23. 堕ちる星、昇る星

第1話 襲撃 イシュテンのとある領主

 王が率いる軍は、無事にブレンクラーレとの国境を越えたという。


 その報せを受けて、彼は急ぎ領地を離れて王都に向かうことにした。元から手元の兵力を調え、領主たる彼の不在の間を任せる者たちの算段もしていた。だから、その報せによって出立を決めた――というよりは急ぐことを決めた、ということになるだろうか。彼にその決断をさせた理由はただひとつ――


 ――王に許しを乞わなくては……今までの不敬の埋め合わせに、せめて一早く参じなければ……!


 という、身を焼くような焦りだった。


 二度に渡るミリアールトへの遠征、ティグリスが起こした乱、そして今回のブレンクラーレ遠征。そのいずれにも、彼は参加していない。その時その時で王が自らの側近やら消耗させても惜しくない陣営の者やらを選んだからではあるが、何よりもまず彼自身が志願することをしなかった。彼が信じていたのは王の権威よりもティゼンハロム侯爵の力であって、若い王など王冠の仮の置き場所程度にしか思っていなかったのだ。

 無論、彼の侮りは王にも伝わっていただろうし、あの矜持高い青年はさぞや不快に思っていただろうが――イシュテンの諸侯の王への忠誠など、多かれ少なかれ彼と似たようなものなのだ。あからさまに反抗を示した訳でもなし、ティゼンハロム侯爵の庇護がある限り、彼程度の存在を一々咎めはしないだろうと、ある意味高を括ってきたのがこれまでだった。


 だが、彼が立ち居振る舞いを考える間もなく、状況はめまぐるしく変わってしまっていた。


 側妃の懐妊だけならば、まだ静観を決め込んだのは甘い対応ではないはずだった。ティゼンハロム侯爵が無事に生まれさせたり成長させたりするとは思えなかったし、実際には生まれたのは継承権のない王女に過ぎなかった。

 ブレンクラーレ遠征についても、側妃の美貌に王が正気を手放したとしか見えなかった。アンネミーケ王妃の、ティグリスの乱への介入――それは、一見もっともらしく聞こえなくもなかったが。結局のところ、黒幕であろうティゼンハロム侯爵を表立って糾弾できないことから来る、八つ当たりのようなものだろうと彼は見ていた。そのような無謀に自家の兵を出すのを渋ったからといって、誰がその判断を誤っているなどと思うだろう。ブレンクラーレといえば歴史ある大国、言いがかりのような口実で攻め込んで無事で済むはずがないではないか。


 シャルバールの復讐、などという甘言に乗せられて意気高く出陣した者たちを、彼は醒めた目で眺めたものだ。果たしてどれだけが無事に帰ってくることか、帰れたとしても王の居場所が残っているかどうか、ティゼンハロム侯爵に従っていた方が間違いがないだろうに、と。自身の選択の正しさを疑わず、悦に入ってさえいたと思う。


 なのに、今の状況はどうだ。いつの間に、一体どうしてこうなったのか、彼には皆目見当もつかなかった。


 ――誰のせいだ? 王妃か? アンドラーシの若造か? ティゼンハロム侯爵も、なぜあのように迂闊な真似に及んだのだ?


 気弱な王妃が父親に背くことも、王の敵の娘を嫌っているはずのアンドラーシが王妃に手を貸すことも、これまでならば想像もできないことだった。更に訳が分からないのは、ティゼンハロム侯爵が私兵を王宮に踏み込ませて、反逆に問われるような大きな失態を自ら犯したことだ。


 王はブレンクラーレから帰国する。討ち取られなかったばかりでなく、見事に勝利を収めて、側妃を取り戻して。勢いに乗った王は、諸侯の支持を得て――こうなった以上、内心はともかくとして王を王として崇めないことは不可能だ――ティゼンハロム侯爵を叩き潰そうとするだろう。

 侯爵も今さら娘婿に頭を下げて恭順を示すなどはできないだろうから、焦りがあったのは理解できるのだが――そこを考慮しても、あの老獪かつ忍耐強い策謀家にしては、此度のことはあまりに性急に過ぎる気がする。


 ――ありもしない王妃の手紙をあると言い張るなど……怒鳴りつければ王妃むすめは黙るとでも思っていたのか……?


 王妃は父に助けを求める手紙を送っていた、だからこそ臣下ののりを越えてでも兵を動かしたのだ、と侯爵は主張しようとしていた。彼もそれを信じたからこそ、一度はアンドラーシを糾弾すべく王宮に乗り込んだというのに。侯爵は、手紙を渡した者を出せという王妃の主張についに答えることができなかった。それによって、諸侯の心象も決まってしまった。


 ティゼンハロム侯爵は、実際には手紙を受け取ってなどのだろう、王妃を恫喝して自身の証言に沿う言葉を吐かせることで、自らの行いを正当化しようとしていたのだろう、と。


 侯爵の立ち居振る舞い次第で、王の不在の間に諸侯を味方につけることも王を迎え撃つ体制を整えることも十分可能だったろうし、彼はそれを期待していた。幼いマリカ王女を王として戴くことになるのは少々不本意だが、頼りない王であるほど、その位を守るためにも従う者は重用されるだろうから。


