第12話 罪を負って行く道 シャスティエ

 イシュテンの王宮に入り、再び馴染んだ離宮に落ち着いたシャスティエは、よく食べて良く眠ることに注心していた。本来ならば、取り立てて心掛けるまでもなく人が生きるのに必要なこと、当たり前のことなのだろうけれど。今の彼女には、たったそれだけのことがひどく難しく思えてならなかった。


 ブレンクラーレからの帰路でも、すでにそうだった。レフと王に対しての後ろめたさに、息をしていることさえ罪深いと感じてしまっていた。胎の子を無事にこの地上に届けること、フェリツィアと再び会うことを、縋る杖のように心の支えにしてここまで辿り着いたのだけど。胎児を守り切ることができたこと、久しぶりに抱いた我が子の温もりは――見知らぬ他人に襲われでもしたかのように大泣きされたのは悲しかったとはいえ――、確かに愛しく誇らしいものではあったけれど。


 イシュテンに辿り着いて、シャスティエは己の罪をまた幾つも思い知らされたのだ。彼女が負う罪はあまりに多く、しかも償う術さえ分からない。それでも夫や子供に会えば嬉しいと思い、共にあることを願ってしまうのだから勝手なものだ。


「……クリャースタ様。もう、お下げいたしましょうか……?」

「いいえ。まだ全然食べていないから……」


 溜息と共に食器を置いたシャスティエに、グルーシャが気遣う声を掛けてきた。甘く味をつけた粥に、スープを数種類。肉や魚は少量、でも香辛料で味付けを工夫して。主の食が少しでも進むようにと、朝から離宮の者たちは心を尽くしてくれている。なのに思うように口と手を動かすことができないこともまた、心苦しくてならなかった。


 ――まだ私を案じてくれるなんて。


 この侍女に対しても、シャスティエは後ろめたさを負っている。彼女の婚家名を呼ぶ時にグルーシャが一瞬躊躇ったのは、その意味を知ったからだろう。復讐を誓う、などと。不吉な名を知ったからには、これまでのようにその名をにこやかに口にするのは難しいはず。


 シャスティエが賢しげに考えた復讐の顛末のひとつが、これだ。

 グルーシャは家のために彼女に忠誠を誓ってくれたのに。その忠誠を裏切るような意味の名で呼ばせることを、ずっと強いてしまっていたのだ。彼女の帰還を喜んでくれたグルーシャに、その裏切りを打ち明けた時は、自身の図々しさに消え入りたい思いがしたものだ。驚きに見開かれた目が、今にも非難と怒りに染まるのではないかと思うと恐ろしくて。――でも、グルーシャは許してくれた。夫や弟と共に、これからも変わらずシャスティエと子供たちに仕えてくれるのだと。


『グルーシャ、という言葉に悪い意味はないの。本当よ……』

『はい。存じておりますわ』


 恐る恐る告げた時の笑みも、穏やかな優しいものだった。でも、その内心が同じく安らかだったとは、シャスティエには到底信じ切ることができない。辞書を引けばわかる、などというものではないだろう。イシュテンの女にとって婚家名は大切なもの。グルーシャの結婚に、シャスティエは影を落としてしまったのだ。


 ――私は愚かだった。何も分かっていなかった。


 復讐は王のため、などという言い訳も、信じてくれたとは思えない。それならば最初から隠す必要などなかったのだから。シャスティエがイシュテンと王に対して悪意があったことは、多分見透かされてしまっている。その上でグルーシャは気付かない振りをすることを選んでくれた。その寛容と優しさをかつてのシャスティエが持っていたなら、何かが変わっていただろうか。


 復讐を意味する婚家名を名乗る――その案がなければ、あのミリアールトの乱をほぼ無血で収めることなどできなかったかもしれないけれど。ミリアールトの女王がイシュテンの側妃となって血脈を繋ぐ、それだけでは祖国の諸侯らが剣を収めてはくれなかったかもしれないけれど。特にグニェーフ伯などは、シャスティエの身を案じて頑強に反対したに違いないのだ。


 ――ああ、小父様……!


