第5話 慣れない振る舞い アンドラーシ
王都の城壁から郊外を望めば、草原のあちこちに蟻が集っているような黒点が見える。更に目を凝らせば、それは黒一色ではなく色とりどりの紋章が翻っているのも分かるだろう。王妃が王宮に戻った――それもいささか乱暴なやり方で――と聞いた諸侯が、状況を把握しようと詰めかけているのだ。王の不在の間、それもブレンクラーレの陰謀によって損なわれたイシュテンの誇りを取り戻すための遠征の只中とあって、さすがにあからさまに大軍を動かそうという者はいないようだが。それでも、単なる物見遊山でなどあるはずがない。誰もが、「王妃の名を傘に着て王都を占領した若造」――つまり、アンドラーシの粗を探し足元を掬い、あわよくば王が帰国した際に国難を救った忠臣面をしようと考えているのだろう。
「それにしても日に日に増えていくな……」
ある程度は覚悟していたことだし、誰が何と言おうと王妃と王宮を擁したことで大義も地の利も彼の方にある。それでもこの先に待ち構えるのは厄介事でしかないのが分かり切っているから、アンドラーシは重い息を吐いた。
「今日もナーダシュのフェレンツィ殿が到着したとか。後で
「挨拶をしてくれるだけまだ脈があると言えるのだろうな。例によって手勢は城門の外に置いて、少人数で入れるようにしてくれ」
義弟のカーロイが挙げた名と、記憶の中の顔とイシュテンの勢力図を結びつける。必ずしもリカードに近しい者ではないが、彼の印象としては口うるさい年寄りと言ったところだ。決して好き好んで会いたい相手ではない――ないのだが、今の彼は我が儘を言える立場ではないこともよくよく承知している。例え気が進まなくても面倒でも、ひとりでも多くの諸侯を彼の――ひいては王の側に引き込まなくてはならないのだ。
――まったく、この俺が変わったものだ……!
かつてのアンドラーシならば、いかに戦いに持ち込むか――いかに楽で彼にとってやりやすい方に持って行くかしか考えなかっただろうが。だが、個人の間での喧嘩ならまだしも、王の不在を預かる身に短慮が許されないことくらいは分かっている。
だから、いかに精神を削られる思いがしようとも、果てがないように思える交渉や折衝に頭痛をもよおそうとも。今は耐えなければならない。アンドラーシは、もはや何も考えずに剣を振るってさえいれば良いという立場ではいないのだ。彼ひとりのことならば恨みや反感を買うのも戦場で死ぬのも勝手、と思っていたが――妻やその家族、王妃や王女たちの去就も彼の選択に掛かっているとなれば、そのようなことは言っていられない。
正直に言って、王妃とマリカ王女を人質にして王都に立て篭り、リカードに戦いを挑みたいという衝動に駆られることもあるのだが――あの奸臣を討つのは、やはり王でなければならないだろう。
――思う存分暴れるのは陛下が戻られてからで良い。必ず、リカードとの対決の場が訪れるのだから……!
アンドラーシの願いは、選んだ主君が真の意味でイシュテンを統べることに他ならない。ならば彼自身の鬱屈など取るに足らないこと。王がリカードと対峙する機を整えておくことこそ、彼に求められた役目のはずだ。その役目を果たすことに、今は専心しなくては。
そう、自身に言い聞かせると、アンドラーシは城壁から降りる階段へ足を向けた。草原を馬で駆けたり剣の試合をしたりといった息抜きは、今となっては贅沢になってしまった。ほんの一時でも広い景色を眺めて外の空気を吸うことができただけでも僥倖と考えなければならないだろう。
短慮を起こしてはならぬ、と。決意したのは良いが、アンドラーシのような若造にとってその誓いを守るのは中々に難しいことのようだった。
「その若さで、しかも寡兵で王都を
「思い違いをなさっているようです。私は王妃様のご命令に従っただけ、王の妃である方に王都の門が開かれるのは当たり前のことではありませんか?」
今日新たに到着したという
相手の言葉は、アンドラーシが思い上がっていないかどうかを確かめるためのものだ。
王都を拠点にすることができているのは、王妃が彼の側につくと宣言しているから。そして、王妃を手中に収めているように見えるのは、王に護衛を命じられたからというだけ。つまりはアンドラーシの力量には何の関係もないこと、そこを勘違いしているようでは彼自身が逆賊の汚名を着せられても文句は言えない。
