第9話 人生の成果 アンネミーケ

「イシュテン王が軍をふたつに分けたとのことです。怪我人を置いて、動ける者を率いて全力で故国を目指すとか」

「……なぜわたしにそれを言うのだ?」


 実権を譲ったはずの息子が、隠居の準備に忙しい母親をわざわざ訪ねてくる。その状況がどうにも不可解に思えてアンネミーケはマクシミリアンの笑顔を軽く睨んだ。息子の気性はよく知っているから、特別嬉しかったり可笑しかったりしなくても口元が緩んでいることがあるのは分かっている。とはいえ、ことあるごとに母親の顔色を窺うようでは臣下たちに示しがつかないだろうに。


 ――妾は罪を犯して退く身だというのに……そこは分かっているのだろうな……?


 夫君が病に斃れて久しく、アンネミーケ自身もその地位に居続けることができなくなった今、ブレンクラーレを治めることができるのはマクシミリアンをいて他にいない。だから、不安でも頼りなくても息子を信じることしかできないのだが――安心して鷲の巣城アードラースホルストを後にさせてくれ、と祈るように見つめていると、マクシミリアンも母の思いに気付いたようで、微笑みが困ったような表情に変わった。


「いえ、単にご報告まで、と思いまして。ええと……後から追う方にはあの姫君もいるのでしょうし、万が一のことがないように周囲の領主には手出しをしないように要請しておこうかと思うのですが」

「それは良い考えだろうな」


 息子が無為に対応を尋ねてきたりなどはしなかったこと、自ら下したのであろう判断が至極まともなものであったこと、その両方に安堵して、アンネミーケはそっと息を吐いた。


「ありがとうございます」

「妾の判断を仰ぐ必要はもうないのだから一々礼を言わずとも良い。そなたが、ブレンクラーレの主君なのだ」


 それでも、マクシミリアンの態度にはまだどこか生徒のような雰囲気がある。教師である母親に頷いてもらわなければ、自身の回答に自信を持つことができないかのような。これはこれで、人の上に立つ者としては気に懸かる質ではあるが。


 ――気長に見守るしか……臣下も、見守ってくれるのを願うしかないか……。


 この期に及んでも国と息子の行く末を思うとアンネミーケの心が軽くなることはない。だが、間近で息子を見守り導くことができなくなったのは、他ならぬ彼女自身の行いのせいだ。だからアンネミーケは懸念をひとまず横に置くことにした。鷲の巣城で――そして、息子の傍で起居する日々も残りわずかだ。


「片付けにも飽いたところだった。時間が許すなら茶菓でも上がって行くが良い」


 ならば、最後くらい並の親子のように語らうひと時があっても良いだろう。




 イシュテン王との会談で、アンネミーケはあらゆる陰謀を白状させられることになった。ティグリス王子への助力――ひいてはシャルバールのかの惨状を生み出したことについては、既にイシュテン王が流言として広めていた。彼女自身も、首を晒されることになったレフ公子に託す形で認めている。だが、ティゼンハロム侯爵との密通に関しては話は全く別だ。王位継承権を持っていたティグリス王子ならまだしも、他国とはいえ王に背く陰謀への加担はアンネミーケがこれまで築いてきた声望――と言えるものがあるなら――を地に堕とした。ブレンクラーレに外憂を招いた咎も、確かに彼女のものだ。


 その責任を負う形で、アンネミーケは鷲の巣城を去る。ギーゼラと同じように、要は追放ということだ。ただ、ほぼ形だけの存在だった王太子妃とは違って、仮にも摂政王妃と呼ばれた者が退くのは何かと手間が掛かることだった。アンネミーケの覚えのめでたかった――要は、陰謀についてもある程度知っていた臣下や官吏にも累が及ぶのだから、ブレンクラーレの宮廷の顔ぶれが丸々入れ替わると言っても過言ではない。此度の醜聞とは関わりなく、かつマクシミリアンを支えてくれると信じられる者を選ぶのは難事だったし、アンネミーケが表に出ないようにその者たちに声を掛けるのも何かと気を遣った。マクシミリアンに仕えることに難色を示す者も中にはいて、その説得にも心を砕いたりという場面もあった。


 政についての引継ぎも山ほどやるべきことがある一方で、更に、王妃としての私物も纏めなければならなかった。王宮に残して、次の――ギーゼラとは言わずとも、レオンハルトもいずれは結婚するだろう――王妃に譲るべき品々もあれば、これまで仕えてくれた礼として侍女などに渡すものもある。この先の生活では贅沢は必要ないこともあって、アンネミーケの居室はこの数日で寂しいほどにものがなくなっていた。


