第15話 捕らえられた女たち エルジェーベト
ふと、甲高い悲鳴が聞こえた気がしてエルジェーベトは首を振った。ただの幻聴なのは分かり切っている。人のものとは思えない――
エルジェーベトは、ティゼンハロム侯爵家が所有する屋敷のひとつに移されていた。大々的に客人を招くような名勝や狩場に恵まれた立地の別荘ではない。もっと密やかに、森の中に隠すように建てられたものだ。堅牢な造りからして、要塞とか――牢獄を、思わせるかもしれない。
事実、一族の中で表に出せなくなった者を軟禁したり、嫉妬深い正妻から守るため愛人を住まわせたりしたこともあったのだろう。ティゼンハロム侯爵家ほどの名門ともなれば、王家には及ばずともそれなりに権力や後継を巡っての争いがつきまとうものだ。
とはいえ、今この屋敷にいるのは、侯爵家の人間ではない。何十という部屋のそれぞれに押し込められているのは、リカードが捕らえた人質だった。脅して従えた諸侯たちが逆らうことがないように、戦いの最中に敵と味方――彼らにとってはもはやリカードは紛うことなき敵なのかもしれないけど――を入れ替えることがないように、妻や娘や幼い息子を一か所に抑えているのだ。
昨日は、部屋のひとつが空いた。リカードに従わさせられていた諸侯のひとりが王のもとに逃げたとかで、その妻子を見せしめにするのだということだった。
逃げることも隠れることもできない小部屋の中で、でも、その女は屈強な兵を相手に随分と抗った。子供だけは見逃してくれと嘆願し、慈悲を乞う声。それがやがて悲痛なものへと変わり、彼女たちを見捨てた夫への呪詛になった。どう足掻いても無駄だと悟った後はすすり泣きが響き、それでも屋敷の門から引きずり出される瞬間に上げたのエルジェーベトの――それに恐らく屋敷の女たち全員の――耳にこびりつく悲鳴だったという訳だ。
人質が逃げる気を失くすよう、わざわざ
「夫は私など見捨てるでしょう。家の名の方が大事ですもの。妻なんてまた娶れば良いと思っているに決まっている……!」
「奥様、お気を確かに」
女のひとりが泣きながら縋りついてきたのを、エルジェーベトは辟易しながら剥がそうとした。声と表情は哀れっぽく弱々しい癖に、指の力は強くて容易に離れてはくれないようだ。この女だけでなく、同じように不安と恐怖を抱えて心の均衡を欠いた者たちをひとりひとり宥めなければならないとは、リカードの機嫌を窺うのとは別の種類の難しさであり面倒さだった。
「何もかも悪くなるとは決まった訳ではありませんわ。戦いが終われば、きっと迎えが来ますでしょう」
王とリカードのどちらが勝つのか、迎えとは誰が寄越すのかは明言しない。エルジェーベトは一応はリカードの
「王が勝つのですか? 私たちを解放してくれると……? でも、そうなったら夫は――」
また答えづらい問いを一方的に投げてから、女は泣き崩れた。リカードが破れて解放される時のことを夢見かけて、でも、その時は夫は反逆者となっていることに気付いたのだろう。リカードに嬲り殺しにされるか、反逆者の身内として領地や財産や――最悪の場合、命まで失うか。追い詰められた脳では暗い想像しか働かなくても仕方ないのかもしれない。
「旦那様は奥様のためにこそ戦っておられるのでしょう。信じて、お待ちなさいませ」
女の身の上については同情しないでもない――が、エルジェーベトにはどうしようもないことだ。それに、イシュテンにおいては一介の貴族であっても立ち居振る舞いを間違えれば命取りになるのだ。夫が機を読むのに失敗したことを恨んでもらうほかないだろう。この女やその夫、他にも無数の人間の運命を狂わせたリカードからして、度重なる読み間違えの末に今の苦境に陥っているのだ。
――ましてや、女のひとりやふたりなんて……。
「お食事を召し上がってくださいませ。身体が温まれば御心を強く持つこともできましょう」
お前の末路など知ったことか、とはさすがに言えなくて、エルジェーベトはややぞんざいに女を励ました。
