第9話 贖罪の機会 ラヨシュ

 ラヨシュには、近ごろ表の騒がしさが王宮の奥までも届いているように感じられる。人の声や足音などがはっきり聞こえる訳ではないけれど、空気がどこかざわついて、まだ寒い季節だというのに熱気のようなものさえ漂っている気がするのだ。もちろん、そのような感覚は錯覚に過ぎず、何よりも落ち着かないのは彼の心の在りようなのだろうけれど。


 王の檄に応じて、王都にイシュテン中から諸侯が集っているのだという。それぞれに手勢を率いて、忠誠を誇示すべく王に謁見を求める者が後を絶たないのだとか。王も、彼らの戦力は何としても欲しいから、ひとりひとりに時間を割いて言葉を賜っているらしい。だから王宮には常よりも――ましてや王が不在だった時よりも遥かに多くの――人が出入りしているということになる。


 それも全て、ティゼンハロム侯爵を追い詰めるために。


 ティゼンハロム侯爵家はイシュテンに並ぶもののない権勢を誇る名家だと、母はことあるごとに言っていたのに。その力があればこそ王でさえも侯爵に対しては遠慮するし、王妃や王女も守られるのだと教えられて、ラヨシュもずっと信じてきたというのに。今となっては、王宮の誰もが侯爵の破滅を確かな未来として囁いている。そんなことはありえないと思おうにも、王の元に集う諸侯の騒がしさを目の当たりにすれば、間違っているのは彼の方なのだろうと悟らざるを得ない。


 ――これから、どうなるのだろう……。


 この国は、侯爵は、王妃と王女は。それに――国の一大事と比べれば考えに上らせることさえおこがましいのだろうけど――、彼自身と母の行く末は。


「ラヨシュ……? 寒いなら窓を閉めて良いのよ」

「あ、王妃様……!」


 柔らかい声に呼び掛けられて、ラヨシュは慌てて居住まいを正した。王妃の居室で、一応は護衛の役に当たっていたというのに、すっかり物思いに耽ってしまっていた。あるまじき失態に頬が熱くなるのを感じつつ、彼はもごもごと口を動かす。


「いえ、王妃様も王女様も息が詰まってしまいますから。えっと……ただ、雪はもう降らないかなと、思っていただけで……」


 表の様子を気にして窓の方に顔を向けていたことで、王妃に気を遣わせてしまったらしい。開け放たれた窓から流れ込む外の空気はまだ冷たいが、室内の暖気を圧するほどではない。そもそもは部屋に閉じこもりがちな女主人たちの気晴らしのために風と光を入れているのだから、たとえ彼が寒さを感じていたとしても口にしてはならないのだ。


「そうね。そろそろ暖かくなるかしら。春には、もっと気軽に庭に出られると良いのだけど」


 咄嗟に捻りだした言い訳は苦しいものだっただろうに、王妃は深く追求することなくおっとりと頷いてくれた。とはいえ、ラヨシュの懊悩に気付いていないということもないだろう。彼の内心を慮った上で、問い詰めることもなく――かといって見て見ぬ振りをすることもなく、それとなく声を掛けてくれたのだ。王妃自身は一定の速さで刺繍の針を動かし続け、絵本を眺める――頁が繰られることは滅多になかったけど――マリカ王女を見守りながら、彼のことまで目を配ってくれるとは。その心遣いには感謝しつつ、それほどの余裕をどうしてもっていられるのか、ラヨシュには全く信じがたい。


 ――王妃様は、どうして……?


 国を挙げて狩りたてられようとしているのは、この方の父君だ。なのに王妃は、苦しみ悩む素振りを全くと言って良いほど見せていない。果てしなく優しいのはずっと変わらないこととして、最近のこの方は強さまでも備えているようだった。それも、王のような猛々しい強さではなく、全てを包み込むような柔らかいものだ。王女が癇癪を起こしても、逆に黙り込んで口を閉ざしても、狼狽えることなく辛抱強く寄り添って宥める――けれど決して折れることはない。この方は、以前からこのようだっただろうか。


 ――父君よりもご夫君を選ばれたから……?


