第10話 ふたつの報せ アンドラーシ

 実の父に抱かれている間は火がついたように泣いていたフェリツィア王女は、アンドラーシの腕に落ち着くなり声を弱めた。赤子にはまだ身体を思うように操ることができないのか、しきりにしゃくりあげて顔を顰めてはいるけれど。小さな手が彼の服をしっかりと掴む様、涙とはなみずで汚れた頬を彼の胸に寄せる仕草からして、王女が安心して泣き止みつつあるのは明らかだった。


 ――俺を信用してくださっているとは、嬉しい限り。


 これが平凡な見た目の実の甥や姪だったら汚らしいとも思ったかもしれないが、相手は王女だ。それも、赤子ながらに母君の面影を映してこの上なく愛らしい。だから、慣れてきた手つきであやすアンドラーシも、柄にもなく目を細めてしまう。


 彼と王女を見る王の目も細められている――が、これは彼とは違う理由によってのようだった。


「なぜお前だと泣き止むのだ」


 あまりにも露骨な王女の態度の違いに、父君としては面白くないということらしい。貫くような鋭さでアンドラーシを睨みながら、やっと落ち着き始めた王女を驚かすのを恐れてか、声は抑えているのが――非常に無礼な考えだとは思うが――面白い。


「陛下が遠征でご不在の間、度々バラージュ家を訪れておりましたから。その度に遊んで差し上げていたので、覚えていただけたということかと」


 彼の方も、赤子を気遣って優しく揺らしながらの答えだから、様にならないことこの上ない。しかも王女が甘えるような喃語を上げて彼にもたれてくるものだから、王の目は一層険しくなる。


「当分お前はフェリツィアに会うな。俺がますます忘れられる」

「大人げないことでいらっしゃいますね」

「必要なことでもある。お前ばかりに懐いていると広まれば、不貞の噂が再燃しかねないからな」


 不貞、のひと言にアンドラーシは思わず妻のグルーシャの方を窺った。先日、クリャースタ妃のことを疑って妻に叱責された身としては、後ろめたさを不意に突かれた思いだったのだ。


「そんな、まさか……」


 夫婦ふたりでのやり取りを王が知るはずもなく、まして不敬極まりない疑念を持ったことなど悟らせる訳にはいかない。だが、笑い飛ばそうとしたアンドラーシの声はどこか上擦ってしまったかもしれない。一方の妻はというと、いつもの穏やかな微笑みを崩すことなく、淑やかに控えて王女を見守っている。妻と視線が交錯する一瞬に、落ち着け、と言われた気がしてアンドラーシはごく軽く頷いてみせた。彼は王とクリャースタ妃に忠誠を捧げると決めたのだ。二度と愚かな疑いは口にしないし、王はもちろん、これから王宮に帰還するクリャースタ妃を不安にさせるような態度は見せてはならない。


 そして冷静になってみると気付くのは、彼の疑いは彼自身の首をも絞めかねないものだったということだ。


 ――じゃあ、やっぱり言わないでおいて良かったな。


 今では遠いことのように思えるが、リカードが流した卑劣な噂――クリャースタ妃が彼と密通している、などという! ――を真に受けていた者も少なくはないのだ。これで彼が不貞などと口にしたら、側妃のが薄れた僻みゆえの発言だとか、考えるのもおぞましいことを言い立てる者が出てくるに違いないのだ。


 ――クリャースタ様とどうこう、などとんでもないぞ……!


 畏れ多いという意味でも、考えたくもないという意味でも。見た目の美しさだけに目が行っていたごく最初の頃ならともかく、苛烈な気性を知った今では、クリャースタ妃を女として見るのはアンドラーシには難しい。だが、そういう方だからこそ王と共にあることができるのだろうし、あの方を御することができるのも王しかいないのだろう。その点からも、醜聞の種を撒くのは確かにしてはならないことだ。


 泣き疲れたからか、フェリツィア王女はアンドラーシの腕の中で眠そうに目をとろけさせ始めている。下手に手を出してまた泣かせることを恐れたのだろう、王は諦めた表情で手近な椅子に腰を下ろした。そこへ、名残惜しげに姫君を見つめる姿を見かねてか、グルーシャが気遣うような声を掛ける。


「久しぶりの父君様なのですから、仕方ありませんわ。母君様のために戦ってくださっていたのだと、フェリツィア様も大きくなられたら分かってくださいますでしょう」

「うむ……」


 王としては、傍目にも明らかなほどに苛立ち落胆したところを見せたのは不本意だったのかもしれない。グルーシャに頷いて見せる表情はどこかきまり悪げなものだった。微笑ましい思いからとはいえ、主君の動作を笑ってしまう非礼を侵すのを恐れて、アンドラーシはフェリツィア王女に視線を落とした。彼の服を掴んでうとうととし始めた王女を見るだけで、頬が緩むのが抑えられない。この姫は、母君に似てきっと美しくなるだろう。


