第23話 待ちわびた凶報 シャスティエ
「ジョフィア、おいで」
シャスティエの呼び掛けに応えて、ジョフィアが満面の笑顔で「はいはい」で寄ってくる。青空の下でのこと、日差しに照らされる頬の赤味が愛らしい。身体つきも少しずつしっかりとして体力もついてきて。何もさせないのでは寝付かせるのに苦労するほどになってきたので、晴れた日は思い切り遊ばせることにしたのだ。
「きゃあっ、うー!」
「はい、よく頑張れましたね」
座って待っていたシャスティエの膝に辿り着くと、赤子は得意げによじ登った。かなり膨らんできた腹に遠慮なくしがみつくけれど、重いというよりは小さな身体の温もりが心地良い。
まだ冬で地面は冷たいから、赤子を這い回らせる訳にはいかないし、胎児を抱えたシャスティエが座り込むのも障りがある。だから敷物を敷いた小さな――それでも天幕の中よりはよほどのびのびできる――広場を作って遊び場にしている。玩具は木片を磨いたものや、余り布で作った人形だとか鞠だとか。それほど手の込んだものではないけれど、兵士たちが自分たちの務めの合間に作ってくれたものだ。中には薪を組み合わせて作った木馬のようなものさえある。
何事もなければ――王女の乳姉妹として王宮か黒松館にいたなら、もっと豪華なものを与えることができたのだろうけど。でも、赤子の無邪気な笑顔は、シャスティエだけでなく敵国の只中で緊張を強いられる兵たちにとっても代えがたい慰めになっている。実母を奪ってしまった埋め合わせにはとてもならないだろうけど、ジョフィアが怯えることがないのはせめてもの救いだと思う。
それに、近隣の農村から連行されてきた女たちにとっても。
身を寄せ合うようにして控えている女たちが赤子に注目しているのに気付いて、シャスティエは念のため声を掛けてみた。
「……抱いてみる?」
「いいえ! 滅相もない!」
「そう……」
頬を緩めて見ていたと思えば、いざ差し出してみれば愛らしい赤子に対してまるで蛇か毒虫に対するかのような反応。ジョフィアのためにも少々傷つかない訳でもないが、女たちの心情を考えれば無理もない。だからシャスティエはただそっと赤子を揺らした。
赤子と、彼女自身の世話のために、女手がいないのでは立ち行かないだろうという考えで連れて来られた者たちだ。兵たちにも決して危害を加えることがないよう厳命しているとはいえ、本人たちの認識としては拉致されたとしか思えないだろう。
――ジョフィアに怪我でもさせたら、と思っているのね……。
産婆や医術の知識のある者を選んで連れて来たと聞いて、シャスティエは目眩がするような思いを味わったものだ。この者たちにも家族はいるだろうし、もといた村でその知識が必要とされる場合もあるだろうに。でも、侍女や召使がいないとまともに着替えることができない身では、哀れに思いつつもここに――イシュテンの野営地に留め置くことしかできないのだ。
だから、シャスティエとしては――ブレンクラーレ語を解するのは彼女だけでもあるし――女たちをなるべく怯えさせないように気を配るのが精一杯だ。後は、帰してやれるとなった時には詫びを兼ねて報酬を積んでやるくらいだろうか。彼女の夫は、そういうところで金を惜しむようなことはしないと思う。
――あの方が帰ってくれば、だけど。
ブレンクラーレの王都を目指して軍を動かした夫を見送ってから、もう十日も発っただろうか。既に交戦が始まっていてもおかしくはないし、もしかしたら決着がついてさえいるかもしれない。王の狙いは、ブレンクラーレを滅ぼすというよりもアンネミーケ王妃に非を認めさせること、そのためにイシュテンの力を示すことだから。ブレンクラーレとしても、戦いを長引かせることで王家の権威に傷がつきかねないと分かっているだろうし。
――今、何をしているのかしら。まだ、無事でいる……?
