第14話 出征 ファルカス

 王都の門を出たところでふと振り返ると、城壁の上に大小ふたつの人影が見えた。リカードが兵力を誇示して民心を脅かした記憶も新しいのだろう、王の軍に声援を送る民も少なくないのだが、無論ただの平民が城壁に上れるはずもない。かといって見張りの兵にしては、ふたつの人影はいずれも細く柔らかな輪郭を持っていた。風になびく黒髪と、長い衣装の裾からも分かる、ミーナとマリカが、ファルカスの出立を見送ってくれているのだ。

 昨晩共に過ごし、朝もぎりぎりまで名残を惜しんだのでもまだ足りず、王宮の敷地から城門まで付き添ってくれたのだ。物見遊山という訳にはいかないから、彼と馬を並べるようなことはせず、武装した人馬の後ろをついて、ひっそりと馬車で王都の通りを進んでいたということだったが。そして、父や夫の見送りというよりも、リカードの――ミーナにとっては父の、マリカにとっては祖父の最期が近いであろうことに感じるものがあるのかもしれないが。


 それでも、少しでも長く妻子の姿を視界に収めることができるのは、ファルカスにとって喜びだった。たとえ顔かたちの区別がつかない遠目であっても。早春の風になびく妻と娘の髪のしなやかさは、見間違えようがない。


「クリャースタ様がお出ででないのは残念なことでございますね」


 彼の視線の先に気付いたのか、アンドラーシが話しかけてきた。ブレンクラーレ遠征中に王妃たちを守った功績と、ついでにしばらく前線に出ることがなかった鬱憤を考慮して王の傍に配置していたのだ。


 戦いに出るというのに妻子に気を取られていたと見られるのが――たとえ事実でも――不本意で、ファルカスは顔を前へと戻した。


「あの者が離宮を出ることなどできないだろう。折角無事に帰ったのにまた馬車に乗せたりなどしたら、胎の子に障る」

「それはそうですが……」

「側妃ともフェリツィアとも別れは済ませた。だから別に良いのだ」

「フェリツィア様には思い出していただけたのでしょうか?」


 敵の姿がまだまだ遠い今は、彼も相手も兜をつけてはいない。だからアンドラーシは彼の視線を辿ることができたのだろうし――彼の方でも、相手が面白がるような笑みを浮かべているのがはっきり見える。王が留守にしていた間に王女の懐柔に成功したのを誇るかのような表情、まったく不遜なこの男らしい。

 他のことならばその度胸を好ましく思ったかもしれないが、ことこのことについて言えば全く笑いごとなどではない。娘に忘れられるほど会うことができなかったのは不甲斐ない限りだし、娘に泣かれてこの世の終わりのような顔色で涙ぐんでいたシャスティエを思い出せば胸が痛む。

 だからアンドラーシに返した声は、やや鋭く険があったかもしれない。


「……そのようだな。少なくとも、母親に抱かれるのは落ち着くようだ」


 まだ言葉は通じずとも、赤子は自らに向けられる愛情には敏感なようだった。一旦離宮に戻った後は、シャスティエはできるだけ娘を間近に置きたがっていたようでもある。だから、母のことを思い出したのか覚え直したのか――とにかく、最後に会った時にはフェリツィアはシャスティエの腕の中で機嫌良く笑っていた。彼が手を出そうものならその笑顔が泣き顔に変わるのは分かり切っていたから、ファルカスは見ていることしかできなかったのだが。


「やはり母君は特別、ということでしょうか。では、父君は……?」

「いらぬ詮索だ。お前は手柄のことだけ考えていれば良い」


 アンドラーシが余計なことに気付きかけたので、ファルカスは低く唸って黙らせた。出来過ぎた妻は娶ったものの、この男には自身の子はまだいないのだ。独り身の時と変わらぬ軽口で揶揄されるのは、不敬であることを度外視しても決して愉快なことではなかった。


「フェリツィア様が陛下に懐いてくださらないと、俺は離宮に入れない――妻にもろくに会えないではないですか」


 王の不興を見て取って深入りは避けたようでいて、しれっと聞えよがしの呟きを漏らすあたり懲りない男だ。横目で睨んでみても、アンドラーシは知らぬ顔で馬の手綱を操るだけ。彼が何を怒っているのか分からない、理不尽だ、とでも言いたげだった。確かに、離宮の出入りを当面禁じたのは八つ当たりのようなもの。醜聞の再燃を避けるため、などというのも口実に過ぎないと、彼自身も自覚はしているのだが。


 それでも、ファルカスにしてみればアンドラーシの愚痴は贅沢が過ぎる。


「俺がブレンクラーレにいる間、お前はグルーシャと水入らずで過ごしたのだろうが」


 フェリツィアの懐きようを見れば、アンドラーシが頻繁に妻の実家のバラージュ家を見舞っていたのは明らかだ。不穏な情勢の中で王女を擁していること、家を取り仕切るのが片腕の若者――アンドラーシにとっては義弟にあたるカーロイ――であることを踏まえれば案じるのは当然とはいえ、妻と会えるという役得があったのは間違いない。


 ――俺はどちらの妻とも会えず、娘には忘れられたのだぞ?


