第16話 幼い糾弾 アンドラーシ
王が軍を率いてブレンクラーレに発って以来、王宮とバラージュ家を行き来するのがアンドラーシの日常だった。だが、最近になってバラージュ家にいる時間の方が長くなっていた。王妃がバラージュ家に居所を移したから――つまり、王に命じられたのは王妃の護衛であって、王宮の警備とは若干意味が異なっていたからだ。王の留守中、政を任せられたのは――滅多な気を起こすなという牽制の意味もあってのことだが――リカードの方であって、彼には書面に関わることなどできることなら敬遠したいという思いもあった。有り体に言えば、面倒なことから目を背けていたということになる。
だが、面倒だからと言って目を背け続ける訳にはいかない事態となって、彼としては頭を抱えている。リカードの動きが、日に日にあからさまになっているのだ。王妃が王宮から出たのを、彼女自身の意思によるものではなくアンドラーシによる誘拐だと主張して、兵を集めているのだ。王への反乱という名目ではなく、あくまでもこちらに罪を着せてくる狡猾さはさすがと言ったところだが、もちろん感嘆している場合ではない。
リカードが挙兵したら、拠点に選ぶのはどこか、という問題が浮上するのだ。最有力の候補は、奴の本拠地たるティゼンハロム侯爵領。だが、ただの反乱ではなく大義を掲げるならば、より効果的に自らの正義を広く訴えることができる場所がある。
リカードが、王宮を占拠するようなことがあれば。
王宮も、それが位置する王都も、イシュテンの権威の象徴と言える。王宮に座した――この想像自体が不遜極まりなくて胸が悪くなる――リカードが我こそ正義と唱えてバラージュ家を攻めよと命じれば、真実はどうあれもっともらしくは見えるだろう。更に、他ならぬ王がリカードに政を委ねたこともその見え方を手伝うはず。アンドラーシ自身が逆賊の汚名を着せられるのを免れるためにも、決してリカードに王宮を奪われることがあってはならない。何より――
――ご不在の間に王都を失うなど、陛下に顔向けできぬではないか……!
王がクリャースタ妃を伴って凱旋した時に、返る都も宮殿もないのでは格好がつかない。留守を預かる者として、主君に面目を失わせるようなことをしては、たとえ王妃と王女の身は無事だとしても、務めを果たしたとは言えないだろう。
だから、アンドラーシもリカードに対抗してどう動くかの選択を迫られているところなのだ。こういう事態になると、彼の若さと――不本意だが――日頃の言動が枷となる。リカードに先んじて王都を抑えたとして、専横の謗りを受けないかどうかについては、正直心許ないといったところだ。
王妃の直筆の書簡があるとはいえ、リカードが屁理屈を通そうとしているのは、それだけでは日和見の諸侯を動かすには十分な証拠になっていないのは――それは、王妃がはっきりと父親を非難していないからだ。バラージュ家を訪ねた女たちに対しては、王妃は無理強いされているのではないとの心証を与えることに成功したようだが。女のお喋りも歴とした社交であって、時に政治の判断に影響するものと、彼としても認めつつはあるのだが。
それだけでは、もう足りない。妻のグルーシャは王妃の心情を慮って甘やかしているようだが、親子の情がどうであれ、王妃にも肚を決めてもらわなければ。どうとでも取れるような言葉ではなく、娘としてではなく王の妻として、リカードの所業を咎めてもらわなければ。
――だが、あの方に、それができるのか……?
多分、クリャースタ妃ならもとめられる役を難なくこなすことができるのだろう。女神のごとき美しさを存分に利用して、味方を魅了し敵を威圧する言葉を操ることができるのだろう。だが、
――どうあっても、やっていただかなくてはならないのだがな。
不安と焦りに身を削られるような思いをしつつ、アンドラーシはまたバラージュ家へと馬を向けた。
リカードの動きはバラージュ家にも伝わっている。つまりは、自分たちが逆賊に仕立て上げられかねないということ、ティゼンハロム侯爵家に与する諸侯が、いつ何時攻め込んでくるか分からないということも。だからアンドラーシを迎えた妻も義弟のカーロイも、張り詰めた雰囲気を漂わせていた。屋敷の主たちだけではなく、侍女も召使いも、厩舎係も厨房の者も。役割の軽重に関わらず、使用人にも戦いの気配というものは感じられるらしく、屋敷の空気はいつになく重く息苦しいものだった。
あの無邪気で呑気な王妃も、さすがにバラージュ家を覆う重苦しい影は感じ取っているようだった。というか、かつてアンドラーシが嫌っていたこの方の姿はもはや過去のものだった。ふわふわと微笑んでばかりの何も知らず考えていない女だと思っていたが、今も父親のリカードへの対応はまたまた生温いと思ってしまうのだが、周囲の状況に何も感じることがない訳ではないらしい。
目通りの願いを叶えてくれた王妃は、また少し痩せたようだった。茶器を持ち上げようとして、結局そうせずに膝の上で揃えられた指先は白く、骨が透けているのではないかと思うほどだ。
「……父の、ことですね……? 本当に、申し訳ないことですわ……」
王が遠征の途に就いた後、王妃が笑っているのを見たことがないような気さえする。かつてならば夫の勝利を疑うことがないようだったが、側妃の存在か、父の陰謀か――思い当たる原因は幾つかあるが、それらが不安という感情を教えたのかもしれない。
そもそも、ラヨシュを介してアンドラーシを動かした手紙の筆致からして、ひどく必死なものだった。揺れる筆跡が、リカードの入れ知恵ではないかとかただの思い付きではないかとか疑う悪意を否定してきた。
だから――信じがたいし、信じたくもないという思いも多少はあるのだが――王妃も変わった、のだろう。かつてのように父と夫が
――ならば、頼りに思っても良い、のか……?
