第8話 一路、イシュテンへ ファルカス
ブレンクラーレが奉じるのは翼ある神――鋭い目で地上を睥睨する大鷲の神だ。仮にその神が今空を舞っているとしたら、自らの守護する国が異国の軍の侵入を許していることを不快に思うだろうか。
――こちらとしてもできるだけ早く出て行きたいと思っているのだ。目溢ししてもらいたいものだがな……。
ファルカスが見上げた空には雲ひとつなく、幸いにというか横切る鳥の影さえ見えない。そもそもこちらに大義のある戦いでもあった。だから異国の神の機嫌を気にする必要はないのだろうが――地上に目を戻せば、丘陵を越えて視界に収まらないほどに伸び切った彼の軍の列が目に入る。上空から見る者があったとしたら、長い蛇が身体を伸ばしているようにでも見えるだろうか。帰国を急ぎたい心とは裏腹に、馬も車も歩みは遅々として進まない。その有り様に焦り逸る思いが、埒もない想像を巡らせるのだ。
ブレンクラーレとの交渉を終えて、アンネミーケ王妃によるリカードとの密約を
思うように速さを出せない理由はひとつではない。
まずは、ブレンクラーレの王都に至るまでの道中と、何より王都の門を巡っての攻防で、怪我人の数も相当なものに及んでいるということ。次に、捕虜の身代金として――実態は賠償金として――受け取った財貨が重石となっていること。いずれも小さくはない問題だが、ファルカスとしては第三の理由が最も大きい枷として手足を縛っているように思える。
つまり、側妃の体調を慮って、彼女が乗る馬車をろくに動かすこともできない日も珍しくないということだ。
シャスティエの胎の子は、辛うじて母の子宮に留まっている状況だとか。だから本来ならば馬車の振動などもってのほか、出産まで寝台の上で過ごすべきだと、ブレンクラーレの医者には力説された。とはいえイシュテンの王の妃と子をブレンクラーレに留め置くことができるはずもない。交渉と出立の準備までのわずかな時間で多少なりとも容態を安定させ、医者の反対を押し切るようにして同行させているのだが――やはり、無理が出てきているのだ。
全軍の先頭付近にいるファルカスと、最後尾付近にいるシャスティエとの距離は、日を追うごとに離れて行くばかり。停戦したとはいえ、アンネミーケ王妃は自身の非を認めたとはいえ、ブレンクラーレの諸侯の中にはイシュテンを恨む者もまだいるだろう。万が一の襲撃を懸念すれば、懐妊中の女を中心に守る一団を切り離すには忍びない。だが、これ以上軍の列が伸びるのも速さや情報伝達の面では不利が重なる。
だからファルカスは決断をすべき時期が来ているのに気付いていた。
「今日はクリャースタ様のご加減もよろしいようで、馬車を進めることができたとのことです」
ファルカスの前に跪くジュラは、ちょうど側妃の様子を窺って帰ってきたところだった。ちょうど軍の進みを止めて、馬から降りて休息をとっていた時のこと、身体を休めるだけでなく、心にも癒しを得ることができるのは僥倖だろうか。
「そうか……」
「は。今日は起き上がっていらっしゃって――久しぶりに、笑顔を頂戴いたしました」
妻の笑顔など、最後に見たのはいつのことだろう。手が届かないほど遠い日のことのようにも思えるが、美しく愛しいことに変わりはない。想いを通わせることができたように感じた夜のことを思い出すと、ファルカスの口元も自然と緩んだ。
悪い報せしか持ち帰れない日も多いところ、今日は比較的マシな状況を伝えることができたからだろう、ジュラも明るい表情を浮かべている。妻と子の無事は、ファルカスとしても確かに喜ぶべきことだが――手放しで、という訳にはいかない。多少前に進むことができたとしても、それでもシャスティエの馬車の歩みは
「……だが、明日も、という訳にはいかないのだろうな」
「それは……医者にも、クリャースタ様ご自身にも分からないことでございますから……」
彼がすぐに笑みを消したのが不思議なのだろう、ジュラの表情が苦笑に変じた。さらに迷うように口ごもること数秒、もともと寡黙な男は心に
「どうしてご自身でクリャースタ様を見舞われないのですか? ご夫君のお姿を見れば、あの方もきっと――」
「俺の顔を見たからといって容態が変わるはずもない。かえって煩わせるだけだろう。何より、そのような暇もないしな」