不安に駆られてジョフィアを抱きしめれば、何も知らない赤子が無邪気な歓声を上げた。腕の中と胎の中と、小さな温かい命をふたつも抱いているのに、なぜか寒い。
最後に別れた時、シャスティエの顔は引き攣っていただろう。グニェーフ伯に最後の望みを託してもなお、これからの戦いの結果が恐ろしくてならなかったから。国のためだけでなく、妻と子のためにも戦ってくれるという夫に対して、何と不実なことだっただろう。
もっと笑って送り出すことができれば良かった。夫の勝利を心から願っていると、伝えることができていれば良かった。
そう思っても、今となってはもう遅い。シャスティエは夫の戦いの結果を、この場で待つことしかできないのだ。
王が戦いへと発った日から、シャスティエが過ごす夜は安眠とは程遠い。
彼女を再び人質にしようと、ブレンクラーレの兵がこの野営地を襲うのを恐れているのではない――今のブレンクラーレにそんな余裕はないはずだし――し、ましてや固い寝台を
――小父様は、レフに会えたのかしら。
暗闇の中で腹を抱えて、何度も寝返りを打つ。答えの出ない問いを胸の裡で転がしながら。たとえその問いへの答えを知ることができたとしても、彼女の悩みは何ひとつ解決しないと知りながら。
広い戦場の混乱の仲、グニェーフ伯がレフと出会える見込みはごく低い。そして仮に出会うことができたとしても、レフが言付けられたシャスティエの言葉を信じてくれるかどうか。直接顔を合わせて話した時でさえ、従弟は彼女の言葉を聞き入れてはくれなかったのに。
もしも、レフが逃げて姿を隠すことを良しとしなければ。どうしてもイシュテンと――彼女の夫と戦うというのなら。
――レフは、殺されてしまう……?
彼の犯した罪を思えば、仕方のないことのはずだった。諦めなければならないことのはずだった。でも、肉親が殺される――それも夫の手によって――という想像は、ちらりと思い浮かべようとしただけでもシャスティエの呼吸を奪ってしまう。レフの父と兄、シャスティエの叔父と従兄たちは、彼女の夫に殺された。それも、シャスティエを生かすために。
王を許せるかもしれないと考え始めるまでに、どれほどの時間が掛かったことか。ふたりの子を得て、共に歩むことができる、信じるに足りると確信できるところまで来たというのに。秘めていた名の意味も打ち明けて、ミリアールトでの命令もちゃんと説明してくれて。やっと、心が通ったかもしれないと思ったのに。
――いいえ、これでは心通ったなんて言えはしない……!
本来なら、シャスティエは第一に夫の身を案じ、勝利を願うべきなのだ。夫の武術の技量を知ってはいるけれど、流れ矢の一本でも人の命は失われるものと、以前聞かされたこともある。レフも――それもまた途方もなく低い可能性ではあるだろうけど――イシュテンの王を仇と狙って目を光らせているはずなのだ。
王にだって、死んで欲しくはない。彼女の夫で、子供たちの父親だから。一心にそう願いたいのに、レフのことを思うとそうはできない。夫は命を賭して前線で剣を取るというのに、妻がこのような想いでいるとは考えもしていないだろう。何と不実な――これで、妻と言えるのか。
後ろめたさに苛まれても、それでも、考えるのを止めることができない。大切な人が大切な人を殺す。そうでなければ大切な人が大切な人に殺される。そうならない道はあり得るのか、そうなることしかできないのか。それならば、彼女はいつそれを知らされるのか。
早く答えを知りたいと思いつつ、知るのが怖い。いずれにしても待つことしかできない身では、過ぎゆく時に心を削られていくようで。シャスティエは、眠りに逃げることもできないのだ。
その日の夜もシャスティエの眠りは浅く、長く寝台の中で転がった末にようやくまどろんだのだった。だからだろう、彼女の耳は暁闇を裂く蹄の音をいち早く捉えた。腹を庇いながら跳ね起きるとほぼ同時に、天幕の外から呼びかける声がする。
「お妃様、イシュテンの王様の遣いが――」
「ええ、会うわ」
農村の女たちが話す言葉は、彼女が教わったブレンクラーレ語とは違って少々分かりにくいこともある。だが、今この時に限っては用件を聞き違えることなどあり得ない。
――来たのがイシュテンの者なら、少なくとも王は勝ったはず……!
