第10話 父の教え ウィルヘルミナ

 結い上げた髪が頭を締め付けるようで、ウィルヘルミナはそっとこめかみを抑えた。彼女の自慢の豊かな黒髪は頭上に纏めると重く、飾った宝石と相まって頭痛を催してしまうのではという不安を抱かせるほどだった。


「王妃様……? きつすぎたでしょうか。緩めましょうか……?」

「いいえ大丈夫。綺麗にしてくれてありがとう」


 軽く眉を潜めて覗き込んでくる鏡の中のグルーシャに、でも、ウィルヘルミナは微笑みかけた。掛けた言葉も決して嘘ではなく、鏡に映る彼女の姿はイシュテンの王妃に相応しい威厳があると思えた。化粧は普段よりも濃く施して、下ろすことを好む髪も高く結って。衣装の色も、彼女の本来の趣味とは異なる深い青を選んだ。だからまるで別人になったような気もするけれど。多分、彼女の好みのままに装ったならもっと子供っぽく軽く見られてしまうだろうからこれで良い。


 今日ウィルヘルミナが会うのは、マリカや侍女たちだけではない。バラージュ家で何度かあったような、女同士のお茶会でもない。見上げるような天井に、圧し潰されそうなほど広い空間――夫の玉座の前にひとりで立ち、諸侯を迎えなければならないのだ。その先頭には、娘の反抗に怒り苛立つ父がいるはず。それに立ち向かおうとするならば、殿方が武装をするように自らを奮い立たせる装いをしなくては。


 ――シャスティエ様ほどでは、ないにしても……。


 ミリアールトの女神、雪の女王にも喩えられるあの方ならば、夫の代理として言葉を発することを恐れたりはしないのだろうけど。今イシュテンの王宮にいるのがウィルヘルミナだけとは、我ながらいかにも心許ないけれど。でも、いない方のこと、自らにない知恵や勇気やらのことを思い煩っても仕方ない。愚かで頼りないなりに、どうにかこの場を切り抜けなくては。


「お気に召していただけたのでしたら光栄です。とても、似合っておいでですわ」

「ありがとう」


 ウィルヘルミナの髪を結い、化粧を施してくれたグルーシャの手つきは、まだ馴染みのないものだった。その役目は、あまりにも長い間エルジェーベトが受け持ってくれていたから。それでも、彼女の不安を解そうと心を砕いてくれているのが分かるから、構えることなく礼を述べることができた。そもそも衣装や宝石を選ぶところからして、この女性は親身に真摯にウィルヘルミナに助言してくれた。


 忠誠のあり方というのはひとつではないということも、父たちから距離を置いて考えることができるようになって気付いたことだった。

 グルーシャは、もともとはシャスティエに仕えていた者だった。夫のアンドラーシも、ウィルヘルミナの父のことは嫌いなようで、多分彼女に対しても良い感情は持っていなかったのだろう。王妃の護衛などを任されてブレンクラーレへの遠征に赴くことができないのを、不満に思っている節も感じられた。

 それでもふたりとも王への――夫への忠誠は真実だった。王妃よりも側妃を重んじているのだとしても、王のいないイシュテンを守ることが本来の主たちのためになると信じて尽力しているようだった。だから、ウィルヘルミナの願いも聞いてくれたし、父と対峙する彼女を支えてくれようとしている。


 ――何も、私を第一に考えてくれなければいけないということではないのだわ。


 父やエルジェーベトからは、彼ら以上にウィルヘルミナを案じ愛し、彼女を危険から守る者はいないと、しばしば言い聞かされたものだけど。ウィルヘルミナには自分にそれほどの価値があるとは信じられていない。血の繋がりだとか、幼い頃からの交わりだとかを理由に全てを捧げてもらって、恐ろしい罪まで犯してもらえてしまうなんて恐ろしい。

 それなら、彼女自身の働きの対価として守ってもらえるという方がよほど分かりやすいし安心できる。何も知らず何もできないことを喜ばれるなど、やはりおかしいとしか思えないから。恐らくは夫やシャスティエがそうであるように、仕えるに足る主だと見てもらいたい。そうでなくては、夫の傍に居続けることもシャスティエと並ぶことも望めないだろう。


「私共がお手伝いできるのはここまでですが……どうか、お心を強く持たれますように。何か、似つかわしくない気もいたしますが――ご武運を」

「ええ、私にしかできないのですもの。その役目を果たすことは誇らしいわ」


 跪くグルーシャが、どこか申し訳なさそうな顔で見上げてくることこそ申し訳なかった。衣装や髪型の選び方や、立ち方歩き方に至るまで、細かく相談に乗って助言してくれたのに。


 ――それとも、私では心配なのかしら。ちゃんとできないのではないか、って……?