 ティゼンハロム侯爵のことはもう見捨てたからこその、この平静さなのだろうか。でも、

 そのようなことを考えてしまうのは、王妃への侮辱にほかならないのはラヨシュにも分かる。王への愛のために肉親の情を忘れるような方であったなら、母や彼が身命を賭しても忠誠を捧げようとすることはなかっただろう。

 何より、口さがない者たちが囁いているのは王妃の耳にも届いているはずだ。反逆者の娘よりも、王家の出であるクリャースタ妃の方が王妃の座には相応しいのではないか、と。王妃の父君や王への思いとは関係なく、王妃の立場は儚く揺らいでいる。王妃たちが閉じこもって過ごしているのは外の寒さのためだけではなく、侯爵との内通の疑いを招かないためでもあるという。そんな状況だからこそラヨシュの王妃たちの行く末が案じられてならないのに。


 なのに、当の王妃がどうしてこうも落ち着いていられるのか。ラヨシュにはさっぱり分からなかった。




 そもそもラヨシュがまだ王宮にいることができているのも、王妃の口添えがあってのことなのだ。


 王が凱旋して、まだ数日が経ったばかりの頃。ラヨシュは新たに王都に到着した諸侯を迎えるのに忙しいはずの王に呼び出された。というか、王はあくまでも妻子を訪ねてきただけで、彼も例によって王妃たちの傍に控えていたのだから、実際には王女が席を外させられただけだったけど。それでも、使用人の子供に王がわざわざ声を掛けようというのは、異例のことには違いなかった。


『心配ないから、どうか固くならないで』

『はい……』


 王妃の言葉に従うのは、恐らくは不可能なことだった。だって王はひどく険しい目で彼のことを睨むように見据えていたから。


 ――怖い……。


 王は、血を分けた兄弟でも逆らえば容赦なく首を刎ねてきた男。今も義理の父であるティゼンハロム侯爵を追い詰めるために手段を選ばず画策している最中だ。思えば、アンドラーシに師事するように命じられた時も、王は彼への不快を隠そうとしていなかった。側妃にかまけて王妃たちを蔑ろにする王への反発もあって、その時はまだ虚勢でも真っ直ぐに背を伸ばしていることができたけど――今の彼には、それはできないことだった。王妃たちへの忠誠は変わらないつもりだし、侯爵家を攻めようとしていることに賛同できる訳ではないのだけれど。


 ただ、玉座の間で王妃と対峙した時の侯爵の様子を思い出すと、かつてほど疑いなく母の言葉に従っていれば良いとは思えなくなってしまっているのだ。侯爵の言い訳を封じたのは王妃だし、実の娘に裏切られた侯爵の、驚きと衝撃は大きかったであろうことを考えても、あの時の侯爵の言動は横暴というしかなかった。王妃の言い分など頭から聞く気はないようだったし、何より去り際のひと言は、王女をわざと傷つけ動揺させるため――思い通りに進まなかったことへの八つ当たりのためでしかないように見えた。

 ラヨシュは目にしていないけれど、ブレンクラーレの王妃が侯爵と密約を結んでいたとの書状も、王は遠征から持ち帰っているとか。諸侯が王宮を訪ねるのは、その書状を直に確かめようとしてのことでもあるという。


 ティゼンハロム侯爵が罪に問われるのは、もはや避けられないこと――でも、侯爵を信じることができないとしたら、彼は誰を信じて誰に従えば良いのだろう。王妃はあまりに優し過ぎて、敵でさえも許してしまいそうに見える。だから、彼が自身で判断しなければいけないようにも思える。でも、それはやはり母の教えであって――


 堂々巡りのように同じところに行き着く思考を追いかけていると、王が咳ばらいをしたのでラヨシュは小さく飛び跳ねた。自身の置かれた立場も、王への不安や恐怖すらも忘れてしまうほど浮足立っているのを恥じて、彼はそっと目を伏せた。


