第11話 妻との再会 ファルカス
ファルカスがミリアールトの使者と会っている間に、シャスティエはかつて住まっていた離宮に落ち着いたとのことだった。夫として付き添ってやりたいのは山々だったが、使者たちにはすぐ会うと言ってしまった手前、王が言葉を翻す訳にはいかなかった。それに、離宮の方からも男には見せるべきでない支度が諸々あるからとのことで、侍女たちからもやんわりと来るなと釘を刺された。
だから、ファルカスが久しぶりにふたり目の妻の姿を見ることができたのは、到着の報せを聞いた翌日のことだった。
――間に合って、良かった、のか……?
フェリツィアといる時にアンドラーシが示唆した通り、兵を動かさずにシャスティエを待つことができるのは、せいぜいが数日というところだった。それ以上静観の構えを見せようものなら、諸侯にも兵にも王の弱気を不満に思う者が出始めていたことだろう。そしてそのような士気の乱れは、戦いにおいて必ず不利に働くものだ。
だから、この数日のうちにシャスティエが到着しなければ、彼は妻と会うことなく戦場に赴くつもりだった。ブレンクラーレとの国境から王都までの路に危険は比較的少なく、身重の身体が心配だとはいえ彼に何ができる訳でもないのだから。世継ぎかもしれない胎児の安否は、どんな報告にも優先されて前線に届けられることだろうし。妻とまた会うためにも勝つこと――生き残ることに専心すれば良いのだ、と半ば以上覚悟していたところでさえあった。
だが、シャスティエは間に合った。――実のところ、そのことを手放しで喜んでいるのかどうか、彼自身にも分からないのだが。
シャスティエと直接言葉を交わしたのは、ブレンクラーレ王都での戦いが終わった直後だった。彼が、シャスティエの従弟を殺した直後ということでもある。最後の肉親の命が摘み取られたのを知って涙を流す妻を前に、ファルカスはろくに慰めの言葉をかけることもできなかった。彼自身が妻の悲しみの原因だというのに、一体何を言えば良いというのか。ミーナに説かれて、憎まれているだけではないかもしれないとは思えるようになったものの――シャスティエと語るべき言葉は、まだ見つからないままだ。
それでも、シャスティエと会わないという選択肢はあり得ない。少しでも心を近づけておきたいと願うから、というのは当然のこと。会わずに戦場に発って、彼または相手に万一のことが起きた場合を恐れるのももちろんだが――何よりも、ミリアールトからの報せでそう決意した。
シャスティエが心から信頼を寄せていた老臣の訃報を伝えるのは、やはり彼以外に任せてはならないだろう。
――あの男は、どうしても俺をあの女と向き合わせたいのだな……。
もはや地上のどこにもいない氷の色の目を思い浮かべると、ファルカスの唇は苦く歪んだ。そして、まるであの眼差しに背を押されるかのように、彼は側妃の離宮へと足を向けた。
離宮の建物に入ると、アンドラーシの妻のグルーシャがまず王を出迎えた。
「クリャースタ様は寝室にいらっしゃいます。非礼とは存じますが、起き上がらずにお話していただくことになりますが……」
「そんなに悪いのか。ならば無理をせずとも――」
ファルカスが声を上げたのは、まずはもちろん心配のため。そして、心の片隅に、不調を理由に踵を返してしまおうか、という卑怯な期待を抱いてしまったからだった。
だが、グルーシャはゆるゆると首を振った。
