第19話 邂逅 アレクサンドル

 グニェーフ伯爵家の紋章が、空に高く翻る。マズルークとの戦いに際しては敵を怯ませる効果のあった怒れる獅子の紋章だ。北の地においてならまだしも、イシュテンや――ましてやブレンクラーレにまでアレクサンドルの武名が轟いているなどということはないだろう。だが、それでも彼の旗には、ブレンクラーレの将兵を動揺させる効果が確かにあった。


「ミリアールトの旗か!」

「なぜ、ここに……!?」


 紋章自体は知らずとも、記された文字を読むことができずとも、ブレンクラーレの者ならばそれがミリアールトの文字であるということくらいは分かるだろうから。獅子の紋章を目にして驚愕の声を上げる者たちは、一瞬とはいえ動きを鈍らせ、アレクサンドルの麾下の兵に屠られていく。

 アンネミーケ王妃は、シャスティエをすることでイシュテンと対立する大義にしようとしていたのだろうか。あるいは、更に進んでミリアールトを巻き込んでイシュテンを攻めさせようとでも目論んでいたか。いずれにしても勝手極まりない理屈、ミリアールトの臣下としてもブレンクラーレには一矢を加えてやらねば収まらない。


 アレクサンドル自身も、槍を振るい敵を薙ぎ払いながら、叫ぶ。


「我が女王の復讐のために参った! 戦馬の軍には常に雪のコロレファ女王・シュネガの加護があると知れ!」


 シャスティエの決意を、彼自身の武功を持って知らしめる心づもりだった。アンネミーケ王妃が何を企み、レフがどのような夢を思い描こうとも、シャスティエの心は既にイシュテン王と共にあるのだ。彼がイシュテンのために戦うのは、そのまたとない証拠になるはずだった。


 ――レフ……そなたはどこにいる……? この旗を見て、現われるが良い……!


 そして同時に、この戦場のどこかにいるはずのレフに向けた目印でもある。グニェーフ伯爵の紋章は、あの青年もよく知るもののはずだから。イシュテンに与し、祖国を虐げる――と、見えたに違いない――命令に加担した彼を、レフは必ず憎んでいるはずだから。

 アレクサンドルが預かるのは、イシュテン軍の左翼、王とは離れた場所だった。王の傍に控えることができなかったのは、こうなるとかえって都合が良い。彼のもとにレフがおびき出されてきたなら、王の目に留まる前に討ち取ることもできるだろう。イシュテンを度々乱したミリアールトの元王族を、必ず自身の手で首を刎ねる、と――王の命令は承知しているが、戦場の混乱の中でのことを、強く咎められることはないだろうと踏んでいた。何より、死者を蘇らせて再び殺すことなど人間には不可能なこと。レフが王の手ではということが最も重要になるはずだった。


 ――もはやあの者の死は逃れられぬ……。ならば、せめてこの手で……!


 かつての主君に連なる血筋の者、孫のように成長を見守って来た者をこの手で殺すという想像は、本来ならば身の毛もよだつような類のものだった。事実、その瞬間を思い描くだけでアレクサンドルの鼓動は乱れ、槍を操る手が鈍る。どのように言い訳しても、これはおぞましい背信であり不忠なのだろう。レフの命を半ば諦めていたシャスティエでさえ、彼が進んで従弟を手に掛けようとしているとは思ってもいないに違いない。


 それでも、シャスティエのためには必要なことだ。彼の女王とその御子たちが、夫や父と共にあるためには。共にいて、幸せであるためには。既に多くの犠牲を乗り越えた上に辛うじて結ばれた、シャスティエと王との絆が、これ以上脅かされてはならないのだ。


「イシュテンの怒りはミリアールトの怒りでもある! 女王が味わった屈辱を、今この場で晴らしてやろう!」


 だから彼は陣頭に立って声を上げ続ける。少しでも多くの者が彼の声を聴くように。彼の旗が少しでも多くの者の目に留まるように。ミリアールトの者がイシュテンのために戦っているという事実がブレンクラーレ陣に広まり、レフをおびき寄せてくれることを願いながら。


 だが、金の髪の煌きを探して戦場をくまなく見渡すうち、アレクサンドルの眉が曇る。


 ――どうした……? 足並みが乱れているが……?


