第2話 王の帰還 ファルカス
ブレンクラーレとの国境を越え、イシュテンの王都――彼が帰るべき地へと近づくにつれて、ファルカスは民の表情の変化に気付いた。
教養のない農民といえども、王は敬うべきということくらいは弁えてはいるだろう。とはいえ、声を掛けられる機会のある領主程度ならまだしも、常は遥か彼方の王都にいる王に対しては親愛の情は湧きづらいものだ。特に、彼が軍を率いている時に見かける民は、畑を荒らされはしないか、家畜を奪われはしないかと怯えて平伏していることが多い。王として、民に犠牲を強いるのを望む訳では決してないが、結果として国土を踏み躙るのが避けられないこともあるのもまた事実ではあった。イシュテンは国の中で争うことが多いからなおのことだ。王や貴族の諍いは、民にとっては概ね災厄のようなものなのだろう。
だが、今の民の様子は常とは違う。大地を揺らす戦馬の蹄の轟きに、確かに畏れや緊張は見せてはいるようだが――それに加えて、安堵と笑顔も見えるのが目についた。国の誇りを賭けての報復も、側妃の誘拐も、民には関係のないことだろうに。王の勝利をわざわざ喜んでくれるほど、彼の権威はまだ強くはないはずなのだが。
疑問に思いながらも急ぐうちに、答えはもたらされた。王都の城壁が地平に見える辺りまで来たところで、迎えに現れたアンドラーシによって。
「リカードめがこれみよがしに兵を率いて演習などを行っておりましたから。民はさぞ怯えていたことでしょう。イシュテンに正当なる王が戻られたこと――心から、お慶び申し上げます」
「……なるほどな」
――言われてみればいかにも奴のやりそうなことだ……!
納得と怒りを込めて、ファルカスは低く唸った。ミーナがアンドラーシを頼ったのを、王妃の意思に反することだとリカードが詰っていたことまでは確かに報告を受けていた。つくべき陣営を見定めるために、諸侯が私兵を率いて王都に詰めかけたことも。迷う者を脅し、圧力をかけるために、リカードがただ座しているだけなどあり得なかった。
道中抱いていた謎は、ひとつ解けた。だが、それだけでは国内の状況の全てを把握することにはほど遠い。いかに詳細な報告を書簡で受け取ろうとも、直に事態に接した者の証言には敵わない。――そう思い知ったところで、跪くアンドラーシに馬上から命じる。
「お前には聞きたいことが山ほどある。王宮に入った暁には心せよ」
「は。王妃様や王女様方も、陛下のお帰りをさぞ待ちわびていらっしゃることでしょう」
――フェリツィアはともかく、この者がミーナとマリカに言及するとはな。
晴れやかな笑顔で見上げてくる側近の顔を、ファルカスはまじまじと見つめた。この男は何かと側妃に肩入れして、王妃の方は疎んじている風さえあったのだが。アンドラーシの心の裡にも、書簡からは読み取れない変化が起きたということなのだろうか。
「……ミーナのことも。じっくりと聞かせてもらうぞ」
「喜んで。きっと驚かれることでしょう」
どこか嬉しそうに
「リカードは、今は? 王都からはとりあえず兵を引き上げたのだな?」
「は。それも王妃様の功績でございます。詳しくは後ほどご報告申し上げますので」
「楽しみにしていよう」
半ばは脅すように低く呟くと、ファルカスは全軍に号令をかけた。王都までの残りわずかな距離を、一層急がせるために。
王都の城門を潜ると、王の軍は民の歓呼で迎えられた。公式の行事でも私的な遠乗り、あるいは身分を伏せてのお忍びなど。彼の顔を民が見る機会はそれなりにあるから、王の無事や勝利を王都の民が喜ぶのはまあ分かる。だが、以前の幾つかの例よりも遥かに熱のある反応に、城壁のすぐ外に軍が
――この数年あまりに落ち着かななかったからな……だが、それもリカードを討てば終わる……!
