第3話 脅し、駆け引き、言質 アレクサンドル

 ――これがこそ策士策に溺れる、ということだな。


 国境を越えて名声を響かせるブレンクラーレのアンネミーケ王妃――その女傑が言葉を失っているという、恐らくは非常に稀な場面を前に、アレクサンドルはごくありきたりな感想を抱いた。

 この短い間のやり取りでも、王妃の度量と知性が並外れているのは十分過ぎるほど見て取れた。だが、なまじ明晰な頭脳を持っているがゆえに、一時に多くの可能性を考えることができてしまうのだろう。平時ならば、それでも常人よりはよほど早く、もっとも事態に適した答えを導き出すことができるのだろうが――このような時にはそうもいくまい。このような、己の答えひとつに国の未来が左右される時には。


 ――ここまでは、とりあえず思い描いた通り……!


 王妃の沈黙によって、通訳を務める彼もひと息を吐く余裕を得ることができた。彼の王も、相手の出方を窺い次に切るべき手札を見定めるためか、言葉を発することなく黙している。その隙に用意された葡萄酒で喉を潤しながら、アレクサンドルも次の戦局に向けて息を整えた。




『正直に言って、女狐の首など要らぬのだ』


 鷲の巣城に入る前、王はアレクサンドルを召してこぼす様に呟いていた。ブレンクラーレから接収した城の一室、そこもまた仮の御座所でしかなかったが、それでも布と皮を使って野に建てた天幕に比べればかなり格好のつく玉座ではあった。

 アンネミーケ王妃との交渉を控えて対策を講じたいのだろう、と彼は主君の愚痴めいた言葉を受けとめた。ならば老人に求められているのは、適度な相槌で考えを纏めるのを助けること、だろう。


『今後のブレンクラーレとの関係のため……ということでしょうか』

『うむ。マクシミリアン王子――ブレンクラーレの次の王にとっては母親を殺されることになる。それこそ女狐が企んだように、他国と争う恐れなど少ないに越したことはないのだからな』


 王都の外での戦いはイシュテンの勝利に終わった。レフの――シャルバールにて卑劣な罠を巡らせた張本人と見做された者の――首を挙げたことでも、イシュテンの将兵の士気は大いに上がった。それだけならば、王にとって歓迎すべき事態だったかもしれないのだが。勝利に酔う者たちの間で、苛烈な報復を求める声も高まっていることを、王は危惧しているようだった。


『ブレンクラーレの怨みを買っても利などない。俺としてはリカードを追い詰める理由を得られれば良いのだ』

『ティゼンハロム侯爵との戦いの間、背後を気にするようなことになるのは避けたいところでございますな』

『うむ』


 シャルバールの復讐を掲げて諸侯を煽ったものの、王の最終的な目的はあくまでも自国の平定にある。報復をやり過ぎて禍根を残せば、そしてそれが将来の外患となるならば、本末転倒になってしまうのだ。イシュテンが警戒すべきは、無論ブレンクラーレばかりではないはずなのだが――


 ――ミリアールトは既に外患にはなり得ぬのかもしれぬな……レフがいなければ、母君の公爵夫人もどれほど気丈でいられるか……。


 一度破れてもなお、再戦のための余裕は十分にあるブレンクラーレと違って、ミリアールトはもはやイシュテンと共に歩む他の道はないのかもしれない。女王の意思はその通りであるし、アレクサンドル個人としてはこの王が創る時代に期待を感じてもいるが。祖国の歴史の終焉に立ち合ったのだと思うと、胸の裡を氷の風が吹くようだった。


『あの者は、リカードとの密約を証言させて目溢しする形にすれば良いと言っていたが……』


 老人の感傷を他所に、王はあくまでも目前の現実を見据えて語った。アレクサンドルとしては、夫婦として心通わせたはずのシャスティエの名を呼ぶのを避けたことに、気付かない訳にはいかなかったが。


『シャスティエ様が、ですか』


 あえて彼の女王、王の妃の御名を口にしてみると、夫君であるはずの男は軽く顔を顰めた。アンネミーケ王妃の口を割らせる方策について思い悩んでいるのなら良いが、もしもシャスティエの名を聞いたことによる渋面だとしたら。レフを殺したことで、あの方に憎まれたと信じて距離を置こうとしているのだとしたら。また、人生の先達として若者を諭し背を押すことも必要になるだろうか。


