第18話 戦場に響く声 ファルカス
疾駆する馬体が伝える振動で揺れる視界に、ブレンクラーレの王都の城壁が見えてきた。まだ箱庭のような小ささにしか見えない距離――それでも、壁の高さと白さ、傷のない輝きは見て取れる。国力を誇るかのような佇まいに、歴史でも文化でも格上の相手を攻めようとしているという実感が、ファルカスの胸に沸き上がる。
だが、ここに来て怯むことなど考えられない。王都の威容を目の当たりにした感嘆は、すぐにその権威を組み伏せて踏み躙ってやろうという戦意に変わる。首を周囲に巡らせながら臣下に対して叫ぶのは、戦いを前にした高揚だ。そして、馬の蹄の轟きにも負けない咆哮によって、それを将兵にも伝えんとする鼓舞でもあった。
「――ここまで邪魔が入らぬと思っていれば、ここで待っていたか! 逃げたのかと思っていたが、よく掻き集めたものだ!」
イシュテン軍の前に姿を現したのは、ブレンクラーレの王都ばかりではない。むしろ、それを守るように展開する軍――人と馬の群れが黒蟻のように密集した様、槍や鎧の煌きが先に目に入る。祖国の護りと、アンネミーケ王妃の醜聞を天秤に掛けて、集まった者と静観を決めた者とがいたのだろうが、結果的にはこちらの側と同数程度が集まったようだ。ここに至るまでに幾つかの城塞を落としてもいるから、そこで喪われた戦力もあっただろうが。
「全くですな!」
「どうせ盾の陰で震えていることでしょう、ひと息に蹴散らしてご覧にいれましょう!」
「せいぜい女狐めを恨みながら息絶えれば良いのです」
ファルカスに応えて四方から上がる声も士気は十分、シャルバールの件――ティグリスの反乱への介入でイシュテンの誇りを貶めてくれたことへの復讐心は、各々の心に激しく燃えているようだった。臣下たちの頼もしい様子に、兜の下で頬を緩める。この遠征をどのような形で終わらせるにせよ、ブレンクラーレの軍に対して一定以上の戦果を上げねば無事の帰国はままならないだろう。
この戦いも、彼の治世においては通過点に過ぎないはず――ならば、士気を保った状態で交戦に至ることができるのは歓迎すべき事態だ。
「奴らの鼻先に近づいたら改めて宣戦布告しよう。返事がどうであろうと構うものか、存分に踏みにじってやれ!」
続けて吠えれば、周囲からは応と確かな答えが返る。それにまた微笑んで――ファルカスは、声の調子を厳しいものに改める。
「命じたことは忘れていないな? 復讐は、俺が果たす! 例の者を見つけたら、決して勝手に討ち取ってはならぬ!」
これにも、間を置かずして応の声が上がる。彼のものと同様、戦いを前にした高揚よりもどこか冷え冷えとした硬い声になってはいたが。
彼は、出立に当たって臣下たちにある命令を徹底していた。シャスティエと別れた後、金の髪をなびかせて見送る姿が見えなくなってすぐのことだった。
ミリアールトの王族の生き残り――ブレンクラーレと通じ、シャルバールでアンネミーケ王妃の手先となって暗躍したと思しき者。更にはイシュテンに潜んで黒松館を襲撃した者。イシュテンに対して度重なる陰謀に関わり、彼の国を乱してきた者。その男は、ファルカス自身が首を取る。余人は決して手を出してはならない。たとえ戦場の端と端にいたとしても、必ず駆けつけて彼の刃を受けさせてやろう、と。
無論、命じたからと言って必ず叶うものではないと承知はしているが。シャルバールで身内を喪った者たちも復讐を遂げたいのは同じだろうし、そういった者たちがいざその男を目の前にしたら、我を忘れることがないとも限らない。その場合は、ファルカスも強いて咎めるつもりはなかった。
だが、もしもできることなら――
――絶対に、許さぬ……!
