第22話 王宮への帰還 ラヨシュ
バラージュ家での生活に、ラヨシュは馴染んだとは言い難い。使用人たちがあからさまに冷たいとか虐めてくるというようなことはない。むしろあのアンドラーシの口添えもあって、屋敷を取り仕切るグルーシャは何かと彼に気を遣ってくれているようだった。それを腫れ物扱いと思ってしまうのは、彼の性根がいじけているだけなのだとは分かるけれど、それでも、いるべきでない場所にいるという思いがどうにも拭えなかった。
クリャースタ妃と共にいるのを見たことがある、ミリアールト出身の侍女も、姿を見かけることがよくあった。フェリツィア王女に掛かり切りらしく、ラヨシュに構ってくることはなかったけれど。
そう、ラヨシュは赤子に近づくことはできていない。王女の泣き声を耳にしたり、側妃に忠実な侍女たちに抱かれて庭を散歩しているのを遠目に見たりすることはあるけれど。そこまでは信用されていないということなのだろうが、不快よりも安堵が勝る。確かに、この屋敷で誰よりも――王妃や王女よりも――大切に傅かれる王女を目の前にして、彼が何をしてしまうのか、自分でも分からなかったから。赤子を傷つけるなんて絶対に許されないこととは思うけど、母は彼にそう望むのかもしれないから。
――母様の願いは……全て王妃様のために……?
でも、当の王妃は母の想いを決して喜んではいないようで、ならばどうすれば良いのか、彼はいまだに分からないのだけど。
そんな落ち着かない日々だったから、バラージュ家を離れるので荷物を纏めるようにと命じられても、それ自体はラヨシュの胸に大した感慨を起こさなかった。しょせん仮の居場所という思いがなくなるほど長くいた訳ではなかったし、彼にはもっと気に懸けることが多くあったのだから。それも、移るのは王宮に、とのことだった。ティゼンハロム侯爵邸に次いで、彼の短い人生においては多くの年月を過ごした場所だ。王妃と王女に仕える穏やかな日々に戻ることができればどんなに良いか、と思うのだが。
もちろん、事態はそう簡単なことではない。
「王女……お支度はお済みになりましたでしょうか……?」
「ええ、終わっています。入っても構いませんよ」
おずおずと扉の外から呼び掛けると、室内から帰って来たのは大人の女の落ち着いた声だった。王女に対しての問いかけだというのに代わって応えるのは無礼ではないか、と少なからずむっとする。けれど、とにかく入室を許されたということは、つまり、王女の機嫌がそこまで悪くないこと。少なくとも入った瞬間にものを投げつけられるようなことはないのだろうと判じて、ラヨシュは扉に手を掛けた。
「王女様、王妃様がお待ちですよ。……あの、今日は王宮に帰ることができる日ですから……」
「そう」
女の――アンドラーシの妻のグルーシャの――手によって着替えさせられ髪を結われたマリカ王女はいつも以上に愛らしかった。ただし浮かべる表情はむっつりとして唇は固く結ばれて、短い相槌を打つためにほんのわずか開かれただけ。ラヨシュの入室を認めてもこちらを向いてくれることはなく、青灰の目が横目で睨んでくる。やむを得ず近寄らせてはいるが、彼の嘘と裏切りを決して許してはいないのだと、全身で伝えてくる格好だった。
「王妃様はもうよろしいのね?」
「……はい。もう馬車に向かわれているはずです」
「では、王女様も急がなくては」
かつてのように微笑みのひとつも向けてはくれないものか――未練がましく王女の顎を反らした横顔を見つめていると、グルーシャが話しかけてきた。なので仕方なくそちらに顔を向けると、アンドラーシの妻は穏やかに微笑んでいた。王女を促す仕草もごく自然で優しくて、敵だと思って構え続けるのが難しい。
――この人はどのように感じているんだろう?