『女狐の――王妃の命と引き換えならば、良い取引になるのではないか?』

『さて、そのように上手く行きますかどうか……』


 だが、ふたりの間柄も気懸りではあるが、王の案には指摘すべきところがあった。それなりに人生の経験を積んだ身として、そしてイシュテンの者とは多少違った視点を持つ身として、彼は王の役に立たなくてはならなかった。


 王と同様、アンネミーケ王妃も両国の遺恨が深まることを望まないであろうこと。シャルバールの件だけでもイシュテンの恨みは深いところ、更なる陰謀の存在は認めがたいかもしれない。

 また、王妃はティゼンハロム侯爵との関係も考慮に入れざるを得ないだろう。王は無論負ける場合のことなど考えていないだろうが、狡猾で慎重であればあるほど、あの女傑は万が一のことを警戒せずにはいられないはず。


『俺が破れた場合のリカードの恨みのことまで考えるのか? 今の段階で?』


 とりあえず懸念となりそうなところを述べると、王の眉間の皺は深まった。敵にまでも見透かされる自国の危うさを認めるのは、さぞや屈辱なのだろう。しかも、そこを押してアンネミーケ王妃にさせるのは恫喝や交渉というより請願や説得に近いだろう。勝者の立場でどうしてそのような真似をしなければならないのか、うんざりした気分になるのも無理はない。


 ――これを言えばなお嫌がるのだろうな……。


 王の機嫌を損ねるのは承知の上で、それでもアレクサンドルは諌言めいたことを口にすることにした。彼の目に見えることは主君にも伝えなければならないし、何よりこの王ならば――たとえ不快を露にしたとしても――正当な言を感情のままに退けることはないと信じられたから。


『それに、アンネミーケ王妃が噂に聞く通りの人柄であるならば、命乞いなど矜持が許しませんでしょう。女も王の矜持を持ち得ること、陛下は御存じのはず』


 死を免れてもそれを慈悲とは考えず、祖国の仇を憎む心を長く忘れなかったのがシャスティエだ。アンネミーケ王妃がイシュテンを憎むのは、筋違いも良いところだからさすがにないかもしれないが、とにかく命を助けることが手札にならない可能性さえ分かってもらえれば良い。


 アンネミーケ王妃を説得する難しさを考えてか、あるいはシャスティエのことを思ってか――今回も分からなかったが。とにかく、王は苦い息を吐き出した。


『……自らの命を差し出せば良い、という考えは相当に魅力的らしいな? 女狐といえどもその誘惑には抗いがたいのか……?』


 王が思い描いているのがアンネミーケ王妃ではなくシャスティエであろうことは、ほぼ間違いがなかった。命を投げ出そうとする者を、しかし殺す訳にはいかないという状況は確かに厄介なもの、王の不機嫌も無理のないことだった。


『王妃自身は、確かに死を持って償い、かつ陰謀の全てを闇に葬りたいと考えているのでしょう』

『そうなればリカードもさぞ喜ぶだろうな。……口を割らせる方法は、あるか? 脅して吐かせたところで信憑性に欠けるだろうし……言葉での駆け引きとなるとあちらに分があるのだろうが』


 剣だけに拠らず、言葉を使って戦いの術を王が覚えようとしているのは、良い傾向に思えた。シャスティエがこの先も長く過ごすことになる国が、血みどろの争いを続ける野蛮さを脱して変わろうとする兆しにほかならないから。この萌芽が、ここで潰えるようなことがあってはならない。


『ございます。アンネミーケ王妃がいかに誇り高く気丈だとしても、王太子は同じ心持ちになれるはずはございません。母を想う息子の心につけ込む手はいかがでしょうか……!?』


 シャスティエがいるイシュテンの未来のために。アレクサンドルはいかなる手段も採るつもりだった。




 イシュテンの王との会談にあたって、鷲の巣城アードラースホルストに用意された部屋は広かった。両国の代表する者たちが着く卓――それもまた地図や名簿などの書類を広げる大きなもの――を中心に、侍従に衛兵、文官など多くの人数を擁しても息苦しさは全く感じないほど。宮殿の他の部分と同様に眩いほどに飾り立てられた空間は、だが、今はひりつくような沈黙に支配されていた。

 アンネミーケ王妃がイシュテン王の詰問にどのように答えるのか、誰もが息を呑んで見守っているのだ。


 事前にアレクサンドルと諮った通り、王は問いを重ねることなく王妃の顔色を窺っている。沈黙によって相手を追い詰め、焦りを更に募らせるために。そして沈黙を耐えがたく思うのは王と対峙するアンネミーケ王妃だけではない。母を案じてか青い顔をして、それでも敵の王の前で横を向く勇気を持てないでいる様子のマクシミリアン王子も。王が会談に伴った、分別と忍耐あるはずのイシュテンの将たちも。


