第17話 決戦前 レフ
ブレンクラーレに滞在している間、レフは王宮――
まあ、それはもう過ぎたこととして。とにかく、レフにとっては王都周辺の風景はもはや馴染んだもの、異国とはいえ全く何の感情も起こさないものではなくなっているということだ。
だから、今眼前に広がる光景を見れば、不思議な感慨が胸に湧く。世に名だたる大国の都がここまで緊迫した状況に置かれるなど、歴史の上でも何度あったことだろう。
赤や青、黄色に緑。様々な色の生地に、各家の紋章を金糸や銀糸で縫い取った旗が空に誇らかに舞う。精緻な細工を凝らした鎧が陽光に輝く様、金と時間を掛けて鍛え上げた戦馬が
守るべき主君が国を危険に晒したこと、イシュテンの
しかもイシュテンの軍が風の速さで迫っているという報せも届いている。枯草の地平が、いつ戦馬の蹄が巻き上げる砂埃で煙るのか。雷鳴の轟きのような蹄の音がいつ聞こえるか。――確実に戦いが近づく中で、それを心待ちにして覚悟を固めている者の数は決して多くないようだった。
冬の空さながらにどんよりとした空気が覆う軍の中にも、一筋の陽光が射しているかのような一角がある。ひと際壮麗な鎧を纏って黄金の輝きを振りまく、マクシミリアン王子がいる辺りだ。無論、鎧の輝きだけが
「公子……貴方は落ち着いていらっしゃるのだな」
「一応は、経験がございますから。恐れながら殿下は初陣でいらっしゃいますから。ひと欠片の不安も抱かれず驕っておられるよりは、よほど良いかと」
当の王子の顔色は兵たち同様に冴えず、跨った白馬さえも落ち着きなく蹄で地を掻いているのだが。レフを間近に召したのも、年配の将らに囲まれている上に母のアンネミーケ王妃は王都の城壁の内に離れているから、弱気を見せる相手が他にいないからということだろう。正直に言って、親身になるほどの関係がある訳でもないのだが、一応は指揮官である方だから、少しでも心を軽くしてもらった方が良い、のかもしれない。
型通りにしかならない慰めの言葉だったが、マクシミリアン王子は少し笑ってくれた。
「経験。ミリアールトと……それから、シャルバールでのことだな。貴方はもう何度も死地を潜り抜けてきているのか……」
「いずれも運と、周囲の者たちに助けられました。ブレンクラーレは、ミリアールトよりも優れた将に恵まれているのですから――」
ご心配には及びません、と。続けようとしたところで、マクシミリアンはいや、と呟いて首を振り、レフの言葉を遮った。
「貴方だけではないのだろうが、命を危険に晒してまで働いてくれた者もいる中で、私は何と守られて来たことか。そしてその意味を知らず考えずに来たことか。……母や、ギーゼラのことを思うにつけても、悔やまずにはいられないのだ」
「左様でございますか」
――母君や王太子妃殿下……それに、僕のことについても、なんと甘くていらっしゃる……!
