第21話 決着 アンネミーケ
アンネミーケは、王都の城壁の上から戦況を見守っていた。
本来は兵がいるべき場所だけに通路は狭く飾り気なく、彼女の豪奢な衣装は不釣り合いなことこの上ない。幾ら礼儀ももてなしも不要と申し渡し、供の者の数も最低限までに減らしたとはいえ、全く邪魔になっていないという訳にはいかないだろう。そもそも女が盛装すれば衣装の膨らみで否応なく嵩張るもの。彼女が陣取る小部屋は、本来は王都を訪れる者たちの見張りのための場所なのだろうが、アンネミーケと侍女数名がいるだけで、息苦しいほどの圧迫感があった。
それでも
それに、どの道この戦いに敗れれば、イシュテン王は彼女の首を要求するかもしれないのだ。ならば無理に引き出されるよりは自ら昂然と頭を上げて進み出た方がアンネミーケの矜持に適う。場所に不釣り合いな盛装もその時のため――勝者をブレンクラーレの富と文化で圧倒するためのものなのだ。
――マクシミリアンは、何を思っていることか……。
我が身だけのことならば、
出陣にあたっては、マクシミリアンが長く彼女が占めていた王の座に立って集った将兵に檄を飛ばした。というか、それらしきことを述べた、という方が当たっているかもしれないが。臣下の位置に引き下がった母は、歯痒く思いながらも見守ることしかできなかった。これからのブレンクラーレを担うのは息子。であればこそ、今までのように臣下の前で親が叱り飛ばすなどできるはずがない。何より、マクシミリアンは彼女の汚名を雪ぐつもりで勇気を振り絞ってくれたのだ。アンネミーケが息子の為すことに口出しするなど、もはや許されないと知るべきだろう。
侍女たちと肩を並べて、衣装を握りしめて高価な絹に皺を作りながら、敵味方の軍馬が入り乱れる様をひたすら注視する。城壁の高さは血や臓物の悪臭や、耳も胸も引き裂く断末魔の生々しさを幾らか和らげてはくれている。だが無論、完全に、という訳にはいかない。
ブレンクラーレの兵が、彼女が護り富ませようとした者たちが、何百と引き潰されていく。
――これが
シャルバールでも同じことが起きていたのだ。アンネミーケが陰謀を巡らせ、イシュテンを弱めようとしていた陰で。その時に死んだのはイシュテンの者だけ、ミリアールトの公子の暴走やティグリス王子の敗北には苦杯を嘗めさせられつつ、彼女は敵国の犠牲を喜んだものだ。だが――ブレンクラーレのため、息子のために必要なこととは信じていたが、実際に戦場で何が起きているのか、彼女はどこまで理解していたと言えるのだろう。
吐き気に肚が暴れるのを必死に押さえながら、それでも目を背けまいと唇を噛んでいると、侍女のひとりがアンネミーケの耳元に囁いた。
「公子殿は、上手くやってくれているようですね……!」
「うむ……」
慎重に頷きはしたものの、侍女の指摘はそう間違ってはいないように見えた。指揮官ならば誰もが欲しいであろう高みからの視点を得て、彼女たちは戦場を俯瞰することができているのだ。
城門の前に展開したブレンクラーレ軍に、イシュテン軍が襲い掛かっている。アンネミーケの
だが、イシュテンの軍は、軍として系統だった動きには欠けているようでもあった。列を揃えてブレンクラーレ軍を攻めるのではなく、こちらの一点に集中して兵を突出させている。まるで敵を貫かんとする一本の槍のような――だが、ブレンクラーレ軍もその圧力に決して押し負けず、槍の穂先を身体に食い込ませたような姿で踏みとどまっている。
その一点は、ミリアールトの公子がいるはずの場所だ。我こそはシャルバールのあの惨状を生み出した張本人だと声を上げて、イシュテンの兵どもを引き付けてくれているはずだ。そして城壁から見下ろす限り、あの美しい青年の捨て身の策は功を奏しつつあった。
仇である公子を求めてイシュテン軍はその地点に殺到している。目の前のブレンクラーレ軍にぶつかるのではなく、敵に横腹を見せる形になっているのにも気付かぬように。ブレンクラーレ軍は、当然その隙を見逃さずに食らいつく。だから戦場の有様はひどく歪で混沌としたものとなってしまっている。
公子に群がるイシュテン軍。列を乱し無理に戦場を移動しようとしている姿は、細長い蛇のようだった。蛇の頭は、公子を守るために配した精鋭の一団を呑み込もうとして、しかし激しい抵抗に攻めあぐねている。そして蛇の長く延びた腹を狙うブレンクラーレ軍は、
もちろんその間も、戦場は動き続け、蛇と鷲の争いを他所に殺し合いが繰り広げられている。とはいえ全体を総括すれば、事前の士気の差にもかかわらず、ブレンクラーレは善戦している――ようにも見えた。
――これならば……!
