第6話 自分のためではなく ウィルヘルミナ
王宮は、ウィルヘルミナにとっては十年に渡っての我が家で、寛げる空間のはずだった。バラージュ家でひと月ほど過ごした後に戻った彼女の部屋には何の変りもなく、例えば壁紙の境目だとか調度のほんの小さな傷だとかを見る度に、ひどくほっとするような気分を抱くことができる。
でも、以前とは違って彼女が心から安心できる場所などどこにもないのだ。寝具に包まって「怖いこと」をやり過ごすことができたのはもう遠い昔のこと。かつてならば夫や父やエルジェーベトが彼女を守ってくれたのかもしれないが、今は彼女が夫の帰る場所を守らなければならない。そしてそのためには、か弱く愚かな身であっても戦わなければならないのだ。
とはいえ、かつてとの違いは悪いこと恐ろしいことばかりではない。最も大きく、彼女に採っても喜ぶべき違いは、ウィルヘルミナに外の様子を教えてくれる者がいるということだ。
「今日もまた、王都に到着した者がおりました。手勢は城壁の外に置いて、単身で挨拶に来てくれただけまだマシな方でしたが」
「そうですか……」
アンドラーシは、二日と空けずにウィルヘルミナを訪ねてくれる。そして王宮と彼を取り巻く状況――ひいてはイシュテンの状況でもある――を報せてくれるのだ。
王妃が――ウィルヘルミナが急に王宮を出て、バラージュ家に身を寄せた。実家であるティゼンハロム侯爵家の手から逃れるように。しかもバラージュ家といえば、王の不在の間に側妃腹の王女の養育を任された一族だ。
だから、イシュテンの諸侯は王妃と実家が仲違いしたのか、王と国で随一の大貴族と、どちらにつくべきか思い悩んで浮足立っているのだという。
――お父様は……きっと私にお怒りなのね……。
アンドラーシが言うには、彼に会いに来る者はまだ旗幟を鮮明にしかねている者で、だから説得や交渉の余地があるのだという。兵と離れるのを承知するのも、王宮の内に囚われたままにはならないだろうという最低限の信頼の証と言えるのだとか。
裏を返せば、ティゼンハロム侯爵家の兵を率いたまま城壁の外で睨みを利かせている父は、アンドラーシと本格的に対立するつもりであるということだ。ウィルヘルミナとマリカ――娘と孫を案じて見舞おうとする気配さえない。見捨てられたように感じてしまって、父の怒りを思い知らされるようで身が竦むけれど――でも、多分それこそが父の狙いなのだろう。
嘘の手紙で父を陥れて、アンドラーシを頼ったこと――実の親への裏切りの罪は重いのだと、突き放すことで示しているつもりなのだろう。
父の目論見は、半分だけは成功している。育ててもらったこと、恋した人に嫁がせてもらって王妃の地位を与えてくれて、ごく最近まで何の不安もなく過ごさせてくれた恩を思うと、今にも父にひれ伏して許しを乞いたいという衝動がこみ上げてしまう。けれど完全に成功したと言えないのは、父はウィルヘルミナの覚悟を見くびっているからだ。怒りを見せれば娘はすぐに泣きだすだろうという侮りが分かってしまうから、逆にそうしてはならないと思わされる。
夫のため、御子と引き離されて攫われてしまったシャスティエのため。それに、難しい立場に追い込んでしまったアンドラーシのためにも、ウィルヘルミナが弱気になることは許されないと思う。
「日和見を決め込もうという怠け者どもの他は、概ね揃ったのではないかと思います」
「はい」
アンドラーシが言外に潜ませた意図を聞き取って、ウィルヘルミナは背筋を伸ばした。事態の詳細を求めて集った諸侯たちの前で、王妃として発言して欲しいというのだ。
ウィルヘルミナを取り囲む状況は、正直に言って、怖い。戦いが近いということ、それが父と夫の間で起きるものだということ。王都に集った諸侯たちと同様に、ウィルヘルミナもその両者のいずれかを選ばなければならない――というか、むしろ誰よりも先に立場を明らかにして夫に利するようにしなければならないこと。そのいずれもが考えるだけで恐ろしく、できるなら逃げ出したいとさえ思ってしまう。
けれど、何も知らされないままでいた頃よりは、今の恐怖の方がずっとマシだ。