王位を狙う異母兄弟たちはティグリスを最後に全て討った。ミリアールトとブレンクラーレとの国境もひとまずは落ち着いている。だから残る敵はリカードだけだ。リカードを排除してやっと、ファルカスは真実の意味で王になれるのだ。誰に妨げられることもない権、王の意思による統治――それは、彼が切望するものというだけではなく、ティグリスに託された願いでもあり、妻や子らの未来のために必要なものでもある。
「俺の軍はそなたたちを守るためにある! 怯えることなく日々の務めを果たすが良い!」
王宮へと続く大通りを駆けながら民に告げると、歓声は一段と大きくなった。
リカードとの対決を考えると、国境から従えてきた諸侯を領地に帰してやることはまだできない。主だった者は王宮や王都周辺に居所を与えるとして、兵はまた郊外に天幕を林立させることになるだろう。更には、遠征に参加しなかった者たちも改めて招集しなければならない。王都の周辺にはしばらく各家の戦旗が翻ることになるだろう。
だが、それは決して民の暮らしを脅かすものではなく、むしろ守るためにいるのだと、王である彼の言葉で約しておきたかった。
王宮でも、ファルカスは跪く官吏たちに歓迎された。こちらは忠誠云々に加えて、王自らが決裁しなければならない書面が溜まっているからだろう。一日や二日で完全に処理できるものではないにしても、とりあえずの量の確認、遠征中の出来事のごく大まかな報告、将兵の落ち着く場所の割り振りと、すぐに決めなければならないことも多かった。遠方の諸侯を呼び集める書簡には、王自身の署名と印璽がなければならないから、その手配もある。
次々と命令を下す合間に、ミーナとマリカの元へ無事を報せる遣いも送る。彼自身で伝えてやりたいのは山々だったが、リカードやアンドラーシとの間に何があったか正確に把握するまでは、直に会うこともできはしない。
アンドラーシを執務室に呼び出すことができた時には、だから夜も遅い時間になっていた。日中も彼の傍について、留守中の報告や諸々の采配に忙しく立ち回っていた側近を酒肴で労いながら、ようやく長く心に懸かっていた疑問を解く機会がファルカスに巡ってきたようだった。
「リカードとミーナに何が起きた?
「は。臣がバラージュ家にいる時に、王妃様の手紙を受け取ったのが切っ掛けでして――」
彼自身も長い一日で
彼が口を挟んだのは、アンドラーシの話がひと段落ついてからのこと――それまで耐えた、というよりは、とうとう黙っていられなくなった、と言った方が良かったかもしれないが。
「待て。それではもう少しでミーナがリカードに攫われるところだったのではないか」
「はい。夜が明けるかどうかのうちに門を開けさせて王宮に急いでみれば、リカードの手の者がおりましたから焦りました。もちろん、王妃様もぎりぎり間に合うように図ってくださっていたのでしょうが」
朗らかな――ともするとへらへらしている、とも見える――笑顔を浮かべていることが多いアンドラーシも、さすがにその時のことを思い出したのか神妙な顔で頷いている。預かり知らないところで妻子が敵の手中に落ちていたかもしれないと、今になって伝えられたファルカスの衝撃と――怖れは、なおのことだ。
「……無茶をしたものだ……!」
「それも全て陛下のため。
思わず上げた声に、しかしアンドラーシは宥めるように微笑んだ。そして述べたこともまた、ファルカスの疑問のひとつに答えるものではある。すなわち、王妃を嫌う男がどうして王妃のために奔走したのか、という。この男の彼への忠誠は疑う余地のないものだから、王妃嫌いも、無知と無力に由来しているようだったから。だから、父の罪を自覚して行動を起こしたミーナに助力する気にもなったということだろう。
「それに、クリャースタ様のことをお気に懸けていらっしゃるご様子でもありました。あの方と並んで陛下のお傍にいても引け目を感じることがないような、働きを、と……」
「そうだったか」
アンドラーシが付け加えたのを聞いて、ファルカスの納得は深まった。側妃への贔屓があるからこそ、その影響で王妃が変わったのを好ましく捉えるのはありそうなことだ。だが、その納得は同時に懸念すべき点があることを思い出させる。
――この者には、まだ言ってなかったな……。
アンドラーシがにこやかに口にした、側妃の婚家名――その、不吉な意味を。
クリャースタ・メーシェ。復讐の誓い。シャスティエの機転もあって、夫のための復讐と、意味を捻じ曲げて喧伝することには成功したが。心酔していた側妃の秘密を後から知らされたら、アンドラーシも裏切りと思うだろうか。あの時あの場にいた者ならば、事前に示し合わせる余地などなかったことは分かってくれるはずなのだが。
――余計な者の口から知らされる前に、よくよく言い含めていた方が良いのだろうな。ジュラ辺りからも口添えをさせて……。
ミリアールトへと発ったイルレシュ伯が戻るには、まだ時間がかかるだろう。ならば、シャスティエが王宮に辿り着いた時に安心して任せられる者を確保しておかなければ。黒松館で過ごした日々、ブレンクラーレで再会してからのわずかな機会――最近の彼の記憶に残るシャスティエの顔は、ほとんど常に憂いと不安に沈んでいた。その原因のほとんどを負う身としては、妻の心の安寧のためにできるかぎりの手を尽くしたかった。