 彼は先頭を切って敵陣に斬り込んでいたはずなのだ。年老いた身で若者の功を奪うような真似ではあるが、シャスティエのためだと思うと慎ましさなどに構っている場合とは得思えなかったから。――だが、いつの間にか彼の前方にはイシュテンの兵がブレンクラーレ兵を屠る光景が広がっている。戦意の表れにしても、あまりに逸り過ぎているように見えるが。


 止めるにしても、彼にその権限があるのかどうか迷い。また、自軍の暴走めいた突出を憂い、その原因を訝った時。敵味方、双方から上がった声が、この事態の理由を伝えてきた。


「シャルバールの恨み、今こそ思い知れ!」

「イシュテンの猪どもめ、あの時拾った命を捨てに来たか!」


 シャルバールを持ち出しての挑発か、と気付いて暗澹とする。今回の遠征の大義として掲げられたあの戦いは、イシュテンの士気を高めると同時に冷静さを失わせる弱点にもなってしまったのか。罠の可能性も考えれば抑えるべきだろうが、怒りに燃える騎馬の群れの勢いは、簡単に御せるものではない。


 呆然と、敵を踏み躙るイシュテンの将兵の背を見送る。目の前の敵を薙ぎ払い斬り捨てる強さは流石のものだが、挑発に釣られて先走る一団は敵陣の中に食い込んだ細い楔。立ち止まればすぐにへし折られてしまいかねない。

 自身に迫る刃を捌きながら、アレクサンドルは周囲の状況を憂い、対応を取りかねて歯噛みする。そこへ、更に澄んだ声が響いた。戦場には不釣り合いな美しい声。発せられているのはイシュテン語だが、聞き覚えのある――彼自身も直しきることができない――ミリアールト語の訛りがあった。


「全てはアンネミーケ陛下の手の内だった! ティグリスを唆したのも、大河の水を使わせたのも。策を授けた上で裏切ったことさえ!」


 そもそも、その声自体がアレクサンドルのよく知るものだった。彼の知る声の主は、このように声を荒げることも、他者を嘲るような笑い方をすることもなかったはずだったが。――とにかくも、レフのやや高い声は戦場の喧騒にあってもよく通った。


「ブレンクラーレが仕組んだままに国内で殺し合った間抜けども――シャルバールでの礼を言いに来たか? 僕のお陰で助かった者たちが、恩知らずも良いところだな!」


 レフの挑発に応えて、イシュテンの兵たちが一層激しく怒り猛った。耳を聾する怒号に、槍や剣の刃が鎧や鞘とぶつかり、あるいは盾で受け止められる硬い音が続く。イシュテンの怒りを正面から受け止める練度、ブレンクラーレの方も、イシュテンがたやすく激するのを計算に入れてこの場に精鋭を固めていたことが知れる。


 イシュテンの突出も策に乗せられてのことという疑いが強まり、アレクサンドルの額に汗が滲む。だが、彼の心を揺らすのは今現在の戦況についての怖れだけではない。同時に、レフの宣言はこれまでは推測であったことが事実であると証明していた。


 ――やはり、そなたであったか……!


 シャルバールの戦いの時、死の罠の潜む泥沼の中を駆けて王の軍にティグリス王子の陣への道を示した謎の一団――それを率いていたのは、レフであろうと考えられていた。ブレンクラーレの乱への関与と、レフが黒松館を襲撃したという事実、シャスティエがブレンクラーレへ攫われたことを突き合わせれば自ずと導かれる結論だ。だが、当人の口からそうと聞かされるのはまた重さが違うことだ。

 アレクサンドルは、実際にシャルバールの戦場を、その惨状を目にした訳ではない。だが、話に聞くだけでも十分だった。落とし穴に脚を取られて転倒した馬は、その騎手ごと泥水の中でもがいて死んだ。そうでない者も、敵の矢の的になるか味方の足場として踏み砕かれた。当時はシャスティエも王に心を許しておらず、アレクサンドルもイシュテンへのわだかまりを完全に解いていた訳ではなかった。それでもなお、悲惨な内乱を喜ぶ気にはなれず、死者を悼んだものだというのに。――その乱を陰で扇動していたのが、あのおっとりとした青年だったとは!


 過去に思いを馳せて老人が身体を強張らせている間に、若々しく気力に満ちた声が、また叫ぶ。自身の正義を疑わない、復讐者の宣言だ。


「我はミリアールトが王族の末裔、シグリーン公爵公子、レフ! 国と父と兄の復讐のため、ここにいる! シャルバールでのことは手始めにすぎない――言いたいことがあるなら、剣で伝えに来るが良い!」


 その名乗りを聞いて、イシュテン軍の混乱は更に深まる。シャルバールの仇と聞いて怒り吠える者。王の命を思い出す余裕がある者――レフに迫ろうとする者とそれを止めようとする者、流れに逆行して王へ報告に走ろうとする者。兵の流れが交錯してぶつかり合い、あちこちに身動きが取れなくなった人馬の塊が見て取れる。敵にしてみれば、格好の的にほかならないというのに。


