第14話 娘のもとへ シャスティエ
シャスティエは――仮にも王の妃でありながら――イシュテンの地理には疎い。王宮と、もう燃え落ちてしまった黒松館を除けば、王やミーナに連れ出してもらった王都近郊の景色くらいしか馴染みがあると言えるものはない。
だからここがイシュテンとブレンクラーレの国境だ、と言われても今ひとつ実感は湧かなかった。
「ここまで御子共々無事にお送りできたこと、心からお喜び申し上げます」
「ええ、ありがとうございました」
ただ、アンネミーケ王妃が派遣してくれた医師や兵がそろって跪いてこう述べるからには、確かに彼らはここまでしか来ることはできないのだろう。傍目にはただ草原が広がっているだけに見えるけれど、国境とは明確に線が引かれているものとは限らないことくらいは知っている。
――
その時に一緒にいて、なのに今は地上のどこにもいない
胎に胎児を抱えていることは、果たして良かったのか悪かったのか。我が子を無事に産んでやりたいという一念がなければ、今のシャスティエはまともに飲み食いをする気にはなれなかっただろうから。彼女は、胎の子によって辛うじて生かされているのかもしれない。子を守るのが母の努めだろうに、全く情けないことだ。
「今ブレンクラーレとの国境付近を預かるのは、陛下への忠誠篤い者ばかり。王都までは安全な経路を辿りますので、どうか今しばらくのご辛抱を」
「ええ、分かっています」
ジョフィアの父が気遣う目を向けてくるのにも、申し訳ないとは思っている。何といっても彼の妻――フェリツィアの乳母は、シャスティエのために命を投げ出してくれたのだ。その忠誠に報いるためにも、生きていたくないなどとは思ってはならないのだろう。少なくとも、胎にいる子を無事にこの世に送り出すまでは。
――王子とは、限らないのだけど……。
「王妃陛下も王太子殿下も、御身のご無事を心から祈っておられました」
「ブレンクラーレを通らせていただく間に何もなかったのは、
自国の王妃たちの印象を少しでも良くしておこうという思惑もあるのだろうが、ブレンクラーレの者たちは彼女と子どもたち――ジョフィアも含めて――の健康のために心を砕いてくれた。王がティゼンハロム侯爵との対決を控えている今、両国の遺恨は水に流すのが良いのだろう。そのためにも、シャスティエは無事に王都まで辿り着かなければならない。
「摂政陛下のご厚意も皆様の献身も、必ず我が夫にお伝えしましょう」
「まことにありがたく存じます」
シャスティエが掛けた言葉に、医師たちは顔を輝かせた。国を挙げて兵を動かしてまで救い出そうとした側妃の執り成しがあれば、王の勘気も和らぐとでも思ったのだろうか。彼女の方は、彼らほど無邪気に信じることはできないのだけど。
――結局ほとんどお話できなかったわ……。
レフの死を知らされた時以降、シャスティエが夫と言葉を交わす時間はほとんどなかった。そもそも姿を見かけることさえ稀で、それも遠目に見るばかりで。ジュラやグニェーフ伯は頻繁に見舞ってくれても、案じているとの言葉はその度に伝えてもらってはいても、実際に会うことができないのでは、王の本心を信じ続けるのは難しい。
無論、軍を分けて一刻も早くイシュテンに戻ろうとした王の判断は正しいと思うし、女ひとりのためにただでさえ多忙な指揮官の時間を割いてもらいたいなどと期待してはならないのだろうけど。会ったところで何を言えば良いのか分からないし、また涙を見せるようなことにでもなれば更に幻滅される恐れもある。だから、会わないままで別れたのは良かったのかもしれない。
でも。それでも。話すべき言葉がみつからなくても、会わせる顔がないと思っても、夫の姿を思い浮かべると胸が締め付けられるように痛んだ。図々しい願いとは知りながら、また会いたいと思ってしまう。黒松館での日々は、不安に駆られるあまりの何かの間違いのようなものではあったけれど、確かにシャスティエの心を変えてしまった。王を許したいと――許せると、思い始めたところだったのに。イシュテンの諸侯に対しての方便や建前などではなく、共に生きていく道もあると、信じようとしていたのに。