『ミーナから、お前の母のことを聞いた。側妃に毒を盛ろうとした女だということだが間違いはないか』

『は……はい』


 王の言葉を聞いて、ラヨシュは喉元に剣を突きつけられた気分になった。無論それは錯覚で、王の剣は鞘に収められたまま、主の腰に佩かれていたのだけど。でも、それが抜き放たれて彼の首を落とすのは差し迫った未来であるに違いないと思えた。


 ――ついに、この時が来てしまったのか。


 彼と母との血の繋がりは、否定しようのないものだ。これまで露見することがなかったのは、ひたすら王妃の好意によるものに過ぎない。そして、主たる方の心に、しもべが重荷を負わせるなど間違っていたのだ。


『ごめんなさい、ラヨシュ。……こういう時だから、全てを隠したままではいけないと思ったの。でも、ファルカス様は――』

『お前は少し黙っていろ』


 だから、ラヨシュとしては王妃を責めるなど思いもよらないこと、申し訳なさそうな声にはかえって胸が痛んでしまった。彼なんかにそれほどの価値はないと思うのに。一方で、その優しい王妃を厳しい声で黙らせる王への反発は密かに高まる。


『――胎児とはいえ王族の命を狙ったのは大罪だ。命じたのがリカードとはいえ、本来ならば罪は肉親にも及ぶ。だからミーナが言えなかったというのは理解したし、だからこそ、知ったからには改めて沙汰を下さなければならぬ』

『この首を刎ねるとの仰せでしょうか』


 やるならやれ、と。王の言葉を待たずに発した彼の声は情けないほど弱々しく震えていた。怯えなど見せるつもりではなかったのに、と悔しさに唇を噛む。母の罪は重々承知してはいるし、親の犯した罪の累が子にも及ぶのは当然のこと。母は王妃と王女のためにやったのだ――などと、通じるはずもないだろう。

 それに、母の罪は忠誠ゆえだと抗弁するにしても、ラヨシュは他にも死に値する罪を犯している。アルニェク――王女の犬を手に掛けた罪は、できれば王女に裁いて欲しかったけど。反逆者として死を賜るというのは、彼に似合いの最期だろう。


 ささやかなものとはいえ、罪人からの口答えは確実に王の機嫌を損ねたらしい。剣呑に眉を跳ね上げた王に、でも、ラヨシュは安堵していた。このような無礼を働いた者の命を、どのような気まぐれがあっても見逃すことなどないだろう。


『……お前の母のこと――女ひとりのことだと考えて深く追求しなかったのは間違いだった。今回は、結果的にはミーナとマリカを守ることに繋がったが、いまだに王に背くリカードに従っているとは……!』


 自身の名を呼ばれて、王妃の顔がわずかに強張った。王妃が母に、侯爵家に助けを求める手紙を託したことを指しているのだろう。あの件は、王女の心も傷つけているようだった。

 とはいえ、王妃の表情を見ることができたのは視界のほんの隅でのこと。王の目は、よそ見など許さぬとでも言うかのようにラヨシュを鋭く貫いていた。


『だから、子供だから、と考えてはならぬのだろうな』

『ファルカス様……!』

『はい、覚悟はできております』


 王妃の抗議の声と重なった今度の言葉は先のものよりはよほどマシに聞こえただろう。つまりは、堂々と、はっきりと。王に、一層不快げに眉を顰めさせるほどに。

 これで意地を見せることができた、やっと望んでいた罰を受けることができる、と。ラヨシュの唇が弧を描こうとした時――だが、王は重い溜息と共に告げたのだ。


『――だが、お前には功績もある。ミーナの手紙をリカードではなくアンドラーシに届けたことだ。王宮でもマリカを探して保護したとか。そもそも罪を犯したのは母親なのだし、王妃と王女の恩人となれば、罪を帳消しにするには十分だろう』

