第11話 父と娘の争い アンドラーシ

 王妃は父親相手に意外なほどよく健闘していた。王のためにリカードに逆らうという覚悟を信じてはいたものの、身支度を終えたのを広間に送る道中では、今にも倒れそうな顔色に不安を覚えたものだが。だが、いざ蓋を開けてみれば追い詰められているのはリカードの方だった。


 ――こいつがここまで顔色を変えるところが見られるとはな……それも、王妃の言葉によって……!


 リカードの顔が紅潮し、そしてまた青褪めるのを、アンドラーシは興味深く眺める。娘の問いに何ひとつ答えることができないとは、この老人はよほど後ろ暗い者を王妃の傍に――王宮に、送り込んでいたらしい。




 アンドラーシは最初、王妃の策とは父親に送った手紙について知らぬ存ぜぬを通すことだと思っていた。王妃の筆跡の手紙は残ってしまうが、同じく直筆の書簡は彼の元にも届いているし、何より当の王妃が彼に味方する証言をすれば、もうひとつはリカードが作らせた偽物ということにできるだろう、と。

 だが、王妃は更に一歩進めた企みを打ち明けてきた。バラージュ家を出て王宮を奪取すべく動き始めて、リカードとの対決が避けられなくなった頃のことだった。


『私が父への手紙を託したのは、絶対にいてはならない者なのです』


 ひどく後ろめたそうに、叱られる子供のように。その時の王妃が俯いていたのも無理はない。事実、アンドラーシも危うく声を荒げて主君の妻に詰め寄るところだったのだ。


『リカードの手の者をお傍に置いていたということですね……!? 陛下が遠征に発たれた、その後も……!?』


 侯爵家と縁のある者、ということなら別に良かった。アンドラーシの妻のグルーシャも、実家の伝手で王妃に仕えていたことがあるのだから。だが、証人として公に出すことができない者、となると話はまた変わってくる。


 ――ただの侍女や召使ではない……? 明らかに間諜の役割を帯びた者ということか……?


 それにしても、見た目は王妃の傍に仕える者としておかしくない体裁を整えるのではないか、とか。それなりの期間、王妃の護衛に当たっていた彼の目は節穴に過ぎなかったのか、とか。疑問は尽きず、答えを知るはずの王妃に対する態度も自然と厳しくなってしまった。傍らにいた妻が止めていなかったら、不敬の罪に相当する言葉をも吐いていたに違いない。


『ティゼンハロム侯爵が王妃様の手紙を受け取ること自体があり得ないこと――だから、侯爵の行動を独断と非難することができると、そういうお考えなのですね?』

『……はい。その者に証言させることは、父にもできないと思うのです』


 執り成すような妻の言葉を聞いて初めて、アンドラーシは王妃の狙いを正しく認識することができた。王妃の手紙が二通出てくるよりも、最初からリカードの捏造だったことにするほうがずっと聞こえは良い。本当にそのようにことが進むなら、願ってもないことのはずだた。

 王妃が、夫君たる王に重大な隠し事をしていたという点に、目を瞑れば。


『陛下にはその者のことは――』

『お伝えすることができなかったのは、私の過ちです』


 抑えなければ、と思っても非難の感情を完全に隠すことは難しく、アンドラーシの視線は王妃の顔を青褪めさせた。だが、泣かせてしまうか、とひやりとしたのも一瞬のこと。弱く愚かだとばかり思っていた女は、声を震わせながらもはっきりと答えた。


『――でも、だからこそ。自らの罪を償うためにも、私は――手柄、のようなものが欲しいと思っています。夫が帰った時に許しを乞うため、この裏切りを埋め合わせるためにも。私は、父を糾弾しなければなりません』


 失態の埋め合わせに手柄を上げるなどと、ある意味男らしい考えが王妃のものだとは全く驚くべきことだった。だが、その考えはアンドラーシにはよく馴染むものでもあった。リカードに――逆賊に与した罪は、確かに重いものなのだろうが。だが、裁くのはアンドラーシの役目ではない。どの道逃げ隠れできるものでもなし、この期に及んでは王妃の知ることを利用させてもらうのが良いだろうと彼は結論づけたのだ。


