第4話 ふたりの妻のうちのひとり ウィルヘルミナ
これまでに何度かあった遠征や内乱の後、王宮に帰還した夫が真っ先にウィルヘルミナを訪ねてくれることはほとんどなかった。留守中の報告を受けたり、傷ついた者たちを労ったり。功績を上げた者のために祝宴を開くこともあった。いずれも重要なことだから、女子供のために時間を割いてくれないのを不満に思ったことはない。彼女としては、夫が無事だったという一事だけで十分だった。また愛しい人の姿を見ることができる、抱きしめることができる喜びを噛み締めながら待つのは、彼方の戦場にいる夫を待つよりは比べものにならないほど楽なのだから。
でも、今回に限っては、以前とは違うことが起きるのではないかとウィルヘルミナは期待していた。あるいは、恐れていた。夫が何を置いても彼女を見舞ってくれる、などと思っている訳ではないけれど――今宵こそは、帰ったばかりの夫に会うことができるのではないかと予感していたのだ。
ウィルヘルミナが夫に相談もなくしでかしたことは、きっと問い質さずにはいられないことだろうと思うから。
――ファルカス様は……何と、仰るかしら。
でも、ウィルヘルミナがしたことはそれだけではない。
玉座の間での、父とのこと――もっと堂々と振る舞えるよう、よくよく心構えはしていたはずなのに。思い返すと恥ずかしくなって消えてしまいたいと思うほど、彼女の声は震えて上擦ってしまっていた。まるで子供の癇癪のように、思ったことを喚くばかりで。父の不敬と不遜を衆目に明らかにすることはできたと、アンドラーシやグルーシャは慰めてくれたけど。マリカにも恐ろしい思いをさせてしまったことに、母としても後悔は尽きない。
それでも、それすらもウィルヘルミナの手柄に数えられること、だろう。夫のために父の叛意を暴くこと、それ自体には成功したはずなのだから。けれど、同時に彼女の夫に対する裏切りも暴かれるのだ。
ウィルヘルミナが――王妃が、父であるティゼンハロム侯爵と通じたというなら、その使いの者に証言させれば良い。
そう突きつけられた父が返す言葉に詰まったのを、大方の者たちは使いの者などいないからだ、と解釈したようだった。ウィルヘルミナが思った通りに。王妃に虚言を強いてまで私兵を動かした父の評判は、地に落ちたことだろう。
けれど、ウィルヘルミナが本当に父へ手紙を送ったことを知っているアンドラーシはすぐ気付いた。存在しているのに父が表に出すことができない者がいる――つまりは、彼女は父の手の者と接触できることができて、しかもその者は王宮にいてはならない存在だったということを。
――エルジーのことだと、お気付きになるかしら。
ことの次第は、アンドラーシによって余すことなく夫の耳に入るはず。そしてアンドラーシ以上に父のやり方をよく知る夫ならば、ウィルヘルミナが隠していたことにも思い至るだろうか。たとえそうでなかったとしても、今度こそ彼女の口からはっきりと打ち明けなければならないのだけど。
その時の夫の顔を見るのが、何を言われるのかが、怖い。でも、言わなければならない。胸を塞ぐ重石を取り除きたいという思いもあるし、何より夫に早く会いたい。
マリカを寝かしつけた後、落ち着かない思いで自室で待っていたウィルヘルミナは、だから、侍女が扉を叩いた瞬間、跳ねるように立ち上がっていた。恐縮した様子で入室した侍女が伝えるのは、もちろん夫からの言伝てだった。
「遅い時間ですから、明日でも、ということでしたが……」
「いいえ、今すぐにでも。お待ちしていますと伝えてちょうだい」
侍女は、深夜に王を迎えることを何か無作法のように思っていたのかもしれない。眉を顰めながら気遣うように問いかけられて、でも、ウィルヘルミナは一も二もなく頷いた。この落ち着かない気持ちを抱えたまま眠ることこそあり得なかった。ひと晩中ああでもないこうでもないと思い悩んで、やっと訪れた浅い眠りでは悪い夢に苦しめられるのが目に見えている。
それなら、一時の恐怖がどれほどのことだろう。
夫の方でもウィルヘルミナに早く会いたいと思ってくれていたのだろうか。それとも一刻の猶予もならないほど問い詰めたいということなのだろうか。ウィルヘルミナが慌ただしく身支度を整えるかどうかのうちに、夫は彼女の部屋の扉を潜った。
「ミーナ」
「ファルカス様……」
夫の声が自身の名を呼ぶのを久しぶりに聞いて、このような時でもウィルヘルミナの心臓は高鳴った。遠征の後はいつもそうだけど、鋭く
結婚して以来の十年余りに何度となく経験した甘い息苦しさ。少女の頃に初めて会った時のときめきを、ウィルヘルミナはまたも感じていた。
――私はやっぱり、この方のことが好き……!