幸せで満たされていると信じていた日々は、実は偽りのものだった。愛する夫と尊敬する父は内乱に至るほどに激しく憎み合っていた。それどころか、娘と孫の前では常に笑顔だった父はその陰で王に対してもシャスティエに対しても陰謀を巡らせていた。最も親しく、姉のように慕っていたエルジェーベトでさえ、ウィルヘルミナのためと言って恐ろしい罪に手を染めて、しかもそれを誇りさえした。
全てを知った時、ウィルヘルミナは大地が足元から崩れていくような思いがしたものだ。マリカのため、夫の妻で居続けるためと思って必死に崩れた土台をかき集めて捏ね合わせて、やっと立つことができているのが今の状況だ。真っ直ぐに顔を上げられるように、無知の罪深さをまた思い知らされることがないように。この足場は何としても守りたい。――そのために、父と戦わなければならないとしても。
「ご覚悟にお変わりはございませんか……?」
「はい。大丈夫です。――何をすれば、良いのですか……?」
口先だけの返事だと思われないように、ウィルヘルミナは自ら踏み込んで質問した。自分の頭で判断できないのは恥ずかしいことではあるけれど、決して言われるがままに操られている訳ではないのだと、アンドラーシに対しても見せたかった。
「今こそ、父君よりも陛下の傍に立たれるのだと、ティゼンハロム侯爵の主張は逆賊の言い逃れに過ぎないのだと――諸侯の前で明言してくださいませ」
父やエルジェーベトと違って、アンドラーシは彼女の問いにすんなりと答えてくれる。女の考えを無駄なことと退けたりはしないのは、王妃の地位に敬意を払ってくれているからだろうか。
――シャスティエ様のお陰かしら……?
夫とのやり取りで察したところだと、シャスティエは殿方の前でも言いたいことをはっきりと述べることができるらしい。王である夫に対してもそうなら、アンドラーシに対してはなお更遠慮がないことだろう。だからこの方も、女が意見を述べるということ、そもそも女が自らの考えを持つということに慣れていてくれるのかもしれない。
ならば夫のもうひとりの妃と比べられて見劣りする、などと思われないようにしなくては。ウィルヘルミナは必死に想像を巡らせて、もっと具体的な質問を考え出そうと頭を絞った。
「……とても沢山の方が集まっていらっしゃるのですよね? 一度にお話するということでしたら、場所は――」
「ご明察の通りです。それなりの人数になりますから、収めるとしたら広間になるかと存じます。陛下の代理であることを示すためにも、玉座の前に立っていただきたいのですが――」
「玉座、ですか」
ウィルヘルミナの表情が強張ったのに気付いたのだろう、アンドラーシが気遣わしげな目を向けてきた。夫と並んで玉座の高みに立ったことはもちろんあるけれど、彼女ひとりのことはこれまでになかった。本来夫にしか許されないはずの場所に、女の身でひとりで立つなど、しかも満場の人の目を浴びなければならないなど畏れ多いとしか思えない。アンドラーシは、彼女が怖気づいたのではないかと懸念しているのだ。
「――分かりました。では、衣装も相応しいものにしなければなりませんね」
大義というものがとても重要であることは、既に何度も説明を受けている。アンドラーシが王宮を抑えることができているのは、王妃の威光があるから。そして王妃の威光は王のそれに由来している。だから、内心はどんなに恐ろしくても、ウィルヘルミナは堂々として夫の場所を借りなければならない。
「はい。王妃様は宝石の類も十分にお持ちでしょうから、心配はいらないでしょうが」
かなり、無理をしてではあったけれど――ウィルヘルミナが微笑んで見せると、アンドラーシも目に見えてほっとしたようだった。夫もそうだったけれど、殿方にとって女の泣き言を慰めるのはひどく煩わしいものらしいから。ただでさえ諸侯との折衝で心労と迷惑を掛けてしまっているアンドラーシに、この上の気遣いをさせる訳にはいかなかった。
――私はこれまで、十分過ぎるほど甘やかしてもらったもの……。
ウィルヘルミナはもう人の妻で、母でもある。誰かの影に隠れて守ってもらえる歳はとうに過ぎているのだ。
「でも、私の趣味だと可愛らしいものが多いかも……こう、重厚というか、威厳があるようにしなければなりませんわよね?」
アンドラーシは心配ないと言ったけれど、手持ちの衣装の色や装飾品の組み合わせを思い浮かべると、それでも懸念は尽きなかった。派手過ぎて浮ついて見えることがないよう、かといって地味過ぎて侮られることもないように。匙加減には気を遣わなければならないだろう。