 だが、そのような計算ももはや過去の話だった。


「反逆者扱いはご免だ……!」


 アテが外れた苛立ちを声に出しつつ、彼は音高く舌打ちした。

 恩を売るどころか、ティゼンハロム侯爵に従っていては身の破滅だ。王は思いのほかに上手くやって、ティゼンハロム侯爵は思いのほかに下手を打った。彼自身も、賢く立ち回ったつもりで、ここまで王のために戦ってこなかったのは失策ということになってしまうが――せめて、ティゼンハロム侯爵の巻き添えを食らう形で罪に問われるのは避けたかった。だからこそ出発を急ぎ、叛意ないことを王に訴えようとしているのだ。




 正装を整え、今にも屋敷を出て馬を駆ろうとしていた時だった。外が騒がしいのに気付いて彼は眉を寄せた。

 領主かれの焦りや不安が、もしかしたら兵たちにも伝わっているのかもしれないが、戦いに赴くのでもないのに浮足立って諍いを起こしているのだとしたら良からぬことだ。王都では王やその側近どもから冷たい目を浴びることもあるだろう。領地にいる時から足並みを乱しているようでは、先が思いやられる。


「何事だ? 何を騒いでいる……!?」

「殿様――」


 叱責しようと上げかけた声は、扉が音高く開かれる音によって遮られた。これもまたあってはならない無作法、彼は一層機嫌を傾けて、礼儀を忘れた従者だか召使だかを怒鳴りつけようとしたが――


「敵襲でございます!」

「何だと!?」


 青褪めた顔で転がり込んで来た従者が叫んだことに、彼もまた顔色を変えた。


「何者だ!? 王はまだ国境を越えたばかりではないのか!?」


 敵、と聞いて彼が真っ先に思い浮かべたのは王だったが、同時に不可解だ、とも思っていた。王が彼程度の存在を一々咎める可能性などごく低いのだ。恐らくは快く思われていないのは確かにしても、彼より先に不敬や不服従を罰せられるべき者は多くいる。第一、彼の領地はブレンクラーレの国境とはまるで違う方向だ。万が一、王が他の諸侯への見せしめとして手近な者を標的にするとしても、彼が選ばれるはずがない。


 敵襲などあり得ない――だが、変事を捉えているのは、今や彼の耳だけではなかった。人馬の悲鳴や怒号に加えて、彼の鼻をつくのは焦げ臭い臭い。それに気付けば、ばちばちと火の粉が爆ぜる音も聞こえてくるし、冬に似つかわしくない熱も肌に届く。屋敷に火がかけられている――あり得ないはずの敵襲が、今まさに起きているのだ。


「王ではありません! あの紋章は――」

「紋章を確かめられたか。一体どこのバカ者がこのような真似に及んだのだ!?」


 引き攣った悲鳴のような声で訴える従者に、彼は詰め寄った。王の凱旋とそれに続くティゼンハロム侯爵との争いを予感して、イシュテンの全土が緊張に息を詰めている時期だというのに、わざわざ要らぬ波風を立てようとするのは度し難い愚か者だとしか思えなかった。


 ――この機に乗じて領土を奪おうとでも!? 王も咎める余裕がないから、とでも!? 何と図々しい……!


 主の怒声を浴びた従者は顔を一層青褪めさせ、声も情けなく上擦った。そのおどおどとした様子も、彼の苛立ちという火に油を注いだ。


「太陽の紋章……十三ティゼンハロムの、光条の……」

「何」


 もう少しで殴りつけてつかえた言葉を吐き出させようとしていた瞬間――従者の唇から零れた言葉を拾って、彼は絶句した。そして、気付く。従者が恐れていたのは彼の怒りなどではなく、不意に襲ってきたなのだと。


 ――ティゼンハロムの紋章が……なぜ……?


 それもまたあり得ないはずの名を挙げられて、知らず、彼の肌を悪寒のようなぞわりとした感触が這う。そこに不意に第三の声が響いて、彼は思わず飛び上がった。


「何だ、出かけるところだったのか。――ファルカスめに慈悲を乞おうというのだな。思った通りの日和見の惰弱者めが……」


 従者が開け放ったままだった扉から、声の主が入室してくる。彼も何度も聞いたことがある、しわがれているが威厳ある悠然とした声。同時に空気が動いて、血と煙の臭いが室内に運ばれてくる。


「ティゼンハロム侯爵……!? これは――」


 従者が報告したばかりの太陽の紋章を、彼は直に目にすることになった。老齢を感じさせない頑健な体躯のティゼンハロム侯爵の纏う鎧に、煌びやかに彩られたものとして。この老人が自ら鎧を纏い剣を帯びて戦場に立つなど、一体何年ぶりのことだろう。戦場――そう、侯爵の鎧は既に血で汚れ煤で曇っていた。彼の領地を侵し、屋敷を襲ったのは紛れもなくこの老人の率いる軍なのだと、突きつけられるようだった。


