第13話 杯 アレクサンドル

 王の率いる軍から離れて、ひと足先にイシュテンに戻ったアレクサンドルは、休む間もなく更にミリアールトへと旅立った。ブレンクラーレ遠征の間にぐんと大きくなっていたフェリツィア王女と、ひと時だけでも触れ合うことができたのは大きな慰めだった。彼の無事を喜んでくれたイリーナやアンドラーシ、グルーシャとカーロイの姉弟との再会も。

 胎の御子を労わって、蝸牛かたつむりの鈍さで帰国の途を歩んでいるシャスティエの容態は予断を許さない。母子ともに無事にイシュテンに辿り着くことができるかどうかについては、アンネミーケ王妃が派遣した医師たちも難しい顔で言葉を濁していた。

 だが、もしもこの国に至ることさえできれば、あの方の将来を悲観する必要はないだろう。シャスティエはイシュテンの者からも忠誠を得ることに成功しているし、王にも婚家名の秘密を打ち明けて心を一段と近づけている。レフの死によって、夫婦の心には壁が築かれてしまったようにも見えるが――お互いに想いが恐らくは間違いないこと、時間と御子たちの存在が壁を崩してくれるのを願うしかない。


 ごく少ない、彼がグニェーフ伯と呼ばれていた頃からの部下たちだけを連れた身軽なはずの旅路も、ブレンクラーレとイシュテン、ふたつの国境を越えるのにはそれなりに日数を要した。ミリアールトの懐かしい王都に到着する頃には、この北の果ての国にも春が訪れていたのだ。

 柔らかく温かな日差しに、若葉が芽吹く木々の枝の中には、蕾を膨らませ始めているものもある。他国の者には想像しづらいかもしれないが、ミリアールトにも確かに春はあり、長い冬を耐えた民に新しい命という形で褒美をくれるのだ。


「良い季節に戻ることができましたな……」

「うむ」


 厳しい自然の試練を受ける祖国にあって、過ごしやすく和やかな季節に行き合うことができた供の者たちが、目を細めている。アレクサンドルたちは、この冬をほぼブレンクラーレで過ごした。ミリアールトよりは遥かに南方の地のこと、雪や寒さが堪えることはなかったが、女王の身を常に案じる戦いの日々は彼らの心身をひどく消耗させていたようだった。かつて毎年のように眺めた若葉や花の蕾――元から愛しく貴重なものではあったが、祖国の春がこれほど眩しく目に映ったことがあっただろうか。


 ――ミリアールトの春、か……見ることができて良かったな……。


 足元に目を向ければ、雪が溶けて泥の沼を作り、馬の足を汚しているとしても。彼らに与えられた務めが、祖国の者には決して歓迎されず、むしろ怒りと恨みを買うものだとしても。

 とにかくも、生きて祖国の春を見ることができた喜びを、アレクサンドルは噛み締めた。




 ミリアールト総督のエルマーへの挨拶もそこそこに、アレクサンドルはシグリーン公爵夫人を訪ねた。先の王弟の夫人であり、シャスティエにとっては母親代わりのような存在でもあった。王族がことごとくイシュテンに殺され、女王が連れ去られた後はもっとも高位かつ王家に近しい女性でもあり、総督がミリアールトを統治するにあたっては何かと意見を求め、かつ機嫌を窺っていたと聞いている。


 だが、そのような彼女の立場は今回の訪問にあたっては二の次だ。アレクサンドルがこの高貴で哀れな貴婦人を訪ねるのは、レフの――彼女の息子の遺体を届けるため。だから、彼はこの女性のことを何よりもまず息子を亡くした母親として見るべきなのだろう。


「レフが……こんな……」


 小箱に収められたひと房の金の髪を見て、公爵夫人は声を震わせた。伸ばされた指先もまた細かに揺れて、取り落とすことを恐れてかレフの遺髪に触れることはしていない。訪問の理由はあらかじめ伝えてはあったものの、彼女の動揺を抑える役には何ら役に立たなかったようだった。

 夫人の碧い目に涙が浮かぶのを見て、アレクサンドルの胸は痛んだ。王家の血筋によく現れる宝石の色の目は、本来は青天のごとく輝いていて欲しいものなのに。レフの復讐への怒りに燃えた目といい、シャスティエの憂いと悲しみに沈んだ目といい、彼はこの碧が曇るところばかりを見てしまっている。