 それもまたありそうなことだった。父を前に、大勢の諸侯を前に、頭の中で思い描いている通りに堂々と振る舞えるのかどうか――彼女自身もさっぱり自信がないのだから。でも、そのようなことを口や態度に出しても何の益もないことは分かり切っている。

 だからウィルヘルミナは精一杯、微笑もうとした。グルーシャたちに信じてもらうのは難しいだろうけど、見守ることしかできない立場の不安を、少しでも取り除いてあげたくて。自らの意思の外で事態が移り変わり決まっていくことの恐ろしさは、彼女も良く知ることでもあるし。


 何よりも、彼女が毅然としていなければならないが、部屋の隅で唇を引き結んで立っている。


「マリカ。良い子にしているのよ」

「はい、お母様」


 最近では珍しいほど素直に頷いた娘の姿に、ウィルヘルミナの胸は痛む。母と祖父が対立するところなど、本当は幼い子供に見せたいものではないのだ。でも、父に似て頑ななこの子は、多分自分の目で見たことしか信じないだろう。だから、ウィルヘルミナがちゃんと父に言わせなければならないのだ。娘のため孫のためと言いながら、その実反逆の罪を犯してでも権勢を求める、あの方の本心を。


「王妃様――お支度は、よろしいでしょうか」

「ええ。私は、いつでも大丈夫です」


 室外から聞こえたアンドラーシの呼び掛けに、答える。もうが集まる頃合いなのは分かっていた。まだ味方のはずの人たちに囲まれているこの間も、慌てた素振りなど見せてはならないだろう。


「ラヨシュ。マリカについていてあげてね」

「かしこまりました、王妃様」


 母親への糾弾も予感しているのだろう、マリカと同じく硬い表情の少年の髪を軽く撫でてから。ウィルヘルミナは立ち上がると広間へと足を踏み出した。




 アンドラーシは、それぞれの諸侯に許したのは最低限の随員だけでまとまった兵力は王宮の――というよりは、そもそも王都の内に入れさせていないと話していた。


『ですから、広間でもっとも多く兵を従えているのはこの私ということになります。話がどのように転ぼうとも、御身には決して危害が加えられるようなことはございません』


 ウィルヘルミナも、彼の言葉を信じてはいる。王都の城門では、ひとりでも多くの兵を中に同行させようとする者たちを抑えるのに苦慮していたのだとグルーシャから聞いているし、王妃を守ろうとする思いも、不安を和らげようとしてくれる心遣いも疑っていない。だが、だからといって全く平静に人前に――それも、彼女に鋭い目を向けてくる者たちの前に――出ることができるかというと、また話は別になる。


 ――ああ、怖い……。


 玉座の前には幾つかの段が設けられていて、その座に至ると文字通りに臣下の上に立つことになる。夫は、何らの気負いも見せずに堂々とその高みにあったものだった。でも、今のウィルヘルミナは。広間を埋め尽くす人の目が、ただ一点、自身に突き刺さるのを感じて震えを止めるのが難い。品定めするような、隙を窺うような眼差しは、彼女が今までに感じたことがない類のもの。それがまるで圧し掛かるように彼女に集中しているのだ。

 娘のため、夫のためという思いがなければ、あるいはアンドラーシたちに報いたいという思いがなければ。なりふり構わず逃げ出してしまっていたかもしれない。逃げる場所があると信じていた、かつての彼女のままだったなら。でも、ウィルヘルミナはもう変わった――少なくとも、変わりたいと思ったのだ。


 グルーシャが施してくれた化粧も意味がないほど、ウィルヘルミナの顔色は褪せて表情は強張っていたのだろう。それだけ衆目に気圧されて、息を整えるのにも難儀している――その隙を突くように、臣下の列から進み出る人影があった。


「我が娘よ。久しく会わなかったが、息災なようで安心した」


 ――ああ、お父様。やっぱりそのように傲岸な……。


 王妃に対する臣下としてではなく、あくまでも娘に対する父親の態度で接して威圧してくる。ウィルヘルミナのことなど、形式としてだけでも敬うつもりさえ毫もないのだ。どこまでも侮られていると突きつけられるのは悲しいけれど、でも、父の威圧はウィルヘルミナにはむしろ余裕を与えた。あまりにも予想通りの対応だから、どのように返すべきか、アンドラーシたちと既に諮ってあったのだ。


「ティゼンハロム侯爵、まずは控えてくださいませ。私は貴方だけでなくこの場にいらっしゃった皆様にお話したいと思っております」

「な――」


 だからまずは、脚本に書かれていることを読み上げるかのように。役者としてのウィルヘルミナは下手も良いところで、震えて掠れた声には威厳も何もなかっただろうけど。でも、予期せぬに、父は目に見えて怯んだ。というか、怒りに言葉を忘れただけかも知れないけど――とにかく、ウィルヘルミナが諸侯に語りかける間は、得ることができた。