神妙な顔で頷いてみせながら、レフは失笑を堪えるのに苦労していた。王太子は――それ自体は美徳と言えなくもないかもしれないが――優し過ぎる。レフがブレンクラーレの間者たちを斬ったのは知らないにしても、この国の今の窮地は彼の独断専行が招いたものだ。さらにその前提としてアンネミーケ王妃の陰謀があるのも間違いないし、ギーゼラ妃に至っては訳の分からない理由でシャスティエをみすみすイシュテン王のもとへ逃がしてしまった。いわば、王子を戦場に引きずり出した者たちと言っても決して過言ではないだろうに、心を痛めてくれているようなのはまことに寛大なことだと思う。
もはやお人
「私はどうも人の心を慮るのが苦手なようなのだ」
――気付いていたんだ。
これにはレフもあからさまに目を瞠ってしまう。そのようなこと、アンネミーケ王妃を始めとしてブレンクラーレの者たちは誰でも知っているし頭を抱えてもいる。彼自身、イシュテンの娼館で最初に顔を合わせた時に瞬時に悟ったくらいなのだ。だが、こういうことは本人の自覚がないからこそのものだろうと思うのに。
だが、ならばよくあのような言動を繰り返して王妃を呆れさせ王太子妃を悲しませることができたものだ。勝手なことではあるが、この方さえしっかりしていればレフがギーゼラ妃に声を掛けることはなかったし、恐らくはそれが遠因となって王太子妃がシャスティエを逆恨みするようなことはなかったのに、とさえ思う。
それでもマクシミリアン王子はマクシミリアン王子だった。レフの目に宿る複雑な想いには全く気付いていないようで、またひとつ溜息を溢す。
「……ギーゼラがあのようなことを考えていたとは思ってもいなくて。妻の心でさえ分からないのに、臣下や民の心が分かるものなのかと思うと……」
「殿下は寛大で慈悲深いお心をお持ちです。この難局を乗り切れば、必ずや名君として慕われるようにおなりでしょう」
「そうだろうか」
皮肉と取られることがないように、真摯に聞こえるように細心の注意を払って重々しく述べると、マクシミリアン王子は少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。言葉ひとつで気分を持ち直してくれるとは単純なこと――だが、君主にはある意味必要な気質なのかもしれない。ブレンクラーレの者に言うのではなく、わざわざレフを呼び出したということは、誰に何を言ってはいけないのか、最低限の区別はついているということでもあるし。案外、彼の言葉は全くの嘘にはならないのかもしれない。
――まあ、ブレンクラーレの未来なんて知ったことではないし。……見ることも、ないんだろうけど。
取りあえず重要なのは、イシュテンとの決戦に向けて指揮官が気を強く持ってくれるということ。イシュテン王を討つ目算が少しでも増えるなら、今できることは何でもしよう。だからレフは微笑みを作ると更に言葉を重ねた。
「イシュテンを退けることに成功すれば、王妃陛下のお心も安らぐでしょうし、王太子妃殿下の誤解を解く機会もあるでしょう。きっと、そうなります。そのために、私も微力を尽くさせていただきますから」
「母に汚名を着せて……貴方にも、危険な役目を負わせてしまうのだな……」
レフの笑顔に応えて、マクシミリアン王子も笑う。唇に弧を描かせるだけの、どこか苦い笑みだったが。
アンネミーケ王妃に彼が進言したことは、既にブレンクラーレの主だった者たちは知っている。ティグリス王子の乱――シャルバールでの非道な策は王妃によって企まれレフが実行したものだと喧伝すること。それによってイシュテン軍を挑発し、攻撃の矛先をレフに集中させること。それによって敵の側面を晒させるべく、レフは一軍を与えらえてブレンクラーレ陣の最右翼に配されることになっていた。敵の怒りと攻撃を一手に引き受ける役目を、マクシミリアン王子は案じてくれているようだった。
だが、レフの笑顔が揺らぐことはない。これも全て承知の上で申し出たこと。それに、危険なだけの役ではないのだから。
「進言を容れてくださった王妃陛下には心から感謝しております。陛下のご覚悟とご期待を裏切らぬためにも、イシュテンの軍を乱してご覧に入れましょう。――私の目的にも、適うことですし」
王自身が先陣を切って戦うのがイシュテンの倣い。しかも、此度の戦いの大義でもあるシャルバールの件を持ち出せば、必ずイシュテン王を釣り出すことができるだろう。彼の金の髪は、戦場でもよく目立つことだろうし。
――シャスティエを取り戻して勝ち誇っているのか!? だとしても……そのままで国に帰らせたりするものか……!
ギーゼラ妃の暴走を聞いた時は、シャスティエの身を案じて心臓が潰れる思いをしたし、王太子妃への怒りで頭がおかしくなりそうだった。だが、その後の報告でどうやらイシュテンの王も軍も側妃の帰還を受け入れたらしいと知って、不安も怒りもイシュテン王への一層激しい憎悪に変わった。シャスティエの命を奪うことがなかったことを感謝する気になどは、どうしてもなれなかった。
シャスティエは、確かにかつてはイシュテン王を憎んでいたはずなのに。だからこそ復讐などと名乗ったのだろうし、イシュテン王の側妃になったのもそのための方便でしかなかったはずなのに。なのに、いつの間にイシュテン王は彼女の心を盗んだのだろう。シャスティエがそう簡単に絆されるはずはないとは思うけど、子の親であるという絆は、そんなに深いものなのか。その絆も、力づくで無理強いして結ばせたものだろうに。
「……あらゆる将兵と同様に、公子の無事を願う。それに私自身も。母の期待に応え、妻と子にまた会いたいと願っている」
レフの顔をじっくりと眺めた後、マクシミリアン王子は目を伏せて、言った。彫刻を思わせる白皙の顔に長い睫毛が落とす影は濃く黒く、それだけを見れば物語の登場人物のように申し分なく美しい。その唇が描く笑みも紡ぐ言葉もどこか弱々しく、自信なげだったのが難点だが。
「生きていればこそ、ということもあると思うから……だから、貴方も。どうか死地に赴くような覚悟ではなくて……」
――ああ、ご忠告ということだったのかな?