これならば、何だというのか。アンネミーケ自身にもはっきりと言うことはできなかったが。
これならば死ななくても済むかも知れぬと、自身の命を惜しんだのか。イシュテンを追い返すことができると喜んだのか。――これならば息子が生きて帰ってくれると安堵したのか。いずれも、軽々に飛びついてはならない思いだった。戦場とは思い通りにならないもの、シャルバールではティグリス王子も一時は勝利の美酒に酔ったに違いないのだ。
ここから何が起きるか分からない。何があってもおかしくないと思うべきだ。迂闊に喜び油断するようなことはせず、自国の――息子の無事を祈り続けなければ。
「あれは、何なのでしょうか……」
先ほどとは違う侍女が呟いたあれ、とは何のことか、戦場を見守っていたアンネミーケにはよく分かった。特に戦況を左右する起点となっていたミリアールトの公子がいる場所でのこと、広場のようにぽっかりと開けられたその空間は、遠目にもひどく目立ったのだ。
「一騎打ち……?」
我知らず唇から零れた呟きは、まさにその状況に当てはまるもののように思えた。
その広場に取り残されたのは、ただふたり。無数にひしめく将兵の中でもひと際体格の良い黒馬の騎手と、もうひとり、鹿毛の馬を御する者。兜も被っていないのか、金の髪が陽光に煌いてアンネミーケの心臓は跳ねる。
――違う……マクシミリアンではない……!
愚かにも動悸を早める心臓を宥め、自らに言い聞かせる。彼女の息子も金の髪を戴いているが、その色はもっと温かみのある黄金の色だ。あの冴えた、月の光のような色ではない。何より、マクシミリアンはブレンクラーレ軍の中心から指揮を執っているのだ。アンネミーケも見覚えがある髪の色に、イシュテンの猛攻を一手に引き受ける、その位置。あれはミリアールトの公子に違いない。ならばその敵手となる黒馬の騎手は、何者か。イシュテンのものであれば誰でも、あの美しい青年を八つ裂きにしたいと思っていてもおかしくはないが。
アンネミーケの耳に、美しい、だが言いようのない毒を含んだ声が蘇った。
『イシュテン王を討ちとることができれば良し――たとえ無理でも、シャスティエはまたあの男を憎むことができるだろう』
――公子……宿願を遂げられるのか……!?
