第13話 同じ思い シャスティエ

 マリカ王女は、祖父君であるティゼンハロム侯爵と父王が争う事態についてまだ心の整理がついていないらしい。もちろん、侯爵がシャスティエの命を狙ったのが罪になることも、間もなく新しく弟か妹が生まれて、周囲の関心をますます奪われるであろうことも。幼いながらに矜持高く強情なあの姫君には、納得しがたく許しがたいことなのだろう。

 だから、ミーナは今日は姫君を伴って来ない。幼い方こそ父君の不在を寂しく思うだろうし、勝手に――マリカ王女からすれば、きっと――増える弟だか妹についても、謝らなければならないと思っていたのだけれど。


 ――でも、少しほっとしてしまっているわね……。


 どうにか朝食を咀嚼した後、侍女たちの手で久しぶりに正装を整えながら、シャスティエは自身の狡さを密かに嗤った。ミーナの訪問を受け入れる気になったのは、許されることが十分期待できると思っているからではないのだろうか。一方で、大人の事情を知らず、しかも母君よりも父君の苛烈な性格を受け継いだマリカ王女は、簡単には側妃を許しはしないと予感してはいないだろうか。


 ――こんなことでは、いけないわ。


 鏡の中の、青白い顔の自分自身を睨んで、言い聞かせる。


 ミーナの優しさに甘えてはならない。たとえあの方は責めなくても、妻子ある男を横から攫った罪に変わりはないのだ。だから、許されないものと思って臨まなければならない。仲裁しようとしてくれるであろう王が同席していないのは、むしろ都合が良いはずだった。守られたり庇われたりすることなく、彼女ひとりであの方と向き合わなければならない。


 イシュテンの王宮の広間でミリアールトの乱を知らされた時。両国の激突を止めるため、グニェーフ伯らを説得した時。鷲の巣城アードラースホルストでアンネミーケ王妃と対峙した時。これまでも震える足を叱咤しながら立ち向かったことは何度かあったけれど。今回は、命の危険など全くないはずなのだけど。ミーナと会うということは、それらの局面のどれよりも、ある意味では恐ろしく気が重いものなのかもしれなかった。




 ひどい顔色が目立たないように化粧を施して、ミーナを迎えた瞬間――でも、シャスティエは自らの覚悟が足りなかったことに気付いた。おっとりと柔らかな笑顔で挨拶をしてくれたのも一瞬のこと、ミーナはシャスティエの膨らんだ腹に目を留めて、表情を強張らせたのだ。


 ティゼンハロム侯爵によって懐妊自体が伏せられていた、フェリツィアの時のようなことはもうないはずだった。でも、ミーナと直接会うのは実に数か月ぶりのこと。たとえ事前に聞いていたとしても、夫が他の女との間に子を生した事実を突きつけられて、快いはずがない。


「あ……ごめんなさい」

「申し訳ございません」


 慌てて述べた謝罪の言葉は、どういう訳かミーナのそれと重なった。シャスティエは腹を隠すように抱え、ミーナは口元を抑えて互いの表情を窺う数秒の後、おずおずと発した言葉もまた、ほぼ同時だった。


「おめでたいことなのに、変な顔をしてしまって……」

「お見苦しい姿をお見せしてしまって……」


 重なり合った声を聞き取って理解するために、また不思議な沈黙が落ちた。間の悪さに思わず口元が緩みそうになるのを必死に堪え、同じく困ったような半端な微笑みを浮かべるミーナと視線を交わす。


 ――どうしよう。


 何事もなかったかのように、型通りの挨拶をしても良いものか。それとも、これを切っ掛けにして謝罪に繋げれば良いのか。毅然として跪くつもりでいたというのに予想外の事態になって、シャスティエは続ける言葉を見失ってしまう。そして結局、我に返ったのはミーナの方が早かった。


「シャスティエ様、どうかそんなことは仰らないで……!」

「ミーナ様、ですが――」


 シャスティエへと伸ばされたミーナの指先が、でも、微かに震えて引っ込められた。かつてはふとした弾みに手を取るようなこともあったのに。互いの立場も思いも変わってしまったのだ、と。そんな小さな仕草にも思い知らされる。


「……王妃様。さぞご不快だろうと、分かってはおりますの」


 王妃を咄嗟に愛称で呼んだことも失態に思えて、シャスティエは硬い声で言い直した。愛称を許された気安さも親しさも、そもそもは人質の身をこの方が哀れんでくれたから。側妃として競う立場になってからも咎められたことはないし、王との会話ではつい以前のように呼んでしまっていたけれど。でも、これも馴れ馴れしすぎる。


 宙に浮いたミーナの手を丁寧に退け、衣装の裾を捌いて、その場に膝をつく。ミリアールトの乱を収めて側妃になることが決まった後、側妃として初めて王妃に会った時にもしたように。この方の唯一の妻の座を奪うことは、あの時の心の底から申し訳なく後ろめたく思っていたはずだけど――それでも、シャスティエは何も分かっていなかった。