 それでも、囚われの身のクリャースタ妃に先んじるように、王妃だけが点を稼ぐというのが、少しだけ気に入らなくはあったけれど。




 ――だが、これほどの成果が出るのならば良い話だったな……。


 リカードが沈黙する一方で広間のざわめきが大きくなっていくのを聞いて、アンドラーシの口元の笑みも深まっている。王妃がこのように長々と自らの言葉で語るのを、一体誰が予想していただろう。王妃からの説明があるとの名目で諸侯を呼び集めたものの、大方の者は王妃はひと言ふた言口を聞くだけで、あとはアンドラーシが語るものとでも思っていたのではないだろうか。


 ――王妃を傀儡にする奸臣か……誰がそのように姑息な真似をするものか!


 あまりにも多くの者たちが、彼も王妃をも見誤っていたのだ。リカードとアンドラーシの間での駆け引きを勝手に期待して、どちらに加勢するか、どちらに自らを売り込むかの算段をしていたに違いない。それが王妃に――女ひとりに場の主導権を握られて、宛てが外れて慌てているのだ。

 特に、ティゼンハロム侯爵家の取り巻きどもは目に見えて浮足立って、互いに視線を交わして対応に困っているようだった。逆賊に与するのはご免だが、ここでリカードを見限る勇気もない、といったところか。風の音にも驚いて走り出す羊の群れのような醜態、横から冷静な目で見ていると可笑しくて仕方ない。


 内心で高みの見物と決め込んでいたつもりだったのだが、表情に出過ぎていたのかもしれない。王妃を睨んでいたリカードが、き、と鋭い視線をアンドラーシに向けてきた。


「貴様……貴様が、娘をたぶらかしたのだな! それとも脅したか!」

「バカげたことを」


 だが、それも負け犬の遠吠えのようなものに過ぎない。地位でも年齢でも遥かに上の者を公然と嘲る機会を得て、アンドラーシは溌溂として笑った。


「王妃陛下は、貴公の息女としてではなく王の妃として発言されている。どうしてそれを認めないのだ? 王妃陛下の御意思によらず独断で王宮に私兵を入れたこと――暴かれるのが恐ろしいのか!?」


 ――ここからは俺が出た方が良いだろうな。


 王妃はよくやってくれた。リカードの弱みを上手く突いて、いかにも勝手な振る舞いをしたかのように見せてくれた。だが、父親に逆らうのは――それも大勢の人間の前で――よほど恐ろしかったのだろう、表情はどんどん引き攣って、今にも倒れるのではないかと心配してしまうほどだ。それはそれで、必死の覚悟で父親を糾弾したということで人の心に訴えるのかもしれないが――そこまでさせるのはさすがに酷というものだろう。


 だから、王妃を背に庇うように、アンドラーシはリカードの前に立ちはだかろうとした。もともとこの古狸との対決は望むところだ、睨まれても罵倒されても、彼が怯むことなどないのだからちょうど良い。そう、思ったのだが――


「いいえ、アンドラーシ様、下がってください。私から言わなくてはならないのですから」


 壇上から降ってきた声に振り向くと、王妃が真剣な眼差しで見下ろしてきていた。夫に顔向けするためにも犯した過ちの償いを、と訴えた時と同じ類の強い目だ。


「王妃様、ですが――」


 だが、それでもこの女性の心は本人が望むほど強くない。命が懸かった場でも堂々と言いたいことを述べられる、クリャースタ妃のような強さ――言い換えれば無謀さ――は誰もが持つものではないのだ。リカードをこれ以上刺激すれば、王妃に対してだろうとどのような言葉を吐くか分からない。


 ――この場で反乱を宣言されても困るぞ!?