 呆然と目と口を開ける彼の顔が滑稽だったのか、ティゼンハロム侯爵は口を横に裂いて笑った。牙を剥く狼を思わせる獰猛で危険な笑顔だ。


「必ず怖気づく者が出るだろうと思っていたのだ……! これまでの恩を忘れ、ファルカスに尻尾を振ろうという裏切者がな!」

「私は、その……っ」


 背信を詰られて、彼は抗弁の――あるいは弁解の言葉を探そうとしたが、見つからなかった。屋敷の様子を見れば、彼が王宮に赴こうとしていたことは一目瞭然、ティゼンハロム侯爵のもとに馳せ参じようとしていたのだ、と述べようかとも一瞬頭を掠めたが、それは破滅をほんの少し先延ばしにするだけに過ぎない。この上ティゼンハロム侯爵に従えば、王への反逆にまでも加担させられることになる。そして王は自らに逆らった者を生かしておくほど甘くはないのだ。


「まあ良い。誰も、自らに火の粉がかかるのは恐れるもの。なるべくならば痛みを避けたいと思うのは人の性というものだろうな」

「は、はあ……?」


 意外なほどの寛容な言葉にも、安堵することなどできるはずもなかった。侯爵の言葉が本音ならば、この屋敷を攻めているのは絶対におかしい。今も、室外からは争いの音――鋼と鋼が噛み合う鋭い剣戟の音、肉が断たれ骨が砕ける鈍い音、怒号と悲鳴が聞こえている。主たる彼が察知する暇もないうちに、彼の家臣や兵たちが蹂躙されているのだ。


 何より、侯爵の笑顔が怖い。目を細め、唇に弧を描かせてはいるものの、眼光はあくまで鋭く、彼の手足を縫い留めるように身動きを許さない。領地を侵されている点については彼にも抗議する正当な理由があるはずなのに、舌を動かすことができないのだ。


「だから、臆病者どもには思い知らせてやらなくては。どのように振る舞うのが賢いか――今さらファルカスに膝をつくなどと、許されるものか。そなたにはそのための教訓になってもらう」

「それは……どういう……?」


 薄々とは、侯爵の意図を察しながら――それでも、それを自ら認めるのが恐ろしくて。彼がひび割れた声で発した問いへの答えは、剣が鞘から抜き放たれる音だった。


「そなたが何をしようとしていたかは問うまい。もはやどうでも良いことだ。ただ、他の者たちが判断をするための贄になってくれれば良い」

「バカな……」


 呻きながら、彼も帯びていた剣を抜く。白刃の輝きを見た時のイシュテンの男として、ほとんど反射のような行動だった。だが、全く意味のない行動であることに、彼はほぼ同時に気付いていた。

 ティゼンハロム侯爵が単身で斬り込んで来ることなどあり得ないのだ。彼に剣を向けているのは侯爵自身ではなく、その供の者――それも、ひとりやふたりではきかない。襲撃に気付かなかった時点で――否、侯爵に時点で、彼の命運は決まっていたのだ。


「この上王に逆らってどうなると……!? 力づくで従えた者たちでは王に敵うものか!」


 白い閃光が走り、従者の首が飛んだ。噴き出した赤い血を浴び、首が床に落ちるごとりという音を聞きながら彼は侯爵の配下が繰り出した一撃を辛うじて受け流す。そこへ響くのはティゼンハロム侯爵の哄笑だ。


「儂はただ討ち取られるのを待ったりなどはしない! 貴様の首をファルカスに送りつけておびき寄せるのだ! マリカも金の髪の売女も――儂を侮った者どもにはその罪を思い知らせてくれよう……!」

「狂っている……!」


 侯爵の妄執の対象には、側妃ばかりか実の娘の王妃までも含まれているようだった。血走った目に、口から唾を飛ばして吠え立てる様は、確かに傍に寄れば何者だろうと縊り殺してしまいそうな迫力はあったが。恐怖で従えた軍が、ブレンクラーレでの勝利の後で士気が上がっているであろう王とその支持者に勝てるはずがない。そのような狂気に巻き込まれて殺されるなど、願い下げだ。


「反逆ならひとりで勝手にやってくれ……!」


 扉からは次々と敵がなだれ込んでくる一方で、彼の手の者はひとりとして現れない。つまりは全員が殺されるか捕らえられかしたのか。その認識自体が彼の心臓を冷たく掴み、恐怖と絶望が四肢の動きを鈍らせる。それでも、何人かには斬撃を浴びせたはずだったが――


「無論、誰もアテになどしておらぬとも。何者も道具か踏み台に過ぎぬのだ」


 侯爵の嗤いを含んだ声が、何か膜を隔てたかのように遠く聞こえた。より間近に、彼の肉体に響いたのは、刃が骨にあたる硬く鈍い音。彼の、背骨だろうか。身体の中心が熱く、焼けた鉄棒で刺し貫かれたようだった。


 胸の真ん中から突き出した刃と、天井まで噴き上がる鮮血。それが、彼が見た最後の光景になった。

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