第20話 ふたりきりの戦い レフ
かつてグニェーフ伯と名乗っていた老人が、レフの槍が届く範囲の外へと逃げていく。次の一撃で仕留められると思っていたのに残念なことだ。だが、裏切者が無様に体勢を崩すところを見られたのは悪くなかった。何より――
「必ず討ち取る……? 随分な自信だな。貴様が今生きていられるのは僕のお陰だというのに」
グニェーフ伯を貫くはずだった彼の槍を弾いた黒馬の騎手へ、レフはことさらに嗤って見せた。目立つ金の髪をイシュテン人をおびき寄せる目印にすべく、兜を取っていて良かったと思う。お陰で思い切り嘲笑を見せつけてやることができる。
――こうも都合よく出会えるとは……!
相手の顔が兜で見えないのは、この際どうでも良いことだった。そもそも直接会ったことはない相手、姿かたちや人格など関係なくこの男が為した所業のために、レフはひたすら憎しみを募らせてきたのだ。
グニェーフ伯は、黒馬に跨るこの男を確かに陛下と呼んだ。裏切者が王と崇めるのは、今やイシュテンを統べる者をおいて他にいないはず。ならばレフの策は見事に成功した。我が身を囮に、憎い仇を引きずり出すことができたのだ!
手始めに切り出したのは、シャルバールでの彼の
だが、イシュテン王は兜の下で軽く笑ったようだった。
「シャルバールでの話か? あれは全てティグリスが目論んだことのはず。貴様は多少引っ掻き回したというだけ――自慢げに語るようなことではない!」
「何を……」
期待したような激昂を見せてくれなかったのは不満だったし、相手の言うことの意味も良く分からなかった。確かに、例の策を出したのはティグリス王子だとは聞いているが。自国の者をあのような罠にかけようという邪悪な発想に、さすがは野蛮な国風だと驚き呆れたものだったが。だが――レフの行動が戦局を変えたことに間違いはないはずだろうに。
レフの当惑を他所に、イシュテン王は槍を構えた。先にレフがグニェーフ伯に対してしたように、真っ直ぐに心臓を狙って、溢れるほどの殺意を込めて。
「これまでこそこそと逃げ隠れしてくれていたが、ようやく見つけた――イシュテンと我が妃に対する度重なる罪、今こそ償わせてやろう!」
「罪、だと……!?」
――貴様が言うか……!
イシュテン王の言葉の全てを理解した訳ではなかったが、憎むべき仇に糾弾されたという一事だけでもレフの心を不快に引っ掻いた。初めて会う仇が、朗々と響く深く豊かな声をしていたことも。その声が、彼女を妃――
それを、したり顔で彼を責め、
相手を鏡で映したかのように、レフも槍を構え直す。体格で一回り以上劣るのが悔しいが、気力では決して負けないと信じたかった。イシュテン王の胸を真っ直ぐに射す切っ先は、彼の正義、彼の弾劾そのものだった。
「貴様こそミリアールトに対して犯した罪は計り知れない……! 償うというなら貴様の方だ。他国を攻め滅ぼし、王と王族を殺め、言葉まで奪った――そこに何の理がある!? シャスティエの婚家名……上手く誤魔化したようだが、意味を知ったのは本当はいつだった!?」
――復讐を誓う……!
シャスティエも、最初はレフと同じ思いを抱いていたのは明らかだ。国と親の仇と共に歩み、その男のために戦うことを望むはずがない。だから――彼女が引き裂かれることがなかったのは幸いだけど――この男は何か卑劣な策を弄して彼女の想いを偽らせたに違いない。
お前は彼女に憎まれている。妻だの夫だの、欺瞞も良いところだ。肉体を手に入れることができたとしても、彼女の心を得ることは決してできない。
そう、突きつけてやったつもりなのに。イシュテン王の槍は一分たりとも揺らぐことはなかった。むしろ兜の奥で笑う気配さえ、相手の目の色もまともに見えない距離だというのに感じられた。
「疑うならば俺の臣下に聞いてみるが良い。雪の女王は戦馬の王と共に歩む、と――あの女は確かに自らの意思で宣言したのだぞ」
イシュテン王は、隙を見せることなく、僅かな顔の動きで周囲を示して見せた。それで初めて気付く。戦場の音が、遠い。
無論、この間も剣や槍が鎧を噛み盾とぶつかる金属の音、肉が断たれ骨が砕けるおぞましい音や人馬の悲鳴や喚声は絶え間なく響いている。だが、少なくとも彼らが対峙するその一帯では事情が異なる。各々が武器や防具や旗を構えたまま、固唾を呑んで事の成り行きを見守っているようだった。イシュテンの将兵が下がっていろとの命に従うのは当然として、ブレンクラーレの者までもが敵の王の気迫に押されているのだろうか。
――何だ、情けない。この男さえ斃せば全て終わるというのに……!