 リカードには浅慮と独断を認めてもらって自領に帰らせる――その程度が落としどころだろうと思っていたのに。改めて叛意を問うて処分を下すのは王が帰還してからのことだとしても、諸侯の間にティゼンハロム侯爵の非を強く印象付けることができれば上々だろう、と。

 四方に視線を巡らせて、慌てて兵の配置を確認する。激昂したリカードが暴力に訴えたとして、あるいは配下の者に何かしらを命じたとして、王妃を守り切ることができるかどうか。王宮に入れる人数を制限したことで、可能ではあるだろう、とは思う。だが、玉座の間を――それも王の不在の間に! ――血で汚す事態など、避けることができるに越したことはない。


 一体、何を言い出すつもりなのか。アンドラーシが不安と焦りの目で見守る中、王妃の化粧の甲斐なく色褪せた唇が動いた。


「ティゼンハロム侯爵――それに、この場の皆様も。夫であるイシュテン王の留守の間、この国が平穏に保たれることこそが王妃としての私の願いです。それ以外のものなど、あり得ないのではありえませんか? なのにそれを汲んでくださらないことが残念でなりません」

「マリカ! 儂はお前のため……!」


 リカードは、娘のことを孫の名で呼んだ。恐らくは、王妃は結婚する前の名を王女につけたということなのだろう。ならば、リカードは玉座の前に立つ方を王妃ではなく娘としてだけ扱った――王と王妃の婚姻を否定したということ。この一事をもってしても、十分に不敬の証拠にはなる。

 これほどに不用意な発言を漏らしてくれるということは、リカードもそれだけ焦り動揺しているということ。やはり娘の反抗は堪えるのか、王妃に任せた方が良いのか――迷いはまだ感じつつも、アンドラーシは僅かに身を引いて退いた。彼自身の言葉でリカードを追い詰めてやりたいという思いもあるが、リカードは明らかに我を忘れて怒っている。もしかしたら、言うべきでないことまでも口を滑らせて言ってくれるのではないかと、期待してしまうほどに。


 とはいえ、我を忘れた必死さは王妃も同様なのかもしれなかったが。王妃の声が震えているのも顔色が青いのも相変わらず、ただし、今やそれは不安のためだけでなく、憤りも多分に含まれているように見えた。


「私自身が望んでいないと申し上げているのに、どうしてそのようなことを仰るというのですか!?」

「お前は何も分かっていないだろう! 何がお前にとって最善かは、儂が一番よく知っている!」

「国の行く末についても、我が夫――王に対しても同じようにお考えなのですか。だから許しを得るまでもなく動いても良い、と……? それは、不遜ではないのですか!?」


 王妃は、今こそはっきりと実の父親を非難していた。リカードに王への敬意と忠誠があるなどと、誰も信じていないことではあるだろう。だが、誰もがあえて口にしないことでもあった。そのような疑いをはっきりと述べるには、リカードの力はあまりにも強大なものだったから。多くの者はリカードの怒りを恐れたし、アンドラーシでさえも、王が望まぬ時期に乱が起きることや、彼自身が必要以上に睨まれる事態は避けなければならないと心得ていたのだ。

 今までは決して公に取り沙汰されることがなかったリカードの不敬――それを、父親の人形に過ぎないと思われていた王妃が糾弾しているのだ。事態の異様さに、広間のどよめきは大きくなる一方。そしてそのどよめきを貫いて、父と娘が争う声も高まっていく。


「恩知らずめが! 誰のお陰で今のお前があると思っている!?」

「恩を知るからこそ! 父である方が分を越えて倫を踏み外すのを見過ごすことはできません!」


 王妃が全身を使うようにして叫ぶのを聞いて、その目に涙が浮かんでいるのを見て、アンドラーシの胸にふと不安が湧き上がる。


 ――これは……ただの親子喧嘩ではないのか……?


 王妃の発言は勇気あるものだし、リカードが怒りに任せて垂れ流している言葉も不敬の証拠という意味では貴重なものだ。だが、王妃もリカードも、人目を憚らず熱くなりすぎているようにも見えてきた。王妃の真意を問い、アンドラーシとリカードのいずれに非があるかを明らかにする場には、相応しくないほどに。

 頬を紅潮させて怒鳴り合う親子を見守る者たちの間には、陣営を問わずに共通してどこか気まずい雰囲気が流れているように思われた。国の将来を左右する場と思ってきてみれば――それに変わりはないのだろうが――繰り広げられているのがごく内輪の諍いとは。先ほど彼が思ったのとは違い意味で宛てが外れたとでも思っているのだろうか。アンドラーシとしても、この場の威厳が損なわれるのは決して望むところではないのだが。


