第12話 芽生えた迷い エルジェーベト
ティゼンハロム侯爵家が王都近郊に所有する別荘で、エルジェーベトはリカードが今度こそマリカたちを連れて帰るのを心待ちにしていた。
アンドラーシなどという若造に王宮を抑えられたのは、確かに機先を制されたということではあるけれど、でも、同時に相手の失態でもあるはずだったから。そもそも王宮を離れたことさえ王妃の意思によるものだったかどうか分からないのに、その名を盾にして王都の門を開けさせるなど、専横と呼ぶほかない暴挙だ。ティゼンハロム侯爵家に与する者でなくても眉を顰める者は多かったし、そのような者たちの数を恃んで取り囲めばマリカたちの奪還も十分可能だと踏んで、リカードは私兵を繰り出して王都に臨んでいたのだ。
アンドラーシの独断を責める形で諸侯の支持を取り付け、イシュテンを掌握した上で遠征から戻った王を迎え討つ――その、はずなのだが。
屋敷の門の外で王都の方角を望むエルジェーベトの目に、騎馬が蹴立てる砂埃が見え始めた。リカードの帰りだとしたら、思いのほか早い。アンドラーシが大人しく人質にもなるはずのマリカたちを引き渡すとは考えづらいし、リカードが軍を率いて行ったと言っても、最初から血腥い命の取り合いになるはずもない。まずは言葉で、諸侯に自らの理を訴える段階を踏むのが道理というものだろう。
リカードはもちろん、アンドラーシも相手に言い負かされて引き下がるようなことはあり得ない。王への叛意を疑われるのを恐れて、王都を本格的な戦火に曝すような真似は、双方できないのだろうけど。でも、代表者同士での決闘だとか、少数での小競り合いくらいは十分に想定できる事態だった。だから、リカードの早すぎる帰還、それ自体に変事の臭いを感じ取ってエルジェーベトの神経は波立った。
――怪我人もいない、装備も汚れていない……戦った訳では、ないのかしら?
騎馬の一団が屋敷に近づくにつれて、嫌な予感は高まっていく。リカードと、長子のティボールの姿も認めて、主たちの無事を取りあえず確認することはできたけれど。人の表情が見て取れる距離になると、誰もが不安や焦燥――それに、恐怖めいた感情を浮かべているのにも気付かされて心臓が冷える。馬の足を急がせているようだから敵に追われているのか、とも思ったけれど、地平の向こうから砂埃が続くようなこともなかった。
命を賭した戦いに臨んでも決して怯むことがないのがイシュテンの男というものなのに。傷ひとつ負ってもいない癖に敵前から逃れ、しかも恥ずべき感情に囚われて足並みを乱しているとは一体何が起きたのか。
――マリカ様たちは……いない!
何より、一団は馬車を守っている訳でもなかったし、女を同乗させている騎馬も見当たらなかった。マリカたちがいないのなら、どのような成果があったとしても今回の動きはエルジェーベトにとっては失敗だ。そしてリカードたちの顔色からして、アンドラーシにしてやられたということではないのだろうか。
「殿様、首尾は……!?」
マリカたちの救出に失敗したのなら、詳細を聞き出そうとすればリカードの逆鱗に触れるであろうことは分かっていた。それでも、居ても立っても居られずに、エルジェーベトはリカードが馬から降りるか降りないかのところに駆け寄った。
「貴様などあの時殺しておけば良かった……!」
「あ……っ」
答えが与えられないのは、いつものことだった。怒りの捌け口にされるのも。だが、人前で髪を掴まれて引きずり倒されるのは、さすがに初めてのことだった。頭皮が引き攣れ髪が千切れる痛み、地面に叩きつけられる衝撃に思わず身体を丸めていると、エルジェーベトの顔のすぐ傍でリカードが足を踏み鳴らすのが見えた。頭を踏み砕かれるのでは、と恐れて転がる無様な姿が多少なりともリカードの鬱憤を晴らしたのか、たっぷりと毒を含んだ嘲笑が彼女に注がれた。
「マリカは貴様も見捨てたようだぞ。まったく、あの恩知らずの娘めが……!」
「うそ……」
呆然と呟いても、倒れ伏す彼女を顧みる者はいなかった。誰も女ひとりにかまけるどころではないようで、馬の蹄も人の足音も慌ただしく去って行って。その忙しなさに、何か思いもよらぬ悪いことが起きているのだと、エルジェーベトは改めて思い知らされた。
エルジェーベトが汚れた服を着替え、乱れた髪を整える間に、王宮で何が起きたかは使用人たちの間に野火のように素早く広がっていた。
マリカは、エルジェーベトに託した父への手紙、助けを求める報せをないものと言い張ったらしい。届けた者がいるなら出して見ろと言って。そして娘のために兵を動かした父の行動を、独断と非難して言い争いになったらしい。
既に死を賜ったはずのエルジェーベトが生きていることが分かれば、それは確かにリカードの反逆の動かぬ証拠になる。彼女の存在を目にしたリカードが苛立ちを露にしたのも無理のないことだし、もしもエルジェーベトが引き出されることになれば、今度こそ首を刎ねられていたことになるだろう。マリカがエルジェーベトを見捨てたというのも、決して大げさな言いようではないのかもしれないけれど――
――違う……! マリカ様は私のことを案じてくださったはず……!