 ――成長されて、クリャースタ様と並ばれるところを見るのが楽しみだな。


 アンドラーシはクリャースタ妃を女としては見ていないが、その美貌に対しては崇拝に近い想いを抱いているのだ。願わくば、フェリツィア王女は母君よりも優しく柔らかい気性に育っていただきたいものだが。


「まあ、俺を覚えてくれていないのは仕方ないが。これでは母親と会えてもどうなることか……」


 娘に触れることはできずとも、王女の寝顔に表情を緩めるのは王も同じのようだった。そして母君に想いを馳せるのも。だが、母娘の美しさだけを思い描いたアンドラーシと違って、王の声には懸念も滲んでいる。


「……クリャースタ様がお帰りになれば、ずっとご一緒できますから……すぐに思い出していただけると思いますが……」


 ――赤子が母親を忘れることなどあるものなのかな?


 王女の機嫌を損ねないように一定の間隔を保って揺らしながら、アンドラーシは内心で首を傾げた。グルーシャが、王に対して非常に気の毒そうな声と表情を作るの今ひとつぴんとこなかったのだ。

 父親は、しょせん子供との縁は薄いものだ。男子ならば成長に伴って鍛えるのは父の仕事になるのだろうが。それでも子がごく幼いうちに養育するのは母親だし、そもそも赤子は母の胎で何カ月も過ごすものだ。まだ理性を持たない赤子だからこそ、それだけの絆をそう簡単に忘れ去るとは信じがたいのに。


「あの者は、フェリツィアとの再会を心の支えにしているようだった。無論、今胎にいる子や乳母の子も、だが。フェリツィアに泣かれてはまた気落ちしかねないな……」


 アンドラーシがクリャースタ妃に最後に会ったのは、フェリツィア王女と共に黒松館に移る前のことだ。御子共々命を狙われて憔悴し切っていたあの頃は、確かに傍目にも危うく見えたものだが。それに――あの方に限って非常に想像しづらくはあるが――囚われの身の心労も、心の持ちように悪い影響を与えることは、あり得るのかもしれないが。


「私どもも、誠心誠意お慰めしたいとは思っておりますが。でも、ご夫君様のように、という訳には――」

「それは分からないが……」


 王と、それにグルーシャの顔色からして、そんなに見込みがないのだろうか。フェリツィア王女はあっさりと母君を忘れているし、クリャースタ妃が、それを嘆き悲しんで取り乱すとでも?


「陛下」


 王に呼び掛けるアンドラーシの声が抑えられていたのは、王女を起こさないように、という配慮がひとつ。そして更に、王が側妃のために判断を過つことを恐れたからだ。

 グルーシャが王に仄めかしたのは、まだ王宮に到着することができないクリャースタ妃を、待っていて欲しいということ。旅の疲れと懐妊中の不自由な身体を抱えて、更にやっと再会した姫君に拒絶されるのかもしれないあの方に、寄り添って差し上げて欲しいということ。そして王も、眉を寄せつつもその提案を言下に否定することはしなかった。それが、彼としては不安だったのだ。


 王の、クリャースタ妃に対する寵愛が深いのは良い。口さがない者も多いであろう中で、王が確かに側妃を信じ愛していると示すのはきっと必要なことでもある。だが、それは今ではない、と思う。


「ご心中はお察し申し上げますが、今は国の大事――折角士気が高まった折りを、逃す訳にはいかないかと」

「分かっている」


 王が示したブレンクラーレのアンネミーケ王妃の書状を見て、そしてその内容を知らされて、アンドラーシはまず絶句し、次いで激怒した。リカードは、異国と――それも、よりによってシャルバールでイシュテンの誇りを踏み躙った者と結んでまで王を陥れようとしていたのだ。

 王のもとに馳せ参じた諸侯らも、アンドラーシと思いは同じだろう。王に褒美を示されたからというだけではなく、リカード討つべしという機運はこれまでになく高まっている。無論、戦う前に奢って油断することなどあってはならないが――王の勝利は、ほぼ確実であろうと思えるほどだ。


 一方で、戦いとは機を逃してはならないもの。将兵の士気も、容易く崩れ勢いを失うことがままあるもの。かつて黒松館を頻繁に訪ねて、臣下の――アンドラーシも含めて――眉を顰めさせたことがある王だ、ブレンクラーレでの勝利があるとはいえ、二度同じ過ちを犯す主君だと見做されれば、また諸侯の信用を得るのは容易なことではなくなってしまう。