「クリャースタ様は――ご一緒では、なかったのですね……?」
主君の内心など知らないアンドラーシは、自ら口に出して思い出した、とでも言うように側妃の所在を尋ねてきた。その問いかけそのものがファルカスに自身の不甲斐なさを思い知らせるのだとは、考えてもいないのだろう。実に何気ない口ぶりだった。
「ああ。まだ掛かるだろうな」
無論、臣下に弱気を見せるつもりなど微塵もないから、彼の方でもなるべくさらりと答えるのだが。内心では、シャスティエに思いを馳せるととても冷静ではいられない。
シャスティエを中心にした一行は、まだブレンクラーレの領内に留まっているとか。胎児や母親の容態を始め、互いの位置や進路の状況についての連絡はこまめに行わせていたつもりだが、ファルカスが王都へと急ぐにつれて、妻子の状況を報せる書簡が届くのは次第に間遠になっていってしまった。
今この瞬間、妻はどうしているのか。生まれてもいない我が子は無事なのか。感傷に囚われかけたのを自覚して、ファルカスは軽く首を振った。彼には対処すべきことがあまりにも多く、その全てが妻子の未来に関わっている。妻たちと子供たちのことを思うならば、まずは目の前の事態に取り組まなければならないはずだった。――つまり彼がなすべきは、リカードの動向を確かめること、に集約される。
「側妃のことは今は良い。とにかく――話を聞けばお前の書簡にも納得がいった。娘にしてやられたとなれば、リカードはさぞ怒り焦ったことだろうな」
「それはもう。あの時も、王妃様は全くお見事な振る舞いをなさったのです」
「ミーナを矢面に立たせたのか」
半ば強引に話題を戻してみれば、アンドラーシはまた危機感のない口調でファルカスの眉を顰めさせる。軍を率いて乗り込んでくる勢いのリカードの前に、あの優しくか弱いミーナを出すなど、無謀としか思えないのに。だが、アンドラーシはまた笑って彼の反応を愉しむような顔を見せるのだ。
「あの方のたってのお望みでございましたから」
「ほう……?」
結婚して大分マシになったとはいえ、この男は他者に対する気遣いが薄く、揉め事を喜ぶ厄介な気質がある。当人のことだけならばそれで敵を増やすのも勝手だが、彼の妻が関わることとなれば話は別だ。怯えるミーナに無理を強いた気配が見えたならば叱らなければ、と息を整えて――だが、その構えがアンドラーシに対して
ファルカスの試すような視線に応えてアンドラーシが口を開く前に、執務室の扉が音高く開け放たれ、官吏が走り込んできたのだ。
「陛下! 火急のご報告がございます……!」
「何事か」
立ち上がり、跪いた官吏に大股に歩み寄りながら、真っ先に頭に浮かんだのはシャスティエのことだった。王都までの道中のどこかで、不測の事態が起きたのでは、と。しかし、引き攣った顔のその男が口にしたのは、全く別の名だった。
「ティゼンハロム侯爵でございます。侯爵が、ヴァールのジョルト卿を討ち、逆らう家臣も皆殺しにしたと――そして、同じ目に遭いたくなければ従えと、傘下の諸侯に呼びかけているとのことでございます」
「……あの者に傘下も何もあるまい。侯爵風情が諸侯を従える権威があるかのように語るのは、心得違いも甚だしい」
「も、申し訳ございません……!」
王の不機嫌な指摘に官吏は平伏したが、ファルカスの怒りの向かう先はもちろん目の前の男ではない。彼の臣下を彼の民を、またも勝手に損なったリカードに対しての怒りが彼の裡に激しく煮え滾っていた。
リカードに討たれたという者は、確かに従順な臣下ではなかった。ティゼンハロム侯爵家の走狗と呼んでも差し支えのない存在でさえあっただろう。だが、それでもリカードは王ではなく、彼こそがイシュテンのあらゆる者の主君であるはずなのだ。王の他にいったい何者が、その国の民を害することを許されるというのだろう。リカードの暴挙は、ファルカス自身に刃を向けたのにも等しいことだ。
――いよいよなりふり構わなくなったということか。望むところだが……!
「陛下。どうなさいますか」
「どうも何も。なすべきことは変わらぬだろう」
アンドラーシまでも表情を改めているのは、彼の怒気は傍目にも明らかになっているからだろうか。冷静さを失っていないと示すため、ファルカスは敢えて笑ってみせた。官吏が息を呑む音が聞こえたから、思ったような効果があったかどうかは分からないが。
「既に諸侯は呼び集めている。喧伝すべきリカードの悪事が増えたというだけのことだ」
「は……」
リカードの行いは、結局は自らの首を絞めているだけだ。明らかな非道を働いた者に、望んで従う者などいるはずがない。どの道、彼の側につく気のある者たちは王都を目指している最中だろう。焦って動かずとも、諸侯が集うのを待ってできるだけ多くの者に呼びかけるのが得策というものだ。
「それよりも話の続きだ。ミーナはリカードに何を言ったのだ? あの狸めを、いったいどのようにして追い詰めたのだ?」
この場で打てる手はない――ならば今しかできないことをするべきだ。諸侯が集うのを待つ間こそ、彼が妻子と話す時間を持てる貴重な機会のはずだった。
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