第3話 疑惑 アンドラーシ

 長い一日の後、王に留守中のおおよその出来事を報告し終えると、アンドラーシは王宮の一室での休息を許された。これまでも王宮で夜を過ごすことは度々あったが、そのような場合は兵士の詰め所に近い、王宮の外縁の部分を間借りすることが多かった。だが、彼が今宵休むのはより王宮の中心の――王や王妃の住まいとも近い一角で、だった。


「大事なお役目を無事に終えられたこと、心からお喜び申し上げます」

「無事に、と言えるかどうかは分からないが――お叱りを受けることもなく、リカードの動きに備える余裕も何とかある。若輩の身にしてはまあよくやったと言っても良いのだろうな」

「まあ、珍しいご謙遜を」


 用意された部屋では、妻のグルーシャが笑顔で彼を迎えてくれた。深夜まで待たせてしまったというのに、疲れも不満も微塵も見せず、むしろ夫を労ってくれるのだ。妻の柔らかな笑い声を聞くと、彼の方こそ疲れが吹き飛ぶ思いがする。過ぎた妻に恵まれた幸運を、アンドラーシはもう何度目かに噛み締めた。


 王宮で、遅い時刻。更に、明日以降も気を抜けない局面が続くのだろう。だから、妻とふたりきりとはいっても閨にまで連れ込もうという気にはなれない。だが、それでもグルーシャが用意してくれた軽食を摘まみながら並んで座り、言葉を交わすひと時は、緊張を緩めることができる貴重な時間だった。


「フェリツィア様はお元気でいらっしゃるか?」

「ええ。父君様にお会いできるのを、きっと楽しみにしていらっしゃるでしょう」

「陛下は忘れられてはいないかとこぼしておられたが……」


 フェリツィア王女に仕える妻が主のもとを離れても支障が少ないよう、王族の住まいとほど近い場所に休息場所を設けてくれたのは、王の計らいだった。

 その王も、今は王妃のもとを訪ねていることだろう。王妃の無謀とも言えるリカードへの反抗に、王は眉を顰めつつも怒りを覚えているようではなかった。とはいえ、リカードに手紙を渡した者の存在もある。絶対に存在してはならないはず、とかいう者。王妃が王に対して秘密を抱えていたという、その証拠でもある者のことを、ふたりはどのように語り合うのか――それは、臣下などが案じることではないのだろう。


 まだ赤子のフェリツィア王女は、会うのを後回しにされたからといって不満を持つことはないだろうから、王が負い目を感じている様子なのは取り越し苦労だと思うのだが。笑い話のつもりで聞かせたのに、グルーシャは笑顔を曇らせてわずかに俯いた。


「フェリツィア様も人の区別がついてきたようですから。私どもが独占してしまっているのは申し訳ない限りなのですが。――クリャースタ様も、早く御子様とお会いしたいでしょうに……」

「国境まで迎えの兵を向かわせたし、イリーナも遣わしたのだろう? クリャースタ様もお心強いことと思うが」


 リカードへの対応に、遠征中に山と積み上がった書面の処理。領地に留まっている諸侯を召喚する書状の作成。忙しく命令を下す間にも、王は側妃を気遣うことを忘れなかった。

 不調のために王都への帰還を急ぐ一行に同行することができず、まだブレンクラーレとの国境を越えるかどうかという位置にいるという側妃のため、王は同郷ミリアールトの侍女を護衛の一団に加えさせていたのだ。王が足繁く黒松館に通っていたのは気の迷いなどではなく、長い遠征を越えてなお、王の心は確かにクリャースタ妃に向けられているという、証拠のような采配だった。


 今朝までは一緒にいた相手のことだから、イリーナのことはグルーシャも承知しているはずだった。だが、そこに言及しても妻の顔が晴れることはない。


「ええ、きっと。でも、大事なお身体なのに、本当にお気の毒なことですわ」


 大事な身体、とはもちろんクリャースタ妃が懐妊中であることを指してのものだ。妻がごく滑らかに――何か取り繕ったり演技をするような余地はなく――それに触れたのを確かめて、アンドラーシは軽く息を吐いた。


「クリャースタ様は……本当に、ご懐妊なさっていたのだな?」

「何を仰るのですか。あの……黒松館でのことの後、陛下御自らが明かされたことではありませんか!?」


 憂いに沈んだ表情から一転、グルーシャは大きく目を見開くと彼を見上げてきた。抱き寄せていた手も振り払うようにして身体を離して。妻の目に、はっきりと彼を非難する色があるのに気付いて、アンドラーシは言い訳のように言葉を並べた。


「無論、あのご寵愛振りからすれば自然なことではあったのだろうが。あの方を救い出す大義を作るための口実では、と――疑ったことがないでは、なくてな」

「でも、もうお腹も大きくなっていらっしゃるでしょうし。陛下も他の方々――ジュラ様なども、お姿はご覧になったのではないのですか?」

「うむ、だが、黒松館の頃からとは限らないのでは、と……お前たちも、あの方のために口裏を合わせていたのではないかと、少しだけ、気になってしまったのだ」


 彼の言葉は、妻が嘘を吐いていたのではないかと言っているのも同然だった。更に、主君の言葉を疑うものでもある。グルーシャの表情がどんどん険しくなるのに気付いて、アンドラーシの胸に柄にもない後悔が過ぎった。言わなければ良かったな、と。


 だが、彼としては至極もっともな疑問のつもりなのだ。


 ――お前はあの方の名の意味を知らぬから……!


