第16話 王女の猜疑 ラヨシュ
母君と共に側妃の見舞いに出たマリカ王女を、ラヨシュは心配しながら待っていた。側妃に対して何か激しい言葉を投げてはしまわないか。以前あったように――それは彼が王女に示唆してしまったのだけど――妹姫を手元に置きたいなどと言い出して周囲を困らせていないか。逆に、赤子のフェリツィア王女に嫉妬して意地悪をしたりはしていないか。本来は優しい気性の方とは重々知っているけれど、こと側妃とその御子に関しては、マリカ王女はあまりにも我慢を重ねてきたと思うのだ。
――でも、王妃様は「仲直り」を望まれている……。
庭の片隅で練習用の剣を振り下ろしてみても、その切っ先は彼の目にも分かるほどに揺らいでいた。出征前に彼に課題を与えていたアンドラーシがこのざまを見たら、さぞ呆れて笑うことだろう。ひとりではまともに鍛錬もできないのか、と。――あの男が無事に帰るかどうかは、まだ誰にも分からないのだけど。
剣を持つ手や腕、身体の構えに集中しなければ、と思っても、ラヨシュの頭に交錯するのは美しい女性たちの姿ばかりだ。黒い髪も艶やかな王妃と王女。それに、宝飾のように輝く髪と瞳を煌かせる側妃。王とティゼンハロム侯爵が彼方で戦う一方で、王宮の空気は驚くほど穏やかで静かだ。それが逆に、彼の心を波立たせて止まないのだが。
側妃が王妃に許しを乞うたらしいこと、王妃がそれを受け入れたらしいことだけでも驚いたのに、更に王女たちも仲良くさせたいという妃たちの心が彼には信じがたい。イシュテンの王はふたりの妻を持っても許されるものと頭では分かっていても、王侯ではない彼の身には不実なこととしか思えないのだ。王宮の使用人や――何より母からも、かつては王の妃や寵姫、その子らの間で命がけの争いが絶えなかったと聞いていもいるし。
だから、不遜を承知でラヨシュは王妃の心を少しだけ疑ってしまっていた。ティゼンハロム侯爵の敗色が濃い今、王の寵愛が深い側妃に取り入ろうとしているのではないか、幼い王女をそのために利用しようとしているのではないか、とか。王妃が悪意というものを持てない方なのは分かっているから、そんなことを考えたのは一瞬にも満たない間だけだったけど。
でも、疑おうとすれば何もかもが怪しく恐ろしく思えた。王妃が側妃を信じているとしても、側妃の方ではどうだろうか、とか。自身の御子たちを脅かすかもしれない王妃やマリカ王女を懐柔しようとしているだけで、王妃はまんまと騙されているのではないか、とか。
そのような考えは、多分母ならばこう思う、ということであって、ラヨシュの考えではないのかもしれないけれど。母の言葉を絶対の正義として信じ、かつその心に沿うことばかりを考えて生きてきたから、道を別たなければならなくなった今でも、つい母が考えるように考えてしまうのだ。
母の言葉を信じ切ることはできないと、もう分かっているはずなのに。
王妃や王女のためという大義によって犯された罪は、当の王妃によって悪だと、不要だと断じられた。しかも母は、王よりもティゼンハロム侯爵を頼るばかりでなく、側妃とその御子に毒を盛ることまで企んでいた。
母と、母が仕えるティゼンハロム侯爵家の罪の深いこと、生まれた時から教え込まれていたラヨシュの忠誠さえ揺るがすほどだったのだ。
――でも……それなら……私はどうすれば良い!?
「はあっ……!」
振り下ろす力の加減を
鍛錬に集中できないことを恥じながら、剣を再び掲げ直す。でも、自らを鍛えたところで、その剣を誰に向けるかはラヨシュにも分からないままなのだ。守りたい相手はマリカ王女と思い定めているのに、これでは強くなることなど望めない。母や、彼自身が犯した罪を償うことも。
――私は、まだ許されてはいけない……!