「旅のお疲れでしょう、微熱がおありです。それは、御子のためにも安静にされていなければならないのですが――陛下にお会いしたいとの仰せです。……今を逃せば、次はいつになるかわかりませんから」
「……そうだな」
侍女たちから状況を教えられたのか、あるいは元からの知性ゆえか。彼の妻は、夫に時間がないことをよく承知しているらしい。それを踏まえて、今会っておきたいと願っているというのは、彼にとっては朗報だと信じて良いのだろうか。
「手短に済ませた方が良いのだろうな」
「ご多忙の折とは重々承知しておりますが、どうかあの方のお心を安らがせて差し上げてくださいますように」
ファルカスが確かめるように問うた言葉に、グルーシャは明確には答えなかった。ただ腰を折って深々と頭を垂れ、乞うように述べる。
――それほどに弱っているのか……当然のことではあるが……。
侍女の態度と言葉は、ただでさえ軽いとはいえない彼の心と足取りを、一層重くしたのだった。
主がいない間も、使用人たちは部屋の手入れを怠らなかったのだろう。側妃の寝室は埃っぽいということもなく、開いた窓からは明るい陽光が降り注いでいた。もちろん室内はしっかりと暖められているから、外の冷気によって寒さを感じることなどなく、日差しの匂いがただ心地良いだけだ。
そして清潔に整えられた寝台の上に、シャスティエは半身を起こして彼を待っていた。碧の目が彼の姿を捉えて、微かに笑む。
「陛下……。申し訳ございません、こんな格好で」
「構わない」
心身を休めなければいけない時だろうに、彼の訪れのために髪や化粧を整えてくれたのは分かっている。どうして咎めようなどと考えるものか。起き上がろうとするシャスティエを手で留めながら、久しぶりに聞く声に胸が熱くなるのを感じながら、ファルカスは大股に寝台へと歩み寄った。
「よく無事に帰った。元気そうで何よりだ」
寝台の脇に用意された椅子に掛けながらの言葉には、嘘が混じっている。シャスティエは、ブレンクラーレで最後に見た時よりも明らかにひと回り痩せていたのだ。頬に赤味はあるものの、微熱のためだと聞かされているから何ら安心の材料になりはしない。痩せ衰えてもなお、妻の美貌は変わらないのだが――触れれば壊れてしまいそうな儚さは増した気がして、再会の喜びよりも痛ましいという思いの方が強かった。
「はい。この子を守ることができたこと、誇らしく思っておりますわ」
寝具で覆った上からでも明らかに分かる胎の膨らみを愛しげに撫でながら、シャスティエは口元を緩ませた。その優しく柔らかな表情は、かつてフェリツィアに向けられ、そして彼の心を動かしたものと何も変わることがなかった。
「フェリツィアには、もう会ったか?」
「……はい。泣かせてしまいましたが……」
だが、娘の名を聞いた途端、シャスティエの顔は曇ってしまった。碧い目が潤むのを見るに、フェリツィアは――父と同様に――母の腕の感触を忘れてしまっていたらしい。黒松館では、フェリツィアは母が抱けばすぐ泣き止んでいたし、母の方でもそれを自慢に思っている風があった。だから、娘の裏切りのような拒絶に、シャスティエはひどく傷つき悲しんだのだろう。
「俺もひどく泣かれたのだ。あれほど慈しんだ母のことだ、すぐに思い出すだろう」
「はい。そうだと良いと思います。――ありがとう、ございます……」
慰めようとして伸ばした手を、しかし、妻の髪に触れる前に引っ込める。金糸を思わせる輝きがやや褪せているように思えて痛ましく、彼には触れてはならないように思えたのだ。目を伏せた俯いたシャスティエは、彼の手を待っているようにも見えなくはないが。――だが、まだ分からない。今の妻の心を、きちんと聞いてからでなくては。