だから余計な疑いを招かないように客を通す場所にもいちいち気を遣っているというのに。王宮の華やかな場所とは離れた、どちらかというと役所に近い空気の一角――つまり、アンドラーシの裁量で人を通すことができるのはそこくらいまでだ、という体裁を守っているのだ。
無論、相手も大義がある方に付きたいに決まっているから、彼の考えを見極めたいのであろうということも、分かる。だが、それにしても。この聞き方ではあまりにもあからさま過ぎて、バカにされているとしか思えないではないか。
「ふむ、一応の建前は分かっているようだ」
――分からないはずがあるか、バカめ。
実際のところ、バラージュ家の手勢を引き連れて王都に再度入った時、戦闘らしい戦闘などなかったのだ。リカードは例によって領地に引き籠って悪巧みに忙しく、王宮を不在にしていたことでもあるし。恐らくは、戦うとしてもティゼンハロム侯爵家の一門とバラージュ家の間のことだと考えていたのだろうから、いち早く王宮に戻る決断をしたことだけは誇って良いのかもしれないが。
たった今述べたのは謙遜でも何でもない事実に過ぎない。王都と王宮を守る兵が、王妃の権威に譲ったのを自身の力と勘違いするほどアンドラーシは愚かではない。なのにこの男のように下手な探りを入れてくる者が後を絶たないのは――認めたくはないが、これまでの彼の言動があまりにも浅はかだったということなのかもしれない。
――ある程度はわざとやっていたのだがな……。相手を怒らせて手を出させた方が話が早いし……。
「それはもう。陛下が凱旋された時にイシュテンが荒れていたのでは申し訳が立ちませんから。王都と王妃様をお守りするのが私の務め――ですから、ご協力には感謝申し上げているのです」
言い訳とも愚痴ともつかない思いは心中に留めて、口に出すのはあくまでも分を弁えたいかにも行儀の良い言葉だけ。それも、王のためと言うだけなら本心だから良いが、相手にへりくだるような物言いをしなければならないのはどうにも業腹だった。それでも、それこそ建前を守るのが大事だということは承知しているからこその方便だった。
幸いにというか、相手もアンドラーシの出方を窺いに来るだけあって愚かではない。彼が言わんとしたところを正しく悟ってくれたようだった。
「此度のこと――王妃様をお守りするためだと言うのだな。決して御意思に反して監禁しているのではなく……?」
「ええ。何かと邪推する輩がいるようなのは、まことに不本意の限り」
「ふん……とはいえ王妃様ご自身のお言葉がないのではな……」
王妃の権威を正しく理解しているからといって、王妃に忠実であるとは限らない。これもまたアンドラーシの日頃の言動が災いしているのかもしれないが、彼がかねてから王妃を軽んじていたのは多くの者が知るところだ。
――どうせあの御方には人前で言葉を発することなどできないと思っているのだろうな。
アンドラーシの口元に、初めて心からの笑みが浮かぶ。どうせ王妃本人は表に出さず、旗印として都合の良いように利用するつもりだろう、と――男が決めつけている気配を感じたのだ。そのような予断と思い込みは、そのまま彼がつけ込む隙になる。何より、相手の意表を突くのは何もなくても楽しいものだ。
王妃を侮っているのは何もアンドラーシだけではない。イシュテンの誰もが、父親のリカードでさえもがあの方のことを優しいだけで何もできない女だと思っているだろう。その予想が裏切られた時の大方の者の呆け顔を思い浮かべれば笑わずにはいられない。無論、この場においては礼儀上の微笑みを装わなければならないが。
「近々お言葉がいただけるかと。訪ねて来られた方々おひとりずつに説明するなど、不合理の極みでございましょう? どうせなら一度で済ませた方が良いに決まっている」
「ほう……? あの方が、むくつけき男どもの前に出てくださると……?」
案の定、というか。相手は軽く目を見開いて驚きを現わし、アンドラーシをほくそ笑ませた。本当に王妃の意思かどうか信じられぬとでも主張して揺さぶろうとしたのだろうが、宛てが外れて気の毒なことだ。
してやったり、と弾む心のままに、ことさらに丁重に、しかし相手の神経を逆撫でるように言ってやる。
「クリャースタ様ならば、陛下のご不在に不審な動きがあれば座して待つようなことはなさらなかったことでしょう。王妃様も、同じ王の妃として感じるところがあったようです」