「ティゼンハロム侯爵のなさることです。王妃様の御心とは関わりのないことと、承知しておりますから」
リカードは、彼の心の中では既に反逆者だ。王に背く者に対して、
「でも、私のせいですわ。私がこちらへお邪魔しているから……」
「そのようなことはございません。失礼ながら、侯爵とはいえ臣下のひとりに過ぎないはず。王妃様がご自身で望まれたことを否定するなど、分を越えたことと言わざるを得ません」
リカードの行動の切っ掛けが何であったか、と言えば確かに王妃の逃亡――というか何というか――で間違いがない。しかし、アンドラーシとしては王妃を責めるつもりは毛頭なかった。宥めようと口にした言葉も決して嘘ではないのだが、それ以上に、下手に非難の色を滲ませでもしたら、この心弱い女が委縮するであろうことは目に見えていた。
クリャースタ妃の気の強さとも、グルーシャのしなやかな賢さとも違う、壊れ物を扱うような気の遣い方。これもアンドラーシには馴染まなくてひどく疲れるものではあるのだが、言葉の使い方程度のことで戦いが有利に進むなら、心労がどうのと言っている場合ではないのだろう。
努力して笑顔を保つ彼の前で、王妃はやはり悲しげに目を伏せて彼の忍耐力を削ってくるのだが。
「でも、私はこうなることなど想像もしておりませんでした。私がここにいるせいでバラージュ家の方々が危険に晒されるというなら……やはり、王宮に戻った方が良いのでしょうか」
「とんでもないことでございます」
王妃を宥める振りで、顔が引き攣らないようにするのに苦労する。王妃の言葉は、アンドラーシの予想の範疇に収まっていたが、だからといって頷けるものでは全くなかったのだ。
――ああ、やはりそういうことを言いだすのではないかと思っていた……!
折角の決意を無駄にするようなことをして何になる。娘を脅して反抗を罰しようというのがリカードの意図だと、どうして分からないのだろう。王妃の従順さは、常ならば褒められるべき美徳かもしれないし、実際リカードもそのように育てたのだろうが、今この状況にあっては甘さと弱さにしかならないだろうに。
――俺は貴女の手紙で動いたのだぞ……? ここまで巻き込んでおいて、梯子を外されてたまるものか。
苛立ちに荒れる内心はあくまでも表には出さず、王妃に聞かせるのは極力抑えた穏やかなつもりの声だ。彼自身には胡散臭い猫撫で声に感じられてしまうが、王妃には精々親身な忠言に聞こえれば良い。
「王妃様が今バラージュ家を離れられたら――まるで、ティゼンハロム侯爵の言い分が正しいように見えるでしょう。私やこの家の者たちが王妃様の御意思に反して監禁しているかのように、世の者には見えてしまう――私共が逆賊の徒であるかのように、侯爵に攻め滅ぼされるのも正義であるかのように思われることでしょう」
「そんな……」
あるいは、これも脅しの一種なのかもしれなかったが。王妃の懸念は、要はアンドラーシを案じてのこと。気遣いと思っての行動がむしろ逆効果になると聞かされれば、また心は揺らぐだろう。一層青褪めた王妃の顔を見て、心が全く痛まないという訳ではないが――同時に、これで思い通りに動かせるかも、との期待も生まれてしまう。
剣ではなく言葉によって、しかも戦うというよりは操るように相手に対すること。それも、これまで嫌っていた女に縋ろうとしていること。いずれも忸怩たる思いを禁じ得ないが、彼としても採れる手段は限られているのだ。
「でも、このままではどちらにしても……父は、既に兵を集めていると聞きました」
「臣に策がございます」
王妃が弱気を漏らしたところにすかさずつけ込む――まるで奸臣のようなやり方に我ながら嫌悪を覚えつつ、それでもアンドラーシは笑顔を保つのに成功したはずだった。何を言い出すのか、と。相手が食いついた隙を逃さず、ひと息に述べる。
「王妃様には確かに王宮に戻っていただくことになるでしょう。ただし、侯爵の――敢えてこのように言ってしまいますが――脅しに屈するという形ででは、ありません」
「え……?」
「侯爵に先んじて、王都と王宮を抑えようと思います。無論、本来であれば私にそのような権限はありません。ですから侯爵の追及を躱せるだけの大義をいただきたいのです。ご息女である王妃様の行いを口実に、陛下のご不在の間に不当に兵を動かしている――侯爵こそ
「私が……お父様を……?」
悪、という単語を発音した時に、王妃の顔に暗い影が落ちた気がした。外で太陽が翳ったということでもないだろうが。
――リカードが悪でないとでも思っていたのか……? だから逃げようとしたのだろうに……!