筋違いかも、とは思いつつ伺いを立ててみると、アンドラーシはそうですね、と呟いて首を傾げた。
「ミリアールトの乱の報せを受けた時のクリャースタ様は、それは美しく着飾っておいででした。それこそ雪の女王が降臨したかのようなお姿でイシュテンの諸侯を圧倒したものです」
「目に浮かぶようですわ……」
ウィルヘルミナの口から漏れた溜息は、半ばは年下の美しい人への羨望で、半ばは自身を引き比べての落胆だった。シャスティエのことを語るアンドラーシの眼差しはうっとりとしていて、口調はまさに神を語るかのように熱っぽい。ウィルヘルミナもよく知るシャスティエの容姿と併せれば、きっと近寄りがたいほどの美しさだったのだろうと想像に容易い。
「とはいえ王妃様もお美しい。クリャースタ様に比べればお優しい雰囲気ということになるのでしょうが――それだけに、勇気を振り絞って父君に諫言なさるお姿は人の心を動かすでしょう」
「ありがとうございます」
アンドラーシが付け加えた言葉は、多分ウィルヘルミナを励まそうとしてのものなのだろう。この方はシャスティエに深く忠誠を誓っているらしいし、不甲斐ない王妃を歯がゆく思っているのは言葉や態度の節々から感じられる。だから、額面通りに受け取って喜ぶことなどできなかったけれど――どうせ愚かな女だと思われているのだから、微笑みを保ってさえいれば内心を疑われることはないだろう。
ウィルヘルミナは、たとえ愚かでも気弱でも、イシュテンの王妃なのだ。いつまでも夫に頼ってばかりではいられないのはもちろんのこと、本来ならば臣下を案じさせることもしてはならないはず。あからさまなおだてに乗って、あさはかな女だと思われても良い。怖気づいていると思われるよりは、きっと、ずっと。
そして彼女が自らを奮い立たせるのは、母としての務めでもある。
「マリカに――娘に、父のしてきたことを話しました。遅いと、お思いになるのでしょうけど。それに、お恥ずかしいことですがあの子は『おじい様』を信じ切っているようで……だから、私がちゃんと分からせないと、と思っています」
バラージュ家から王宮へと向かう馬車の中、侍女や使用人の目が離れた隙を見てウィルヘルミナは子供たちにできる限りの説明をした。フェリツィアを狙った毒のことに、黒松館を襲った賊を支援していたかもしれないこと。企んだ者だけでなく、実行したと思しき者も。――そう、父だけではなく、エルジェーベトの罪も今まではっきりと伝えることができていなかったのだ。ラヨシュにとっては実の母、マリカとしても誰よりも懐いている侍女だった。だから、子供たちの心を傷つけたくないと思っていたのだけど――それもまた、彼女の弱さだったのだろう。幼い心を慮ったつもりで、結果として、ふたりには彼女と同じ思いをさせてしまった。信じていた世界が崩れ落ちる恐ろしさと心許なさを。
だから――彼らの世界を再び確かなものにするためにも、ウィルヘルミナが毅然としたところを見せなくては。父に立ち向かうための勇気を彼女にくれるのは、まだ納得しきっていない様子のマリカに「おじい様」の本性を見せなければ、という思いだった。
「マリカ様は陛下に似ておいでですからね。お歳の割にしっかりとなさっていらっしゃいます」
「ええ……」
苦笑のような表情を浮かべてアンドラーシが述べたのは、マリカに夫の面影を認めて尊重してくれると言いたいのだろうか。それとも女らしくない、可愛げがないと暗に批判しているのだろうか。分からないし、母としても妻としても自分に自信を持つことはとても難しいことだけれど。父に背き、その罪を糾弾することは更に難しく、不可能ではないかとさえ思えてしまうけれど。
――でも、私にしかできないことだから……。
彼女の言葉と態度に、大切な人たちの未来や――もしかしたら命さえも懸かっているかもしれない。逆に言えば、彼女次第で争いを最小限に留めることができるかもしれない。
そう思うと、否という言葉を口にすることはウィルヘルミナには絶対にできなかった。
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