「陛下のご命令だ。注進を――」

「おでを待ってなどいられるか! この場で討ち取ってやる!」

「まずは捕らえねば――」


 前線が乱れ、まともな戦闘というよりは無様な混乱に陥っていくのを、見ていられなかった。だからアレクサンドルは右往左往する敵味方を潜り抜けて馬を進めた。麾下の者に目配せをして、彼の紋章をひと際誇らかになびかせながら。


「同郷の者のしたことだ、私に任せてほしい」


 彼の声と旗を認識するイシュテンの者は多く、あるいは驚愕に目を見開き、あるいはレフへの怒りに燃えながらも、納得の色を浮かべてアレクサンドルを通してくれた。そして彼はその一騎のもとへたどり着く。戦場において人目を集めるためか、兜で頭を守ることをしていないから、金色の髪の煌きが眩しく目に映る。ほんの数日前に別れたシャスティエと同じ色の髪に、主筋の者を手に掛けようとする罪深さに息が詰まり鎧が一層重く全身を戒めるかのよう。だが、懸命に気力を奮い立たせて背筋を伸ばす。彼はこのためにここにいるのだ。


「出たな、裏切り者」


 シャスティエに似た美しい顔が浮かべる、酷薄な笑み。その表情もまた、アレクサンドルにとっては馴染みのないものだ。驚いた様子もなく、むしろ得意げな風さえ漂わせる姿に、おびき寄せられたのは彼の方だったのかもしれないとさえ思う。明らかな殺気を宿すレフの碧い目が、幼い頃の無邪気な笑顔にも重なってアレクサンドルの胸を刺す――が、その痛みを無視して、槍を構える。


「好きなように呼ぶが良い。そなたの為したことこそ、祖国の名を貶め女王の心を痛ませること。ミリアールトの臣下として――その罪、見過ごす訳には行かぬ!」

「よくも図々しく言い切った。イシュテンに魂を売った癖に、シャスティエの心など口にするな!」


 双方、叫ぶと同時に馬を突進させる。互いの心臓を狙った穂先は、だが、やはりお互いの盾に弾かれた。一撃を乗せた勢いのまますれ違い、そしてすぐに馬首を返す。再び対面した時には、既に槍の先はしっかりと定められている。


 ――強くなったな……。


 アレクサンドルは、レフの武術の師のひとりでもあった。彼の兄たちにも手ほどきしたように、小さな手に訓練用の木剣を握らせたものだ。だから、腕のほども分かっていると思っていたのだが。ミリアールトが滅んだ後の流浪の日々が、どちらかというと細身でか弱かった青年を鍛え上げたらしかった。――あるいは、思った以上に彼の方が老いていたか。


「老いぼれめ。殺されに来たようなものだったな!?」

「――くっ……」


 二度目の激突も、相手を落馬させるには至らなかった。だが、身体の均衡を大きく崩したアレクサンドルに対して、レフは姿勢を保っている。輝く槍の穂先も、確かに彼の心臓を狙って据えられて。


 ――叶わないか……!?


 シャスティエの幸せ、王と御子たちとの輝かしい未来。そのためにこそ、彼は主の願いを踏みにじってまでレフに刃を向けたというのに。一瞬の後に確実に見えるのは、相手ではなく彼自身の死だった。迫る白刃に、間に合わないとは分かりつつ盾を掲げようとして――


 だが、鋭い音と共に、レフの刃はアレクサンドルに届くことなく弾かれた。風のように彼と相手との間に割って入ったのは、黒い馬。馬上での一騎打ち、閃光のごとく繰り出される一撃を見切って止めることができる技量を持つ者は限られるが。


「――の役、大儀であった、イルレシュ伯」

「陛下……!」


 乗騎と腕からして、何者かは分かっていたはずだった。それでも、その方の声を聞いてアレクサンドルの胸は絶望に染まる。王とレフを会わせてはならない。シャスティエの夫が、シャスティエの従弟を殺すような事態を招いてはならない。そう考えて、ジュラたちに乞うて見つけ次第レフを殺すようにと頼んでいたというのに。話が伝わっていなかった者が王を呼んでしまったか、イシュテンの本陣からもこの辺りの不自然な動きは見えていたのか――いずれにしても、全てが無駄になってしまった。


「命じてあった通りだ。この者は必ず俺が討ち取る。――下がっていろ」


 アレクサンドルの絶望とは裏腹に、兜の下の王の青灰の目は、歪んだ悦びに嗤っていた。

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