 あの時は、王妃と王女から奪うのは王との時間だけだと思っていた。憎い仇と心を通わせることも愛することもあり得ない、ミリアールトの王家の血を繋ぎ、復讐の名をイシュテンの歴史に刻むだけの関係だから、と。


「王妃様と張り合おうなどとは思わない、と申しましたのに。お目汚しにならないよう、御心を煩わせることがないように、と思っておりましたのに」


 だが、何もかもが思ったようには運ばなかった。復讐のための仮初の同盟のはずが、授かった娘は、シャスティエにとって唯一無二の宝物になってしまった。本来なら継承権がない王女など役に立たないと思っても良かったのに。そして、その父である王を憎み続けることも難しくなった。薄々と気付かされていたことではあったけれど、王と歩む道こそが、我が子のためにも祖国のためにも最善であると信じるようになってしまっていた。


 そしていつの間にか王に心を許し、王からも――多分――心を寄せられて。イシュテンの情勢を考えれば危ういことだと知りつつも、ミリアールトの民や臣下の心を踏み躙ることを恐れつつも、その心を、手放したくないと思うようになっていたのだ。


「私は、陛下が――」


 王は、隠し事を重ねた彼女を許してくれた。祖国は、グニェーフ伯がその命をもって怒りと憎しみを鎮めてくれた、のかもしれない。王がこの先ミリアールトを粗略に扱うことはないだろうし、シャスティエとしても祖国のために王への進言と諫言は怠らないつもりだ。

 でも、どう自らを誤魔化しても、目の前の王妃に対して夫を分けてくれというのは難しかった。言わなければならないと――どれほど厚顔と思われようとも、そこまでしてでも夫と共にありたいと思っていたのに。


 シャスティエが跪いた姿で舌を凍らせていたのは、ほんの数秒のことだっただろう。王妃の前で王を愛しているなどとは、どうしても口にすることができなくて。ただ、整った眉を軽く顰めるミーナを、見上げることしかできなかった。やはり、許されないことなのかと思って――でも、ミーナの表情が不快ゆえのものではないと、すぐに知らされることになった。


「シャスティエ様、いけません。ちゃんと座って――皆、お願い」


 妃ふたりの挙動を見守って凍り付いていたのは侍女たちも同じだった。ミーナはシャスティエの傍らに膝をつきながら、彼女たちに命じたのだ。それを切っ掛けに、シャスティエは何本もの手に支えられて助け起こされることになった。


「は、はい」

「クリャースタ様、こちらへ――」

「でも、私は――」

「御子様のことをお考えになってくださいませ」


 抗おうとしても今のシャスティエに力はないし、胎児を持ち出して叱られれば黙るしかない。だから、ということになるのか――気付けば、シャスティエはミーナと並んで長椅子に座らせられていた。考えてもいなかった親しげな近さに、戸惑いは深まる一方だ。


 ――これでは、ただのお茶会みたい……。


 胎児に影響はないという茶葉の香りと、温かい湯気。作りたての菓子の甘い匂い。ミーナをもてなすためだけに用意していたはずなのに、ちゃっかりとシャスティエの前にも出されている。長椅子の柔らかさと茶菓の香りに緊張と不安がほぐれるのが分かるけれど、シャスティエにとってそれは決して喜ばしいことではない。まだ肝心のことを何ひとつ言えていないのに、こんな和やかな雰囲気になってしまっては困る。


 茶器を手の中でいらえながら、そっとミーナの横顔を窺う。ただの見舞いで会いに来てくださった訳でもないだろうに、目を伏せて茶を味わう穏やかな微笑みからは、内心を読み取ることができなかった。それに、会話の糸口を探すことも。


 だから、シャスティエは結局自分から口を開くことができなくて――また、ミーナに切り出させてしまう。

 かちゃ、と。茶器が立てる硬い音が、シャスティエにとっては剣を鳴らす音にも聞こえた。ミーナが告げることは、どんな刃よりも鋭く彼女を責めるのだろうと覚悟していたから。


「シャスティエ様は、ファルカス様のことがお好きなのね……?」

「は……い。あの、厚かましいこととは存じておりますが――」


 核心を突く問いかけは、やはりシャスティエの胸に深く刺さった。ミーナがいつも通りの柔らかな微笑みを浮かべているのが一層怖くて、視線を逸らさないためには全身に力を込めなければならなかった。だって、心からの笑顔のはずがない。シャスティエの存在と思いを認めるのは、この方にとっても辛いことのはず。言いづらいからといってミーナに言わせてしまったのはどう考えても卑怯なことにほかならない。


 かつて王やグニェーフ伯らを説得した時は、どこからどのように言葉を見つけてきていたのだろう。しどろもどろになるシャスティエに更に微笑んでから、ミーナはふと声を低めた。


