第7話 前夜 ラヨシュ
目を瞑り、足先で階段を探りながら庭園に下りると、冬の冷気がラヨシュの頬を刺した。時刻は既に闇が迫る夕刻、気温も昼間より一段と下がっているようだ。数歩小走りに駆けて、室内の暖気を完全に振り払った辺りで目を開ける。すると、蒼っぽい影に包まれた庭園がうっすらと浮かびあがるようだった。灯りは持たず、頼りになるのは空に瞬き始めた星と、溶けずに残った雪の白さだけ。
彼はこれから、外遊びから戻らないマリカ王女を探しに行くのだ。
といっても遊び、と称するのは大人の勝手な言い分であって、王女自身はすっかり様子が変わってしまった王宮を嫌って、まだしも変化の少ない庭で過ごしていたいと思っているだけなのだろうけど。馴染みのない侍女たちが目立つ灯りを携えて声を上げて探し回ったのでは、あの方は隠れてしまうだろう。だから、まだ気を許してもらっているラヨシュが行かなければならない。
それも、気まぐれな蝶を捕まえるようにそっと、気付かれないように近づかなければ。あの方のことだから、もっと素早い
――そう遠くに行かれたはずはないけど……。
冷たい風から身を守るべく外套を掻き合わせながら、ラヨシュは闇に目を凝らした。王女はいつものように狐の毛皮を纏っているはずだが、それでも幼い方がいつまでも冬の戸外にいて良いはずがない。あの方の強情さゆえに、寒さこそを孤高と考えて戻ろうとしないということもありそうだが、ならばだからこそ迎えが必要なはずだ。
足を急がせれば、ラヨシュの吐く息は白い靄となって眼前を煙らせる。このように暗く寒く寂しい場所に王女をずっと居させてはならないと思うと気が
王都と王宮に出入りする者が多い日々だから、王妃と王女を守るためとの名目でアンドラーシはふたりが住まう一角の警備を強化している。だから、小柄な王女といえども兵の目を掻い潜ってどこか――王宮の外だとか、王妃たちに遅れて
ラヨシュが探すべきは、広大な王宮の中でもごく限られた片隅だけ。それも、彼には心当たりがあった。
「――マリカ様……!」
果たして、というべきか。思っていた通りの場所に小さな影を見つけて、ラヨシュは安堵の息を吐いた。
「…………」
こちらを振り向いた青灰の目は辺りの薄闇を映して暗く、彼の存在は決して歓迎されてはいないと告げてくる。だが、とにかくも帰れと言われる気配はないのを察して、慎重に、そしてゆっくりと王女に歩み寄る。
暗い庭園で王女を探す――この状況は、お互いに同じ日のことを思い出させるのだろう。バラージュ家から、王妃と王女を迎えるためにアンドラーシと駆けたあの日のことを。あれは夜明けの薄闇の中でのことで、今と時刻は真逆だったけど。
あの日、王女の手を引くラヨシュは迷った末にある決断をした。王女をティゼンハロム侯爵家の手の者ではなく、実の母君に、王妃のもとに届けるという。アンドラーシの手に落ちることになるとしても、母と子が離れ離れになるよりは良いだろうと考えてのことだ。だが、王女はそれを裏切りと捉えて――ラヨシュ自身も同じ認識だけど――しばらく彼と目を合わせることさえしてくれなかった。
また裏切るのか、心に沿わないことをするのかと、青灰の目が睨んでくる。その眼差しに貫かれるような痛みを胸に感じながら、ラヨシュはできるだけそっと声を紡いだ。
「王妃様が心配なさっています。明日は大切な日ですし……早く、戻りましょう」
口を動かす間にも、闇に慣れた目を凝らして相手の挙動を窺っている。もちろん、ここまで近づいてしまえば王女が逃げようとして走り出したとしても追いつけないということはないだろうけど。主として仕える方に不快な思いをさせることは、なるべく避けたかった。この方には、近頃ただでさえ思いのままにならないことが多すぎる。その原因の幾つかを作った彼がこのようなことを思うのは、おこがましいことなのだろうけど。今さら何をしても遅いのかもしれないけど。
本当に、彼は王女が悲しんだり怒ったりするところは見たくないのだ。
落ち葉や、夜の冷え込みで氷と化した雪を踏む音さえできる限り抑えようと足に力を入れて、ラヨシュはマリカ王女のすぐ後ろに立った。王女は今は地面を見下ろすだけで、彼に視線はくれないし、大人しく屋内に帰ってくれる様子もない。閉ざされた鋼の扉を叩くように、頑なな拒絶を感じながら、それでもラヨシュは王女の心を動かす言葉を探した。
「明日には、祖父君様にお会いできるのですから」
「お会いすることはできないのでしょ? 遠くからお見かけするだけ……」
やっと聞くことができた王女の声も、拗ねて尖ったもので――掻き集めたはずのラヨシュの勇気を吹き散らす北風の冷たさを備えていた。そうしてまた、ふたりの間には沈黙が落ちるのだ。