バラージュ家は、かつてはティゼンハロム侯爵家に仕えていたのに。先代の当主は、王の命令で死を賜ったと聞いているのに。なのに、どうしてこの女性は王の側近の妻に収まったのだろう。ティグリス王子の乱で片腕を喪った弟のことを哀れんで、侯爵が縁談を用意しようとさえしていたのだと、母は言っていたのに。
『恥知らずの裏切者。侯爵家の恩を忘れて売女なんかに擦り寄って……!』
王妃も針を入れたという花嫁衣裳――当時は違う名前だったグルーシャのために彩られて、しかし使われることがなかったものを握りしめて、母は唇を噛み締めていた。当主の死と跡継ぎの怪我が続いて落ち目だったところなのに、バラージュ家は上手くやった――そんな使用人の囁きが聞こえた日のことだったと思う。そこまでしてもらったのに断るなんてひどい、と。その時は確かにラヨシュも憤ったものなのだけど。
バラージュ家に来てみれば、そして夫婦ふたりのところを見てみれば、アンドラーシとグルーシャは仲睦まじく、打算のための結びつきとは考えづらかった。母がここにいたなら、そんな見かけに騙されてはならないと叱咤されていたかもしれないけれど。
でも、ラヨシュの目にはふたりの様子が演技とは思えなくて。ふとした瞬間に見つめ合って微笑んだり手を触れ合わせたりするのを、意識してできるとは思えなくて――だからこそ、この女性がどういう思いで自らの立場を選んだのか、ぜひとも聞きたいと思ったのに。そんな機会は、ついに得られることがないまま彼はこの屋敷を去ろうとしている。
「さあ。マリカ様」
「触らないで……!」
微笑みと共にグルーシャが差し出した手を、マリカ王女は勢いよく払い除けた。
「ラヨシュ。行こ」
さすがに呆気に取られて絶句していると、王女はやっと彼を正面から見てくれた。相変わらず視線は鋭くて冷たくて、少しも御心は和らいでいないと伝えてきていたけれど。取りあえず、グルーシャよりはマシだと思われているのかもしれない。
「は、はい。マリカ様……!」
現に王女は彼の手を取ることなく、さっさと椅子から飛び降りて扉へと向かう。王妃の居場所は屋敷の門前、アンドラーシが手配した馬車で待っていると聞かされているはずだけど、最近のこの方のことだから、つむじを曲げてふいとどこかへ行ってしまうのではないかと不安だった。だからラヨシュは慌てて小さい背中を追った。同時にグルーシャには目礼して。礼儀には適っていないのだが、この際咎められはしないだろう。
「マリカ様……」
「王宮に帰れても嬉しくなんかないわ。あいつに乗っ取られてしまったんでしょう……!」
ラヨシュを伴って、というよりは従えて。マリカ王女は廊下をぐんぐんと早足に進んでいく。だから吐き捨てた言葉は、ラヨシュに掛けたものではなかったのかもしれない。
けれど少女の強い口調は、彼の迷う胸に突き刺さった。彼がすべきことを見極められないでいる間にも、事態は刻々と動き続け、王女は鬱屈を溜め続けているのだ。
アンドラーシは、数日前に王都へと発った。これまでのように数の少ない護衛だけではなくて、バラージュ家と――それに、あの男に声を掛けられて賛同した家々の手勢を引き連れて。王妃が不在の今、あの男が王宮で護衛すべき対象などいないのに。何より、あれほどの――具体的にはどれほどの軍なのか、ラヨシュには今ひとつはっきりと想像できていないのだけど――数の兵、王宮に詰める兵士を全て取り押さえてもなおあり余るほどだと聞いたのに。
だから、もはや戦いは始まっている、というべきなのだろう。アンドラーシはティゼンハロム侯爵の先手を打つことにしたのだ。侯爵が動く前に王都を手中に収め、拠点にしようとしているのだ。王妃と王女は、あの男にとっては分を越えた行いを正当化するための大義であり侯爵に対しての人質。王女の不快も憤りも、全くもっともなものに思える。
「ラヨシュ。忘れ物はない?」
なのに、王妃の表情は穏やかなものだ。王宮にいた頃も、バラージュ邸に移ってからも、憂いを帯びた顔をしていることが多かったのに。
「はい。……荷物もそれほどありませんから……」
「そう」
バラージュ家を離れるということは、王宮はアンドラーシが
王妃を救い出すべきではないのだろうか。でも、もちろん彼にはそんな力はなくて。俯いたところに、王妃の柔らかな声が降って来た。彼にではなく、馬車の御者や侍女たちに向けられたものだったが――
「マリカとラヨシュと、三人で乗りたいの。他の人たちは別の馬車にしてもらえるかしら」
「ですが――」
その内容は、話しかけられた者たちだけでなく、ラヨシュをも驚かせた。高貴な女性は、常に複数の人間に傅かれるもの。彼だって王妃たちのために尽くす思いはあるが、幼いとはいえ歴とした男だ。狭い車中で、決して短くない時間をこの方たちと過ごすには、決して相応しくない存在だとしか思えなかった。