この期に及んで父を責めるのを恐れるような王妃の態度が、歯がゆくてならなかった。思わず、といった風情で腰を浮かせようとした仕草にも、また怖いことから逃げるつもりかと思ってしまう。だが、アンドラーシも逃がす気はない。
「実の父君を告発するなど、どれほどのご心痛かとはお察し申し上げます。ですが、何よりもご夫君のことを考えてくださいますよう……! 異国での戦いを制し、己が国に戻られた陛下が、臣下同士の争いで乱れているところを目の当たりにすればどのように思われるか……!」
「ファルカス様……」
王のことに言及すれば、王妃の表情も改まる。怯えに囚われたがゆえに強張ったであろう頬が、夫の名を呼ぶことでわずかに緩む。そう、この方の甘さも弱さももどかしいばかりだが、少なくとも王への思いだけは信じることができるし、アンドラーシも共有できるはずのものだ。だから、彼はそこを突くことに決めていたのだ。
「こちら側も兵を整えるのにしばらくかかります。それまでに、お心を決めてくださいますよう――伏して、お願い申し上げます……!」
言葉だけでなく席を立って跪くと、王妃が息を呑む気配を頭上に感じた。慌ただしい衣擦れの音も、さざ波のように響いて耳に届く。
「そんな……そのようなことはなさらないで……」
乞うような縋るような呟きにも、頭を上げることはしない。強く出られると弱くなるのがこの王妃の質だと分かっているから。これまでは王やリカードによる命令だったのだろうが、今回は臣下からの懇願という形になるが。どうしてもと言われて敢えて断ることができるほどしっかりとした自我というものを、この方は持っていないのだ。徹頭徹尾、相手の心につけ込む卑劣な手口だとは分かっている。だが――
「……分かりました。心の、準備……きっと、しておきますから……」
掠れた、溜息のような囁きではあったが――望んだ言葉を引き出すことに成功して、アンドラーシもようやくひと息吐くことができた。
「お見事なご決意、まことに感謝いたします」
そしてやっと顔を上げれば、王妃の黒い目は不安に波立って涙の煌きを浮かべていた。だが、それには気づかない振りで恭しく礼を述べると、彼は王妃の前を辞した。
バラージュ家での用が首尾よく済んだ以上は、アンドラーシにはまた行くべきところが多々ある。王宮を抑えるのに、彼の一存で動かせる兵だけでは足りないから。まだつくべき陣営を決めかねている者たちを、王妃の後押しを切り札にして説得しなければならないのだ。
先の予定を考えて溜息が出そうになったところ――彼の置かれた状況をよく知る
「王妃様は――」
「とりあえず頷いてくださった。人前で声を出すことができるかは、まあ分からないが。お前からも励まして差し上げて欲しい」
「はい……。アンドラーシ様も、お気をつけて」
「うん」
王妃の胸中を慮ったのか、妻の眉が顰められるが、その心遣いが王妃ばかりでなく彼にも向けられていると分かるのは悪い気分ではなかった。もう一度口づけを落とそうとグルーシャの頬に手を添えた時、だが、視界の隅に揺れる影が見えた。
陰の方へ向き直って、影の正体を見て取って。アンドラーシの頬が、久しぶりに本当の笑みに緩んだ。
「王女様。ご機嫌を直してくださいましたか」
物陰から半身を覗かせて彼らを睨んでいるのは、長く自室に閉じこもっていたマリカ王女だったのだ。
「お部屋の中だけでは退屈されたでしょう」
王に似た強情な気質が
「……不忠者」
「は?」
だが、小さな唇が紡いだ不穏な言葉に、王女へと歩み寄ろうとしていた足が止まる。
「お父様のお留守の間に王宮を攻めるだなんて! おじい様に成敗されれば良い!」
突然の罵声に、切り返す暇も余裕もなかった。アンドラーシが呆気に取られて目を見開いた、その表情を嘲笑うように、王女は昂然と顎を上げると、衣装の裾を翻して走り去っていった。その方向には、王女のために誂えた部屋があるはず。ならば彼に物申すためだけに部屋から出てきたというのだろうか。
「……使用人の噂でも耳にされたのでしょうか。あの、アンドラーシ様……?」
「いや……子供の言うことだからな」
彼と同じく自失していたらしいグルーシャが、数秒経ってようやく案じる言葉をかけてくれた。それでアンドラーシも声を取り戻すことができる。
「母君様は分かってくださっているし……いずれ、聞き分けてくださるだろうさ」
首を振りながら、いかにも気にしていないように答えたはずだった。だが、妻の不安げな表情からして、彼が思っていたほど確かな言葉には聞こえなかったのかもしれない。
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