戦いに敗れて退くというなら、遣いを寄越すのではなく軍全体で後退するはずだから。ならば次に気に懸かるのは、彼女の夫は無事かということ。それにグニェーフ伯。レフのことは――遣いの者に尋ねることはできないだろうが。
「クリャースタ様。ご健勝のご様子、まことにお喜び申し上げます」
「ジュラ殿も。ご無事で何よりでした」
そして面会した
「あの、我が夫は――?」
「ご安心ください。陛下におかれては大きな怪我もなく、我が軍もブレンクラーレをみごと打ち破り、女狐めを交渉の席に引きずり出したところでございます」
「そう……!」
良い知らせを聞いて、まずは安堵に頬を緩める。久しぶりに浮かべることができた心からの笑みに、ジュラも励ますように微笑んでくれた。
「つきましては、王都付近の城を陛下の仮の居所に差し出させました。この上の移動はお辛いでしょうが、このような場所よりは快適に過ごしていただけるはずですので――」
「構いません。……陛下にも、お会いできるということなのですよね?」
「は。陛下もクリャースタ様をお待ちしておられることでしょう。――そう、それに、イルレシュ伯もご無事です」
シャスティエが真っ先に誰を案じるかを、ジュラは分かってくれていた。――分かってくれるであろう者を使者にしたのは、夫の気遣いに違いない。
「貴方に来ていただけて良かった……!」
だから、王の妻として、言うべきことの他の言葉など口にすることはできなかった。側妃を攫った誘拐犯、ブレンクラーレの手先となってイシュテンを乱した大敵――その男がどうなったか、などと。シャスティエは尋ねてはならないのだ。
夫が軍を率いて駆け抜けた道のりを、シャスティエはジュラと共に辿った。身重の身を気遣っての道中とはいえ、大国ブレンクラーレを攻めるだけの軍と比べればはるかに身軽な一行だから、丸一日ほどで王が待つという城へたどり着くことができた。レフの消息を知るまでの時間が短くて良かったと思うべきか。それとも、結論を知るための覚悟を定めるには、あまりに短い時間と言うべきか。分からなかったけれど――とにかく、すぐにも答えが与えられるのだろう。
イシュテンの将兵の大方はまた野営しているらしく、その城にはさほど多くの人間がいるようには感じられなかった。だから兵士の噂話から戦いの詳細を知ることはまだできない。
「こちらでお待ちくださいませ」
「ええ」
通された部屋に控えるのも、ブレンクラーレの女たちだった。こちらはさすがに貴族の出の者たちらしく、言葉遣いも立ち居振る舞いも洗練されている。――ならば攫ってきた女たちは村に帰すことができるはずだからそこは良かったけれど、やはり情報源としては頼れないだろう。停戦に向けての交渉は始まっているとはいえ、あるいはだからこそ、ブレンクラーレ側から見える情報を迂闊に漏らしはしないはず。
――でも、王に聞くことなんてできるかしら……?
シャスティエがレフのことを気に懸けるのを、夫はきっと快く思わないだろう。彼女としても、そのようなことは夫への裏切りにしか思えない。かといって最後の肉親の生死を知らないままにすることもできない。王が自ら教えてくれるだろうか。国を乱した仇の首を上げたと、妻に勝利を誇るようなことが、あるだろうか?
――そんなことはしない、と思うけど……。
彼女の復讐の意思を知った上で許してくれた王なら、これ以上シャスティエの心を踏み躙るようなことはしないはず。何が彼女を傷つけるのか分かってくれているはず。――でも、それならばやはりまだレフの行方を知る機会は得られないのか。
「クリャースタ様――」
「小父様! ご無事で何よりです!」
待たされたのはわずかな時間のはずなのに、一分一秒ごとに魂が削られて心が刻まれていくようだった。だから、やっと扉が開いて見知った老臣の顔を認めた時、シャスティエは心から喜んだ。グニェーフ伯――この方ならば、何もかも起きたことを包み隠さず教えてくれるはずだから。後ろめたさを覚えながら託した望みの行方も、全て。
「あの……」
「申し訳ございません、クリャースタ様」
でも、レフは、と尋ねようとした言葉が遮られて、シャスティエの心は瞬時に影に包まれた。先に会ったのはほんの十日ほど前のことのはずなのに、グニェーフ伯の顔は十年も過ごしたかのように老け込んでいた。顔の皺は一層深く、目は隈に彩られて。まるで、牢に長くいれられた罪人のよう。でも、この方が何の罪を犯すというのか。