 あまりに幼稚で情けない思いは内心だけに留めて、決して口に出したりはしないが。彼が妻子を置いて戦いに出たのも、アンドラーシが血気を抑えて留守の守りに徹したのも、いずれも必要なことだと頭では理解しているのだが。


 妻と心を通わせ笑い合うことができるという、ただそれだけのことがファルカスにはひどく遠く眩しい星のようなものだった。このようなことで臣下を羨んでいるなどと、王として悟られてはならない心情だった。


「陛下も間もなくそうなりましょう? リカードさえ斃せば、誰に憚ることもなく」

「リカードを討つのはイシュテンのためだ。なりふり構わず自陣の者さえ虐げる醜態、あれはもはや災厄のようなものだ」


 宥めるような風に微笑みの種類を変えたアンドラーシには、ある程度は見透かされてしまっているのだろうが。だが、アンドラーシも彼の心中を完全に理解するにはほど遠い。彼への忠誠が篤いゆえに、この男は妃たちが王を憎むことなど想像もしていないのだろう。側妃の名の意味を告げた後でも、シャスティエへの信頼は揺らいでいないようでもあるし。


 ミーナとシャスティエは、彼がいない場で再会した後は良い関係に落ち着いているようだった。お互いがお互いに語る言葉に、気遣いはあっても以前ほど憚り畏まるような響きは消えた。一番最初、シャスティエをイシュテンに連れてきたばかりの頃のように、何の蟠りもない無邪気な交わりということでは決してないようだが――妻たちも、何かしらによって絆を深めたのだろうと見えた。


 ふたりの妻の心を繋いだのは、夫への愛以外の感情だろうとファルカスは考えている。彼の妻のいずれも、肉親が彼と敵対している。そして、ミーナもシャスティエも、身内を庇おうとして彼に秘密を抱えていた。彼女たちの心を疑うこと、憎まれるものと決めつけることはもうしないと心に決めてはいるが――無邪気に彼を慕ってくれることなどあるはずはない。ふたり共、悲しみと苦しみに心を引き裂かれているに決まっているのだ。

 つい最近従弟を殺されたシャスティエと、間もなく父を殺されるミーナと。お互いの境遇に通じるものがあるふたりだからこそ、寄り添って耐えようとしているのではないだろうか。


「クリャースタ様や王妃様は――」

「女のことは今は口にするな」


 もの言いたげな表情のアンドラーシに、ファルカスはあえて強く宣言するとアルニェクの脚を急がせた。


「王妃や側妃は関係のないこと。王として、俺はリカードを討たねばならぬ」


 ――国の大事が、争いが……自身のためだと言われてどうしてあの者たちは喜べる?


 たとえ戦いが終わっても、妻たちは決して手放しで喜びはしないだろう。アンドラーシはリカードさえ討てば全てが丸く収まるとでも思っているのかもしれないが、それは間違いだ。ミーナは父のために、シャスティエは父を亡くしたミーナのために心を痛めるに決まっている。

 彼は――彼と妻たちは、そこから始めなければならないのだ。妻たちの心を癒し、肉親を見捨てた――と思うであろう――罪の意識を和らげる。ふたりから多くを奪った張本人である彼がその役を担うなどおこがましいにもほどがあるのだが。妻たちが少しでも彼に心を寄せてくれるのなら、彼と共に歩もうとしてくれているのなら。彼にもできることがあるはずだった。


 ――まだ無事に帰れると決まった訳でもないがな。


 気が早かったか、と。苦笑を口元に刻みながらファルカスは前を見据える。


 王都の城壁の外の草原では、芽生えかけた草葉の緑を人馬の群れが踏み躙っていた。王都の中に呼び入れていたのは主だった諸侯だけ、大方の兵たちは郊外に野営させていたのだ。

 彼の馬と同じ黒い毛並み、鹿毛に葦毛、白が勝つもの。馬の毛の色だけでも多様だし、磨き上げた鎧や武器の輝き、各家が掲げる旗や紋章のいろどりも華やかだ。イシュテンに存在する紋章の多くを、この一か所で見ることができるのではないかと思うほど。