 無論、今のこの場において、夫人の心を引き裂いたのは彼自身にほかならないことも良くよく承知しているのだが。


「ご子息の訃報には、まずはお悔やみを申し上げます」

「…………」


 形ばかりの言葉は、我が子の死を突きつけられた母の耳には届いたのかどうか。夫人の色褪せた唇から声が漏れることはなく、碧い目も、レフの遺髪だけに向けられている。


「……顔を、見ていただくことはできませんでしたが。身体は欠けるところなく連れて帰って参りました。父君と兄君方の傍らに眠らせるのが良いのでしょう」


 冬とはいえ、ブレンクラーレからの長い旅路の間、レフの遺体を保存することなど不可能だった。だから、美しかった青年の肉体が腐り落ちる前に、血と内臓はブレンクラーレに埋葬して肉は煮て溶かして、白い骨だけを小さな棺に納めて母に届けることにしたのだ。その他、鷲の巣城アードラースホルストでレフが使っていたという身の回りの品々も、アンネミーケ王妃とマクシミリアン王太子から預かっている。公爵夫人にとっては、さしたる慰めにはならないことだろうが。


 母親の悲嘆を目の前にすることは、アレクサンドルの胸をも痛ませた。彼は長い生涯をミリアールトに仕えてきた。シャスティエやレフたちが孫ならば、公爵夫人は――非常に僭越な感情ではあるが――娘の世代になる。亡きシグリーン公爵との結婚も、その後御子に恵まれた幸せな日々も、彼はよく知っているのだ。


 だが、それでも哀れみのために言うべき言葉を見失ってはならない。錆びついたようにやけに重い舌を無理に動かして、アレクサンドルは厳しい声を作ろうとした。


「イシュテンのみならず、ブレンクラーレにまでも乱を招いた大罪人に対しては過分の処遇と存じます。お気持ちは重々お察し申し上げますが、どうかそこは弁えてくださいますよう……!」

「罪……! ええ、この子の罪は許されないことなのでしょう。それは分かっています……!」


 アレクサンドルの言葉は、やっと公爵夫人に届いたらしい。彼の目から遠ざけ、守るかのように、夫人は素早くレフの髪を掴み取ると胸元に抱え込んだ。初めてアレクサンドルを正面から見据える目には、今は激しい怒りが燃えている。ブレンクラーレの戦場でレフから浴びせられたのと同じ、憎しみに滾る目だった。


「でも、それならばイシュテン王の罪は? ミリアールトを踏み荒らし、王を殺め、私からは夫と息子を奪ったけだものが、どうして何の罰も受けていないのですか? 力では敵わないのは仕方ないことなのかもしれません。でも、どうして貴方や――シャスティエまでが! 怒りも悲しみも忘れてしまったの? あの子の復讐の誓いとやらはどうなったの? 貴方はあの子に復讐を遂げさせるためにイシュテンに向かったのではないのですか!?」


 夫人の言葉のひとつひとつが、つぶてのようにアレクサンドルを撃つ。とはいえ歓迎されるはずがないのは最初から分かっていたこと、衝撃を受けるというよりはやはり、という思いの方が強い。


 ――この方は、まだ復讐の念に囚われたままか……。


 それは仕方のないことだ、とは思う。肉親を奪われた心の痛みが簡単に癒えるはずはない。だからこそ、シャスティエとイシュテン王の絆がこの上なく尊いものなのだ。そして、憎しみと不信を越えて結ばれたその絆を守るためにこそ、彼はこの場にいるのだ。


「クリャースタ・メーシェ様は御名の意味をイシュテン王に打ち明けられました。その上で、復讐はご夫君のために、雪のコロレファ女王・シュネガは戦馬の王と共に進むものと、改めて誓われました」

「そんなこと……!」

「イシュテン王も、クリャースタ様のお心を受け入れ、赦されました。お妃の故郷として、ミリアールトもイシュテンと変わらず庇護されるでしょう」


 公爵夫人の怒りと悲しみ、絶望と憎しみ――それらの感情は、単純に息子を喪ったためか、それとも息子に託した復讐が潰えたためか。アレクサンドルは、見極めようと目を凝らした。