直に話す機会を得た婚家名のことはまだしも、レフのことでは彼女の方こそ夫に対して顔向けできないことをしてしまった。王が命を賭けて戦ってくれたこと、無事に戻ってくれたこと、心から嬉しいと感じたのに、ちゃんと伝えることができなかった。敵の死を悲しんで涙を流した妻のことを、夫は一体どのような想いで見たのだろう。
「クリャースタ様、こちらへ――王都から迎えが参っております」
ジョフィアの父が示す方を見れば、草原に黒く
「はい。こちらこそ、もうしばらくよろしくお願いいたします」
あるいは、世継ぎかもしれない子のためでしかないのかもしれないけど――夫の心が向けられているのを仄かにでも感じることができるのは、シャスティエにとって得難い救いだった。
国境という大きな節目は越えたとはいえ、王都に至るまではまだ相当な道のりを行かなければならない。しかも、無事に到着したとしても、王やミーナとどのように対して良いかまだ決めかねているから、シャスティエの気は重かった。馬車での移動は身体への負担も大きいもの、ブレンクラーレの者たちと別れの挨拶を交わしたほんのひと時の後はまた延々と続く振動に耐えるのかと思うと、この場から動きたくないとさえ思えた。でも――
「シャスティエ様――クリャースタ様……!」
「イリーナ!」
懐かしくも良く知る声を聞いて、シャスティエは久しぶりに大きな声を上げていた。
陽光に煌く金茶の巻き毛に、潤んだ若草色の目。シャスティエを待つイシュテンの兵たちにひとり混ざっていた華奢な人影は、イリーナ――ミリアールトからずっと付き従ってくれていた、忠実な侍女だったのだ。
「クリャースタ様、よくぞご無事で……!」
「貴女こそ。ずっと、心配していたの……」
大きな腹を気遣いつつも腕を広げて飛び込んてくる侍女を受け止めると、イリーナの髪や肌から覚えのある良い香りが漂って、シャスティエは目の奥が熱くなるのを感じた。何しろ最後にイリーナの姿を見たのは燃え落ちる黒松館でのこと、その時この侍女は血と焼け焦げる木材の臭い、それに炎の熱を浴びて恐怖に引き攣った顔をしていた。グニェーフ伯から無事とは聞いていたけれど――レフに、ミリアールトとの内通を疑われるだろうと脅されたこともあって、実際その姿を見るまでは安心できないと思っていた。
お互いの存在を確かめるかのように、シャスティエはイリーナとしばし固く抱き合った。そしてやっと腕の力を緩めた時、イリーナは目尻の涙をそっと拭う。
「フェリツィア様は健やかにお育ちですわ。しばらくは、バラージュ家にお世話になっていたのですけど――今は王宮でお母様をお待ちしていらっしゃいます」
「フェリツィアも……そうね……」
生き別れになった娘のことも、常にシャスティエの心を苦しめていた。あの炎を無事に逃れることができたのか、母がいなくなって寂しがってはいないかどうか。つい最近までフェリツィアと一緒にいたのであろうイリーナの言葉は、心の重石を多少なりとも除いてくれたようだった。
シャスティエと共に行動してきたイシュテンの将兵、故国へと急行する方の一団に従うことができなかった怪我人を抱えた諸侯は、ひとまずはそれぞれの領地へと帰るらしい。その後は傷を癒し体勢を整えつつ王の命を待つのだろう。今回の遠征の正式な論功行賞への召喚と、ティゼンハロム侯爵との対決に向けての協力の要請と。ブレンクラーレ遠征がめでたく成功に終わった以上は、彼らも王の呼び掛けに応えてくれるものと思いたい。願わくば、帰国の途上では側妃と寝食を共にしたという記憶が彼らの忠誠心に何かしらの良い影響を与えてくれることをシャスティエは密かに願っていた。
例によって山のようにクッションを積み上げた馬車の中で、シャスティエはイリーナと並んで別れていた間のことを語らった。シャスティエの方からは特にレフの最期のこと、イリーナからはフェリツィアの成長に加えて、王の不在の間のイシュテンで起きていたことを。
「伯爵様は、ミリアールトに発つ前にフェリツィア様を訪ねてくださいました。大きくなられたと大変喜んでいらっしゃって……私も、レフのために祈らせてもらいました」
「そうなの……」
――小父様は、もうミリアールトに着かれたかしら。叔母様は、レフのことを知らされた……?