「――陛下。我らがこの場にあるのは、このためだったのですか? ティゼンハロム侯爵の罪を我らに知らしめようと……?」


 ブレンクラーレの王宮には似つかわしくない、イシュテン語の囁きが沈黙を破る。最初に痺れを切らしたのは、王の言葉を聞き捨てられなかったらしいイシュテンの将だった。


「そうだ。ティグリスは死を持ってその罪を償ったが、死者に罪を押し付けて長らえようとする者がいるならば捨て置けぬ」

「なぜ事前に教えてはくださいませんでしたか……!?」

「俺がリカードを糾弾したとして、そなたたちは信じていたか? 異国の者の言葉の方が信じられるということもあるだろうよ」


 イシュテンの王と臣下が交わす言葉は、当然のようにイシュテン語だ。ブレンクラーレ側に向けたものではないから、アレクサンドルもあえて通訳はしない。だが、険しい表情で王妃をちらちらと睨みながらのやり取りを、気にしない訳にもいかないだろう。ブレンクラーレの通訳が、主たちの耳元で早口に囁くのが見えた。


 ――これでアンネミーケ王妃は答えを急がされる……。


 今や王だけでなく、イシュテンの者たちも王妃を疑いの目で注視している。迂闊に誤魔化そうものなら、折角収まりかけたイシュテンの憎しみを再燃させかねないことに、王妃が気付かないはずがない。


「ティグリスめと通じた女狐を信じよとの仰せでございますか?」

「だからこそ直に会う機会を設けたのだ。俺が何を問い、王妃が何を答えたか、よく見ておくが良い」

「は……」


 ティグリス王子に与した理由は、王妃自身が既に認めた。イシュテンの脅威を弱めるための弱い王には、マリカ王女がより適任であるのも自明のこと。黒松館の襲撃が、ブレンクラーレの手の者だけで行われたとは考えづらいのも、ここまでくれば気付く者も多いだろう。ひとつひとつは決め手とは言い難いが、ここまで重なれば。そして、戦場の血の臭いも乾き切っていないイシュテンの猛者の視線を浴びながらでは。否定することこそが悪手であるとの結論に、王妃が至ってくれれば――


「……ファルカス陛下のご推察は全く正しい。いかにも、イシュテンの側妃を攫うべく妾の手引きをしたのは、ティゼンハロム侯爵に相違ない」


 イシュテンの者たちが睨み、アレクサンドルが祈るように見つめる先で、アンネミーケ王妃はやっと薄く色のない唇を開いた。噛み締めるようにゆっくりと発する言葉は重々しく、自らの死の宣告のつもりで述べているのだろうと見えた。


「おお……」

「やはりか!」


 事実、アレクサンドルが訳した王妃の言葉を聞いて、イシュテンの者たちは色めき立った。掛けていた椅子を蹴倒す騒々しい音が響き、衛兵たちを身構えさせる。交渉の場に武器を携えてはいないものの、素手でも王妃を害するのに十分だろうと思わせるほど彼らの勢いは凄まじく、対して王妃の首は細かった。


「度重なる陰謀の全容を隠しておいて交渉など……何という不実か!」

「このような侮りを許されるおつもりか、陛下!?」


 イシュテンの者たちが憤り怒鳴るのも、予想の通り。王が事前にティゼンハロム侯爵への疑いを口にしていなかったのは、彼らの怒りがより大きくなるようにとの意図もあったのだ。イシュテン語の怒声と、ブレンクラーレの通訳が訳す言葉で、アンネミーケ王妃は二度糾弾されることになる。王妃の逃げ場を潰すための、これも布石だった。

 だが、それだけの圧力を受けてなおブレンクラーレを長年率いてきた女傑は誇り高かった。王妃を守ろうと進み出た兵や、異国の言葉での怒声に狼狽えて腰を浮かした息子を他所に、ごく優雅な所作でゆっくりと立ち上がったのだ。