 王も重々承知しているであろうことだ。それをくどくどと並べて勘気を被るのを恐れて、アンドラーシは敢えて言葉を短く切った。実際、王は軽く顔を顰めたものの、彼の諫言を咎めようとはしない。彼の言葉が正しく主君に届いたことの、証左だろう。


「俺は別に側妃を待っている訳ではない。王につく意思を明らかにしている者で、まだ到着していない者もいるのだからな」


 王が渋々といった表情で述べたのも、どこか言い訳をするような口調だった。王たる方が臣下に対して言い訳をする必要などないのだから、王自身に向けたもの、といったところだろうが。


「……御意。リカードにはイシュテンの全てを敵に回した恐怖を味わわせてやりたいものでございますね」


 諸侯が揃うのを期限として、それまではクリャースタ妃を待つ。だが、それを過ぎれば側妃には会わずに戦場へ発つ。王の言葉をそう解釈して、アンドラーシは恭しく目を伏せて答えた。リカードに従う――あるいは従わせられた――者に対して、王は帰順すれば罪を減じると宣告している。ティゼンハロム侯爵家に不当に奪われた領地や財産があれば回復する、とも。リカードと命運を共にするほどの忠誠を誓う者はごく少ないはずで、罪を恐れた者たちの刃に狙われることさえあり得るだろう。リカードの末路の見通しは、既に十分暗いのだ。


 だから、もう少しだけクリャースタ妃を待っても良いだろう。愛する妃の顔を見て、御子の無事を確かめてからの方が、王の意気も高まるというもののはず。そう自身に言い聞かせて、アンドラーシはそっと、寝息を立て始めたフェリツィア王女を揺すった。


 と、その時。王宮の表に通じる方の廊下から、人の気配がした。何人かの人間が、急ぎでこの離宮を目指しているようだった。


「何事だ」


 赤子の王女がいると分かっている場所を騒がせる声と足音に王は席を立ち、アンドラーシはグルーシャにフェリツィア王女を渡した。もしもリカードに何か動きがあったのだとしたら、赤子に聞かせたい話題にはならないだろう。


 そして、侍女たちに抱かれた王女が無事に揺籃ゆりかごへと戻されて大人たちから十分に遠ざけられた時、王の前には数人の官吏が跪いていた。そのうちのひとりが、代表して王の団欒の時間を妨げた理由を述べる。


「ミリアールトから使者が参っております。至急、陛下にお目通り願いたいと――」

「イルレシュ伯が戻ったか」

「いえ、一行の中に伯はおられませんでした。その、イルレシュ伯が戻られなかった理由も含めて陛下にご報告したいとのことでございます」


 ――イルレシュ伯はミリアールトに残ったのか? クリャースタ様やフェリツィア様以上に、あの御仁が優先することなどあるのか……?


 イシュテンに降ったとはいえ、あの老伯爵の忠誠はもっぱら祖国の王家の血を引くクリャースタ妃に捧げられている。囚われの身から助け出されたばかり、それも身重の大事な身体の主に、会いたいと願わないはずがない。フェリツィア王女の成長だって、直に確かめたいと思って当然だろうに。


「ミリアールトで何か起きたということか? あの者が離れられないほどの大事が起きたと……?」


 アンドラーシと同じ疑問を抱いたのだろう、官吏を問い質す王の声も鋭く尖る。ミリアールトの情勢が怪しいのだとしたら、リカードを討つことだけに専心する訳にも行かなくなるのだ。


「いえ、急ぐと言っても一刻を争うという様子では――ただ、陛下に直接お伝えせねばならぬと申しているのですが」


 だが、跪く官吏は首を振った。王の下問に曖昧な答えしか返せないのが怖いのだろう、額に汗が滲んでいるのがアンドラーシにも見て取れた。事情もはっきりと分かっていないのに王を呼びつけようとは確かに非礼――とはいえ、この者たちを責めても意味はないと、王は結論づけたらしい。軽い溜息の後に、床に顔を伏せた官吏たちを置き去りにするように足を踏み出しながら、告げる。


「分かった。とにかく、使者とやらに会おう」

「陛下……!」


 そこへ更に人の声が響いて、普段は静謐に守られた離宮の平穏はまたも破られた。何事だ、と声の方を向くアンドラーシと王の前に、先ほどの者たちよりも足早に、転がるような勢いでまた別の官吏が駆け込んでくる。今度こそ戦況を伝える者か、と身構えるのも一瞬――後からやってきた官吏は、満面に笑みを浮かべていた。


「城門より遣いが参りました! クリャースタ様がとうとう戻られたと……! 御子も、ご無事とのことでございます!」

「クリャースタ様が……!?」


 ミリアールトからのものと、ミリアールト出身の側妃についてのもの。同時にもたらされたふたつの報せに、王とアンドラーシは思わず顔を見合わせた。

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