エルジェーベトのこれまでの経緯を知る者もいるのだろう、リカードのもとへと向かう彼女に使用人たちの目が突き刺さるのが感じられた。哀れむような蔑むような視線は彼女を苛立たせ、足取りを乱れさせる。主のための献身が報われないからの哀れみか、罪をも厭わないことへの蔑みか――いずれにしても、彼女が有象無象の視線を気にすることはない。再会できなかったマリカの心の裡を推し量るのに、あまりに忙しくて。
リカードがエルジェーベトの存在を表ざたにするはずがないことは、マリカも分かっていただろうと思う。リカードもまだ臣下の体面を保つ必要があることを知っているからこそ、王妃の地位を盾にしようとしているのだから。ならば、マリカは彼女のことを見捨ててなどいない。絶対にリカードが隠し通すとの確信があったならば、エルジェーベトの命は別に脅かされることはない。そう考えると、リカードの言葉はやはり間違っている、はずだ。
だが、そのように自分を慰めようとしたところで、マリカが父を裏切った事実は動かせない。事前にリカードたちは、マリカがアンドラーシに操られていることも想定に入れていたけれど、自らの言葉で語ったというなら、マリカ自身の考えということになるのだろうか。マリカを閉じ込めて王妃の権威だけを利用することは容易いだろうが、意に反した言葉を言わせることは難しい。マリカが不本意に捉えられていたのだとしたら、父親が目の前に現れたのに助けを求めないはずがない。
だから――認めるのはとてつもなく辛く悲しいことだけど――マリカの心に、エルジェーベトには想像もつかない変化が起きたのは間違いないらしい。否、その兆候のようなものは確かに見えていなくもなかったけれど。側妃に盛ろうとした毒の件でも、エルジェーベトが自身のために罪を犯したことに、ひどく動揺していたようだったし。愛しい主の幸せのためにしたこと、決して恩を着せるつもりなどなかったのに。
――マリカ様……父君様とこの私の愛を、どうして分かってくださらないの……!?
リカードのこと、王のこと、側妃のこと。マリカが知る必要はないことばかりだったのに。リカードに敵対する者たちが、余計なことを吹き込んであの方を惑わしたのだ。全てはリカードの名を貶め、王妃の権威を利用するためだけに。そんなことのために、疑うことさえ知らなかったマリカに、父への不信を植え付けたこと、全くもって許しがたい。
許しがたいけれど――今のリカードに、王や側妃、その側近たちに思い知らせるだけの力は残っているのだろうか。マリカに背を向けられ、先の行動からは正当性を奪われた。王は大国ブレンクラーレを破ってまもなく凱旋する。そんな中で、逆臣――もはや言い逃れようもなくリカードは逆臣だ――に従うという諸侯は、一体どれほどいることだろう。
怖れが怒りと興奮を上回るにつれて、エルジェーベトの足は重くなった。それでも進めなくなるほど心が重石になる前に、彼女はリカードたちがいる一室へと辿り着いた。この屋敷の客間――別荘といえどもティゼンハロム侯爵家の所有だけあってかなりの大きさがあるそこでは、男たちが事態を打開すべく頭を寄せ合っているはずだった。
「――に籠城しては?」
「ならぬ。補給の宛てがないのに一か所に篭れるか」
「では、どのように……!?」
リカードは入室したエルジェーベトにちらりと視線を寄越したが、特に表情を変えることはしなかった。先ほどの暴行はこの老人にとっては記憶に留めるほどのものではないのだろう。それに、今は女ひとりにかかずらう暇などない。男たちが謀ることには、イシュテンの未来、マリカたちの去就、それに何より、リカードに連なる者たちの身命が懸かっているのだ。
王妃を守るため、という大義が失われたことで、こちらの陣営はよほど悪くなったらしい。男たちの邪魔にならないよう、機嫌を損ねたりしないよう。隙間を縫うようにして酒を注いだり空いた器を下げたりするエルジェーベトの目が盗み見る集った者たちの表情は、どれも険しいものだった。
リカードについて言えば、焦りや恐怖といった感情よりも、怒りと苛立ちがより色濃く出ているように見受けられたが。
「臆病者ども――アンドラーシめに与するという裏切者どもを、攻める」
目をぎらつかせたリカードが低く唸った言葉に、部屋の方々から悲鳴のようなどよめきが上がった。
「それは……」
「たとえ今は弱気になったとしても、味方もいるではありませんか!」
「わざわざ敵を増やすようなものですぞ!?」