ラヨシュたちが王宮の外に出ることはないが、王との城壁の外で何が起きているかはアンドラーシが伝えてくれている。あの男の言葉を完全に信じることができるかどうかはともかくとして、いかにもそうなりそうなことではあるから、多分事実ともそうかけ離れている訳ではないのだろう。
つまり、ティゼンハロム侯爵はアンドラーシが王妃と王女を利用して王宮を占拠していると非難している。一方アンドラーシは、王妃の意思に従っただけ、王宮に私兵を差し向けた侯爵こそ反逆者だと主張している。そして、両者の言い分の間で迷った諸侯らは、真相を求めて王都に集っている。多くは、内乱を予感して手勢を引き連れて。
侯爵もアンドラーシも、自らの正しさを述べるだけでは諸侯を説得することができないのは承知しているだろう。誰も逆賊の汚名を着せられたくはないから、ことの真偽を確かめるには慎重になるものだ。王がブレンクラーレへの遠征で国を空けていて、裁定をする者がいないこともあり、万人が従う言葉を発することができるのは今のイシュテンにただひとり――王妃しか、いない。
明日、アンドラーシはついに王都の門を開き、主だった諸侯を王宮に招き入れるのだという。そして集った人々の前で、王妃から言葉を賜るつもりらしい。その中にはもちろんティゼンハロム侯爵が入っているから、王女は久しぶりに祖父君の顔を見ることができるのだが――広間の隅、あるいは控えの間から声を聞く程度では、王女が会うとは言えないと思うのも無理のないことだった。
「マリカ様……」
結局、都合の良い言葉など見つからず、ラヨシュはただ王女の名を呼んだ。懇願する響きの彼の声に、王女はやっと振り向いてくれる。先ほどまでの鋭い視線からは一転して、その目は暗い中でも明らかに潤んでいた。
「おじい様に、お会いしたいけどお会いしたくないの。お母様に怒られたらお可哀想だけど、でも……」
非難するとか糾弾するとかいった言葉を知らない王女が、ラヨシュから顔を背けて目を向けるのは、庭園の片隅に置かれた白い石だ。城壁の補修に使うというものを、小さめに四角く切ってもらった――アルニェクの墓。彼が殺した王女の犬が眠る場所だ。
王女の揺れる眼差しが何を意味しているのか、ラヨシュにはよく分かった。マリカ王女は、愛犬を殺したのが敬愛する祖父ではないかと恐れているのだ。
『ふたりともよく聞いて。これから私がどうするか、貴方たちにどうして欲しいか』
バラージュ家から王宮へ向かう馬車の中で、王妃が語った言葉が蘇る。バラージュ家の侍女たちの耳目を避けて、子供ふたりだけに密かに語られたことが。
ティゼンハロム侯爵と王の対立――お互いに争い、相手を斃さずにはいられないほどまで根深くなってしまった、それ。側妃までもを巻き込んで、生まれる前の王女を狙った毒や黒松館の襲撃も侯爵の関与が疑われること。
王女が息を呑む音を聞き、身体が強張っていくのを傍らで感じてその心中を慮りながら、ラヨシュは、しかし正直に言って驚かなかった。むしろなるほど、と納得する思いが強かったものだ。
特に、側妃に毒を盛ろうとしたとされるのが彼の母だ、というくだりを聞いて、母が突然王宮から離れたこと、そして後に戻った時にも別人として扱われていたことが腑に落ちたのだ。そして同時に、母の王妃と侯爵家に対する忠誠の深さを思い知らされた。ラヨシュは犬のアルニェクを殺したことで夜も眠らないほどの罪の意識に苛まれたが、母はそのような弱さとは無縁だった。近くにいた息子にも主たちにも、密かな計画を少しも気取らせないで、事態が露見した時にも何も言わずに罪を被ったのだ。
――やっぱり、母様は凄い方だ……。
その感慨は、かつてのように心の底から湧き上がる賞賛とは少し違ったものになってしまっているけれど。
母は、常々王妃は何も思い悩む必要はないと言っていた。第一には、主が何かしら不足を感じる前に先回りして立ち働くのが下僕の務めというものだ、という意味なのだろうけど、もうひとつ、彼らの罪を主が知る必要はないという意味もあるのだろう。
全ては主たちの幸せのため。そのためなら、自身が手を汚すことを躊躇ってはならない――その教えを、ラヨシュもこれまで疑ってこなかった。アルニェクを手に掛けたのも、例え一時は王女を悲しませたとしても、主たちのためになると信じたからだ。
だが――彼の犯したものこそ気付かれてはいなかったけど――王妃は父君たちの行いを知った上で、それを罪と断じた。母の忠誠は不要のものとして撥ねつけられたのだ。母がこのことを知ったら悲しむか――あるいは、王妃の優しさと弱さがさせることとして意に介さないだろうか。でも、ラヨシュにはそのような強さは持てそうにない。
――王妃様や王女様が望まれないなら……なら、私は裁かれるべきなのか……?