『え……』

『無論、何も監視なしという訳には行かぬが。アンドラーシにはこれまで以上に厳しく鍛えさせるし、お前の身柄はミーナに預ける』


 王の言葉が、呆然とするラヨシュの耳を通り抜けていった。つまりは、ラヨシュが次に何かをしでかせば、アンドラーシや――王妃の、咎になるということだ。いや、王にとっては反逆者である侯爵や母と通じる彼のこと、それは当然のことではあるが。だが――それならなぜ、わざわざ今は見逃すというのか。


『なぜ……』

『許してくださると仰っていたのに。どうして脅すようなことを仰るのですか』


 ラヨシュの喘ぎはまだ王妃と重なった。王妃の声は緊張を解いて和らいで、けれど夫を咎める響きは残っていた。


 ――仰っていた……? 王は初めから……?


 王妃が心配ないと言っていたのはこういうことか。あらかじめ、王に彼の命乞いをしておいてくれたのか。こんな彼のために。そして彼は、まだ裁かれるという安寧を得ることができないのか。


『知らぬ間に妻と娘が篭絡されていたのだ。多少は不快を露にしたところで構わないだろう』

『構いますわ。可哀想に、こんなに汗を掻いてしまって……』


 言われて額に触れると、確かに水を浴びたように手を濡らすほどの汗が噴き出していた。生温い感触を、服にこすりつけて拭いながら、ラヨシュはくしゃりと顔を歪めた。死を賜る覚悟をしたと思っていたのに、彼の肉体は命を拾ったと気付いて浅ましく喜んでいるのだ。


『ラヨシュ、ごめんなさい。大丈夫だから……』


 彼の心中など知らない王妃は駆け寄って慰めてくれたけど、ラヨシュがその優しさに値するはずなどなかった。




「春になれば、マリカにも妹か弟が増えるのよ……?」

「…………」


 母君に話しかけられた王女はむっつりと黙りこくったままふいと顔を背けてしまった。娘の頑なな様子に王妃は困ったように微笑むが――以前とは違って――焦った風は全くない。むしろ、王女の我が儘をゆったりと甘やかすような空気さえあってラヨシュの混乱は深まるばかりだ。


 ――側妃に御子が生まれれば、この方たちの立場は危うくなるのに……。


 世継ぎの王子であればもちろんのこと、たとえまた王女だったとしても。立て続けに御子に恵まれた側妃に、王はまた通うのだろう。そして恐らく、その時にはティゼンハロム侯爵はこの地上にはいないのだ。


 だが、一方で彼の心のどこかで本当にそうだろうか、と囁く声もあった。


 死を賜って当然の彼のことを、王は助けた。王妃の嘆願を聞き入れた。敵に容赦しないはずの王が、敵に連なる者に情をかけたのだ。王妃が願ったからこそだというのなら、側妃の子が男児だったとしても、王妃たちが蔑ろにされることはないと思って良いのだろうか。ティゼンハロム侯爵に憚る必要がなくなったとしても?


 ――王を、信じる?


 それはラヨシュにとってひどく不可思議な想念だった。王はティゼンハロム侯爵の敵であり、つまり政局によっては王妃たちをどのように扱うか分かったものではないと、母には言い聞かされて育ってきたから。彼自身も、側妃ばかりを気遣う王に対しては根強い不信感を持っていたものだったから。――でも、ティゼンハロム侯爵が王女を怯えさせたのを見た後、それに、王に命を拾われた後だと、考えを変えなければならないのだろうか、とも思う。ほとんど生まれた時から信じてきたことを疑うのは、ひどく恐ろしいことだったけれど。


 そして恐ろしいことはまだ終わっていない。


 助かってしまったからには、彼は罪を償う機会を失ってしまったのだ。王が言ったのは、母の罪を彼に問うのはしないということだけ。彼の最大の罪――王女の犬のことは、決して許されてはいないのだ。無論王は彼の本当の罪を知らないし、誰に許されるものではないのだが。


 だから、彼は罪を償う時と場所を、自分の力で見つけ出さなければならないのだろう。

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