ブレンクラーレだってイシュテンには散々手を焼かされたのだろうに、誰ひとり声を上げることもしないとは。イシュテンの者たちが、無言のうちに王の言葉を肯定していると、分かってしまうからだろうか。シャスティエの言葉を、この者たちも聞いた――のだろうか。だから、この期に及んでも信じていたのかもしれない自国の正義が揺らいだとでも?
――別に、どうでも良いか。
敵の余裕を見せつけられたようで一層の苛立ちに歯噛みしたのも、一瞬のこと。レフはすぐに気持ちを切り替えた。誰も動かず何も言わないなら、それはそれで都合が良い。彼とイシュテン王を囲んで、戦場に丸く拓けたここは、即席の試合場のようなものだ。無論、彼らが扱うのは鋭い切っ先や刃を備えた剣と槍、試合などではなく命を賭けた一戦に臨む訳だが。イシュテン王も、彼と同様にいらぬ横槍なしで戦いたいと思ってくれているらしい。
ならば、この場は引き分けで終わることなどはない。予期せぬ兵の流れによって、互いを見失うことも。あり得ないことだが、レフとイシュテン王のどちらかが、命惜しさに逃げ出すようなことも、ない。
ふたりを取り囲むふたつの――グニェーフ伯が率いる兵をミリアールトの者と数えればみっつの――国の者たちが人と馬の壁を築き、この戦いの場を保っている。この場が解けるとしたら、戦いの決着が着いた時。レフがイシュテン王を殺すか、相手が彼を殺す時だけだ。
「――どうやら、お互いに復讐のためにここにいるらしいな」
これ以上話をしても無駄だ、と思った。イシュテン王はシャルバールで死んだ兵たちのため。それに――敵だったはずなのによく意味が分からないが――ブレンクラーレに利用された異母弟ティグリス王子のため。レフは祖国と肉親と彼女のため。絶対に相手を許すことができないのだ。どの道相容れることなどできない者同士、言葉を尽くすのは時間の浪費にほかならない。
――マクシミリアン王子は、適当にやってくれているだろうさ。
レフがいたのはブレンクラーレ軍の右翼側、中でも敢えて端に近い方に配されていた。この場所にイシュテン王を引きつけることができているなら、戦場の他の場所ではイシュテンの指揮系統は乱れていることだろう。その隙に上手く乗じることができるかどうかは、ブレンクラーレの将次第。レフとしては戦場を混乱させる役とアンネミーケ王妃への義理は十分に果たしたと言えると思う。
だから、もう目に映すのはイシュテン王の姿だけ。イシュテンが奉じる戦馬の神さながらの体格に優れた美しい黒馬を御し、馬上にあっても人並み以上の上背を誇ると見て取れる男。レフの心臓に据えられた槍先は、そこに込められた殺気は鋭く、武に秀でているとの噂は追従の類ではないと分からされる。このような男をシャスティエが夫と呼んでいるのだと思うと、嫉妬で胸が灼けるようだ。
「そのようだ」
とはいえレフの目も、相手の槍に劣らず鋭く、イシュテン王を貫いていただろう。短く答えて手綱を構えた相手は、彼の殺意に本気で対峙する構えと見えた。
――この時を待っていた……!