「確かに妾はイシュテンの王を侮っていたようだ。その代償はいかにして支払えば良い? 女の首を刎ねるなど、御身の技量ではさぞ不服と思われるだろうが」


 戦いだけではない、謀においても完全な負けを認める言葉にも拘わらず、アンネミーケ王妃にはどこか勝ち誇るような気配があった。その痩せた頬には微笑みさえ浮かんでいる。


 ――やはり、一命を持って全てを贖うおつもりだったか。


 首を刎ねるならさっさとしろとけしかけているかのような――穏やかな、だが挑発的な微笑みだった。アレクサンドルが懸念した通り、この女性は命乞いなどをするにはあまりに矜持が高く心も強い。対峙する王も、王妃の宣言を受ければ頷くほかないだろうと思えてしまうほど。――だが、王が望むのはこの女性の命などではないのだ。ティゼンハロム侯爵の、王ばかりでなくイシュテンそのものに対しての裏切りを、たかだか数人の耳目だけではなく、公に示すものを残してもらわなければならない。


 だが、王の口からそのように乞うこともまた、あり得ないことだ。王妃の泰然とした問い掛けに応えて、王もゆっくりと立ち上がる。その唇に、獰猛なファルカスの笑みを浮かべながら。


「女とはいえこれほどのことをしでかしてくれたのだ。俺が剣を振るうのに不足などない。――リカードにも、良い土産となろう」


 王妃に対して決して下手に出ないよう、動揺を見せぬよう。王は今、心の中で念じているはずだった。王妃の挑発に乗って、臣下の怒りを受けて、本気でブレンクラーレの王妃の首を求めているのだと見せなければならないのだ。


 そして同時に、王妃を止める者が現れることを切望しているはず。


 もしも間に割って入る者がいなければ、王はアンネミーケ王妃にイシュテンの陣まで赴くように告げなければならないところだった。そして怒れるイシュテンの諸侯の手前、やはり止めた、などということには決してできないのだ。


 ――このままでは……!?


 せめてもの時間稼ぎのために、アレクサンドルも努めてゆっくりと王の言葉をブレンクラーレ語に直して伝えた。それによって、少しでも高圧的に聞こえるようにと願いながら。

 それでも最後の単語を訳してしまって、最後の音を言い切ろうとした、瞬間。椅子が倒れる音が派手に響いた。


「待って――お待ちを、ファルカス陛下……!」

「マクシミリアン、口を出すでない!」


 同時に上がった情けなくも震える声は、ブレンクラーレの王太子が発したものだった。母親の言いなりだという評判とは裏腹に、眉を吊り上げて怒鳴りつけるアンネミーケ王妃を王の目から隠すように、その背に守っている。母親の叱責に背くのも、怒気も露なイシュテンの者たちの前に進み出るのも、相当な勇気がいることなのだろう。王太子の顔は引き攣り、身体が震えているのさえ目に見えていた。――だが、これこそ王が待ち望んでいたことだった。


「お怒りはまことにごもっとも! お妃と御子のことを思えば、私が母の命を惜しむのも許されないことと、分かってはおります! ですが、そこを押して、どうか……! そのほかで償いになることなら、どのようなことでも……!」


 王太子が声を途切れさせたのは、王が微笑んでいるのに気付いたからだろうか。獲物を見定めた猛獣が浮かべる類のものではなく、策が上手く行った時に思わず零れるような、会心の笑み。その意味を、理解したのだろうか。


「どのようなことでも、と仰ったか」

「……はい。何でも……」


 例え王の笑みを不審に思わなかったとしても、念を押されるように聞き返されれば気付かずにはいられないだろう。外交の場において、どのようなことでも、などとは決して言ってはならかったということに。


「ファルカス陛下。一体、何を……?」


 アンネミーケ王妃の溜息を背に受けながら、マクシミリアン王子は恐る恐る、といった表情で尋ねた。


「ブレンクラーレの次期王たる御方のたっての願いとあれば無碍にもできまい。大国を率いる者の頭を下げさせたことは、イシュテンでも長く語り継がれよう……!」


 イシュテンの王の言葉は、イシュテンの臣下に向けられていて、王太子の問いに直接答えるものではなかった。とはいえこの場の誰もが察しただろう。王はで話を纏めるつもりなのだと。


 ――王太子による命乞いならイシュテンが特別に赦しても格好がつく……。アンネミーケ王妃も、それでも殺せなどとは言うまい。


 何より、何でもするとの言質も取れた。王太子が何を覚悟しているかは分からないが、ティゼンハロム侯爵の悪事を証言するくらいは母の命と比べれば安いものだろう。


 交渉が上首尾に終わりそうだと見て取って、アレクサンドルは安堵の息を吐いた。

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