「……ろくに話すこともできず置き去りにしてしまった。すまなかった」
居住まいを正し、碧い目を覗き込みながら、告げる。堂々と怖じることなく伝えようと思っても、内心の忸怩たる思いを抑えきることなどできなかったが。
――妻に対して詫びることばかりだな、俺は。
ミーナに対しても、シャスティエに対しても。国のために、あるいは王として避けられないこともあったが、これまでいかに妻たちの心を蔑ろにしてきたかの証左でもある。夫婦であるということだけに安心しきって、妻たちは常に、当然のように傍にいるものと考えてきたのだ。だから今になって妻を失う恐怖に気付いて怯えている。男として夫として、全く情けない限りだった。
とにかく、彼には珍しい殊勝な言葉は怪訝に聞こえたことだろう。シャスティエは戸惑ったように目を瞬かせた。ファルカスの顔をじっくりと眺めた後、その視線は窓の外へ、次いでまるく膨らんだ腹へと彷徨い、そしてまた彼のもとへと帰って来る。
「いいえ。そもそもこの大事な時に国を空けることになったのは私のせいです。ティゼンハロム侯爵の動向を懸念されたのは当然のことですわ」
答えを迷ったであろう末に、夫を慮る言葉を選んでくれた妻はやはり優しい。だが、それに甘えるばかりではいられない。――というより、ファルカスは自身がまだ体裁を取り繕うとしていたことに気付いた。
「いや、国のためだけではない。俺はお前から逃げたのだ」
「逃げた……? 陛下が……?」
不思議そうに首を傾げるシャスティエを、抱きしめたいという衝動と戦うために、ファルカスは膝の上で拳を握った。まだ、彼が許されているかどうかは分からないのだ。
「お前に憎まれたと思ったのだ。だからそれをはっきりと確かめたくなかった。軍の指揮とイシュテンの動静を口実に、お前には会えないと自身に言い聞かせていた。――言い訳に過ぎなかったのだ。さぞ不安な想いをさせただろうし……否、そもそも……お前の、従弟のことを――」
「それこそ仕方のないことですわ」
殺した、という言葉を聞きたくなかったのか――ファルカスとしても言いづらかったが――、シャスティエは口早に遮ってきた。腹を庇いながら彼の方へぐいと身体を乗り出そうとするのを留めると、ファルカスの鼻先に甘い香りが漂った。昨日のうちに、旅の汚れを落とし肌や髪の手入れを行っていたのだろう。恐らくは、彼と会うために。
碧い目に長い睫毛、色褪せてかさかさとしてはいても形良い唇。それらを間近に見て思わず息を呑む隙に、シャスティエは続ける。
「謝らなければならないのは私の方……! レフは、決して許されてはならないと分かっていたのに。万に一つでも逃げてくれるのではないかと、心の片隅で期待してしまっていたのです」
ふと手に温かいものが触れたのを感じて目を落とせば、シャスティエの手が彼のそれに重ねられていた。本人は気付いているのかいないのか、必死な声で訴え続けているのだが。――必死さを伝えるのは、声や言葉よりも、肌で感じる温もりと指先の力、かもしれないが。
「陛下。私は何よりもまず陛下のご無事を喜んで勝利を祝わなければならなかったのに。それができなかったから、さぞ失望なさったと思っておりました。お会いできなくて確かに不安でしたけれど、同時に少しだけ安堵もしてしまったのです。……陛下の御心を、確かめなくても済むから……」
――俺と、同じことを……?
