第4話 寝台の上で シャスティエ

 眠りから覚める時には腹を探るのが、シャスティエの毎朝の日課になっていた。


 ――大丈夫、まだ……。


 寝起きのだるさと、浅い眠りが続いていることによる頭痛に眉を顰めつつ、掌に子宮の膨らみを感じて安堵する。そう、彼女の子は、まだ母の腹に留まっていてくれるのだ。




 レフの死を知らされた日、取り乱して泣き崩れたシャスティエは自室――として割り当てられたこの城の一室――に通された。それまで過ごした天幕とは打って変わった、しっかりとした石の壁に柔らかい寝具、上質で趣味の良い調度の、心地良く整えられた部屋。それでも寛ぐ気にはなれなくて、ただ涙が頬を伝うに任せていた。

 下腹に張るような痛みを感じたのは、その時だった。それまでも、そもそもフェリツィアを懐妊していた時も心労は多かったし、ある意味では馴染みのある感覚ではあった。だが、その時には経験のないこと、あってはならないはずのことも同時に起きたのだ。


 足の間を、温かい液体が伝うのを感じて、シャスティエは思わず叫んでいた。腹の痛みと併せれば、まるで破水した時のようではあった。でも、この子が生まれるまでにはあと三カ月はあるはずなのに。早すぎる、そう思って恐慌に陥ったがための悲鳴だった。


 彼女の悲鳴を聞きつけた侍女たちや、急ぎ呼び出された医師を寄せつけず、シャスティエは叫び続けた。今ひとつ記憶ははっきりしないけれど、多分ミリアールト語だったのだろうか。アンネミーケ王妃の命令のもとで遣わされたのであろうブレンクラーレの者たちにとっては、まったく難儀なことだっただろうと思う。


 無理に飲まされた薬の効果か、単に疲れ切っただけだったのか。とにかくもシャスティエが落ち着いた時には寝台の上だった。その時も真っ先に腹を触って胎児の存在を確かめた。だが、我が子の無事に微笑む暇もなく、枕元に侍った医師の沈痛な面持ちに、シャスティエの心臓は冷えた。我が身に異常が起きたことは十分に理解していたから。だから、絶対に良くないことが告げられるだろうと思ったのだ。

 果たして、その医師は彼女に告げた。


 シャスティエの足を汚したのは、一筋の血に過ぎなかった。だが、それは胎児が流れかけている兆候。本来の産み月まで胎児を子宮に留めるには、絶対に安静にしていなければならない、と。




 寝台の天蓋に描かれた模様は、とうに見飽きてしまった。ブレンクラーレの技術の粋を凝らしたのであろう繊細な草花の絵、蔦の葉の数や花びらの陰影も、そらで書き写せるのではないかと思うほど。寝台から出ることはおろか、半身を起こすことさえ控えた方が良いと言われたから他に見るものがないのだ。本でも読めたら良いのかもしれないが、疲れ切った心身で文字を追っても頭に入るとは思えなかった。


 今も不意に零れる涙で、頁を汚してしまうかもしれないし。


「ファルカス様……」


 乾いてかさかさとした唇が紡ぐ声も、掠れてひび割れたものだった。夫の名を呼ぶのにそのような声しか出せないのは、今のシャスティエには許されないことではないかと思えてしまうから。罪悪感が、彼女の喉を締め付けて塞いでいるのだ。


 ――私は許されないことをした……。


 シャスティエを助け出すために国を空け、遥かブレンクラーレまで兵を動かしてくれた人。彼女の名の持つ意味、妻の裏切りを知りながら許してくれていた人。シャスティエ自身も、共に歩みたいと心から思ったはずだったのに。どうして、あの方が戦場から無事に戻ったことを第一に喜ぶことができなかったのだろう。夫の勝利を知らされて、敵の死を悼んで涙を流すなど、妻としては決してあってはならないことだろうに。


 ――きっと失望なさったわ。


 あの日以来、王と会ってはいない。シャスティエの不調を理由に、煩わせてはならないからと。確かにレフを喪った悲しみはまだ彼女の心を抉り続け、傷口は今も血を流し続けている。王への後ろめたさとはまた違った痛みを、彼を殺した人の顔を見ればきっとまた感じてしまうのだろう。だから、王の気遣いはありがたいと言えなくもない。


 でも、本当に気遣いだけが理由なのか、信じ切ることもできないのだ。あの日、シャスティエは王の顔をまともに見ることができなかった。特にレフのことを知らされた後は、泣き顔を隠すためにずっと俯いたままだった。だから妻が他の男のために涙を流すのを見て夫が何を思ったのか分からない。言葉で詰られることはなかったし、シャスティエに触れた手も優しかったと思うけど、心の中で夫はどう思っていたのだろう。

 無事を喜ぶ思いは真実だったし、レフのことも仕方ないと理解はしていたのに、どうしてあの時ちゃんと伝えることができなかったのだろう。


 ――次はいつ会えるのかしら……。


 王は、今はアンネミーケ王妃やマクシミリアン王子と終戦の条件を決める交渉に当たっているという。簡単に済む話でもなし、仮にひと段落ついても、次は帰国に当たっての準備に忙しくなるのだろう。