黒馬の騎手はイシュテン王だ、と。アンネミーケは直感のように確信していた。裏付けとなる根拠も、ある。
公子に復讐を望む者が多いとしても、他の者たちを差し置いて一騎打ちを許される者が他にいるはずがない。黒馬の騎手の鎧や槍は、他の者と比べても煌びやかであるような気もしたし、そもそも乗騎からして明らかに他よりも優れているのだ。蛇のごとくに引き延ばされたイシュテンの陣列が乱れたままなことも、指揮官である王がその役を果たしていないことの証明になってはいないか。
「まさか、あの黒馬は――」
「静かにしておれ」
彼女と同じことに思い立ったのだろう、悲鳴のような声を上げた侍女を、アンネミーケは鋭く窘めた。
あの公子のことを、彼女はどちらかというと嫌っている。最初は美しすぎる容姿と甘すぎる発言によって。後にはより切実かつ激烈に、度重なる暴走とギーゼラへの仕打ちによって。できることならこの手で絞め殺してやりたいとさえ思ったこともあるし、宝石のような碧い目を見る時に苛立ちを覚えないことはなかったほどでさえあると思う。
だが、それでもあの青年は今、ブレンクラーレのために戦っている。当人の心理としてはあくまでも復讐のため、それも、祖国のためというよりはイシュテン王のもとに
だからアンネミーケも騒がずこの決闘の帰結を見守ろう。願わくば、公子が復讐を遂げ、それによってマクシミリアンに勝利がもたらされることを祈りながら。
「ああ……」
「何と、強い」
だが、兵馬に丸く囲まれたふたりの男たちの実力の差は、残酷なほどに明らかだった。
公子と思しき鹿毛の騎手は、たったの二合で落馬させられた。そこからは双方大地に下りての剣での戦い。馬の高さがない分見づらくはなったが、ふたりを取り囲む人の壁は保たれているので何が起きているかを見ることはできる。
公子の一撃によってイシュテン王――多分――の兜が弾かれ、黒い髪が露になる。黒と金、対照的な色の髪が翻り、戦場を彩る。ちらりと見えた横顔に、あの碧い目の煌きも見えた気もした。力量の差を埋めんとでもいうのか、食らいつくように繰り出される剣の鋭さ必死さに、やはり相手はイシュテン王――公子にとっての仇なのだろうと思われた。
一見は互角に見えなくもない斬り合い――だが、気力と体力が尽きれば後は技量での勝負になるのだろう。公子の剣はやがて重たげに鈍り、イシュテン王の攻撃を防ぐのにひやりとさせられる場面も多くなった。
そして――
「きゃ――」
「……っ!」
傍らの侍女たちが顔を覆い、あるいは窓から目を背けた。同じようにしたいという衝動を、だが、アンネミーケは唇を噛み窓枠を掴んで耐える。窓というよりも壁に四角く空いただけの穴だ。剥き出しの石材が指先に食い込み、爪が割れる感覚があった。
鋼の煌きが目を射った。イシュテン王の一撃によって、公子の剣が折れ、切っ先が弾き飛ばされたのだ。剣の持ち主は地に転がって迫る白刃を逃れる。だが、戦いもそこで終わりだった。公子が体勢を立て直す前に、イシュテン王の剣がその喉元に突きつけられている。
その瞬間までに掛かった時間は、思いのほか長かった。イシュテン王に、敗れた者の最後の言葉を聞く慈悲でもあったのだろうか。公子は地に倒れ、イシュテン王は剣を構えた姿のまま時が止まったかのように思えた。アンネミーケの恐怖ゆえに時間が引き延ばされたかのように感じてしまったのかもしれないが。
それでも、ついにイシュテン王が剣を振り上げる。その眩さも、噴き上がる血の鮮やかな赤も、決して忘れることがないよう、アンネミーケは目に焼き付けた。マクシミリアンやギーゼラに、この場面のことを語ることもあるだろう。何といっても、これもまた彼女の行いが招いた血であり死なのだから。
「王妃陛下、御手が……」
「ああ……」
侍女のおずおずとした声と、怯えたような視線を辿ってやっと、アンネミーケは爪が割れたところから血が滲んでいることに気付いた。見知った者が落命する瞬間を目の当たりにした衝撃のためか、痛みを感じることはなかったが。
「これでは見苦しいな……手袋の用意は?」
「ご、ございます」
「ならば持って参れ。それと、髪と化粧を整えねば」
侍女が慌ただしく動き始めると、砦めいたその部屋には不釣り合いな絹の擦れ合う音が響いた。
戦場を見下ろせば、公子の首が槍先に刺されて高く掲げられているところだった。城壁の上にまで届く歓声は、アンネミーケには理解できない叫び声――つまりは、イシュテン語だ。敵の猛攻をよく受けていた精鋭部隊も、率いていた公子が討ち取られたことで戦列を崩してしまっている。それとは対照的に、個々にブレンクラーレ軍を攻めていたイシュテン軍は次第に統率を取り戻し、じわじわと城壁へ近づいてきている。イシュテン王が武勇を示したことで士気が一層上がり、また、王もまた指揮官の役目へと戻ったのだろう。
ブレンクラーレの兵――特に、農民から徴用した者たちが敗走を始めるのも、時間の問題に思われた。
間もなく戦いは終わる。ブレンクラーレの将は、ほどほどのところでマクシミリアンを止め、犠牲を最小限に抑えるべく動くだろう。
つまり、アンネミーケの出番が来るということだ。
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