糧食にも決して余裕はないのだろうが、人質を飢えて死なせては意味がないことくらいはリカードも弁えている。それほど質も味も良くなくても、
「皆様、とても
扉を閉めて廊下に出るなり、エルジェーベトの耳元に若い娘が囁いた。リカードによって父親を殺されたあの娘が、この屋敷にも連れて来られていたのだ。人質の女子供の人数が多いから、世話をする女手はひとりでも大いに越したことがない、ということらしい。母親も屋敷のどこかで料理だか洗濯に明け暮れているはずだ。
かつては使用人にかしずかれた何不自由ない日々を送ってきた娘だ。今の境遇はさぞ屈辱なのだろうが――夫の裏切りに怯え、いつ兵の荒々しい手に引きずり出されるのかと震える人質たちよりはまだマシ、ということなのだろうか。
だが、娘の顔色は人質の女たちに劣らず青褪めていた。他人を案じる言葉も、余裕があるからでも、本心から同情しているからでもなく、何か別の目的があってのように見受けられる。
「こう言っては何ですが……貴女様はあの方々よりも安全なのかもしれません、お嬢様。戦地の殿方の振る舞いで何が起きるか分からない、ということはないのですもの」
「そう、でしょうか……」
「ええ」
別の目的――つまりは、この娘も慰めの言葉が欲しかったのだ。父親が殺された屋敷にいた頃から、エルジェーベトは娘と母親が望む言葉をかけて不安を和らげてやっていた。人質の女たちの方がより差し迫った危険にさらされているとは承知しつつ、甘える相手は逃したくないとでもいうかのようだ。
「でも、私や母を生かしておいても意味がないということでもありますよね……? 侯爵様は私どものことをどうされるおつもりなのでしょう……?」
――余計なことに気付いているのね。
娘の縋るような視線が煩わしくて、エルジェーベトは少し顔を背けた。ちょうど見張りの兵の前を通りすがるところだったから、人目を避けて口を
これからどうなるか、などとはエルジェーベト自身が一番知りたいことなのだ。人質の女たちやこの娘よりは自由な行動を許されているとはいえ、戦場の情報はさほど入ってきてはいない。女たちの反抗を警戒しているというよりは、心のない
――どうなるか、だけではないわ……どうするかも、考えないと……。
娘が物欲しげな目で見つめてくるのを知った上で、エルジェーベトが考えるのは自身の身の振り方だけだ。
我が身の無事を考えるなら、為すべきことはまだ簡単だ。このままこの屋敷で息を潜めていれば良い。兵たちの顔色から察するに、リカードの状況はよほど切羽詰まっているのだろう。人質の女子供の無惨な最期が知れ渡れば、一時は恐怖で将兵を縛ることができるかもしれないが、憎悪と反発は彼らの胸に渦巻くだろう。王の方だって、リカードの非道を声高に非難するはず。
リカードが敗れれば、遅かれ早かれこの屋敷にも王の手が届くだろう。捕らえられた女たちにとっては、待ちわびた助けの手だ。死なばもろともとばかりに、リカードが兵を差し向ける可能性もないではないが――多分そんな余裕はないだろうし、あの老人が女のことに考えを割くこともまずないだろう。
だから、エルジェーベトも女たちに紛れて
――冗談では、ないけど……!
ぬるま湯に浸かるような平穏な日々など、エルジェーベトにとっては唾棄すべきもの。想像するだけで、不快と苛立ちに胸が激しく波立つほどだ。
それでは、マリカと二度と会えなくなってしまう。王が勝利を収め、リカードは亡く。今度こそ世継ぎに恵まれるかもしれない側妃が権勢を
ティゼンハロム侯爵家の娘、という肩書きはもはやあの方を守らない。むしろ、他国と通じてまで王を陥れようとした姦賊の血を引くということで、どれだけの苦しみに見舞われることだろう。王女のマリカも、側妃の子らと常に引き比べられて育つことになる。これまで両親の愛も周囲の関心も一身に独占してきたというのに、母君以外の全てを突然失うことになるのだ。
――私が、いて差し上げなくては……!