 その合間に、不実な妻と会う時間を割いてもらえるものなのかどうか。シャスティエにはまるで自信がなかった。




 安静にしろと言われて、寝台の上で過ごす日々は退屈なものだった。眠るしかすることがないし、かといって肉体は疲れていないのだからそれにも限界がある。でも目を覚ましていては泣きたくなるようなことしか考えられない。


「クリャースタ様、イルレシュ伯がお見えですが……」

「まあ、お通しして」


 だから侍女が遠慮がちに申し出た時、シャスティエはふたつ返事で快諾した。年配の方、気心の知れたミリアールトからの臣下とはいえ、寝台の上で迎えるのに気恥ずかしさは、無論ある。それでも今の外の状況を――何より、王の動向を教えてもらうとしたら、あの方を置いてほかにいない。レフを悼む後ろめたい思いを分かってくれるのも。


「アンネミーケ王妃は良い医者をつけてくれたとか。さぞ落ち着かないお心持ちでしょうが、どうかお気を強く持ってくださいますよう……」

「ありがとうございます。ええ、泣いてばかりではいけないと思っているのですが」


 客を迎えるにあたっては慌ただしく身だしなみを整え、久しぶりに薄く化粧を施してもらった。枕を背の支えに半身を起こすことさえ稀になっていたから、血の気が下がる感覚には目眩のようなものを覚えた。

 出来る限り、に見えるようにしたつもりだったのだけど。それでもシャスティエの顔を見るなりグニェーフ伯は表情を曇らせたので、彼女はよほどひどい顔色をしているのだろう。冷水で絞った布で冷やしてみても、目蓋の腫れは引かなかったし。まだレフの死で落ち込んでいると、一目で知られてしまうのも無理はない。


「お心を安らげられる報せをお持ちいたしました」


 シャスティエを案じる言葉も励ます言葉も、きっと探してくれたのだろう。でも、今の彼女の耳には真っ直ぐに届かないとも分かってくれたのだろう。グニェーフ伯は、来訪の理由を端的に告げた。


「アンネミーケ王妃はティゼンハロム侯爵との密約を認めました。マクシミリアン王子が母の命を惜しんで乞うてくれたのが大きかったですな。睥睨するシュターレンデ・鷲の神アードラーの名の元の証書を作ってくれるとのこと、次なる戦いに向けてのまたとない切り札になるでしょう」

「そうですか……。私が、寝ているうちに……」


 グニェーフ伯がもたらしたのは確かに朗報で、シャスティエは一瞬だけ微笑むことができた。だが、それもすぐに翳る。王が出立する前日に、交渉の場に同席して欲しいと言われていたことを思い出したのだ。戦いを前にした妻の不安を宥めるための、方便に過ぎなかったのかもしれないけど。今の彼女が出歩くことは、誰にとっても迷惑にしかならなかっただろうけど。


 ――私なら……鷲の巣城アードラースホルストの動揺を指摘することもできたのに。そうすれば、アンネミーケ王妃あのかたを追い詰めるのも、話が早かったでしょうに。


 傲慢な考えであることは承知していたけれど――素直に喜ぶよりも、大事な時にぐったりと横たわることしかできなかった我が身を恥じる思いの方が大きくてシャスティエは俯いてしまう。そんな卑屈さに、枕元の椅子に掛けたグニェーフ伯は上体をぐいと近づけて諭してくる。


「ブレンクラーレの神の名における誓いを求めることは、クリャースタ様だからこそのお考えでございましょう。何より、御身には御子をお守りするという大事な役目があったのですから」

「そう……でしょうか……」

「そうですとも。もうじき、イシュテンに……帰る、こともできます。御子のご誕生をお心安らかに迎えられるよう、王も尽力することでしょう」

「帰ることが、できれば良いのですが」


 シャスティエの帰る場所が今やイシュテンだということに、グニェーフ伯も戸惑いを覚えているようだった。やや躊躇いがちに紡がれたその単語は、しかしシャスティエにとってはまた別の不安を呼び起こす。


 ――馬車に揺られて、イシュテンまで……? それでこの子は無事なの……?


 立ち上がることさえ制限されているのに、馬車での移動に耐えられるまで体調が回復するのだろうか。グニェーフ伯の言い方だと、すぐにも帰国の途に就きそうな話なのに。もちろん、側妃ひとりだけ、それも王の子を胎に抱えて置き去りにされるようなことはあり得ないけれど。


 シャスティエの顔色が一段と褪せたのを見て取ったのだろう、グニェーフ伯は宥めるような微笑みを浮かべた。


「……アンネミーケ王妃は面子に賭けても最高の馬車と医者を用意するでしょう。ブレンクラーレの名を地に落とす陰謀に加えて、他国の王族をみすみす死なせたなどとの汚名は避けたいでしょうから。戦いの恐れももはやなく、ご夫君も傍にいらっしゃる……どうかお気を楽にしてくださいますように」