子供とは言え男のラヨシュは、身重の側妃の見舞いに同行することはできなかった。高貴な女性は腹が膨らんだ姿をそうそう夫以外の男に見せるものではないのだとか。あるいは、あの母の子だから、という理由の方が大きいのかもしれないが。我が子の命を狙った母のことを、側妃が忘れるはずも許すはずもない。王妃はラヨシュには罪のないことだと言ってくれてはいるが、少なくとも彼の顔を見れば側妃は確実に不快に思うだろう。今も懐妊中の方のこと、胎児に障ることも十分考えられる。
『シャスティエ様――クリャースタ様もきっと分かってくださるわ。落ち着かれてから、ラヨシュもご挨拶に行きましょう』
側妃の離宮へと発つ際に、王妃はそのように声を掛けてくれた。側妃にそこまでの慈悲と寛容を期待することができる理由は、やはり彼には窺えない。たとえ王の執り成しがあっても、側妃は彼の死を望むのかもしれないのに。
――そうなったら、王妃様も断れないだろうな……。
ティゼンハロム侯爵亡き後は――そのような事態が本当に訪れるのかどうかも、ラヨシュには今ひとつ実感を持って想像できないのだが――、王妃は側妃に気兼ねせずにはいられなくなるだろうから。
側妃が与えるかもしれない断罪は、彼が待ち望んだものになるのか。でも、彼自身が犯してまだ打ち明けることができないでいる罪に対するものでなければいけないとも思うのだが。
このような心持ちでは何ひとつ実にならないのを知りながら、彼は剣を振るい続けることしかできなかった。
ラヨシュがひと通りの訓練を終え、汗を流して着替えた頃になってやっと、王妃と王女は側妃の離宮から戻った。王宮の敷地内とはいえ、一応は余所行きの格好をさせられていた王女も、気楽な姿に着替えてひと心地ついた様子に見える。幼い主の傍という定まった場所をまた占めることができて、ラヨシュとしても落ち着く気がした。甘い菓子や香り高い茶の
「マリカ様、妹君のご様子はいかがでしたか……?」
心配していたほど険しい表情をしていないことに安堵しながら問いかけると、王女は彼を見上げて曖昧に微笑んだ。
「すごく、大きくなってたわ……。もう歩けるんだって。かーしゃ、って言ってて……お母様、って言おうとしてるみたいだった」
王宮に来てからは幼い子供や赤子を目にする機会はほとんどないが、ティゼンハロム侯爵邸にいた頃は、侯爵家の親族の御子が当主にお目見えするのを見かけたり、使用人の子供の世話を焼いたりする機会もあった。だから、確か一歳になった年頃のフェリツィア王女の愛らしさは、ラヨシュの目にも浮かぶようだった。否、母君の美貌からして、彼が知るどの子供よりも見る者の心を蕩かす笑顔や仕草なのかもしれない。きっと王妃も、側妃の御子を大層可愛がったのではないだろうか。
――でも、マリカ様だってフェリツィア様に劣らず愛らしいはず……!
マリカ王女は菓子を手に取ったきりで、口に運ぼうとしてはいない。どこか翳りのある表情は、赤子に母君までも奪われたと思ったからのように思えて仕方なくて、ラヨシュは慌てて言葉を探した。
「側妃様の手前、王妃様もあちらの御子をお褒めになるのは仕方ないこと……別に、マリカ様を蔑ろにされるおつもりはないはずで――」
「うん、そうだと思う。……お姫様も私を褒めてくれたの。お綺麗になりましたね、って。……綺麗にしてもらっただけなんだけど」
恐る恐る、気遣うように掛けられた言葉に、王女はきょとんとした顔であっさりと返してきた。どうやら彼の懸念は外れていたらしい。王妃がフェリツィア王女を気遣ったのと同様に、側妃もマリカ王女を気遣ったということらしい。大人の儀礼的な言葉は、幼い心には必ずしも届かなかったのだろう、王女は決して賞賛を素直に受け止めてはいないようだけど――側妃がそのように言った配慮は、とりあえず汲み取ったというところだろうか。
全く嬉しくなさそうな顔で菓子を口に放り込んで、呑み込んで。王女はその間に離宮での出来事を反芻したらしい。細い喉がごくりと動くと、相変わらず感情を自身でも持て余しているような、戸惑ったような声が紡がれる。
「あの人に……お姫様に謝ってもらったの。お父様を独り占めにして、寂しい思いをさせてごめんなさい、って」
「そうですか……」
王女の報告をどのように捉えるべきか、ラヨシュには分からなかった。
母ならば、きっと白々しい、と憤るのだろうとは思う。今となっては王妃やマリカ王女よりも側妃の方が立場が上なのだ。ティゼンハロム侯爵を恐れる必要ももはやなく、ふたり目の御子を授かって。これで生まれるのが王子だったら、臣下も――既に王妃よりも側妃を敬っているアンドラーシなどでなくても――あの金の髪と碧い瞳に跪くことになるのだろう。その状況を踏まえてなお、あえて幼いマリカ王女にまで謝罪してみせるというのは、ただ後から現れて王を――王妃の夫、マリカ王女の父を――奪った体裁の悪さを取り繕おうとしているだけということにならないだろうか。
一方で、なぜあの方は謝るのだろう、とも思う。王妃を憚る必要がなくなったのなら、ただ勝ち誇っていても良いものなのに。王妃たちに譲るどころか、王の心も肉体も独占して権勢をより確かにしようとしてもおかしくないのに。
――あの方は、本当に……?