女の癖に、とでも言いたげな顔をしているから、王さえも説得して見せた側妃のことを引き合いに出してやる。そもそも彼としてはクリャースタ妃こそ王の隣に相応しいと信じていることでもあるし、側妃の存在が――良くも悪くも――王妃に影響を与えたのは多分間違いないだろう。王妃の変化を認めるのとはまた別の話として、あの方の存在感も忘れられないようにしておかなければならない。
女でも国を動かす決断に関わることができる――その実例を思い出して、あの王妃といえども侮ることはできないと思い至ったのだろう。そして同時に、女の言葉に従うのを不快に感じたのだろう。相手は軽く顔を顰めた。
「……王妃様にクリャースタ様と同じことができるとは思わないが……」
その言葉は、事実疑問に思っているというよりも、そんなことは認めたくない、と言っているようで負け惜しみのようにしか聞こえなかった。だからアンドラーシは何ら痛痒を感じない。
「ご夫君のためのご覚悟だとしたら、まことにご立派なことだと存じます。あの方が何を述べられるのか、是非とも楽しみにしていただければ――」
「ふん、そうしよう」
微笑みを保って恭しく頭を下げて見せると、相手は鼻白んだようだった。以前の彼と同様、無礼を装って怒らせて、それで情報を引き出そうとでもしていたのだろうか。ならばその目論見を無駄にしてやったのは喜ばしい。
招いてもいない客との対面は、事前の予想に反してアンドラーシにとっては気分転換の役を果たしてくれたようだった。
とはいえ、アンドラーシも笑ってばかりはいられない。王都の城壁の外に、それぞれに手勢を率いた諸侯が集い始めているのは紛れもない事実だ。それも、彼らは必ずしも王に心からの忠誠を誓う者ばかりではない。
ブレンクラーレへの遠征――というか、シャルバールの雪辱を晴らすという大義はとりあえずの支持を集めたし、かの地からの便りによると王の率いる軍は見事
それは、裏を返せばリカード――に限らずとも王に不服を抱く者――にとって、ことを起こすなら今が最後の機会だということだ。王の不在の隙に、王妃なりアンドラーシなりの落ち度を責め立ててイシュテンの主導権を握る。王の軍が到着する前に歯向かう者は粛清して、互角の戦いができるように態勢を整えておく。国内に留まっていて力を温存していた者たちと、遥かブレンクラーレから帰ったばかり、それも連戦となる王の軍とでは、果たしてどちらが有利になるだろうか。
だから、王宮を手中にしたのは危うい賭けではあるのだ。王妃の存在と合わせればまたとない旗印になるのは明らかでも、それが力づくで――あるいは不当に奪ったものであると見做されては逆効果になってしまう。
――あの方にはしっかりしていてもらわなければならないのだが……。
勘繰る者たちの前では、強気を装って嗤いもする。王妃の心の持ちようが以前とは変わっているのは目の当たりにしているし、リカードを裏切るような真似をした以上、また父親に擦り寄るようなことは難しいのも分かっている。だから何をすべきかは理解してくれているだろう、とも信じたい。
だが、それでも。あの気弱でおっとりとした王妃の対応に全てが懸かっていると思うと安穏としていることは難しかった。
「あまり強く言ったところで委縮させるだけなのだろうが……」
王妃も自らの言動の重みを理解しているようで、最近は機嫌を窺いに訪れても顔色が冴えないことが多い。これがクリャースタ妃なら、城壁の外に集った者たちの思惑を不遜と断じて自ら立ち上がってくれそうなのだが。
――まあ、それはそれで角が立ってややこしくもなるし……。
彼の主君のふたりの妃は、いずれも美しいが纏う空気は大きく異なる。そしてそれぞれに気性には扱いづらいところがあるのは面白い――と言えるのかどうか。ともすると面倒な妃たちを御すことができている王の器は、彼などには測りがたいものなのかもしれない。
とにかく、外の状況を王妃に伝えるのは重要なこと。ついでに今一度、覚悟を決めておいてくれるように念押ししても良いだろう。
そう結論づけると、アンドラーシは王妃を訪ねる許しを得るべく遣いを出した。
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