「この部屋も、こんなに広かったのですね……」

「そなたの執務室にかなり書類を移させたぞ。ゆっくりで良いから目を通しておきなさい」

「はい」


 茶器を手に、きょろきょろと辺りを見渡していたマクシミリアンは、アンネミーケの脅すような言葉に軽く顔を引き攣らせつつ頷いた。日頃目にするような形式の整った書類だけでなく、長年に渡って蓄積された備忘録や走り書きのような類のものは、きっと解読するのにそれなりの根気と労力が必要だろう。だが、いかに面倒だったとしても、アンネミーケが息子に残してやれる貴重な財産なのだから、上手く使ってくれれば良いと思う。


 かつてアンネミーケの部屋に積み上がっていた紙の束が、今度は自室に山をなす光景を想像して怯んだのだろう、マクシミリアンは取り繕うような笑顔で話題を変えてきた。


「あの……父上にも会われたそうですね」

「うむ。ブレンクラーレの名を貶めたと、ひどくお怒りのようであった……」


 正直に言って、アンネミーケは今回の事態を病床の夫君に伝えることをすっかり失念していた。多忙だったのもそれどころではなかったのも事実だが、我ながら薄情なことだと思う。だが、王宮を去ることになった以上はこれから何度会えるかも分からないということで、さすがに挨拶しておく必要を感じたのだ。


 ――労いを期待していた訳でもない……お怒りもごもっともなことなのだが……。


 アンネミーケが伝えていなかったとしても、彼女を快く思わない者は本来の王に注進することを怠らなかったらしい。もともと病に倒れる前も、自身よりも妻の方が国を取り仕切ることを不満に思っていた節がある方でもあった。他国への陰謀を目論んだことでかえって自国を危険に晒したこと――妻の失態を責める機会を、あの方は歓迎しているようにさえ見えた。

 かつて倒れた後遺症で、夫君の言葉はすっかり不明瞭になってしまっているのだが。だが、それでも一応は夫である人からの糾弾は、アンネミーケの心に刺さったものだ。


「私とブレンクラーレのためにお心をくだいてくださった、その結果です。父上も、母上のこれまでの献身には感謝されているはず」

「そう願いたいものだ」


 ――あの方はそう思ってはいないだろうが。まあ、息子が分かってくれているだけ幸せと思うべきだろうな。


 マクシミリアンは、まだ両親の関係について夢を持っていたいらしい。自らの妻との関係もほぼ破綻したと言って良い状況なのに、何とも甘いことだと思う。――あるいは、儘ならない現実を知っているからこその夢なのか。


 ――それとも、イシュテン王に感化されたか?


 金色の髪のミリアールトの姫と、容姿にも武にも秀でたイシュテン王と。ふたりが並ぶところはついに見ることはできなかったが、さぞ絵に描いたような美しい対に違いない。常のアンネミーケならば、その見た目だけで実がないと断じていたのだろうが。陰謀に引き裂かれてなお、あのふたりは遥かな距離を越えて再び巡り会った。まったく、物語が現実のものになるのを目の前で見ることになるとは腹立たしい。

 だが、彼女はまさにその美しい者たちの前に完敗したのだ。ならば、その事実は正しく認識し、評価しなければならないだろう。


「……妾はもうそなたに助言ができる立場ではない。だからこれはただの独り言、年寄りの繰り言に過ぎぬのだが――」

「母上……?」


 茶器を持ち上げて口をつけつつ、マクシミリアンからは目を逸らして宙を睨むようにして、アンネミーケは呟いた。


「イシュテン王が帰国を急ぐのは、本国の状況に懸念すべきことがあるからだろう。今のイシュテンでことを起こすのはティゼンハロム侯爵くらいなもの、ブレンクラーレ遠征が――あちらからすれば――成功したと知って、陰謀の露見を恐れたのかもしれぬ」


 他国と通じて王への反逆を目論んでいたとなれば、ティゼンハロム侯爵の破滅は免れないだろうから、侯爵としては生きた心地がしないに違いない。王が凱旋して陰謀の全貌が明らかになる前にイシュテンを掌握しようとするのは自然なことだ。王が国を空けてすぐにではなく、勝利を収めてしまってから動くのは悪手と言えなくもないが――ブレンクラーレがこのようにあっさりと破れることなど、アンネミーケでさえも予想だにしていなかったのだ。


「今となっては、我らにできるのはイシュテン王の勝利を祈ることくらいだろう。王に対してならば、まだ賠償はついていると言えるからな。だが、もしもティゼンハロム侯爵の方が勝てば――ブレンクラーレは引き続き厄介な隣人に悩まされることになるだろう」


 侯爵に加担していた身としては、まことに図々しいとしか言えない祈りではあるが。まあ、息子とふたりきりの場だから厚顔さを咎められることもないだろう。それに、この上陰謀を巡らせることは不可能なのだから、心の中での祈りくらいはブレンクラーレの神もイシュテンの神も許してくれることを期待したかった。