 ブレンクラーレに取り入ったレフが、母君に自身の生存を伝えていなかったとは考えづらい。息子としての情からも、ミリアールトを扇動してイシュテン王の背後を突かせるという戦略上の意図からも。だから、黒松館の襲撃にあの青年が関わっていたと判明した時、アレクサンドルは真っ先にミリアールトに使者を送るよう、王に進言したのだ。もしも公爵夫人がブレンクラーレと通じているなら、彼女を拘束すれば後背の憂いを絶つことができると考えてのことだ。


 総督のエルマーの話によると、レフの生存を聞かされた時、公爵夫人は驚いていたようではあったらしい。ただ、王がブレンクラーレに兵を向けることに対してより驚いていたようだ、とも聞いた。レフがブレンクラーレと結んでいるとの推測は、あの時点では確たる証拠もない危ういものでしかなかった。王がミリアールトを攻める可能性は恐らくは誰もが真っ先に考えることで、だから夫人の驚きは祖国が戦火を免れたことへのものであった可能性も十分にある。


 だが、もしも息子と密かに通じて、復讐を果たす――イシュテン王を討つことを考えていたのだとしたら。その策のためにかえって最後の息子を喪うことになった事実を、この方はどう受け止めるだろう。自責と後悔に苛まれるのはもちろんのこと、王への憎しみは一層深くなりはしないだろうか。


「総督の方も会う度に同じことを仰います。イシュテンに従うことこそがミリアールトの生きる道だと……!」

「臣もそのように信じております。事実、クリャースタ様をお救いするためにイシュテン王が国を空けてまで兵を動かしたことは、その何よりの証拠かと」

「裏切者が、白々しいことを……!」


 言葉によって夫人の心から憎しみを取り除くことなどできるはずもない。ならば、せめてその憎しみが彼に向くようにしなければならない。シャスティエに対して取り繕おうとしたように、レフを手に掛けたのがアレクサンドルだったということにできれば良かったのだが。王は――たとえ衷心からのことだったとしても――臣下が手柄を盗むのを許さなかった。


「臣は、イシュテン王がレフの首を刎ねる場に居合わせて、止めることをいたしませんでした。あの者の存在がクリャースタ様を――ひいてはミリアールトを脅かすと信じておりましたから。それを裏切りと呼ばれるのであれば確かにそうなのでしょう」


 それでも、今公爵夫人の目の前にいるのはアレクサンドルただひとり。レフの最期に立ち合ったことに言及すれば、夫人の碧い目は氷の刃となって彼に突き刺さる。レフとこの方にとっては正義であったはずの「復讐」を否定することも、きっと彼に憎しみを集中させるやくに立つだろう。


「なぜ、貴方が……お前が……生きているの……! 夫も子供たちも皆殺されてしまったのに。年老いた身で、祖国を裏切って、どうして、まだ……!」

「臣は裏切ったとは思っておりません。ほかならぬミリアールトの女王がイシュテンの王と共にあることを良しとしております。おふたりは御子を儲けられ、心を通わせていらっしゃいます。お気の毒とは存じますが、レフのしたことはあらゆる者にとって不幸を呼ぶだけでした」

「分かっているわ! 私もあの子も愚かだった! シャスティエが父たちを殺した男に心奪われるなんて! あの子が、そんなこと……っ!」


 アレクサンドルがこの役目を引き受けたのは、シャスティエとイシュテン王のためにミリアールトが離反する可能性を少しでも減らすためだ。一方的に侵略されて滅ぼされた記憶はまだ新しくとも、イシュテン王がミリアールトの女王のために兵を動かしたことに心を溶かされる者もいるだろう。公爵夫人の復讐心さえ満足させることができれば、女王がいるイシュテンを敢えて攻めようとする者はいないのではないだろうか。


「でも、許すことはできない。どうして皆死んでしまったのに、あの子だけが幸せを得るの? 愛する夫と子供たちに囲まれて……レフのことは忘れてしまうのね……!」


 シャスティエはレフのことを決して忘れないだろうし、王と御子たちと共に過ごしていてもその幸せはもう一片の曇りもないものではなくなってしまっているだろう。王妃とその娘への遠慮がなくなることもないだろう。夫人が考えているほど、シャスティエは愛に盲目になっている訳ではないのだ。