「……従弟の方に悲しいことがあったと聞きました。それでも……?」

「それは……」


 今度の問いかけが抉った傷は、最初のものよりもずっと深かった。レフのことを、ミーナも聞い及んでいるのだ。肉親を殺した相手でも、まだ思いを寄せるのか、と。情の薄さを責められたと思ってシャスティエは心臓を雪のコロレファ女王・シュネガの氷の手で掴まれたような感覚を味わった。


「……はい。それでも。あの方と共に生きていきたいと思いました……!」

「そう……」


 まるで、剣で脅されて罪を告白するかのような心地だった。否、言わなければならない真実なのだからそのように思うのは間違いなのだけれど。この期に及んで心を偽ることなど、思ってもいないことだけど。はっきりと言葉にしてしまうと、自身がいかに多くを望んでいるかを思い知らされるようで打ちのめされる。

 ミーナに何を言われるのかが恐ろしくて、判決を待つ罪人のように息を詰めて待つ。すると――


「良かった……!」

「え……?」


 あまりにも曇りなく朗らかなミーナの声に、シャスティエは呆気に取られた。ぽかんと口を開けて見るミーナの表情も、不快など微塵も読み取ることができない晴れやかな笑顔だった。


「あの……どういうことでしょうか……」


 都合の良い幻でも見ているのか、と思って瞬きをしてみても、ミーナの優しい瞳が見返してくるだけ。でも、現実のことだとしても、どういう意味なのかさっぱり見当もつかなかった。何かしらの期待を持っても良いのか、それとも、ミーナは無理をして笑っているのか。戸惑い眉を顰めるシャスティエに、ミーナは少し顔を近づけて囁いた。


「何があっても好きでいられるというのは、私にとってはとても心強いことなの」

「あ……」


 背丈の差からくる陰翳によるものだけでなく、ミーナの笑みに苦い翳りが過ぎっていた。その理由は、今ならさすがに察することができる。


 王はティゼンハロム侯爵を――ミーナの父を討つ準備を着々と整えている。ブレンクラーレと内通している証拠も押さえた今となっては、侯爵の味方はごく少ないのだろう。だから、ミーナも近い将来シャスティエと同じ思いを――愛する人を愛する人が殺す悲嘆を、味わうことになるのだ。何があっても変わらない愛と言えば聞こえは良いけれど、思い続けるということは決して楽なことでも、喜ばしいだけのことでもないのだ。


「だから私、シャスティエ様がいてくださって良かったと思うの。ひとりだけでは、ないから……」


 ――ああ、ミーナ様……。


 先ほどまでの、ひとりよがりなものとは違った痛みがシャスティエの胸を刺した。


 愛する人の無事を祈りながら、肉親の悲報を待たなければならないこと。肉親の罪を諫めることができなかったこと。自らだけが無事に生き永らえること。シャスティエが味わった心痛は、間もなくミーナのものにもなるのだ。


「ミーナ様……」


 無為に呼び掛けてはみたものの、慰めの言葉のひとつやふたつでは何の気休めにもならないことはシャスティエ自身がよく知っている。せめて手を触れても良いのかどうか――迷ううちに、ミーナの顔がくしゃりと歪んだ。


「ああ、でもそんなことだけではなくて……。本当に、シャスティエ様に感謝しているの。貴女がいなければ気付けなかったことが沢山あるから……」

「ありがとうございます。私も、ミーナ様の優しさに何度救われたことか……!」


 顔を覆うミーナに、今度こそ自然に触れて、自然に言葉を紡ぐことができた。シャスティエが憎しみだけに囚われることがなかったのは、この方のお陰――計り知れない優しさと無邪気さで、心を溶かしてくれたからなのだ。

 後ろめたさや罪悪感はもちろん、嫉妬も――少しは、あるかもしれない。でもこの方への思いで真っ先に来るのは、何よりも感謝だ。ミーナの方も、側妃を不快に思うだけではないのだと、信じても良いのだろうか。


「ファルカス様は、もうすぐ行ってしまわれるのね……」

「はい。一緒にご無事を祈ってお待ちしましょう」


 勝利を祈って、とは言えなかった。それではあまりにもティゼンハロム侯爵の最期を思わせてしまう。ミーナの手を取ると、内心の不安を伝えてくるかのように強い力で握り返された。


「ご無事を、常に願っているの。でも、ちゃんとお伝えできているか――」

「私も、笑顔でお迎えすることはできませんでした。それでも分かってくださいました」


 シャスティエの気の強さはミーナにはなく、ミーナの優しさはシャスティエにはない――似たところのないふたりだと思っていた。でも、夫への愛と肉親への情で引き裂かれる思いは同じだった。だから寄り添うこともできるはずだった。その意味でだけなら、シャスティエはいても良い、のかもしれない。


 侍女たちも無言のうちに見守ってくれる中、ふたりは抱き合うようにして長く過ごした。

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