極まった憎しみはもはや歓喜にも似てレフを駆り立てた。馬腹を蹴って、槍と一体になる感覚で、走る。まるで引き絞った弓から矢が放たれるかのように。同時に、イシュテン王も同じ
だから、盾で受けるというよりはただ槍の先にそっと添える、というような感覚だった。
「――っく……!」
それでも、すれ違った瞬間に時の流れは戻る。むしろゆっくりと感じていた分を取り戻すかのように、鉄塊をぶつけられたかのような衝撃が、腕から響いて全身を痺れさせる。手練れと名高いイシュテン王の、一撃の重さがこれだった。対してレフ自身の槍から伝わる手応えは軽く、相手にさほどの痛痒を感じさせていないようだ。
――
反応が鈍い身体を叱咤して、手綱を引く。馬首を返らせる。すぐにも次の一撃を繰りだしてくるであろう敵手に備えて。――だが、それすらも、遅い。視界いっぱいに、黒が迫る。イシュテン王の乗騎の色が。
「あ……」
辛うじて、剥き出しの喉や鎧の継ぎ目を貫かれることは、避けた。だがその代償に、突進する巨馬に体当たりされる格好になり、レフは鞍から投げ出された。ふわりと飛ぶような感覚。見開いた目に冬の空が映る。そして内臓が引きずられる感覚と共に落下が始まり――
「ぐ……っ」
無様に地面に叩きつけられる。目の横には跨っていた馬の蹄、衝撃に驚き暴れるそいつに頭を踏み砕かれるのを避けて、慌てて転がる。
「逃すか――」
そして次には、下馬したイシュテン王が抜き放った剣から逃れて。落馬の時に盾を手放していなかったのも、腕が折れていなかったのも僥倖だった。
「誰が逃げるか!」
痛みは、ある。だが、敵を目の前にした怒りが彼を突き動かした。馬上から止めを刺せば良いものを、わざわざ剣で相手しようというのは侮られているとしか思えなかった。
肚の底から湧き上がる激情をばねに、跳ね起きる。同時に剣を抜いて切り上げれば、受け止めたイシュテン王の刃と噛み合って火花が飛んだ。
「貴様を、殺す、まではっ!」
レフの気迫、あるいはほぼ真下からからの斬撃はさすがに相手の意表を突いたのか。思いを込めた剣はイシュテン王の兜を掠め、弾き飛ばした。露になった仇の顔を、彼はここで初めて見ることになる。
「おのれ……!」
「油断したな! バカめ!」
「抜かせ!」
ごく単純な罵声を吐きながら、剣を交える。躱し、突き、受けて流す。時に飛びすさって体勢を整えて。
彼らふたりが動くにつれて、取り囲む兵の壁も形を変えた。丸く、時に細長く。浴びせられるのが声援なのか罵声なのかも分からない。躓いたのが死体なのか落とされた旗なのかただの地面のくぼみなのかも。ただ、目の前の敵手だけを一心に追う。
それでも、彼我の技量の差は明らかだった。レフは次第に防戦一方に追いやられ、頬には幾筋も傷が刻まれた。浅く抉られた額から血が流れ、視界を狭める。彼の剣も赤く染まっているのは、イシュテン王に刃を届けることができたのか――それとも、彼の目が血で曇っているだけか。
剣が、苛立たしいほど重かった。一度振るう度に息は大きく乱れ、再び剣先を持ち上げるのに気力をごっそりと削られるほど。なのに相手の剣の重さも鋭さも変わらないまま。白刃が迫るのを前に、筋肉に悲鳴を上げさせながら防ぐことが増えた。
「くっ……」
また、一撃。剣で剣を受け止めれば足が地に沈み込むよう。跳ね返して、反撃しなければと思うのに、できない。鋼が噛み合い擦れ合う不快な音を聞きながら、押し合うこと数秒――ついに、高い音を立ててレフの剣が半ばから折れた。
イシュテン王の剣に両断されるのを避けて、また転がる。だが、再び立ち上がることはできなかった。地に肘をついて半身を起こしたレフの目の前に、イシュテン王の剣先が眩しく輝いていたのだ。
――ここまでか……!
時が止まったかのような静寂が、降りた。戦場の――殺し合いの音はどこか遠く。誰もが次に剣が振るわれるのを待って身構えている。――その時が、意外にも中々訪れないのを、少しずつ不審に思い始めながら。
「――どうした。何を躊躇う?」
息を荒げて、彼の喉元に剣を突きつけて――だが、イシュテン王はそれ以上動かない。目は鋭くレフを睨みつけ、噛み締めた口元からは歯軋りも聞こえそうな形相だというのに。あれほどの殺意を向けておきながら、どうして今さらただの一度、剣を振るうことができないのか。――その理由が重々思い当たるので、レフは穏やかに微笑んでその怯懦を嘲った。
「シャスティエに嫌われるのが、怖いか……?」
「バカげたことを……!」
剣の先が揺れて、一筋の血が首を伝ったのが分かった。だが、まだ思い切るには足りないらしい。だからあと一歩、後押しをしてやることにする。
弧を描く唇が紡ぐのは、甘い囁き。だが、その内容は呪いにほかならなかった。
「それなら殺せ。そしてシャスティエに一生憎まれろ」
「――……っ」
イシュテン王が剣を振り上げる。逆光に翳るその顔は勝利の喜びとは程遠く、絶望に歪んでいた。最期に見るのがその表情であることに、レフは心の底から満足した。
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