 ――だが、俺が出てもリカードは引き下がるまい……。


「――ティゼンハロム侯爵。王妃陛下に対してその物言いは不敬ではないのか。控えられるが良いだろう」


 事態をややこしくする危険を冒しても口を挟むべきかどうか。思い悩んでいたところに響いた新たな声は、アンドラーシにとっては天祐のように聞こえた。


「だが……っ」

「王妃様の御身を案じられてのことだったと存じますが――」

「そう、王妃様はご無事とのこと、まずは安心されたのでは?」

「ここは王宮に任せられても良いかと」


 といっても、最初に声を発した者を除けば、リカードの取り巻きどもが親玉を宥めにかかったというだけだったので、すぐに内心白けた思いをすることになったが。


 ――ふん、だが奴の旗色が悪いのは明らかになっただろうさ。


 つまりは、リカードにこれ以上怒鳴り続けさせると何を言い出すか分からない、と誰の目にも見えたということだろうから。与する陣営が反逆者ということになるのは困る、と――少なくとも、対策を講じる時間は欲しいということなのだろう。そしてそれはアンドラーシにとっても同じことだ。彼の役目は、王の留守の間、王妃と王女を守ること。リカードからここまで踏み込んだ発言をさせて、王妃の立場を諸侯に知らしめたことは、そのとしてはこれ以上望むべくもないものだろう。


 この辺りで切り上げるべきだ、と判じて、アンドラーシは今度こそ王妃とリカードの間に割って入ると、口を開いた。


「臣への疑いが晴れたというなら何より。陛下の凱旋まで、共にイシュテンの平穏を保つよう――手を携えて参りたいものです」

「うむ……」

「アンドラーシ様……!」


 我ながら白々しいとしか言えない口上ではあるが、この場でこれ以上言い争うことの愚を、リカードも察していたのだろう。王妃の抗議するような声を他所に、若造の言葉にも渋々ながら構えを見せる。無論、殊勝な様子も表だけのこと、自領に戻ればすぐに反逆の算段を始めるのだろうが。この醜態を見せた上では、リカードに加担しようとする者はかなり減っているだろうからまあ良いだろう。


 やや締まりのない顛末ながら、今日のところは散会となった。とりあえずは緩んだ空気の中、集った者たちが砕けた言葉を交わしながら広間の出口を目指す――そんな中、一際甲高い声が響いた。


「あの、おじい様……!」


 マリカ王女の声だ。大人しくしているよう言い聞かされていたはずなのに、母と祖父のやり取りに黙っていられなくなったのか。


 ――リカードに捕らえられたりしたら拙い……!


 アンドラーシの懸念は兵たちにも正しく伝わって、王女とリカードの間には瞬く間に人の壁が築かれた。取り囲む兵の腕に阻まれながら、それでも、王女の口が止まることはない。


「アルニェク――私の犬が殺されてしまったの。どうしてそんなことになったのか……ご存知ない……?」


 ――犬……?


 王女の唐突な問いかけに、戸惑ったのはアンドラーシだけではなかった。聞かれたリカードの方も、虚を突かれたように一瞬だけ間の抜けた表情を晒す。――が、すぐに理解の色と共に笑みが浮かぶ。孫に向けるのには似つかわしくない、歪んだ嘲りに塗れた笑みが。


「儂のあずかり知らぬことだ。何なら神に懸けて誓っても良い」

「ほんと……!?」


 王女の犬が側妃の離宮の傍で毒殺されたこと、その犯人がまだ見つかっていないこと。そして、王女は祖父の関与を疑っているらしいこと。そういったことをアンドラーシが思い出し、あるいは察したのは、リカードの図々しい答えを聞いてからだった。


 ――神の名を汚すか!? どうせお前の差し金だろうに……!


 王女が安堵に顔を輝かせ、アンドラーシが反発を口にしようとした瞬間、だが、リカードの嘲笑が一層どす黒さを増した。頬を歪ませるだけではない、高らかな哄笑が響き渡る。


「誰がやったかは知らぬ……が、爺からの忠告としては、油断せぬことだ。いつ何時信用している者に裏切られぬとも限らぬからな、まさに今の儂のように……!」

「お父様……マリカ!」


 リカードは王妃に――祖父は母に、裏切られたのだ。そう突きつけられて、王女が浮かべかけていた笑みは凍り付いた。そして、王妃が駆け寄って抱きしめても、蘇ることはなかった。

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