手綱を握る手に、力が篭った。
シャルバールでのことについては、ファルカスは臣下たちとは違ってそのレフという男を憎むつもりはない。なぜなら例の策を企んだのは異母弟のティグリスだと知っているから、それも、騎馬での正面での戦いに拘るというイシュテンの
だから、彼がその男を、そしてアンネミーケ王妃を憎むのは、全てを賭した弟の兄への挑戦に、無粋極まる横槍を入れてくれたこと、そして、ティグリスを使い捨てた後は臆面もなくリカードと結んだことに対してだ。忌むべき策を使ったという汚名さえ、ティグリスは手柄として誇ろうとしていたというのに。ブレンクラーレを攻める大義として、弟の
――だから、たとえお前を悲しませるとしても……。
再会した夜、彼の腕に収まって彼の胸に頬を寄せながら、それでも何か言いたげに目を潤ませていたシャスティエの顔を思い出す。肉親の命を諦めきれず、どうにか助ける理屈を考えつこうとしていたのだろうと思うと胸が痛む。実際には口にしないでいてくれたことは、妻として夫を気遣ってくれたことには感謝もする。だが、妻にそのような顔をさせる男がこの地上に存在することなど、どうあっても許せるはずがない。
王としての怒りだけではなく、夫として妻を想う気持ちだけではなく。これは、つまらない嫉妬なのかもしれないが――理由はそのいずれでも関係ない。シャスティエを悲しませるどころか、また憎まれることになったとしても、その男は彼自身の手で討ちとらなければならないのだ。
ファルカスを駆り立てるのは、戦いへの高揚ばかりではない。決して言葉にして認める訳にはいかないが、少しでも速度を緩めれば、怖れに囚われてしまうような気がするから、だからこそ愛馬を急がせ臣下を置き去りにする勢いで走らせている。戦いも傷の痛みも死の恐れも、彼を怯ませることなどないが――掴みかけたと思えた妻の心がまた手の内からすり抜けること、その来るべき未来が彼の心臓を凍らせるのだ。
だから走らずにはいられない。たとえ戦うことでその未来に近づくのだとしても。
それでも王都の城壁の前、ブレンクラーレ軍の掲げる旗の紋章までを見分けられる距離に至ると、ファルカスは一旦全軍を止めさせて列を整えさせた。敵味方ともに、馬の
ならば自陣を離れて遣わされる使者は、器から零れた最初のひと滴か。ブレンクラーレの大鷲の紋章を携えた使者は、指揮官の言葉を伝える者だった。予想の範疇のことではあったが――ファルカスは、ここで初めて敵軍を率いる者の名を知ることになる。
「王太子殿下は国土を踏みにじるイシュテンの暴虐には決して屈せぬ、との仰せ。どのように取り繕おうと、他国を侵略する蛮行を大鷲の神が見過ごされるとは思わぬことだ……!」
「この期に及んで母親を庇うか。羽根の揃わぬ雛鳥のしそうなことだ」
健気に啖呵を切る使者を、ファルカスはいっそ優しく嘲った。王太子が母親の罪に触れなかったことは、さほど驚くべきことではない。自らの臣下や民の手前、こちらが悪かったなどとは言えるはずもないし、ただ頭を下げられただけで剣を収める気も、こちらにはないのだから。だが、その言い分を聞いて愉快かどうかはまた別の話。ブレンクラーレの使者の言葉は、彼が挙兵した経緯を思えば図々しいにもほどがある。
「神の罰が下るとするなら、アンネミーケの方にであろう。王を差し置いて女の身で政を
彼の高らかな宣言にイシュテンの臣下たちはもちろん、馬たちでさえ蹄の音と
「惰弱な王太子など恐れるに足りませぬ……! 鎧ばかりは豪奢でしたが、戦いを前にして今にも倒れんばかりの顔色で――あのような将を戴いた軍がまともに戦えるはずがございません……!」
「さもありなんといったところだな」
得意げな、あるいはおもねるような使者の奏上をさらりと流すと、やり取りを聞いていた者たちからどっと笑いが上がった。以前王太子がイシュテンを訪れた際に、間近にその人となりを見聞きした者も多いのだ。華美な装いも、へらへらと気弱な笑い方も、目の前にいるかのように思い浮かべることができる。
王太子を当てこすって士気が上がるものなら重畳――だが、ファルカスにとって誰が指揮官かは問題ではない。戦いをいかに終わらせるか、にまで視野を広げれば、ブレンクラーレの王太子など迂闊に首を取れても困ることだし。彼が狙うのは、あくまでも例のミリアールトの公子ただひとり。彼自身の、妻のための復讐を遂げつつ臣下の溜飲をも下げることができる――そう、あらゆる意味でその男は死ななければならないのだ。