 もう会えない方の姿を脳裏に呼び起こして、シャスティエはひと際深く重い息を吐いた。手指の力の加減さえおぼつかなくて、食器が耳障りな音を立ててしまう。目眩だか貧血だかで倒れる前兆にでも見えたのかもしれない、グルーシャが慌てて駆け寄ってくるのが俯いた視界の端に見えた。


「クリャースタ様、お加減が……!?」

「いいえ大丈夫。……少し、思い出していただけなの」


 何を、とは言わずとも良いだろう。イシュテンに来て以来、楽しいこと嬉しいことが全くなかった訳ではないけれど――何より娘がいるし――シャスティエの歪んだ顔を見れば、心を過ぎったのがどのようなことかは分かるはずだった。ふとしたはずみでシャスティエが涙ぐんでしまうのは、離宮に戻ってからだけでなく、黒松館にいる頃からもよくあることではあったし。

 あの頃と今とでは、不安の種類は全く違っているけれど。身に迫った危険の少ない――少なくとも、ティゼンハロム侯爵はかつてなく追い詰められていると聞いた――今、このように取り乱して周囲を煩わせたくはないけれど。でも、シャスティエの身体は、必ずしも彼女の意思を汲んで従ってくれないのだ。


「まだお時間もありますし、温め直すことも、違うものを出すこともできますわ。後は……甘いものでも。召し上がれそうなものがありましたらお申し付けくださいませ」

「ええ、ありがとう。もう少し、頑張ってみるわ」


 だから、グルーシャもある意味慣れたもので、シャスティエの心の中にまで踏み込もうとはしてこない。少し離れたところから見守る距離感を嬉しくありがたく思いながら、シャスティエは再び朝食に向き合った。


 相変わらず食欲はないし、食を楽しんではいけないという思いは拭えないけれど。彼女は、生きて行かなければならないのだ。我が子たちのため、夫のために。それに、彼女のために斃れた人たちのためにも。




 シャスティエを見下ろす夫の目がひどく真剣で、それに痛ましいものを見る表情を帯びていたから、嫌な予感はしていたのだ。

 離宮に戻った翌日、ティゼンハロム侯爵討伐のために多忙を極めるであろう夫が、わざわざ時間を割いて彼女に会いにきてくれた時のことだ。レフの死の後のひどい態度にも拘わらず、まだ夫の傍にいて良いと分かって、喜んで――でも、夫の要件はそれだけではなかったと、すぐに分かってしまったのだ。


 落ち着いて聞け、と大げさなほどに念を押して。眉を顰めたシャスティエを抱いて、胎児を気遣うように膨らんだ腹に掌を置きながら。夫はごく端的に告げた。イルレシュ伯が亡くなった、と。


『小父様が……!? そんな、どうして……一体、いつ……!?』


 夫の気遣いも道理だった。驚きと衝撃が胎の子に及ぼす影響を恐れて、シャスティエも夫の手に自らのそれを重ねた。鼓動が早まると同時に子宮がる痛みに、子供を失う恐怖がまた迫って背を冷汗が伝った。夫が一層強く抱きしめてくれたことで、辛うじて恐慌に陥ることはなかったけれど。でも、夫の腕の中に収まるということは、間近に囁かれる言葉から耳を塞ぐことができないということでもあった。


 愛しく心地良いはずの夫の体温に包まれながら、シャスティエは愛する人の声を絶望して聞いた。


『お前が戻ったのとほぼ同時に、ミリアールトから使者が来たのだ。イルレシュ伯にはあの者――お前の肉親の遺体を祖国に返す命を与えていたのは知っているな。お前の叔母でもあるシグリーン公爵夫人の邸宅で、伯は倒れたのだと伝えられた』