 今日の出立は一兵卒にいたるまで周知させている。誰の軍をどの位置に配し、誰を王都の守備に残すかも、既に取り決めた。見渡せば、地平まで続くかと思うほどに立ち並んでいた天幕も取り払われて、誰もが出発を待ち望んでいたのが分かる。


 だからファルカスは、愛馬の脚を緩めることなく兵馬の前を駆け抜けた。同時に剣を抜き、白刃を太陽に煌かせながら、叫ぶ。


「このままティゼンハロム侯爵領まで駆け抜ける! ひとりたりとも遅れるな! 手柄が欲しくば、今この場から争いが始まっていると思え!」


 挑発めいた檄に、大気が震え大地が揺らいだ。将兵が王に応えて叫ぶと同時に、一斉に手綱を取って馬腹を蹴ったのだ。草原を埋め尽くす大軍が動き出す様は大海の波のうねりにも似て、ファルカスの背を押す。地を蹴る馬が風を起こすからというだけでなく、リカードを討つという熱狂に、全軍が一体となって突き動かされているようだった。


 ――リカードは、どう出るつもりか……。


 周辺の領地を襲い、強引に兵をかき集めた後は、リカードは自領に篭る構えを見せている。地理を知悉ちしつしていることから守りに徹すれば強いだろうし、備える時間は与えてしまっている。移動による体力の消耗もない。とはいえ、敵の内情は脆いはずだ。


 ブレンクラーレとの密約が暴かれたことは、あちらの陣営にも伝わっているだろう。今リカードに従っているのは、脅されて逃げる暇がなかった者と、もともとティゼンハロム侯爵家との結びつきが強すぎるために今さら逃げようがない者くらいだ。リカードが箝口令を敷いている可能性もあるが――離反した者については罪を酌量することも、王の名において布告している。一分の理もないリカードのために命を投げ出そうという者が、一体どれだけいることか。


 もはや破滅を待つしかないと思える状況で、ファルカスを待つリカードの心情はどのようなものなのか。潔く裁きを待つような殊勝さとは無縁であることだけは断言できる。そもそも、己の罪を悔い、累を及ぼす範囲を少しでも狭めようと思うなら、王の帰還を聞いた段階で己が身柄を彼に預けて裁きを待っていれば良かったのだ。

 先にアンドラーシに告げた通り、リカードの振る舞いは醜悪そのものだ。大罪を犯した、それも老い先短い命を少しでも長らえるために見苦しく足掻いているようにしか見えない。


 だが、だからこそ油断してはならない、とも思う。後がない者が手段を選ばない時に一体何をしでかすのか、警戒を怠ってはならないだろう。今彼が戦場に斃れることがあれば、王位を継ぐことができるのは――何代か前からの王たちが残した庶子という、か細く不確かな系譜を除けば――幼い王女たちだけ。正当な継承者になり得るかもしれないシャスティエの子は、まだ生まれてもいない。王であるファルカスを討ち、マリカを擁立して実質的な王になる――そのように分が悪すぎる賭けに、リカードは全てを賭けようとしているのだ。


 ――ブレンクラーレ遠征の間にミリアールトが動いていれば……あるいは、ミーナとマリカを確保できていれば万全と、信じていたのだろうな。


 遠征に失敗し、声望を失った彼に対して妻子を人質に取れば、確かに楽な勝負になってはいただろう。アテが外れて狼狽しているであろうリカードを思うと、ファルカスの口元に笑みが浮かんだ。そして、それが別に彼の手柄ではないのも知っているから、その笑みは苦いものだった。


 リカードの目論見をことごとくくじいたのは、妻たちの働きだ。ブレンクラーレに攫われながら、従弟の命を惜しみながらも彼に手がかりを残してくれたシャスティエ。婚家名に籠めた本来の復讐の思いを曲げてまで、彼と共に進むと言ってくれた。ミーナも、リカードの魔手を退けて自身とマリカを守りつつ、父親の決定的な叛意を衆目の前に明らかにした。


 これ以上なく有利な状況で戦いに臨むことができるのは、妻たちのお陰。彼女たちが苦しみ悩みながらも肉親よりも夫を選んでくれたお陰。ここまで場を整えてもらったからには、彼に敗れることは許されない。リカードがどのように卑怯な手を繰り出そうとも、必ず勝って――妻と子のもとに帰らなければ。


 真っ直ぐに前を見据えて、ファルカスは駆ける。その背に負うのは、彼に従う臣下の命と国の未来、妻子の幸せ。いずれも譲れぬこと。負けることなど考えたことはないが――今回の戦いでは特に、必ず勝って帰らなければならない理由がある。


 ――勝って、またお前たちのもとに……!


 妻と娘たちの姿を思い浮かべて、ファルカスは一層馬を急がせた。

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