「レフのことでございましょう。あの者に、出会うことはできたのです。いただいたお言葉も、伝えることができました。ですがあの者はどうしても聞き入れず……だから、この老いぼれの手で――!」
「そんな。小父様が? 小父様が……そんな、ことを……!?」
自らの喉が上げる悲鳴がどこか芝居がかっている、と。シャスティエの頭の片隅で冷静な声が分析していた。グニェーフ伯が告げたことはとても悲しく残酷なことだけど、それならばどうしようもなかったと諦めることができるから。あらゆる手段を尽くした上で、どうしても叶わなかったのだと納得することができるから。
この悲しみもきっと乗り越えられると、涙を溢しながらも分かってしまって――そんな自分をこの上なく忌まわしく感じながら、グニェーフ伯に縋ろうとした。思う存分泣き叫ぼうと。そうすることで、心の痛みを紛らわそうと。
けれど、できなかった。
「余計なことをしているな、イルレシュ伯……!」
シャスティエとグニェーフ伯の間に割って入った腕と声、身体。どれも恋しくて焦がれたものだった。でも、今は会いたくないものだった。
「陛下……」
「俺に、妻に対して嘘を吐かせるな。要らぬ気遣いだ」
「陛下、ですが……!」
「くどい」
シャスティエの肩に触れながら、王の目はグニェーフ伯を鋭く睨みつけていた。ミリアールト語での会話の内容は分からないはずなのに、何を語っていたのか全て察していたかのよう。それはつまり、王と伯の間で了解されていることがあるということ。
「陛下。ファルカス様。何を仰っているのですか……!?」
恐る恐る絞り出した声、その情けないほどの震えようは先ほどの比ではなかった。グニェーフ伯の告白でせめてもの心の均衡を保とうとしていたのに、それがあえなく崩されて――これから、もっと悪いことを聞かされようとしている。そんな予感がしてならなかった。
「ジュラから聞いたぞ。俺の無事を喜んでくれたとか。――何と、嬉しいことか」
やっとシャスティエを見てくれた王の目は優しく、労りに満ちていた。でも、出立の前の夜に見せたような熱さはなく、あの時のように抱き寄せられることも、ない。
「妻ですから。当然のことですわ」
シャスティエが答える言葉も、きっと王と同じくどこか上滑りに聞こえるのだろう。ジュラから報告を受けた通り、夫が大きな怪我を負うことがなかったのを喜んでいるのに。どうしてそれを、真っ直ぐに伝えることができないのだろう。夫の無事を我が目で確かめることができたというのに、どうして彼女の心臓は緊張に高鳴って、鎮まってくれないのだろう。
「そうか」
夫の頷き方も、おかしい。まるでシャスティエの言葉を信じていないかのような。この余所余所しさは、一体どういうことなのだろう。――答えは、分かっているような気がするけれど。
「お前に言わなければならないことがある」
――嫌。聞きたくない……。
王の目が真っ直ぐにシャスティエを捉える。青灰の色に吸い込まれるようだと思いながら、耳ではグニェーフ伯の嘆息を拾う。絶望を音にしたような深く長い息。それが意味することは、多分察することができている。
「お前の従弟を討ち取った。俺が、この手で」
「あ――」
でも、だからといって心の準備ができているという訳ではなかった。夫の声が、容赦なくシャスティエの心をへし折って叩き潰す。
「どうして……っ!」
「お互いに国とお前のために退くことはできなかった。許せとは言わぬ。憎んで良い」
違う。そんなことを聞いているのではない。グニェーフ伯の気遣いに甘えて良かったはずなのに。大切な人が大切な人を殺して欲しくないと、ずっと願っていたから――せめて最悪の事態は避けられたのだと、自分を慰める逃げ場だけでも欲しかったのに。
どうして正直に伝えられなければならないのか。妻に嘘を吐きたくない、臣下に罪を被せたくない、それは、夫の高潔さなのかもしれないけれど。そんなものは、必要なかったのではないだろうか。
――違う……こんなことではなくて……!
「良いのです……陛下、さえ、ご無事なら……!」
彼女が何よりもすべきこと──妻として言うべきことを、辛うじて口にすることができたはずだった。でも、顔を上げて夫の顔を見ることはできなかった。頬を伝う涙は喜びからのものだ、などと。どうあっても信じてもらえるはずがないから。
多分、声の調子だけでもシャスティエの本心は伝わってしまっていたのだろうけど。
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