何度も噛み締めた思いを改めて心中に叫んだ時、娘が耐えかねたように心細げな声を上げた。
「あの……」
「ああ、申し訳ございません。つい、考え事をしておりました」
「考え事……?」
何か安心できるようなことを言ってくれ、と。図々しく強請ってくる娘に、エルジェーベトは軽く笑って見せた。場違いなその表情が、安堵よりもむしろ不安を掻き立てるのは承知の上で。――どの道、この娘はエルジェーベトの言うことならば何でも聞くだろう。そうなるように、これまで散々優しい言葉を与えてきたのだ。
――そろそろ、お返しをしてもらわなくてはね。
マリカたち以外の相手を、エルジェーベトが無条件で守ることなどあり得ない。これまでのことは哀れみや同情からのことではなく、寄る辺ない母娘を彼女の手駒に仕立てるためのでしかない。エルジェーベトの機転によって、娘はリカードの魔手から逃れることができた。だから、彼女の言葉に従っていれば大丈夫だろうと、信じ込ませることができているはずだ。
事実、エルジェーベトが目で合図すると、娘はそれ以上何も言わずについてきた。子供のような素直さに、ほんのちらりとだけ彼女自身の息子のことを思い出す。アンドラーシに取り入ることに成功していたらしいラヨシュは、まだマリカたちの傍にいることができているだろうか。母親との血縁を暴かれたとしたら、もうこの世にはいないかもしれないが。まあ、それは今考えても仕方のないことだ。
男の目の届かない場所――厨房に戻ると、エルジェーベトは早速口を開いた。手は次の部屋に運ぶ食事を用意しながら、食器の触れ合う音に紛れさせるように、小さな声で。
「ティゼンハロム侯爵は多分敗れるでしょう。あれほどの非道を行った方に、従う者が多いとは思えません」
「そんな……!」
思わず、といった様子で娘は持っていた食器を取り落とした。磁器や陶器ではなく、銅製の皿だったのは幸運だった。ただ、素材ゆえに床に落ちた皿が奏でた音は高く大きく、娘はひどく狼狽えて慌てて皿を拾い上げて胸にかき抱いた。
相手に十分希望を与えることができたのを確かめて――エルジェーベトは、今度は絶望も思い出させてやる。
「でも、ご自身のことを考えるならこのまま待っているのも得策とは思えませんわ。父君の領地も財産も、王のために戦った者に与えられるでしょう」
「……はい」
銅の皿を抱きしめたまま、娘は俯いた。この娘の父は、もともとリカードの陣営に属していた。王の元に馳せ参じようとして結局叶わなかった訳だが、つまりは王からすれば反逆者の一味のままで終わったということだ。人質の女たちは、乱さえ収まれば夫や父のもとに帰ることができるかもしれないが、この母娘については帰る場所は失われてしまうだろう。
「ですから、何か手柄を立てるのが良いと思いますわ。それと引き換えに、父君のものを返してもらえるように王に乞うのです。もちろん、奥様やお嬢様からすれば不当に奪われたもの、そのようなことをしなければならないのはさぞご心痛だろうとは思うのですけれど」
「でも、私も母も何もできません……! 私たちだって、囚われ人のようなもので……!」
エルジェーベトが宥めるようにかけた言葉も、娘には虚しく響いたはずだ。女に戦う術はなく、王との取引の材料になるような手柄など望むべくもないのだから。――ただ、それは普通ならばの話。
――さあ、ここが勝負よ……!
娘に口づけるように頬を寄せて。ひと際甘く誘うような声で。エルジェーベトは娘の耳元に囁いた。真っ暗に見える道を、照らす光を与えてやるのだ。火に惹かれる羽虫のように、この娘がそれしか見えなくなるように。
「何も戦う必要はありませんわ。例えば……ここに囚われている方々。奥様や御子様のために侯爵に背くことができない方も多いはず。王にこの屋敷の場所を教えるだけでも、沢山の方が感謝することになるでしょう」
娘が目を見開いたのを見て、エルジェーベトはほぼ策が成功したのを知った。戦場で首級を上げることに比べれば、彼女が言ったのは大分簡単に聞こえただろう。それに、この娘だって人質の女に同情する思いはあるだろう。善行を施すことができるという考えは、若い娘の無邪気な心には眩しく見えるのではないだろうか。
「王の元に行くのは私がやります。その方が絶対に危険ですもの。それに、私なら侯爵領の地理も多少は分かりますし……。お嬢様たちには、私がいないのが露見しないようにしていただきたいのです」
その上で、実際に行動するのはエルジェーベトだと教えてやる。いかにも危険な役目を引き受けてやるといった風に。大したことはしなくて良いのだというかのように。
だが、もちろんエルジェーベトの本音は違う。リカードを追い詰める手柄は、全て彼女のものにするつもりだ。この母娘は――夫や父の仇を討つ一助ができた、そのことだけで満足してもらうことにしよう。
――人質さえ助ければ戦いの大勢は完全に決まる……それほどの手柄を、王も無視できないでしょうね……?
少なくとも妻子を救われた諸侯は彼女に感謝することだろう。彼らの声は、王も顧みずにはいられないはず。もちろん、側妃とその子を狙った彼女の罪を帳消しにするほどではないはずだけど――涙のひとつも見せて罪を悔いていると見せることができれば。最期にひと目、と懇願すれば。マリカにまた会うこともできるのではないだろうか。
――マリカ様にお会いできれば、後はどうにでもなるわ……!
分が悪い賭けなことは、百も承知。それでも、一分でも望みがあるならば、エルジェーベト躊躇う理由などどこにもなかった。
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