『小父様がお倒れに……お元気そうだったのに……』


 最初に浮かんだのは、度重なる長旅と戦いのせいだろうか、という思いだった。グニェーフ伯――イシュテンでの称号がどうであれ、シャスティエにとってあの方は祖国での爵位が馴染み深い――が武人として頑健な肉体を誇るとはいえ、あの老齢だ。だから、彼女のためにミリアールトからイシュテンへ、イシュテンから更にブレンクラーレへと流れさせたのがついに祟ったのだろうか、と。


 ――私のせいで……。


『老体に長旅を命じたことについては俺にも責がある。とはいえ、ミリアールトはあの者の祖国でもあった。遺体は遺族に引き取られて手厚く葬られるとのこと――あの者も、これで満足したかもしれぬ』

『そんなこと……っ』


 唇を噛んで俯いたシャスティエの髪を梳きながら、王は慰めるように言ってくれた。大した気休めにはならなかったけれど。グニェーフ伯の子女や孫たちとは、シャスティエも面識がある。遺族のことを言うなら、彼女があの方の関心を独占してはならなかったのだ。

 でも、シャスティエが自らを責めるのはまだ早かったのだ。相変わらずシャスティエの顔を痛ましげに見つめ、躊躇うように唇を舐め。胎児の無事を案じ、確かめるように彼女の腹の膨らみに手を添えて。それでも王は、思い切ったように口を開いた。


『――と、いうのが表向きの筋書きなのだが』

『え……?』


 王の言葉の意味を捉えかねて――あるいは、理解したくなくて。ぽかんと口を開いて絶句したシャスティエの耳を、王の言葉がすり抜けて行った。


 グニェーフ伯は、シグリーン公爵夫人――レフの母君で、シャスティエのために夫と息子のことごとくを失った方――に毒を盛られた可能性が非常に高い。公爵邸を訪れる直前に、王が派遣した総督と会った際は健康そのものに見えたこと。それに、公爵夫人らが倒れた伯爵に医者を呼ぶ気配を全く見せず、ただその死を報告しただけだったのが証拠だという。伯爵の遺体も、総督の要求に反してイシュテンの者たちによって検められることはできなかった。毒の痕跡を暴く機会は得られないまま、ミリアールトに長く仕えた忠臣の肉体は、密やかに埋葬されてしまったのだ。


『その点については、肉親の死を辱められたくないという遺族の意向もあったというが』

『……シグリーン公爵家を恐れたからではないのでしょうか。だって、小父様は……』


 イシュテンの王の命に従って、ミリアールト語を禁じる政策に助力した。倒れた――毒を盛られた――その時も、イシュテン王によってを刎ねられたミリアールトの王族の首を携えていた。グニェーフ伯が公爵夫人に――シャスティエの叔母に、憎まれていることは十分に考えられる。そしてシャスティエが不在の今、シグリーン公爵家はミリアールトでもっとも王家に近い家。叔母が命じれば、再びイシュテンとミリアールトとの間に戦いが起きてもおかしくはない。


『でも、それなら、私が行かなければいけなかった……!』

『違う。お前の従弟には死に値する罪があった。そしてそもそもミリアールトの滅亡は俺のしたこと。お前が祖国に責められる謂れなどない』

『いいえ! そんなこと!』


 シャスティエが声の限りに叫んでも、興奮のあまりに拳を振り回しても、王の腕が緩むことはなかった。もともと力の差は歴然としていたけれど、囚われの日々とブレンクラーレからの長い旅を経て、彼女の心身は弱り切っていたのだ。だから、結果としてはシャスティエは暴れて自身や胎児を傷つけることなどなく、ただ夫の言葉に聞き入ることしかできなかった。


『……シグリーン公爵夫人は公的には何も言わず、夫と息子たちの死を悼む日々を送っているとか。伯爵の命で全てを収めるとの意思表示だろうとは、総督のエルマーの見解だ。正直に言って、リカードと戦う背後を気にせずとも良いのは、俺にとっても都合が良い』