誰もが目を瞠り眉を顰め、窘める言葉を探しているように見えた。だが、王妃は引き下がらなかった。
「マリカはその方が機嫌が良いと思うの。何かあったら呼ぶから。――お願い」
母たちのやり取りにもさほど関心を示さず、唇を結んだままのマリカ王女のことを持ち出されれば、確かに同乗するのはご免被りたい、と――本来その役を
「それでは……」
「ラヨシュ、良い子にしているのですよ」
どこか取り繕うような微笑みに背を押されるように、ラヨシュは一行の中でも一番豪華な馬車に詰め込まれた。
マリカ王女は、その間もそっぽを向いていたけれど。
王妃の向かいに、王女と肩を並べて座る。馬車が揺れる度に腕が触れ合って、畏れ多さにできるだけ身体を縮めてしまう。身体の小さな王女は、曲がり道に掛かるとその勢いに耐えられずにラヨシュに凭れてしまうこともしばしばで。支えた方が良いのか、なるべく触れないようにした方が良いのかさっぱり分からない。
そして何度目かに王女が座席から転がり落ちそうになった体勢を立て直した時。小さな唇が、小さな声を呟いた。
「お母様は……悲しくないの? 怒ってないの? なんで、何にも――」
とはいえ、そこに込められた感情は激しく強く、横で聞いているだけのラヨシュも居た堪れないと感じてしまうほど。そもそもバラージュ家へと連れて来られたのは母君の意思に依るものだったということを、王女は手ひどい裏切りと感じているようなのだ。
だが、娘の詰るような鋭い目を受け止めても、王妃の表情が揺らぐことはない。優しく穏やかな微笑みは、でも、深い水の淵のように底知れず、どこか恐ろしいとさえ見えた。王妃の考えがさっぱり分からないとラヨシュは悩んできたけれど、卑しい身の分際でこの方のお心を推し量ろうとすること自体が、おこがましいことだったのかもしれない。
ともあれ、王妃はあくまでも優しく、マリカ王女に言い聞かせた。狭い上に揺れる車内でのこと、少々窮屈そうに背を屈めて、幼い少女に目の高さを合わせて。
「とても悲しいし――怒っても、いるかもしれないわね」
「じゃあ――」
我が意を得たりと顔を輝かせた王女の喜びは、長くは続かなかった。王妃は娘の目を見つめたまま、すぐにはっきりと首を振って見せたから。
「でも、それはお父様――マリカの、おじい様に対してのことよ。アンドラーシ様やグルーシャも言っていたでしょう。おじい様は、とても悪いことをしているの」
「でも……!」
王女の横顔が、喜びから一転して絶望に包まれ、そして次には怒りに頬を染める――その様を隣で目の当たりにしながら、ラヨシュも胸を痛めていた。
王への不敬、専横が過ぎるとアンドラーシらはティゼンハロム侯爵を非難する。だが、そもそも王も王妃とその父、玉座を得たことにもそれを保つのにも恩ある方々をあまりにも軽んじているのではないか。それへの報復――とまで言ってしまうのは確かに憚りがあるけれど。王妃が優し過ぎる分、侯爵だって腹に据えかねることが大いに違いないのだ。
「ふたりともよく聞いて」
ラヨシュと王女の疑問も不満も全て分かっているとでもいうかのように、王妃はそっと手を差し伸べた。娘の手を握るのはある意味当然の仕草――でも、自らの手も温かな感触に包まれるのに気付いて、ラヨシュは震えた。彼の手が確実に硬くなっていっているせいで、王妃の手は前以上に柔らかく感じられた。前に抱きしめていただいた時よりも、ラヨシュは成長しているというのに。仮にも男に対して、どうしてこれほどに親身な優しさを示してくださるのだろう。
「これから私がどうするか、貴方たちにどうして欲しいか。もっと早く言うべきだったのでしょうけど、他の人に聞かれてはいけなかったし――いえ、何よりも私が弱かったから」
王妃の声と目が、初めて揺らいだように思われた。自らを責める言葉で、自ら傷ついているかのような。マリカ王女も、母君の真摯さに感じるものがあったのだろう。手を振り払うことも異を唱えることもなく、王妃の口元を注視している。
「エルジェーベトがいなくなった時のことを、覚えているでしょう……?」
よく覚えている。王妃がラヨシュを抱きしめてくれたのは、まさにその時だったから。突然王宮から姿を消した母は、実の息子を突き放しながら、王妃と王女に仕えるようにと強く言い聞かせて行ったのだ。その言葉が、今も彼を動かし続けていると言っても過言ではないのに。
そういえば、あれが何だったのか――再会することができた母も王妃も、まだ教えてくれてはいなかったのだ。
知りたい。でも、知りたくない。知ってはいけないような気がする。言いようもなく、嫌な予感と恐怖を覚え、心臓の音が高まっていくのを感じながら。ラヨシュは王妃の唇が動くのを見つめることしかできなかった。
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