闇の中にほの白く浮かぶアルニェクの墓石を、ラヨシュは正視することができなかった。この場所で王女とふたりきりなのは、何か導かれたようでさえある。彼の罪を打ち明けるのに、絶好の機会ではないのだろうか。贖罪を――あるいは断罪を。王女に与えてもらうのだ。
でも、彼は母の教えから完全に自由ではない。主のためなら何をしても良い、そして主は何も知らない方が良いというなら、下僕の罪が主にとって許しがたいものに見えるのは仕方のないことなのかもしれない。
王がブレンクラーレで勝利を収めたらしいということ、側妃も無事だとかいう報せも彼を不安にさせる。王妃と王女を蔑ろにする者たちが帰るというのに、この方たちを守る者がいなくなっても良いのかどうか。ティゼンハロム侯爵が反逆者として罪に問われることにでもなれば、彼の存在は王妃たちにとってなくてはならないものになりはしないか。――それも、罪を逃れたいがための言い訳にしかすぎないのではないか。
自身の不安と向き合って、ラヨシュは悲鳴を上げずにその場に留まるのが精一杯だった。そんな不甲斐ない下僕を、王女は不安げな目で見上げてくる。彼のような罪悪感はこの方には無縁だろうけど、状況の激動は幼い王女をも容赦なく巻き込もうとしているのだ。
「ラヨシュ。おじい様は、本当に……あんなことをしたのかしら。それなら……?」
馬車の中で、突然告げられたことを信じられず癇癪を起しそうだったマリカ王女に、王妃は訥々と告げた。
『お母様も、おじい様がそんなことをしたなんて思いたくないわ。マリカがお父様やお母様の言うことだけを聞く訳にはいかないと思うのも当然でしょう』
頭ごなしに言い聞かせるのではなく、娘の不満を認める譲歩を見せた母君に、王女もさすがに反抗の言葉がないようだった。その隙を突くようにして、王妃は明日の場を予告していたのだ。
『だから、お母様はおじい様にはっきりとお聞きするつもりなの。もちろん、はっきりと正直に答えてくださるとは限らないけど――そのご様子を、マリカも見ていて欲しいの。お父様とお母様、それとおじい様。誰を信じるか、誰が……正しいのか。ちゃんと見て、貴女自身で決めてちょうだい』
祖父君を信じたい想いはあるとしても、王妃の真摯さは王女にも伝わっただろう。母君がこれほど真剣ならばもしかしたら、との迷いも生じていることだろう。犬を殺した犯人を決して許さないと呟いていたこの方のこと、その相手が肉親だったらと思うと居心地の良い部屋で安穏としていることなどできなくて、だからこの場に来ていたということなのだろう。
そこまで考えて――ラヨシュは、彼には王女の心の重荷を少しだけでも取り除くことができることに気付いた。
「ご心配は、いらないかと存じます。マリカ様がアルニェクを可愛がっていたこと、侯爵様もご存じのはずですから……!」
「そう思う?」
「はい。祖父君様のことを信じて差し上げてくださいませ。あの……王妃様の仰ることが誤解ということも、あるかもしれませんし……」
何といっても、犬を殺したのは彼自身に他ならないのだ。明日、王妃は犬の件も侯爵に問い質すつもりかもしれないが、少なくともその点については侯爵もはっきりと否定することができるはず。
――他のことは、全て王妃様と王女様の御為なんだから……。
たとえ反逆だと断じられたとしても、自らを想う気持ちが根底にあると分かれば、王女が実の祖父君を憎むことにはならないはず。そう、アルニェクのことさえ侯爵の命によるものでないと、王女が信じることさえできたなら。
「そうかなあ……?」
「はい、きっと……!」
気休めなどではなく、ラヨシュが確信を持って頷いたのを分かってくださったのだろう。やっと、王女の頬に嬉しそうな笑みが広がった。
「うん……ありがとう、ラヨシュ」
「では王女様、一緒に戻ってくださいますね……?」
「うん」
真実を知ったら、絶対にこのような微笑みは向けてくださらないだろうに。罪の意識に苛まれつつ、しかし自ら打ち明けることもできない弱さに打ちのめされる思いを噛み締めながら、ラヨシュは王女が無邪気に差し出した手を取った。
――でも、全ては明日次第だから……。
明日になれば。王妃と王女の立場と、侯爵の罪――そんなものがあるなら――が定まれば。自ずと彼自身が進むべき道も決まるだろう。それがどのような道であれ、この苦しみも間もなく終わるはずだ。今の彼には、そう信じるしかできなかった。
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