他の者たちへの見せしめにどれほどの責め苦を負わされたか……!』


 男が挙げた名は、恐らくはこの内乱での最初の死者のものだった。リカードの陣営に属していたはずなのに、なぜかそのリカードの手によって討たれた者。その首が王のもとに届けられたことで、イシュテンの諸侯は乱の始まりを知らされたのだ。味方にさえも容赦しないリカードの残虐さは、確かに誰もが知ることだった。


『家臣のため、イシュテンのためには仕方ないと思い定めて妻たちのことは諦めました。そもそも臣の見通しの甘さ、判断の遅さにも原因はございます。が、だからといってどうして侯爵を許すことなどできましょうか……!?』


 男の妻子に起きたことへの陰鬱な想像に、その場の空気は淀み、疑いの声を上げる者はいなくなった。代わりに怒りと嫌悪の呻きが方々から上がった――その間を縫うように、男は王の方へぐいと膝を進めながら声を高めた。


『ゆえに、臣はティゼンハロム侯爵を憎みます。手柄などどうでも良い、あの者を討つ一助になることこそ最大の報いになりましょう。ですから、どうか陛下の軍に加えていただきたく……!』


 そうして、その男はとりあえずは王の陣営に迎え入れられたのだ。




「実のところ、俺は少し意外だったぞ。お前はもう少し辛く当たるかと思っていた」

「うん? ちゃんと疑っただろう?」


 ジュラがぽつりと呟いたのは例の投降者のことだろうと判じて、アンドラーシは首を傾げた。彼は、いかにも彼らしく振舞ったはずだ。悄然と頭を垂れる者を嘲って挑発するのは、十分に辛く当たる、に相当するのではないのだろうか。

 彼の疑問を表情から読み取ったらしく、ジュラは軽く苦笑すると首を振った。


「いや、その後のことだ。お前ならば妻子を見捨てた薄情者だとか、恥を知れとか言うのかと思った」

「俺を何だと思っているんだ。言って良いことと悪いことはさすがに弁えているぞ」

「信じがたいな。とてもそうは見えない」

「おい」


 人のことを見誤っているとしか思えない評に、馬の身体を軽くぶつけるようにして抗議する。お互いの馬術も、馬の度胸も信じているからこそのじゃれ合いだ。ジュラの方も、アンドラーシを揶揄っているのが半分以上、本心から言っている訳ではないだろう。


 ――まあ、言わないまでも思ってはいたかもな……。


 ただ、顔で笑うのとは裏腹に、アンドラーシ内心に少しひやりとしたものは、あった。


 そもそも主を見る目がないのが悪い、とか。愚図愚図しているから人質を取られる羽目になるのだ、とか。心のほんの片隅の方では、そう囁く思いが全くないではなかったのだ。だが、くだんの男の表情を見れば、妻を犠牲にしたことを心から悔やみ悲しんでいるのは明らか、それを責めるのは酷だと思ってしまうのだ。あるいは、その男が割り切っているようだったり、王への忠誠のためだと誇るような素振りでも見せようものなら、話は別だったのだろうが。


 妻を持つということは、喜びばかりでなく悩みも多くもたらすことに、彼はやっと気づき始めたところだった。

 グルーシャに限って容易く捕らえられるようなことはないだろうし、万が一そのようなことになったとしても、自分のことは気にせず王のために戦えと言うに決まっているだろうと、分かってはいるのだが。


 ――俺らしくもないことだ……俺には戦うしか能がないのだろうに。


 リカードに与する者たちも、もしかしたら身内の命のためにやむを得ず従っているのかもしれない。そんな者たちへの同情を抱きかけたのに気付いて、慌てて自身を戒める。どんな理由があろうと罪は罪、反逆は反逆。公然と逆らうことができないとしても、リカードの背を討つ程度の気概も持てないようならさっさと討ち取ってやるのが良いだろう。それなら、その者たちの家族の命だけは助かるかもしれないのだから。


 ジュラもそろそろ自家の兵のもとに戻るのだろう。ならば暗い話は止めて、激励のひとつもかけてやるべきだ。そう考えて具合の良い言葉を探そうとした時――声高く王を呼ぶ声が響いた。


「陛下に急ぎの報告がございます! お目通りを――」

「何事だ!?」


 軽装で武装した少人数の一団、装備の目立たない色合いと馬が息を荒げている様子からして、偵察から急行した者たちだろうと知れた。ジュラに限らず、四方へと派遣された隊のひとつが、敵の伏兵でも見つけたのか。

 アンドラーシもジュラも、声を聞きつけた周囲の者たちも、あるいは剣に手をやり、あるいは手綱を構えて戦いの予感に色めき立つ。だが、王を呼ばわった偵察隊の先頭の者は、自身に向けられた殺気めいた熱意に戸惑う様子を見せた。


「あ……怪しい女を捕らえました。リカードのもとから逃げたと称していて……人質の奥方たちの居場所を知っていると……」


 思いもよらぬその報告にどう反応すべきか――その場の誰もが咄嗟には分からないようだった。身体だけは今にも駆けだしそうに勇ましく構えたまま、彼らは戸惑った間抜けな表情で視線を交わし合った。

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