「でも私は、王にひどいことをしてしまいました……!」


 顔を上げて悲鳴のように叫ぶと、グニェーフ伯の顔は思いのほか近いところにあった。冴えた色の瞳が、温かい労りの感情を宿してシャスティエを見下ろしている。レフの死、王への想いと従弟への想い、夫への裏切りにも等しい悲しみ、それを抱くことへの後ろめたさ。言葉を尽くして訴えようと思ったのに、口にするまでもなく全て分かっていると伝えてきているかのようだった。


「ご心配には及びません」


 事実、グニェーフ伯は微笑むとしっかりと頷いた。同時にシャスティエの手を包んだ掌の温もりが、彼女の不安を全て包み込み、解してくれる。そのまま縋り、甘えてしまいそうになる――伯が言う通り、憂えることは何もないと信じたくなってしまうほど。


「王は、クリャースタ様の御心は御存じの上で、責めるつもりはないようです。それどころか、貴女様に憎まれることを恐れている様子……ですから、そのようなことはないのだと、伝えられるのが良いでしょう」

「……本当に……?」


 シャスティエが何も言わずとも、彼女が王を憎んではいないと伝わっているのが嬉しかった。レフのことを悼み悲しむことと、王を憎むことは今や全く別のことだったから。ただ、何よりも先に悲しみを現わしてしまったのが間違いだっただけで。


 ――王も、分かってくれている……? 話せば、ちゃんと伝わるのかしら。


 雲の合間から射す一筋の光のように、仄かに見えた希望に縋ろうと、更に王の様子を訪ねようとした時――でも、グニェーフ伯の方が先に口を開いた。


「は。実は今日は、お暇乞いに参ったのです」

「え……」


 意外過ぎる言葉にシャスティエが目を見開くと、その言葉を発した方は困ったように微笑んだ。まるで聞き分けのない子供を宥めるかのような表情。それを少し不満に思いつつ、それでも既に決まったことなのだと突きつけられるようだった。


「レフの遺体を、ミリアールトへ――母君のもとへ送り届けます。臣の他にそれができる者はおりませんからな。ひと足先に出発することになりますので、その挨拶と――少しでもお心を軽くできるように、と思いまして」

「叔母様も……私をさぞ憎まれるでしょうね……。本当なら私が行かなければならないのに」


 希望が見えたと思ったのも一瞬にも満たない間のこと、シャスティエの心はまた黒い雲に閉ざされてしまった。


 ――叔母様には、何てひどいことを……。


 夫と息子が皆殺されて。ただひとり生死が知れなかった末の子が実は生きていたと知らされて、でも同時に、やはり手が届かない存在になってしまったと思い知らされるなんて。それも、全てシャスティエのために。

 シャスティエにとっては母親のように慈しんでくれた方ではあるけれど。姪のために夫と息子のことごとくが命を失ったと知れば、変わらぬ想いを向けてくれるとは思えなかった。


 叔母の心中を思って声を震わせるシャスティエに対して、グニェーフ伯の言葉は意外なほどに淡々としていた。


「レフにはそれだけの罪がありました。公爵夫人もそこは理解しなければなりません。お気に病まれるよりも、罪人を故郷に返すことを許した王の心を、どうか汲んでくださいますよう……!」

「……はい。それは、願ってもないことだと思うのですが……」


 伯が口にするのは、あくまでもシャスティエと王の間柄のこと。確かに、レフのしたことを思えば遺体を引き裂いて野に撒かれたとしても異を唱えるのは難しい。祖国での埋葬を許すなど、望外の慈悲、もしかしたら諸侯から不満も出たかもしれないのに。


 ――それは、私のため、なのかしら……?


 そうかもしれない。そうだったら良い。でも、それはあまりにも都合が良すぎる考えにも思われる。ミリアールトの離反を防ぐためかもしれないし。でも、そうだとしても王に感謝しなければならないのは変わらない。


 ――でも、私がお礼を言ったとして……言葉通りに受け取ってくれる……?


 王はシャスティエに憎まれていると思っていると、グニェーフ伯は言った。彼女が何を言うとも、心にもないことだとか、当てつけだとか思われたりはしないだろうか。レフのための涙を見せてしまった後で、王に信じてもらえるような言葉を、どうやって探せば良いのだろう。


 迷宮を彷徨うような思考は、衣擦れの音によって妨げられた。グニェーフ伯が立ち上がり、退出する構えを見せたのだ。


「無事のご帰国にお供することができないのは心配ではございますが。行きとは違って王がお傍にいるはずですからな。何事も、ご夫君を頼られなさいませ」

「はい。そうできたら良いと思います」


 ――行かないで欲しい……。


 ともすると零れそうになる言葉を必死に飲み込んで、シャスティエは曖昧に頷いた。胎児のこと、王とのこと、これからのこと――不安の種は尽きないのに頼りにできる数少ない人は遥かミリアールトに旅立ってしまう。王は――頼り縋ることができれば、どんなに良いかとは思うけれど。この後ろめたさを抱えたままで、そんな都合の良いことが彼女にできるとは思えなかった。


 けれどレフと叔母のためには、この方を引き止める訳にはいかない。雪原にひとり取り残されたような寒さと孤独を感じながら、シャスティエはせめてもの温もりを求めて胎を抱えた。

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