王妃たちと仲良くしたいのだろうか、などという考えは、ひどく不釣り合いで幼稚なもののようにも思えたが。だが、もしもその信じがたいことが事実ならば。側妃を許した王妃は正しいのだろうか。罪を犯してまで側妃を排そうとした母は、やはり間違っていたのだろうか。
身体の奥の何か、芯のようなものが揺らぐのを感じて、ラヨシュは卓に手をついた。側妃が本当に王妃たちに対して害意がないのなら――それは、絶対に喜ぶべきことのはずだ。仕えるべき方たちがこれからも安全に健やかにいられることを、手放しで喜ばなければ。
――では、私や……母様のしたことは……?
そのようなことを考えて欺かれたように感じてはならない。彼らの罪は彼らがしたこと、王妃にも王女にも――側妃にも、関わりのないことだ。
「……マリカ様は、何と仰ったのですか……?」
「別に良いの、って……。フェリツィアも、お母様がいないのは可哀想だったし……」
不自然に身体を傾げさせたラヨシュを、不思議そうに首を傾げて見つつ、王女は聞かれるままに答えた。側妃が王を奪ったと言うのは、ブレンクラーレ遠征だけでなく更にその前、王を黒松館に通わせていた頃のことも含めているのだろうに。物心つかない妹君のことを思い遣れるこの方は、気丈さだけでなくこの上ない優しさも確かに持っていると思う。
ただ、内心に
「おじい様のことは何も言わなかったの。ひどいことをしたはずなのに……。言えないから、かもしれないけど。言わない方が、良いものね……」
祖父君の――ティゼンハロム侯爵の非道を詰ってくれた方が気が楽だったのに。他所から現れた側妃よりも、血の繋がった祖父君を信じていたかったのに。こうも真摯に謝罪されてしまっては、どうしても侯爵の方が悪く見えてしまう。声高に侯爵を責めない側妃は、正しい――でも、狡い。
王女のたどたどしい言葉から、ラヨシュはそのような思いを読み取った。
非難に耐える立場でありたい。相手の方が横暴で、自らこそが不当な扱いを忍んでいるのだと思いたい――王女の思いは、彼自身とも通じるものがある。だからよく分かってしまうのだ。ただ、既に罪で手を汚したラヨシュは口にすることができず、清らかな王女は後ろめたさを覚えながらも言葉にすることができる、それだけのことだ。
――マリカ様も、侯爵様のなさったことを気付いて……受け入れられているんだな。
王女も、祖父君の所業にどのように向き合うべきか思い悩んでいるのだ。「優しいおじい様」が他の者にはいかに冷酷に振る舞っていたかを知り、自身もその罪の一端を担っているかのように思ってしまっているのだ。この方は何もしていないというのに!
「マリカ様は――」
「あのね、ラヨシュ。あの……アルニェクの、こと。あの人じゃないかとも思ってたんだけど。やっぱり違うわ……あの人のこと、分からない……信じてないもの」
「マリカ様」
慰める言葉を探そうとして――しかし、ラヨシュは王女の目の奥に強い感情が宿っているのを見て取った。青灰の目に渦巻く猜疑と恨みの色の暗く激しいこと、彼の舌を凍らせるのに十分なほどだ。
ラヨシュの脳裏に、ティゼンハロム侯爵の声が朗々と響いていた。
『いつ何時信用している者に裏切られぬとも限らぬからな……!』
王宮の広間で王妃と対峙した後のこと。実の娘に陥れられる形になった侯爵が、愛犬を殺した犯人について孫娘に尋ねられて答えたことだ。まるで、犬は王女が信用している者の手に掛かったとでも言うかのような。否、侯爵は事実知っているのだろう。ラヨシュが母に宛てた手紙は、きっとあの方の目にも留まっただろうから。
多分、彼の罪を暴こうとしたということではないと思う。それなら、はっきりと彼を名指しすれば良いだけだから。だからきっと、侯爵は思い通りにならなかった腹いせに、孫娘の心を乱しただけ。そんな八つ当たりで吐かれた言葉が、マリカ王女の胸に留まり続けているのだ。
「おじい様はどうしてあんなことを仰ったのかしら……。あれも、嘘なのかしら……?」
祖父君の
――言わなければ……。
犬を殺した犯人は、ラヨシュだと。すぐに否定したとはいえ、王女は側妃を疑ったことがあるらしい。
今にも舌を動かして、自分がやったのだと言いそうになる――が、心の片隅で今は駄目だ、と囁く声もあった。父君と祖父君の争いの心を痛める王女に、更に混乱を与えてしまっては良くない、事態が落ち着いてからにしなくては、と。あるいは、単に怖気づいているだけなのかもしれないが。
「……次はラヨシュも一緒に行けるのかしら。フェリツィアが可愛かったのは本当よ。……だから、遊んであげなくちゃ」
無言のままのラヨシュに軽く眉を寄せて見せてから、王女は自らに言い聞かせるように小さく頷いた。それが姉の務め、母君の王妃が望むであろうことだから、と。
だから、ラヨシュはまた罪を打ち明ける機会を逃してしまったのだ。
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