 父ではなく、旗幟を決めかねている者たちひとりひとりに呼び掛けるようなつもりで、声を張り上げる。一度父と言葉を交わした甲斐あってか、ウィルヘルミナの喉は開いて、最初よりは威厳のある――彼女にしては――声を発することができた。


「私の行動のことで、皆様にご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。ですが、王とクリャースタ様のご不在の間、フェリツィア様のご様子を確かめたいと思っただけのこと。このような大事になるのは、決して私の本意ではありませんでした」


 つまりは、父が勝手に騒ぎ立てたということ。ウィルヘルミナの言外の言葉を聞き取って、広間には静かなどよめきが起きた。水面に起きるさざめきがうねりとなって足を引きずり込むように、驚きと興味と興奮がウィルヘルミナの耳と肌を揺さぶった。

 諸侯にはまだしも王妃への遠慮があるから、彼女に対して直接疑問をぶつけるものはいない。だが、今度こそ父は激昂したようだった。


「バカな! お前は助けて欲しいと言ったではないか! 息苦しい王宮から救い出してくれと、儂に手紙を寄越して――」


 怒りに任せて腕を振り回し壇上へと上がろうとする父を、アンドラーシの兵たちが押し止めている。守ってくれると約束してくれた通りだ。だからウィルヘルミナもあらかじめ話し合っていた通りにを進める。父を、追い詰めるために。


「お言葉ですが、ティゼンハロム侯爵。私から貴方に手紙を送ったことなどありません。私の行動も迂闊だったとは思いますが……誰よりも諸侯に範を示すべき立場でありながら、今回の動きは拙速に過ぎたと、大変遺憾に思っております」


 父のことをよそよそしく爵位で呼ぶ不孝に、ウィルヘルミナの胸は軋んだ。表情は、余裕がある風を保てているだろうか。控えの間から覗いているであろうマリカはどう思っているだろう。おじい様のことをいじめているとでも見えてしまっているだろうか。


「何を……お前は、確かに……」


 事実、父の表情に浮かぶのが怒りだけではない。娘に裏切られた動揺と――哀しみも、見えると思うのはウィルヘルミナがそう願うからというだけではないだろう。確かに、彼女が父に助けを求める手紙を送ったのは真実だから、この場において嘘偽りを述べているのは彼女の方だ。


 ――でも、やはりお父様には罪がある……!


 だって、そのやり方を彼女に教えたのは他ならぬ父なのだから。もちろん、面と向かって教わったことではないけれど。シャスティエとフェリツィア王女を狙った毒の事件。裁かれるはずが罰を逃れた父とエルジェーベト。あの時は訳も分からず事態を呆然と眺めることしかできなかったけれど、後になって思い返してみれば、父はウィルヘルミナにまたとない授業をしてくれたのだ。


 証拠となる手紙があるように見えたとしても、それが本物であるとは限らない。そう主張すれば――そしてそれが真実であるように見せることができれば、それはもはや証拠にはならない。たとえ事実がどうだったとしても、多くの者に認められなければは捻じ曲げられてしまうのだ。


 父の手口を、今度はウィルヘルミナがなぞる。緊張に早まる鼓動が耳元でどくどくと鳴るのが痛いほどに感じられた。うるさい鼓動も、息苦しく詰まる喉も、突き刺さる諸侯の目も。全て無視してねじ伏せて、ウィルヘルミナは必死に言葉を紡ぎ続けた。


「もちろん、侯爵家と王宮との間に行き来する者たちはおりますけれど。でも、私が手紙を託したというのは、その中の一体どの者なのですか? 王妃と侯爵に目通りが叶う者なのですから、下賤の者ということはありませんね? 私の手紙を携えた者――本当にいるというのなら、この場に呼び出してはくださいませんか……!?」


 今の王宮に、ティゼンハロム侯爵家と通じることができる者は多くない。ある者は夫によって遠ざけられ、ある者は自らの意思で離れて行った。今回の遠征に際しても、実家からの援助は極力断った経緯もある。王妃と侯爵をつなぐことができるのは、エルジェーベトくらいなものだ。


 ――でもエルジーはもう死んだはずの身なのでしょう……?


 証人は、確かにいる。でも父は決してエルジェーベトを表に出すことはできない。死すべき罪人を今日まで生かしていたとなれば、それが反逆の証拠になってしまう。ならば、果たしてどのように説明するつもりなのか――父の口が反駁のために開くのを見つめながら、ウィルヘルミナは心臓の真上で手を握りしめた。

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