「あのような惰弱者に後れを取ることなどないな? 戦馬の神に我らの武勇を奉じるまたとない機会と心得よ!」
「は!」
彼の号令に答えを迷う者など、いない。誰もが馬を走らせるのを待ちかねたように手綱を既に引き絞っている。焦らせるように間を置くのも、一瞬のこと。ファルカスは槍の穂先を太陽に掲げると、短く命じた。
「――行くぞ!」
言い放つと同時に、大地が動く。何千という馬の蹄が地を蹴り、雷の轟きに似た音を呼び起こした。
イシュテン軍を迎えるのは、まずは矢の雨。盾を掲げてしのぎつつ、馬の脚を緩めることはしない。止まれば的になるだけ、血の臭が戦意を更に掻き立てるのか、馬体に矢を生やしてなお駆ける馬もあちこちに見て取れる。敵陣に斬り込めば矢の出番はなくなるからこそ、急ぐ。
「今回は穴を掘る暇もなかったか」
何者かが呟いたのは、シャルバールでの策に対する皮肉か、それとも何事もなかったという安堵なのかもしれない。思うままに馬を駆ることができるという確信は、軍の戦意を更に高めて駆り立てる。
矢の雨を潜り抜ければ、敵陣と接触するまでに要する時間はほんの数秒。迫る戦馬の群れに顔を引き攣らせる弓兵が後方に下がり、代わって騎兵が前線に出る――その、武具が擦れる金属音さえ聞き取れるよう。戦場にあって、あらゆる感覚が研ぎ澄まされ何もかもが手が届く範囲のことのように感じられるのはよくあることだ。こうなると全軍がファルカスの手足であるように思えるのだ。視界も、鳥の翼を得たかのように戦場全体をくまなく見渡して。王都の正面、門を守るように分厚い層を作り上げているブレンクラーレの軍。それに攻め入るイシュテンの軍は、さながら巨大な剣といったところか。士気の差によってか敵の抵抗は弱く、柔らかい肉を裂くかのようにイシュテンは刃を食い込ませていく。
拮抗した戦力、その均衡を覆すだけの自軍の勢い、脆い敵軍。彼自身も眼前に現れる敵兵を斬り伏せながら、感じ取る戦況は上々――のはずだった。だが、戦場の一角の動きを目に止めて、ファルカスは眉を寄せた。
――何を勝手に突出している……?
手足のうちの一本が、自身の意思に反した動きをしているかのような不快感だった。イシュテン軍の左翼が、列を乱して敵陣深くに食い込んでいる。特別に敵が脆い部分なのか、こちらの兵が逸り過ぎたか――あるいは、敵陣に誘い込もうという罠の可能性もあるというのに。
「あの部分――勝手が過ぎる。行って、少し抑えて来い」
「はっ」
敵味方入り乱れる混乱の中、近侍の将を捕まえて与える命令はごく端的なもの。とはいえ槍の穂先でその方向を示せば、相手も状況の
――これで収まれば良いが。
懸念は心の片隅に止めて、またひとり王の首を狙う敵兵の喉を貫く。感覚の上では戦場の全てを把握しているような思いがあるとはいえ、彼の肉体は人ひとり分だけ。差し向けた臣下を信じて、今は目の前の敵に対処しなければ――と、思ったのだが。
「シャルバールでの礼を言いに来たか? 僕のお陰で助かった者たちが、恩知らずも良いところだな!」
不意に涼やかな声が耳に届いて、一瞬――ほんの一瞬、自失する。瞬きする間に髪一筋のところに迫った刃を槍の柄で受けて跳ね返し、さらに翻した柄で相手の顔面を叩き潰す。思考に依らず、身体が滑らかに動くのを感じながら、ファルカスの脳はたった今聞こえた声、その声が発した言葉の意味を確かに捉えていた。
――まさか。奴が……!?
声の主が何者かを予感してなお、驚きが理解を阻んだ。戦場においてさえよく通る澄んだ声、馴染んだ言葉の訛り。全てがあの男を指しているというのに。
彼の鈍さを嘲笑うかのように、水晶を打つような声が、再び戦場に響く。まさにファルカスが突出した自軍を憂えたあたりから、その理由を教えるかのように。
「我はミリアールトが王族の末裔、シグリーン公爵公子、レフ! 国と父と兄の復讐のため、ここにいる! シャルバールでのことは手始めにすぎない――言いたいことがあるなら、剣で伝えに来るが良い!」
その名は、あらゆるイシュテンの者にとって、無視できないものだったのだ。
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