その想いは、かつてほど曇りなく誇らしいものではなくなってしまっているけれど。父の罪、王女しか生めなかった彼女自身。若く美しく、夫に愛されるシャスティエの存在。それらのことを置いて、夫の傍にあることを望んでも良いのかどうか。後ろめたさや引け目を感じている癖に、諦めることができない浅ましさが恥ずかしくて、夫に駆け寄ることも言葉を紡ぐこともできなかった。無事を祝うとか許しを乞うとか、考えてはいたはずなのに。
だから、距離を縮めて先に口を開いたのは夫の方だった。常に堂々と貫くような眼差しが、今は揺らいで軽く伏せられる。
「側妃にかまけて、お前にもマリカにも長く寂しい思いをさせた。すまなかった」
「いえ……」
夫は今回の遠征のことだけを言っているのではない、と感じてウィルヘルミナは声を詰まらせた。多分、そのもっと前、シャスティエを見舞って黒松館に通っていた頃のことも含めて言ってくれているのだと感じられた。夫の言葉は簡潔でも、心から発せられたと分かる、真摯なものだったから。
――ちゃんと、気に懸けていてくださった……!
御子ともども命を狙われ、更には懐妊中の大事な身を攫われた方を気遣うのは当然のこと、と自らに言い聞かせていた。ブレンクラーレへの遠征は、イシュテンという国の誇りを保つためにも必要なことと理解してもいた。
それでも、マリカにもそのように言い聞かせながらも、ウィルヘルミナはずっと寂しかったのだ。十年連れ添った方がもう自分だけの夫ではないということ、妻として夫には不足なのではないかと思うこと。王たる夫に従わない父を持つウィルヘルミナと、ミリアールトと、もしかしたら世継ぎの御子を差し上げられるかもしれないシャスティエと。比べれば、打ち捨てられても仕方ないと――諦めつつも、そのような考えは彼女の心を蝕み腐らせていたのだ。
でも、たとえ遠く離れていても、夫の心の幾らかは確かに彼女にも向けられていたのだ。全て、ではないことに不満などは覚えまい。夫の妻とは、もうシャスティエでしかないと思っていたのに。夫の心には、まだウィルヘルミナの居場所があると期待しても良いのだろうか。
「私のことなど、どうでも良いのですもの……」
喜びに沸き立つ心とは裏腹に、それに散々考えて準備していた甲斐もなく、ウィルヘルミナの唇は勝手に卑屈な言葉を紡いでいた。自らを卑下することは、それほどに彼女の倣いになっていたのだ。
「何を言う」
可愛げのない態度を取ってしまったことを恥じて、顔を俯かせる――と、空気が動いて夫が更に距離を縮めてきたのを教えた。
「留守中のことは聞いた。リカードに敵対すること、さぞ恐ろしかっただろうに――よく、やってくれた」
「ファルカス様……!」
夫の低い声が、すぐ耳元で聞こえる。微かに触れ合う頬、夫の腕や胸の硬い筋肉の感触。夫の匂い。あまりに懐かしく愛しく、そして落ち着く、夫の腕の中にいる。そうと気付くと、ウィルヘルミナの目の奥から熱いものがこみ上げてきた。
「でも、私、全然上手くいかなかったのです……! シャスティエ様のようにはいかなくて、それに……」
――ダメだわ、これではまた子供みたい……!
感極まって涙ぐんでしまうなんて。泣いて誤魔化そうとしているだなんて、思われたくはないのに。でも、自身の心を裏切って、ウィルヘルミナの手はしっかりと夫の胸に縋りついている。
そんな彼女の髪を、夫の指が優しく梳いた。夫の訪れを予想して丁寧に洗い、乾かしていた髪を、もう遅い時間だから結わずに下ろしていたのだ。さらさらと、しっとりとしたしなやかな手触りは、多分夫が好んでくれているもの。そんなくすぐったさについ溺れかけて――でも、夫の言葉に冷水を浴びせられる思いをする。
「そう、叱らなくてはならないとは思ったのだ」
「はい。分かっております」
何度か瞬きをして浮かんだ涙を振り払うと、ウィルヘルミナは顔を上げた。そうすると夫の目は意外なほどに近くて、心臓を宥めるのにまた苦労してしまう。これから囁かれるのは睦言などではなく、彼女の裏切りを質す詰問に違いないのに。
「……アンドラーシに手紙をやって、リカードに先んじて助けさせる策を練ったと聞いた。俺のために反逆の証拠を、と考えてくれたのは嬉しいが――危ういところだったのは、認識していたか?」
「え……?」
でも、夫の声にウィルヘルミナを詰る気配はなかった。それどころか、どこか懇願するような響きさえあるような。夫の腕も、まだ彼女の身体を抱いている。思わぬことに目を見開く間にも、夫の声が耳に注がれる。
「あのアンドラーシでさえも肝を冷やしたと言っていたぞ。もう少し王宮に到着するのが遅ければ、お前たちはリカードに攫われるところだったと。時間稼ぎのために、まだ暗い庭にマリカを出したとも聞いた。気丈なマリカとはいえ、恐ろしかっただろうとは想像がつくな?」
「……はい。マリカにはとても可哀想なことをしてしまいました。母として、あってはならないことだと思います」
マリカのことは、ウィルヘルミナの最大の失敗と言っても良いことだった。暗く寒い中で心細い思いをさせられて、あれ移行、娘が大人への不信を露にするようになったのも無理はない。
だから、従順に頷いて自らの非を理解していることを示そうとしたのに。夫はそれで満足しなかったらしい。溜息が鼻先をくすぐった、と思うと同時に夫の温もりがウィルヘルミナを包み込んだ。
「そう。だが、それだけではない。お前たちを失うところだったと、後から聞かされた俺の身にもなってはくれぬか……?」
「はい。……いえ……?」
夫に強く抱きしめられている。そうと気付いて、ウィルヘルミナの困惑は深まるばかりだった。叱られる場だと思っていたのに、まったく似つかわしくない。苦しいほどの夫の腕の強さ、彼女の存在を確かめるように身体をなぞる手――この必死さには、覚えもあるような。
――シャスティエ様が攫われた時の……?