相手の心を知るのが怖いから、会おうとしなかった。それはまさに、ファルカスの考えたことそのものだ。実際に会うことができたのにそれをしなかった彼と、待つしかなかったシャスティエでは、もちろん彼ばかりに咎があるが。お互いに同じように負い目を感じていたこの構図は、かつて彼らふたりが演じたことがあるものだ。
「あの夜を、思い出すな……」
「……
「そうだ。どうも我らはお互いを信じ切れぬらしい」
彼が漏らしたひと言にシャスティエの頬の赤味が増したのは、熱や興奮のためだけではないだろう。あの夜――ふたりの心がかつてなく近づいたはず夜のことを、妻も思い出してくれたのだ。ミリアールトを滅ぼした上に言葉まで奪ったファルカスと、復讐の誓いを婚家名に秘めて従弟を庇っていたシャスティエと。お互いが相手に許されるはずがないと思っていた。愛されることなど望むべくもないと決め込んでいた。
「だって……あまりにも色々なことがありましたから……」
「そうだな」
それでも、あの夜彼らふたりは許し合うことができたはずだった。憎しみも
「だが、俺の心はあの夜と変わっていない。……お前の、方は?」
彼の方からそう尋ねるのには勇気が要った。彼が妻から奪ったものはあまりにも多い。なのにまだ去って欲しくないと願うのは、ひどく図々しいとしか思えなかった。だが、言わなければならないことだ。言葉にしていない想いは伝わらないと、たった今も思い知らされたばかりだ。
「あの……それは……」
シャスティエもまた、すぐに言葉を紡ぐのを躊躇った。婚家名を呼ばれる度に復讐を思い出させられていた女のこと、まだ幸せを望むのは許されないと思っているのだろうか。だが、ファルカスのそれと重ねられた手が離れることはない。それどころか、離れがたいとでも言うように細く白い指は彼の肌をなぞる。その仕草自体が、ほとんど答えのようなものではあったが――
「私も、です。陛下と共に進むことができれば……!」
震える声が、それでもはっきりと言い切ったのを聞いて初めて、ファルカスは妻の身体を抱きしめた。もちろん胎児を守る胎を憚って、力は加減して。始めは驚いたように硬直していたシャスティエも、やがて力を抜いて頭を彼の胸に預けてくれる。温かさと心地良い重さと、いずれも懐かしく愛しくて彼の胸を締め付ける。苦しいほどの感情の揺れ――だが、これは喜びによるものだ。彼はまだ、こちらの妻とも一緒にいることができるのだ。
「また、名で呼んでくれはしないのか?」
実は、先ほどから気になっていた。妻が彼を呼ぶのが、名ではなく称号に戻ってしまっていることが。図々しいついでに、と強請ってみると、困ったような吐息が彼の腕に零れた。
「……ミーナ様のお許しがあれば。私は、ミーナ様とマリカ様にも許しを乞わなければなりませんもの」
「そうか。そうだな……」
ふたりの妻たちの仲立ちをして、お互いの不満と衝突を避けること。それもまた、彼が怠ってきたことのひとつだった。思い返せば、シャスティエが初めて彼の名を呼んでくれたのは黒松館でのこと。娘を案じる不安のあまりに心の均衡を著しく欠いていた時に、なし崩しでのことだった。ファルカスとしても、片方の妻ばかりに心を傾け過ぎたのは誤りだった。
――出陣の前に時間を取らなければな。
ミーナとシャスティエと、できればマリカを交えて会う席を設けたい。シャスティエの体調が許せばの話になるが。そして、ふたりの妻とそれぞれの子供たちとどのように過ごしていくか、少しでも話し合うことができれば良い。これまでとは違って、誰かが心を殺すことなどないように。リカードさえ斃すことができたなら、それは決して叶わない未来ではないと思うのだ。
束の間、ファルカスは美しく幸せな未来の夢に溺れかける――が、その前に言わなければならないことがあった。彼に身体を委ねてくれる妻を、またも悲しませなければならないのだ。できることなら、言わずに済ませたい。そう思ってしまうほど、このひと時は甘美なものなのだが。
――だが、隠し通すことなどできまい。
彼とシャスティエの心がすれ違ったのは、お互いに秘密を持とうとしたからでもあった。必ずしも悪意あってのことでなくても、事実を隠せばまた心が離れる理由にもなるだろう。何より、ただでさえ辛い事実を、知らずに過ごしたという一事が妻を傷つけるに違いないのだ。
「シャスティエ。お前の到着と同時に、ミリアールトからも報せが来たのだ。落ち着いて、聞いてくれるか……?」
だから、言うなら今しかない。碧い目が無心に見上げてくるのを痛いほどに感じながら、ファルカスはシャスティエの顔を覗き込んだ。
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