「イシュテン王とは、これからは良い関係が結べるでしょうか……?」


 ――子供の仲違いではないのだから……。


 息子もさぞ呆れるだろうか、と思っていたのに。マクシミリアンがおずおずと口にしたのはある意味彼女以上に厚顔なことで、アンネミーケは思わず口元を苦く歪めた。口直しに甘い菓子が欲しいと思ってしまうほど。退くことを決めて以来、彼女の心の持ち方も味覚も随分変わってしまった。


「ここまでのことをしておいて、許せというのは虫が良い話だろうな。だが、利害についてのことだけならば、話の分からぬ相手ではないようだ」


 実際に会って話したイシュテン王は、統べる国の野蛮で好戦的な印象や、マクシミリアンを含めてかつて送った外交官たちが報告したような獰猛な人柄とは少し違っていた。無論、戦馬の神の国を率いるに相応しい果断で勇猛な人物であるのは確かなのだが。

 国を乱され、妻子を危険に晒されてなお、怒りに駆られることなくアンネミーケから望む情報を引き出そうと駆け引きを仕掛けてきた――あの冷静さや忍耐強さを知っていたなら、陰謀で引きずり下ろすなどという搦め手ではなく、正面から交渉を申し込む道もあっただろうに。相手を見極めることを怠って策に頼った自身の愚かさを思うと、アンネミーケの口内には更に苦さが広がった。


「ええと……では、イシュテン王の心証をやわらげるためにも、姫君と御子を無事にお届けするのは大事、なのでしょうね……?」

「そう……そういうことになるだろうな」


 自嘲と後悔に胸を塞がれて目を伏せていたアンネミーケは、だが、息子の声に不意を突かれて顔を上げた。


「医者はつけたし薬も惜しむなと命じてはいるが――そもそもご心労が祟っているのでは、さぞ辛い道中とはお察し申し上げるのだが」


 身重の女性に心身の負担をかけることなど、決してアンネミーケの本意ではなかったから、胎に宿した我が子を失う恐怖に怯えているのであろう姫君の心中を思うとまた苦いものがこみ上げる。だが、たとえ知らずに攫わせたのだとしても、鷲の巣城に至ってからのあの姫君への態度は、思い返せば適当なものとは言えなかっただろう。美しい者への歪んだ目、夫に想われ、心通わせる者への嫉妬――そのような醜く愚かな心が、彼女の言葉を尖らせたのだと、今なら認めることができる。

 思い通りに進まない企みに焦り、過ちに過ちを重ねてしまったことが、却って悪い結果を呼んだ。そのために、積み上げてきたはずの名声を無に帰した。


 ――賢いつもりで、真実愚かだったのは妾だということか……。


 自らを嗤いながら黙していると、マクシミリアンは唐突に声を上げた。


「では、申し訳ありませんがお茶をいただいている場合ではないようです。イシュテンとの国境付近の諸侯への通達――急いだ方が良い、ですよね?」

「ああ……妾のことは気にせず、行くが良い」

「ありがとうございます」


 母が呆気に取られるうちに、息子は慌ただしく立ち上がって退室して行った。イシュテンとの関係のため、図らずも苦痛を与えてしまった姫君のため、居ても立っても居られなくなったということらしい。


「よく育ってくれたと、いうことか……」


 苦笑と共に呟き、冷めきった茶を啜ることを思い出したのは、マクシミリアンが巻き上げて行った塵がすっかり収まった頃だった。


 頼りないばかりだと思っていた息子だが、あれで意外と気性は悪くない、のかもしれなかった。姫君を案じるのは、あの美貌に惹かれるからというだけではなくて国を案じるがゆえでもあるようだし。


 ――何も得られなかったという訳ではないのだな。


 歴史に汚名を刻んだとしても、夫君と分かり合えることはできなかったとしても。たったひとりとはいえ子を得て、健康に育ってくれた。そしてその子は母を想い、国を負って立とうとしている。

 嫁とのことも、彼女の過ちではあったのだろうけれど。孫とも、滅多に会うことはできなくなってしまったけれど。それでも、遠くの地からでも血を分けた者たちを見守ることはできる。


「イシュテン王に感謝しなければならぬな」


 誰にも、傍に控える侍女にさえ聞こえないように密かに、呟く。


 イシュテン王が彼女の首を求めなかったのは、別にマクシミリアンの命乞いを受け入れたのではなく、ブレンクラーレとの関係を懸念したというだけなのだろうが。アンネミーケとしても、屈辱に満ちた余生を与えられるだけと思っていたのだが。

 このように穏やかな心持ちになれる日が来るとは、考えたことがなかった。政を預かっている間、アンネミーケは常に焦り苛立ち、気を張っているばかりだったから。


 思いがけず拾った命で、更に思いがけない知見を得るとは。奇妙な満足を感じながら、アンネミーケは侍女に茶を淹れ直すように命じた。

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