 危うく口を出そうになった言葉を、辛うじて呑み込む。王から明かされたことは、側妃と王女に仕える者たちにはまだ内密に、と言われている。ただでさえ不穏な状況の中、懐妊中の側妃を疑いの目に晒したくないから、伝えるとしたらよくよく様子を見極めて、との王の意向だ。イリーナというミリアールトの侍女をクリャースタ妃のもとに送ったのも、側妃の方でそれとなく心構えさせておく意図もあったのだろう。


 側妃の婚家名は、復讐を意味するミリアールト語だった。イシュテンの者たちの無学を嘲るように、禍々しい意味の名で堂々と呼ばせ、王の妻として臣下の経緯と忠誠を享受していたのだ。


『言っておくが、あの者が裏切ったなどと考えるなよ。いかにもリカードは言いそうなことだが。復讐とは俺の敵に対するもの、あの者のこれまでの働きと併せてよく考えることだ』


 王の言葉が脳裏に蘇って、アンドラーシの短慮を諫めるのだが。そして、王が語った状況からして、それは恐らくは真実だろうと理性では分かっているのだが。それでも、胸に芽生えた疑いを完全に拭い去るのは難しかった。


 ――あの方は、本当に復讐など目論んでいなかったというのか? ミリアールトの王族が関わっていたという今回の誘拐も……あの方の望み通りだったということはないのか?


 クリャースタ妃の人質時代から、あの方を間近で見てきたアンドラーシはよく知っている。あの方は――イシュテンの諸侯の中には勘違いしている者もいるかもしれないが――敗北を認めて、戦馬の王に膝をついたのではない。ましてや王に恋したなどということもないし、側妃として侍った後も、イシュテンの妻の理想とされるような従順さとは無縁だった。

 あの方の心は、華奢な美貌とは裏腹に猛く強く、王を選んだのも結婚相手としてというよりは同盟相手として、のように見えた。並みの女であれば生意気と思ったかもしれないが、広間を埋める諸侯に首を狙われた状況で、それでも自らの意思を押し通し、王を頷かせた胆力には感服するほかない。純粋に、忠誠を捧げるに相応しい存在だと思ったし、そのような方が王と共にあることは頼もしいと思っていた――のだが。


 クリャースタ妃が密かに復讐の意思を抱いていたと仮定すると、話は変わってくる。それも、夫君の敵へのものなどではなく、あくまでも祖国ミリアールトが滅ぼされた怨みを忘れていなかったとしたら、どうだろう。


「クリャースタ様の御子は、今度こそ王子かもしれない。俺も、お前との子も仕えるべき王になるかもしれない御子だ。不敬は重々承知しているが、不安は拭っておきたいのだ」


 滅ぼした国の王女を王の傍に置くことに誰も不安を感じなかったのは、女の細腕で王を害することなど不可能だからだ。たとえ熟睡している時であっても、間近で刃を抜く気配を感じれば王は即座に起き上がることだろう。


 だが、女にしかできない復讐もあるのではないだろうか。子の本当の父親は、夫には分からないものだ。フェリツィア王女はさすがに王のたねに間違いないとしても、王のほかにはごく一部しか知らなかった今回の懐妊についてはどうだろう。王が側妃を救うために嘘を吐き、侍女たちもそれに倣ったのだとしたら。


 クリャースタ妃を攫った男は、妃によく似た大変美しい青年だったと聞いた。ブレンクラーレのマクシミリアン王太子は、以前イシュテンを訪れた時に軽薄な言動で顰蹙を買っていた。いずれの男も、クリャースタ妃の美貌を前に手を出さずにいられたとは信じがたい。

 仮に、王以外の子をイシュテンの世継ぎとして認めさせることに成功したら――王も、側妃への寵愛ゆえにその裏切りを見過ごしたのだとしたら。非力でも一滴を血を流さずとも、またとない復讐が叶うということになりはしないだろうか。今になって婚家名の意味を打ち明けたのは、隠す必要がなくなったから、ということではないのだろうか。


「なんと情けないことを……!」


 側妃に仕える妻が彼の指摘を快く受け取ることなどないだろうとは思っていた。だから、これから生まれる彼らの子が仕える王に関わることでもあると匂わせて、下種な勘繰りではないと伝えたつもりだった。だが、アンドラーシの気遣いは全く十分ではなかったようで、グルーシャはついに眉を吊り上げて声を上げた。


「私が実家や弟――何よりも貴方様の行く末を考えなかったとでも、本気で思っていらっしゃるのですか? クリャースタ様にお仕えするのは、女の気楽なお茶やお喋りに過ぎないと?」