ティボールを始め、この場にいることを許されているのはそれなりにリカードに信用され、手腕を評価されている者たちばかりた。だから、声の調子は情けなくとも、それぞれに指摘することは的を得ている。王に背く戦いに、味方は大いに越したことはないはずだ。これまではティゼンハロム侯爵家の権勢を餌に多くの諸侯を従えてきたが――今となっては、伏して助力を乞わなくては娘にも見放されたリカードにわざわざ味方しようという者はいないのではないだろうか。
「それがどうした。侮られるよりは恐れられる方がよほど良い」
次々と寄せられる諌言を、リカードはしかし冷然と退けた。身内の者たちの怯懦を嘲るような傲慢さはいかにもこの老人らしい――だが、どこか自棄のような空気も感じられはしないだろうか。
「心を入れ替えて従うというなら良し、あくまでも背くなら焼き滅ぼして武器と糧食を奪う」
「それではファルカスに我らを討つ口実を与えるようなものです!」
リカードの狂気を孕んだ目つきに決して揺るがぬ決意を感じ取ったのだろう、怒りを買う怖れも忘れたように上がった声は、今度こそ明らかな悲鳴だった。それすらも、リカードには笑みを持って迎えられるのだが。
「そう、奴は必ず来る――我らの勝機は、もはや戦場で王を討つこと以外にはあり得ぬのが分からぬか……!?」
リカードに反駁する蛮勇を振るった者は、虚しく口を開閉させ後に黙り込んだ。自陣の追い詰めれようを、改めて突きつけられたから、だろうか。
――そんな、賊のような真似をしてまで王をおびき出して……その上で、討ち取れるかどうかの賭けに出なければならないのね……。
エルジェーベトも暗澹とした思いに胸を塞がれつつ、その状況は認めざるを得ない。
王が、ブレンクラーレのアンネミーケ王妃からリカードとの内通の情報を得たかどうかは分からない。だが、大国を降した王を諸侯は支持するだろうし、王も何かと目障りなリカードを排除する機会を狙っているに違いない。王妃を手中に収めようと王宮を攻めた――マリカによってそのような
とにかく、何もせずとも討たれるのを待つだけならば、王を戦場に引きずり出そうという考えは間違ってはいない、のかもしれない。明らかに人望を失い自らの評判を貶めるような手段しか取れないということ自体が、ひどく間違っているように思えてならないけれど。
――マリカ様は……どうなるのかしら……。
暗く重い表情で喧々諤々と語り合うのを他所に、エルジェーベトが案じるのは我が身よりも主のことだけだ。これまではリカードが王に勝利を収めさえすればあの方の無事は約束されると思っていたけれど。側妃もその子も、めでたく始末することができそうだと信じかけた瞬間もあったけれど。
リカードの勢力がこれほどに――いつの間にか――削られ、王の声望が高まってしまった今、どうすればマリカを救うことができるのか、エルジェーベトには見当もつかない。そもそも、リカードは娘の反抗にひどく怒っている。分の悪い賭けに勝ち、リカードが王を討つことができたとして――マリカへの罰は、どの程度のものになるのだる。
――何といっても血を分けた御子だもの……あまりにひどいことはなさらないと、思うけど……。
でも、激昂したリカードが何をするか分からないことは、エルジェーベトが誰よりよく知っている。それに、より起きそうなこと――リカードが敗れた場合のことこそ、一層懸念しなければならないのではないだろうか。
王がリカードを許すはずがない。戦いに敗れれば、王の異母兄弟たちやその支持者のように首を晒されることになるのだろう。その時、リカードの名はマリカを庇護するものではなく、むしろ貶めるものに変わる。逆賊の娘を王妃として敬う者が、果たしてどれほどいるだろう。側妃がふたり目の子を懐妊していて、マリカには王女ひとりしかいないというのに。
――殿様の存在こそが、マリカ様の枷になる……?
エルジェーベトは、長らくこの老人こそがマリカを守る何よりの剣であり盾だと思ってきたものだけど。だからこそどのような仕打ちにも耐えたし、どのような命令にも従ってきたけれど。今となっては、この先どう転んだとしてもリカードはマリカにとって災いの源になるように思えてならない。無論、だからといって王に託すことができるということもないけれど。
心に密かに芽生えた不遜な思いに我ながら怯えて、エルジェーベトはそっと拳を握りしめた。
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