『はい。それは分かります……』

『伯爵の名誉のためにもなろう。祖国の者に殺されたと語られるよりは、最後まで与えられた命を全うしたと……』

『……はい』


 グニェーフ伯の死は、本来ならば誰からも悼まれ悲しまれ、惜しまれるべきもののはずだった。祖国への裏切りとも見做される行いに手を染めず、王族レフの死に関わることがなかったなら。尊敬されるべき武人の名誉は、シャスティエのために損なわれたのだと思えてならない。――でも、全てが遅い今となっては、彼女には頷くことしかできなかった。


『少なくとも、これでブレンクラーレに続いてミリアールトとの国境を気にする必要もなくなった。今度こそリカードを追い詰め、討つ。そして、お前たちが心安らかに過ごせるようにする。それが、俺にできるせめてもの償いになるだろう』


 シャスティエが心から納得していないことは、王の服を握る指の力や強張った身体からも伝わってしまっていただろう。けれど王の言葉はあくまでも優しく、彼女を慰め励ますものだった。だから、後ろめたさを感じながら――それでも、シャスティエは嬉しいと思ってしまったのだ。




 夫と子供たちのためにも、生きなければいけないのは分かっている。でも、朝食をひと口ずつゆっくりと咀嚼しながらも、シャスティエの胸はずっと罪の意識に苛まれている。


 ――叔母様にも、申し訳ない……。


 シグリーン公爵夫人は、単に叔母というだけでなく、ほとんど母親代わりのように育ててくれた方。かつてはグニェーフ伯を敬愛していたことも、シャスティエはよく知っている。レフたち兄弟に対する愛情のこもった目も、柔らかな声も優美な仕草も。もともとは優しい方だったのに、憎しみに囚われて復讐という不毛な手段に訴えてしまった。それもまた、シャスティエのせいだと思う。彼女が名乗ったクリャースタ復讐のメーシェ誓いという婚家名は、叔母にも届いていただろうから。


 シャスティエのちっぽけな矜持を満足させるために、一体どれほどの不幸と憎しみを生み出してしまったのだろう。そう思うと、生きていてはいけないのではないかとさえ思えてしまうけれど。でも――


 ――王は……ファルカス様は、共にいて良いと言ってくださった……!


 密かに裏切り、厄介ごとばかりを呼び込んだ妃だというのに。娘や、生まれてもいない子供ともども守ってくれると言ってくれた。だから――罪の重さに足を引きずりながらでも、進んでいかなければならないと思えるようになったのだ。たとえどれほど図々しく浅ましい願いだったとしても、自身を見下げ果てたくなるとしても。夫はそれを許してくれるという。シャスティエも、夫や子供との幸せを諦められない。

 だから、少しずつでも前を向いていかなければ。


「そろそろ、お衣装だけでも選び始めましょうか……?」

「ええ、そうね。髪型も考え始めなければ」


 今日は、そのための第一歩になるだろう。シャスティエの帰還の報せを聞いて、ミーナが見舞いに来てくれるというのだ。王は同席できないのをすまながっていたけれど、これは女同士で話さなければならないことだ。

 まずは、黒松館でのこととブレンクラーレ遠征で、あの方から夫を奪ってしまったことを詫びなければ。そしてもしも許されたなら、――これもまた図々しいことこの上ない望みを、あの方に打ち明けなければならない。後から現れた側妃の癖に、王妃と共に王の傍らにありたい、などと。本当に、考えるだけで頬が熱くなるのが分かるほどなのだけど。


 ――でも、やってみなくては。


 今から逃げたところで、既に起きたことは変えられないのだから。だから、未来には少しでも悔いることが少ないように。逃げることなく、自ら選んで掴んだ結果だと誇れるように。復讐のためではなく、幸せのために――進んでいこうと思うのだ。

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