グニェーフ伯は、レフの遺体を母君に届けるという辛い役目を引き受けてくれた。年老いた方の心身に重荷を負わせてしまうこと、母親同然にシャスティエを慈しんでくれたシグリーン公爵夫人――レフの母君が味わうであろう悲嘆と絶望。シャスティエがぬくぬくとのろのろと守られている間にも、時間は容赦なく流れ、事態も移ろっていくのだ。それは、ミリアールトだけでなくイシュテンでも同じことだ。
「……王も、王宮に戻られているのよね? イシュテンは今、どうなっているのかしら。ティゼンハロム侯爵に、何か動きは……?」
祖国のことも、シャスティエにも責任があることで苦しみ悲しんでいる方々のことも気に懸かる。でも、今彼女がいるのはイシュテンで、夫はこの国の王だ。子供たちの未来のためにも、現在の状況を詳しく聞いておきたかった。
「はい、侯爵については、王妃様が大変お見事に振る舞ってくださいました!」
「ミーナ様が……?」
首を傾げたシャスティエに、イリーナがどこか興奮した様子で語ったのは、確かに目を瞠るべきことだった。
ミーナが、父であるティゼンハロム侯爵を反逆者にするために、自らアンドラーシに策を授けた。嘘の――あの方の本意でない――手紙で侯爵をおびき寄せ、私情で王宮に兵を踏み入れさせたと見せかけた。しかも、ご自身で並み居る諸侯の前で実の父親を詰ったのだというのだから驚かされる。
「あの優しい方が……さぞ、勇気が要ったことでしょうに」
誰に対しても言葉を留めておくということができない自身の気性を、シャスティエは決して美徳とは思っていない。むしろ短慮がさせることで、過去の発言のために必要以上に敵意を買っていたであろうこと、フェリツィアを生んでから気付いて青褪めたものだ。
でも、ミーナはそのような苛烈さや刺々しさとは無縁の、優しく穏やかな方だ。王を愛するのはもちろんのこと、ティゼンハロム侯爵も――恐らくは政争からは遠ざけられていたのも幸いして――、純粋に父として敬愛しているように見えた。その方が敢えて侯爵に背くなど、よほどの覚悟に違いない。
「あ……あの、王のためにも、父君の不忠を償いたいと思っておられたようですわ……」
「王のため……そうね、ミーナ様は王を愛していらっしゃるから……」
――私も知っていたのに。ずっと、何てひどいことを……。
ミーナの優しさに癒されながら、その夫を奪い、子まで
王がブレンクラーレを攻める間も、取り残されたのはフェリツィアだけではない。ミーナもマリカも、夫君や父君の不在をどれだけ寂しく思ったことだろう。
「王はシャスティエ様のことを愛しています。でなければブレンクラーレまで赴くはずがありませんもの。それに、シャスティエ様も……でしょう?」
自らの罪をまたひとつ思い出させられて黙していると、イリーナがそっとシャスティエの手を握ってきた。その温もりを愛しく感じながらも、シャスティエは弱々しく首を振る。
「さあ、分からないわ……」
王の想いなど分からない。彼女自身については――分からないというか、望んではいけないように思えてならない。ミーナが夫のために立ち上がった一方で、彼女は守られるだけだったのに。
「シャスティエ様。もうすぐです。もうすぐフェリツィア様にお会いできますから。お腹の御子のためにも、どうかお心を強く……!」
「そうね。フェリツィアには早く会いたいわ……!」
何カ月も会っていない我が子に想いを馳せることで初めて、シャスティエは口元を綻ばせることができた。ジョフィアとほぼ同じ頃に生まれたはずだけど成長の具合も同じようなのだろうか。髪や目の色はどうなっているだろう。母のことを、覚えていてくれるだろうか。妹か弟の誕生を分かってくれるだろうか。
――もうすぐ……。
王と何を話すべきかは分からず、ミーナたちに対しても後ろめたさに身が縮む思いがする。それでも、子供たちは特別だった。子供たちだけは、何があっても無条件に愛しく守るべき存在だから。
「少し、眠るわ……」
成長した娘の姿を夢にでも見ようと、シャスティエは目蓋を閉じた。
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