「いや、そうではなくて……」


 ――あ、失敗したな……。


 アンドラーシは、決して言うべきでないことを口にしてしまったことに気付いた。


 グルーシャは、以前リカードの陰謀を暴くために自らを囮にして毒薬を受け取っていたことがあった。彼との結婚も、ティゼンハロム侯爵家に縁の者に強引に攫われそうになったのを助けたのが切っ掛けだった。妻も男とは違う形で戦ってきたことを、決して忘れていたつもりはなかったが――グルーシャには、そう見えてしまったらしい。アンドラーシを睨め上げる妻の目はかつてないほど冷たく鋭く、それこそクリャースタ妃を思い起こさせる激しい怒りを浮かべていた。


「ファルカス陛下こそ、イシュテンを導くのに相応しい御方。そして、クリャースタ様こそ世継ぎの母君になられるのに相応しい御方。強欲で残酷なティゼンハロム侯爵などとは違って――だから、私こそ畏れを知らずに申しますけれど、クリャースタ様にお仕えするのはあの方ご自身のためだけではありません! イシュテンのため、家のため――まだ生まれてもいませんが――我が子のために。なのにどうして、そのようなおぞましい……ふ、不貞を、隠すようなことをするでしょうか!?」

「グルーシャ、俺が悪かったから」


 非を認めて妻の肩を抱き寄せようとしても、その手は冷たく振り払われた。頬に添えて上向かせようとした掌も、同様に。ほとんど初めて目の当たりにした妻の怒りに戸惑って、掛ける言葉を見つけられないでいる彼にそっぽを向きながら、グルーシャはまだ言い足りない様子で続けた。


「……クリャースタ様のお腹の御子は、陛下の御子に間違いありません。黒松館に仕えていた者も、全てが殺されてしまった訳ではありませんし、証人は幾らでもおりますわ。御子のお生まれになる時期からも、絶対に明らかなことです」

「そうなのか?」


 アンドラーシは、赤子の産み月についてはっきりとした知識を持たない。甥や姪は何人かいるが、いつ生まれたかはこれまでさほど気にしていなかった。ある程度大きくなれば、母である姉や妹が実家に顔を見せに連れて来るものだ、という程度の認識だった。子が生まれたばかりのジュラにでも聞けば、妻の言葉を裏付けてくれるだろうか。


 曖昧な相槌で無知を露にした夫を軽く睨んでから、グルーシャは軽い溜息を吐いた。男はこういうことについては愚かで当てにならないものと、諦めたのかもしれない。次の言葉は、怒るというよりは諭すような口調になっていた。


「クリャースタ様のお心も、確かに陛下に向いていらっしゃいます。近くで見ていれば分かること。――お心を偽るようなことができる方ではないと、アンドラーシ様もご存知でしょうに」

「それは、確かに」

「……分かっていただけましたか?」


 アンドラーシが初めて心から納得して頷いたのが分かったのだろう、グルーシャは呆れたような目で眺めてきた。


「うん。俺が悪かった。クリャースタ様が陛下を愛していらっしゃるのならば、間違いなくおふたりの御子だというのならば、それで良い」


 儘ならぬことがない王女の生まれだからか、クリャースタ妃は本心を隠すことが得意ではない。特に怒りや苛立ちといった感情は、傍目からも面白いほど明らかに見て取れる。負の感情を浮かべた時でさえも美しいのが更に面白くて、ついわざと怒らせるようなことを口にしてしまったこともあったが。


 とにかく、クリャースタ妃が本気で復讐を目論んでいたのなら、少しは態度を取り繕おうとしていただろう。そして、そのような方が王に心を向けたとしたら、傍に仕える者にはすぐに分かるであろうことも想像に難くない。あの方がフェリツィア王女を慈しんでいたのも、アンドラーシは直に見て知っているのだ。 


 ――婚家名の意味がどうであろうと……今の御心が陛下にあるならば、良い。


 正直に言って、クリャースタ妃は当初から夫君のための復讐などと健気なことを考えていなかったのかもしれない、とは思う。だが、王とあの方が揃ってそう述べたのであれば、それを真実ということにしても良いだろう。人の心は変わるものだ。アンドラーシ自身が結婚して変わったし、あの王妃でさえも、父親の人形から変わろうとしているのだから。


「本当に、お分かりいただけましたか……?」

「ああ。まずはお前だけに言って良かったと思う。いらぬ疑いを広めてしまうところだった」


 グルーシャを抱きしめながら囁くと、今度こそ妻は大人しく彼の腕の中に納まってくれた。素直に謝ったのを、どうやら許してくれたらしい。


「……事情を知らぬ者が同じ疑いを抱くこともあるかもしれません。クリャースタ様も、さぞご不安でいらっしゃることでしょう。ですから、貴方様こそお味方を……」

「そうだな。そうしなければいけないところだった」


 間もなく、グルーシャも側妃の名の本当の意味を知らされる。その時には、彼が抱いた無礼な疑いの理由だと分かってくれるだろうか。心強い妻も、少しは心を揺るがせることがあるだろうか。もしもそのようなことがあれば、今度は彼が妻の目を啓かせる役を負わなければならないだろう。


 ――陛下と、クリャースタ様と、御子様方のため……。


 改めての忠誠を心に誓いながら、アンドラーシはやっと微笑んでくれた妻に口づけた。

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