黒松館の襲撃を聞いた後のこと、夫は目の前のウィルヘルミナではなく、攫われたシャスティエを求めて彼女を抱きしめていたように思えた。でも、力や想いの強さは同じでも、今の夫は、確かにウィルヘルミナを見てくれている、のだろうか。
「無論、リカードが娘や孫に手を出すとは思っていないが。だが、無事に取り戻せるかどうかなど、一体誰に分かる? もしも取り戻す前に俺が奴に敗れることがあれば――」
そうなれば、二度と会えないところだった。
夫が敢えて言葉にしなかったことを、ウィルヘルミナは正しく聞き取った。戦いにおいて怯むことがないはずの夫でさえ、口に出すことで
「ファルカス様、私は――」
あの時父の手に落ちていたら、確かに決して逃れることは叶わなかっただろう。夫のためにと思いながら、夫が望まない事態に陥る危険に気付いていなかった。何かひとつでも間違っていたらこの瞬間もなかったと思えば、夫の腕の強さも当然のことだった。
改めて、凍える寒さにも似た恐怖に囚われて夫の名を呼んで――でも、続けようとした言葉は口づけによって摘み取られた。
「……シャスティエが攫われたと知らされた時もそうだった。妻と子を奪われて、再び会えるかどうか分からない。知らぬうちに大切な存在を手の届かぬところに奪われるのは恐ろしい。お前でも、シャスティエでもマリカでも。自らの意思で危険に近づいたとなればなおのことだ。だから――」
ウィルヘルミナを抱きながら夫が呼ぶのは、彼女ではない方の妻の名だった。心地良く愛しい温もりに包まれても、その名はウィルヘルミナの胸に冷たい刃を差し込んだ。
――シャスティエ様のおかげ、なのね。
夫が、妻を喪う可能性を、それを耐えがたいことだと認識したのは。胸の痛みは、ふたりの結びつきを見せつけられたように感じたからだ。でも、シャスティエの名がウィルヘルミナに与えたのは痛みだけではない。何か、納得のような安堵のような、温かい思いも同時に湧き上がってきている。シャスティエによって気づかされた思いを、夫はウィルヘルミナにも向けてくれた。それは、素直に喜ぶべきことだと思ったのだ。
「申し訳ありませんでした。私はファルカス様の妻。ずっとお傍にいたいと思っております。もう、勝手に危ないことはいたしません」
妻がふたりいるからといって、競い合うと決まったものでもないのだろう。夫をひとり占めできない寂しさや不安はあっても、シャスティエが現れたことによる変化は、悪いことばかりではなかった。父の悪事に気付いたのも、立ち向かう勇気を振り絞ることができたのも。夫の役に立ちたいと願うようになったのも。全て、シャスティエがいたからこそだ。
そしてもしも、逆もまた真実であるとしたら。シャスティエの存在によって、夫がウィルヘルミナを見る目が変わったように、ウィルヘルミナが何か――何かは分からないけど――夫やシャスティエに良い変化をもたらすことができるとしたら。
そうなれば良い。でも、まだそう願うことは許されない。全て打ち明けてからでなくては。
「でも、その上で――まだ、お話しなければいけないことがあります。お赦しを乞わなければならないことが。聞いて、くださいませ……」
それでも、夫の目を見つめてそう述べた時、ウィルヘルミナの声も心の持ち方も、最初よりはよほどしっかりしたものになっていた。
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