馬術の面からも健康の面からも、ファルカスはシャスティエとは違って自在に馬を駆ることができる。とはいえ人馬の流れを遡って列の最後尾まで出向くのはそれなりの手間だ。下手をすれば一日では済まないかもしれないし、王が動くとなれば混乱も起きるだろう。
ジュラの進言を言下に否定して――だが、妻を訪ねない最大の理由はまた別にある。彼が会いに行ったとして、シャスティエは決して喜ばないだろうという確信がファルカスにはあるのだ。黒松館の襲撃以来、心も身体も休まる暇がなかったのは事実だろうが、それでも再会した時にはまだ彼に笑いかけてくれたのだ。それが今の
「それは、そうなのでしょうが……」
ほぼ寝たきりだというシャスティエを哀れんでか、ジュラは釈然としない顔をしている。だが、軍の指揮官の居場所が定まらないことの害は良く分かっているだろうから、あえてそれ以上逆らうことはしてこなかった。
――イルレシュ伯がいなくて良かったな……。
ジュラを始めとした臣下は、出撃の前夜のシャスティエの宣言を信じている。復讐は夫である王のため、イシュテンと共に進む、と。だからファルカスの内心に気付く気配がないのは幸いだった。建前の理由だけで黙らせることができるのだから。
あの老臣がこの場にいたなら、このように簡単にはいかなかっただろう。イルレシュ伯ならばきっと彼の本心を見通した上で、それでもシャスティエに会って話をするように勧めてきていたのではないかと思う。そして同じ年配の臣下に対しては強気に出ることができたとしても、ファルカスは実の祖父を思わせる相手に対しては少し弱いのだ。
だが、イルレシュ伯はレフという男の遺体を携えてミリアールトへと発った後だ。明らかに他国を乱す罪を犯した者とはいえ、かの国の者にとっては王族に連なる者だ。決して歓迎はされない――それどころか憎しみを買う役目を自ら引き受けてくれたこと、幾ら感謝しても足りないだろう。全ては女王のためと願って旅立った老人は、最後まで彼にシャスティエを信じろと言い続けていた。その想いに報いたいのは、山々なのだが。
「――とにかく、一日でも早くイシュテンに戻らねばならぬ。怪我人や病人に足並みを合わせるのももはや限界だろう」
イルレシュ伯の心を踏み躙る後ろめたさを感じつつ、ファルカスはやや強引に宣言した。
「軍をふたつに分けるつもりだ。片方は全力で駆けられるだけの余力がある者だけでイシュテンを目指す。無論こちらは俺が率いる。そしてもう一方は、急げぬ者たちと、それらを守るための最低限の兵力を残す」
ジュラだけでなく、周辺の者たちにも聞こえるように声は高めている。儘ならない鈍さの道行きに、焦りを抱えている者は彼だけではない。全軍の不安を拭うためにも、王としてはっきりとした対応をしなければならない時期だと感じていた。事実、彼の宣言を聞いた辺りの者たちが背筋を正し、顔を引き締めるのが視界の端に見て取れた。ジュラも、膝を乗り出すようにして新しい戦いへの意気込みを見せてくる。
「は。アンドラーシひとりにイシュテンを任せておくのは不安に過ぎますからな……」
「だろう」
ブレンクラーレの王都を目指す間、交渉の間。ファルカスはイシュテンに残したアンドラーシと書簡のやり取りを続けていた。最初は数日の遅れだった報告は、両者の距離が広がるにつれて次第に間遠になり、情報としては役に立たないものとなってしまっていた。だが、イシュテンとの国境が徐々に近づいてきている今ならば、祖国の様子、留守を守る者たちの息遣いが身に迫るものとして感じられるようになってきた。
中でも、アンドラーシがもっとも新しく送ってきた報告は、まったく頭が痛くなるようなものだった。
ミーナが王宮を離れバラージュ家に身を寄せ、リカードはそれを誘拐だと糾弾している。王妃の意思だと主張するアンドラーシとの間で諸侯も揺れて、ことの真偽を求めて王都には各家の軍旗が翻っているとか。
王の不在の間にこの危うい状況を知って、ファルカスは一刻も無駄にはできないと判断したのだ。それに、アンドラーシの報告にはどうにも信じがたい部分がある。
――ミーナが自分の意思で父親を裏切ったとは。そのようなことが、本当に……?