「許していただかなくても構いません。ただ、復讐を諦めていただければ。あるいは――臣の命で、満足していただければ」


 だが、それを指摘することはせず、アレクサンドルはただ微笑んだ。公爵夫人は、自身の愚かさをもう認めた。それは、理屈の上では分かってくれているということ。後は、どのように感情を宥めるかということだけだ。


「臣がやって来ると知って、好機だと思われたのではないですか? の準備をされていたのでは? ……無駄になさるおつもりですか?」


 好機も、準備も。全て分かっているというかのように――事実、彼はこの女性を少女の頃から知っている――、様々な感情に乱れる碧い目を見つめると、夫人は彼から目を逸らした。


「奥様。あの……」


 そして視線を向けたのは、部屋の扉。ちょうど若い侍女が銀盆に杯を乗せて入室してきたところだった。女主人のただならぬ形相に、その娘は入り口で立ち止まってしまい、手も震えて杯の中身を溢してしまう。


 杯を満たしていたのは紅い葡萄酒だった。血のような雫が銀盆にかかり――そして、鏡のような輝きを黒く変色させる。毒の混入を示唆する変化だった。


「あ……こ、これは……!」

「イシュテンに降った者に対して、過分のもてなしをしてくださるのですな。――いただいても?」


 自身の失態に気付いたのだろう、更に手を震わせる侍女が酒を全て溢してしまう前に、アレクサンドルはさっと立ち上がると杯を手に取った。場違いなほどに快活な声も挙げながら――だが、彼の目が銀盆の黒い染みを確かに捉えたことを、公爵夫人が見逃したはずはない。レフの遺髪を収めた小箱を抱きしめたまま、夫人も立ち上がって彼の方へと歩み寄ってくる。


「貴方の仰ることが正しいのだとは分かっています。私は息子を止めるべきだったということも。でも、どうしても納得ができないのです……!」


 叫ぶような高い声が室内に響いた。毒の杯を用意するほどの憎しみだったのだろうに、彼の死を企む夫人の方こそ動揺を露にして唇をわななかせている。水面のような碧い目が潤んでいるのは、先ほどのように息子の死を悼むゆえではなく、混乱の極みにあるからだろうか。激情のために、言葉を選ぶ余裕もないのだろう、夫人はレフの企みを知っていたと半ば自白しているようなものだった。


 ――やはり、か……。もう少しで復讐が遂げられると思ったからこその絶望の深さなのかもしれぬな。


 無条件で自らの非を認め、憎しみを忘れることなど不可能だ。シャスティエでさえ、レフの命が奪われなかったら、という条件でイシュテン王を許そうとしていたのだ。その条件が叶わなかった今でも、アレクサンドルとしてはあの方が夫となった人を憎み続けられるとは思っていないが――


「どうか、飲んでください。そうすれば私も諦めることができる。夫と子どもたちの思い出と一緒に生きて、イシュテンへの報復などは忘れましょう……!」


 公爵夫人は、復讐のもっともささやかな一部分だけでも完遂しなければ心を宥めることができないのだろう。イシュテン王は遥か彼方の地で手は届かず、ミリアールトの支配を覆すこともできはしない。シャスティエもこの方にとっては娘同然だった存在だ、裏切りを詰りつつも憎み切ることは多分難しい。


 だが、彼ならば。長年ミリアールトに仕えながらイシュテンに寝返り、女王を守るためとはいえ屈辱的な政策に携わった彼ならば。復讐の的と定めても辛うじて不足がないのだろう。自らの手で息子の仇を討ったという実感と引き換えに、この方は残りの遺恨は全て呑み込んでくれると言っているのだ。


 ――それで十分だ……元より争いを好む方ではなかった……。


「そのお言葉、大変嬉しく存じます。――ミリアールトのことを、よろしくお願いいたします」


 アレクサンドルは公爵夫人に向けて杯を掲げると軽く微笑み――そして、躊躇うことなくひと息に飲み干した。夫人の碧い目、シャスティエと同じ色の美しい目が彼の一挙一動を凝視していた。毒を入れられてなお、公爵家が供する葡萄酒の味も香りも芳醇で、彼に心地良い幸せな感覚をもたらした。彼にできることはすべてやり切った、という満足感のようなものなのかもしれない。


 空になった杯がアレクサンドルの手から離れる。杯が床に落ちる前に、侍女が息を呑む音が小さく耳に届いた。

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