ちらちらと彼の顔色を窺うようにして、王太子は曖昧に語尾を濁らせた。どうやらレフが死に場所を求めているとでも思ったのだろうか。必ずしもそんなつもりではなかったのだが、シャスティエとイシュテン王の絆を見せつけられて、自棄になっているようにでも見えたのかもしれない。
的外れに彼を案じるマクシミリアン王子は、やはり甘くてお人好しで、人の心情を慮れていないと思う。だが、とにかくも善意から出た言葉には間違いないのだろう。
「痛み入ります」
だからレフは晴れやかに笑った。さほど好意を抱いていた相手でもなかったが、こうまで底抜けの人の良さを見せつけられると、素直に受け取らなければならないような気になってしまう。
「そうですね、命を無駄にしたい訳ではないので……できれば生きて帰れるように努めたいものです」
だからといって正直な想いを告げるかどうかはまた別の話だが。レフの本心を見通すことができず、ほっとしたように笑ったマクシミリアン王子には、どの道彼の言葉が嘘だとは気づかなかったのだろう。言ったところで理解してもらえないだろうし、レフが死んだとしてそれが不本意なものなのか満足してのことなのかはどうせ分からないだろう。ならば聞こえの良い言葉で満足してもらえば良い。
マクシミリアン王子は、それが叶わないなら死んだ方がマシだというほどの思いを知らないのだろうから。
王太子の前を辞してレフに与えられた一軍のもとへ戻ると、彼に刺さる目は鋭く冷たいものだった。
「そう睨まないでくれよ。貴方
冗談のように呟けば、辺りの空気は一層冷えて、視線の鋭さも刃物さながらのようになる。
イシュテンの猛攻をその身に受けることを承知した者たち、アンネミーケ王妃が直々に選んで国のためにと声を掛けた精鋭たちだ。当然、ブレンクラーレや王家への忠誠は特に篤い――だから、アンネミーケ王妃の所業を知ってなお、彼らの王妃を恨むというよりは実際に行動したレフの方を敵視している節がある。だからシャルバールでのことを揶揄するような言葉を許しがたいと思ったのだろう。彼が唆したとでも思っているのか、あるいは、彼がもっと上手くやっていれば、とでも詰りたいのか。いずれにしても、必ずしも理のない非難ではないから、彼としても反論するつもりも馴れ合うつもりもない。
ただ、そういう者たちだからこそ、イシュテンと対峙しても怯むことなく戦ってくれるだろうとは思う。そこは、頼りにしているところだ。
――イシュテン王を泥に嵌めてやったら愉しいだろうとは思うけど……!
シャルバールでやったように、戦馬の脚を折る落とし穴を掘って、水を引き込んで速さを封じる――そんな策を実行するには、生憎今回は時間がなかった。既に地に堕ちたブレンクラーレの名誉のためにも、もう一度同じ策を使うことはできないだろうし。それに、レフとしても仇とは直接剣を交えたい。国の、父の、兄の――それに、かつての彼女の仇だ。手練れと名高いイシュテン王に、彼が勝つ見込みはごく薄いかもしれないが――
――僕が死んだら君はどんな顔をするんだろう……?
愛しているらしい夫とやらが、従弟を殺したと知った時のシャスティエの顔を想像すると口元が自然と綻んだ。彼が望むようなものでは決してなかったけど、彼女はまだ彼を愛しているようだった。
たとえイシュテン王に及ばずとも、彼女の心をあの男から取り戻すことができれば良い。少なくとも、彼の復讐はそのような形でならば成就するはずだった。
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