彼のひとり目の妻は、父よりも夫を選ぶと言ってくれた。それ自体は望外の喜びだし、いくら感謝してもし足りないこととは理解している。だが、彼がミーナに望むのは、父の――リカードのもとへ去らないで欲しいという一点だけ、妻の方から何か行動を起こすことなど、期待も予想もしていなかった。彼が知る限り、ミーナはシャスティエと違って自ら戦いを呼び寄せるような強さとは無縁の優しい女だと思うのに。
――まさかアンドラーシの奴がミーナを利用しているとか? 閉じ込めて囮にした上でリカードをおびき寄せるというような……?
ミーナの意思でないならばアンドラーシか、というとこれもまたにわかには受け入れづらい。あの男がミーナを侮ってさほど良い感情を持っていないのは承知しているが、だからといって仮にも主君の妻に対して非礼を行うのを良しとするとは思えない。
何より、そもそもの話として、アンドラーシは謀を苦手としているのだ。別に心根が真っ直ぐだとか善良だとかということでは全くなく、考えるより先に手か口を出す方が似合いの男だ。無論、状況を見て我を抑えることはできると信じているからこそ妻と国を任せる気にもなったのだが。
読み書きも嫌いなアンドラーシのこと、書簡に何かしらの書き間違いや書き落としがあることも疑って何度も読み直してみたが、読み取れることに変わりはない。たとえ誤謬があったとしても、実際にイシュテンに戻ってこの目で事態を確かめなければ埒が明かない、というのがファルカスの結論だ。
リカードの、ブレンクラーレとの密約を先にイシュテンに報せることも考えたが――言い逃れのできない罪を突きつけられれば、リカードはその時こそ叛旗を翻すのを躊躇わないだろう。ならばそれをしてもアンドラーシとミーナを危地に立たせるだけ、リカードの裏切りは彼が帰った時にこそ明かすのが良いだろう。
「アンドラーシの文を信じるならば、帰った時には王都は戦場になっているかもしれぬ。アンドラーシだけを矢面に立たせる訳にはいかないし、ミーナもマリカもフェリツィアも、戦火に巻き込まれることがあってはならぬ」
「まことに仰る通りと存じます」
イシュテンに妻子を残しているのはジュラも同じだから、相槌も力強いものだった。黒松館の襲撃の後、減ってしまったフェリツィアの侍女たちの後を埋めるため、ジュラの妻に出仕してもらっている。だからなおさら王宮の様子は気に懸かることだろう。
父親としての共感と、近しい間柄での気安さから、ファルカスは側近に微笑みかけた。
「お前もイシュテンに向かう方に入れてやるから心配するな」
「恐れ入ります」
これで話はひとまず済んだ、と。ファルカスはジュラを下がらせようとした。軍をふたつに分けるとなれば、細々と調整することも出てくる。ブレンクラーレとの余計な軋轢を避けるためにも、鷲の巣城に使者を送ることも考えなければならないし。イシュテン軍の中では若輩のジュラには、しばらく出番がないだろうと思ったのだが――
「クリャースタ様に、このことは――陛下から、お伝えされるのでしょうか」
「時間がない。信頼できる者を送ることにしよう。あの者ならば、分かってくれるはずだ」
またも余計な諌言を聞かされて、ファルカスの声は尖った。意図せず、そして必要以上に斬り捨てるような口調で吐き捨ててしまうほどに。
「ですが――」
「あの者の護衛にはフェリツィアの乳母の夫をつけよう。娘の様子が気になっているだろうし、実子のためでもあると思えば身も入るだろうからな」
始めから考えていたことではないが、ジュラの反論を封じるために口にしたことは思いのほか都合が良いように思えた。殺された乳母の子、フェリツィアの身代わりに攫われた赤子――確かジョフィアといった――は、囚われの日々の間も今も、シャスティエの心の支えになっているようだ。その子供が父親と過ごすことができるとなれば慰めにもなるだろうし、我が子を守ろうという気力も湧くだろう。多分、彼などが顔を見せるよりも、よほど。
「俺が会ったところで何が変わる訳でもあるまい。無事にイシュテンまで辿り着けるよう、最大限の配慮はする」
イシュテンのためにも、妻のためにも、彼は最善の行動を取っているはずだった。何もシャスティエのことを蔑ろにしているつもりはない。それどころか、その心と身体を慮って会わないと言っているだけなのだ。
なのに、ジュラに対してどこか言い訳めいたことを言わずにいられなかったのは、彼自身不思議だった。
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