第15話 握り潰される願い アレクサンドル
戦馬の蹄が大地を揺らしている。ブレンクラーレの王都へ向けて、本格的な進軍を開始したイシュテン軍がその
「陛下のお召しがあったとか――」
「イルレシュ伯。伺っております。どうぞ」
王の近衛を務める一軍、中でもとりわけ美しい鎧を纏い美しい馬を御する者を、いずれかの家の当主だろうと見て呼び掛けると、相手は微笑んで道を開けてくれた。荒天の中に一筋射した光のようなその隙間へ、手綱を繰って馬首を割り込ませる。戦馬の神を奉じるだけあって、イシュテンの者たちが従える馬はどれも見事なものばかりだが、彼の愛馬も負けてはいない。相当の速さで駆ける同胞の間を上手く縫って、臆することなく王のもとを目指す。軍の先頭にひと際目立つ、見事な黒馬のもとへと。
王の御前に辿り着くまでに、アレクサンドルに対しては方々から声が掛かった。
「陛下のもとへ参られるのか? 何の御用だろう」
「さて、何とは伺っていないのだが」
「クリャースタ様のこと以外に何があると? 惚気を聞かされるのかもしれぬ」
遮るもののない青天の下でのこと、蹄の轟きに負けじと交わす言葉は自然とそれなりの声量になる。つまりは彼らのやり取りを耳にする者の数も増えるという訳で、主君に対しての遠慮のない冗談に辺り一帯で笑い声が弾けた。
――皆、あの方のことを気兼ねなく口にできるようになったのだな。
彼の女王が改めてイシュテンに受け入れられたのを知って、アレクサンドルの口元は緩んだ。このように気安い雰囲気は、つい数日前まではなかったものだ。誰もが彼の顔を見るなり表情を強張らせて、露骨に目を逸らしたり睨みつけてくる者も珍しくはなかったのだ。それがこの変わりようだ。シャスティエが王と共に歩む、復讐という婚家名も夫のためだとと宣言したこと――それに何より、あの翌日に王と寄り添うシャスティエの穏やかな微笑みの美しさが功を奏したと見える。
「御子ともどもお元気そうで――伯も、安心されたことでしょう」
「まことに」
気さくに話しかけてくる者たちに返すのが、心からの笑顔でないのが後ろめたいほどだった。一度かけられた疑いがあまりに重いものだっただけに――それに、王と彼しか知らないが真実でもあった――、それが払拭された今、美しい側妃とその御子を心置きなく敬うことができることに、誰もが安堵しているようだった。
――これならば、私が去ったとしても……?
シャスティエに託された望みが、年老いた心臓に重く圧し掛かっている。イシュテンの者たちには明かすべきでないことを、あの方がまだ願ってしまうということ。主のせめてもの願いを、彼は恐らく叶えることができないということ。――この地上で彼に許された日々は、多分残り少なくなっているということ。人生の経験を重ねたつもりでも、いずれも容易く受け止めることではなかった。
とはいえ、老人が若者を残して逝くことは世の定めでもある。シャスティエとその御子たちの、幸せの兆しだけでも見ることができてから旅立つことができるなら、願ってもないことなのだろう。
「来たか」
「は」
ようやく王のもとに辿り着くと、いつもは狼や猛禽を思わせる表情を浮かべている精悍な顔が、珍しく穏やかに微笑んでいた。敵地とはいえ交戦はまだ先だから、兜で頭を守ることはなく、馬の速さが起こす風で髪を鬣のようになびかせている。冬とはいえ晴れた日のこと、鎧姿の息苦しさを、風はほど良く相殺してくれる。――だが、馬を駆けさせることの爽快さだけが、王の上機嫌の理由ではないのは明らかだった。
「伯には礼を言わなければならないと思っていたのだ。側妃のことでな」
道中で王の惚気を聞かされるかも、と言われたのがまさしく現実になったようだった。王の青灰の目が、ここではないどこかを見て細められている。きっと、あの眩い金の髪の輝きが、王には確かに見えているのだ。
「許されるはずがないと思っていたのだ。黒松館でのことは、気の迷いに過ぎないのだろうと。だが、シャスティエは俺と共に生きたいと言ってくれた。夢のようだと思った……」
「あの方を元の名で呼んでくださるのですか」
本当に夢を見るかのように、王がうっとりとした表情で呟くのもまず信じられなかった。だが、それ以上に信じがたいのは、王の口が確かにシャスティエの名を呼んだことだ。アレクサンドルの記憶にある限り、王は側妃の名を呼んだことがほとんどない。復讐を意味する婚家名の方でさえも。妃として迎え、子まで
いずれにしても、アレクサンドルが思った以上に王とシャスティエは心の距離を縮めていたということだろうか。
思わず驚きの声を上げると、王は不思議そうに首を傾げた。言われるまでそのことに気付かなかったように。王の胸の裡では、あの方の呼び方はとうに決まっていたのだろうか。
「そうだな……名の意味を知れば
「そのようになさるのがよろしいかと存じます」
「うむ」
声が弾みそうになるのを務めて抑えて――喜色をあからさまにし過ぎては王が気分を害するかもしれないから――勧めると、王は軽く頷いた。そしてごくさらりと付け加える。
「まあ、話ができるかどうかは分からないがな」
「何を気弱な――」
見直したかと思えば、すぐこれだ。王が敗北の可能性に触れているのだと思って、アレクサンドルは叱咤の言葉を探そうとした。ブレンクラーレに侵攻してからシャスティエに再会するまで、王は度々拒絶される可能性に言及していた。今しがたも言ったように、憎まれているに違いないから、と言って。そうではないと言い続けたことがやっと事実だと分かったというのに、また別の不安を口にするとは。
「いや、別に死ぬことを考えている訳ではないぞ。戦いの前に負けることを考えてどうする」
アレクサンドルの顔色から、自身の言葉がどのように取られたか察したのだろう。王は苦笑すると軽く首を振った。――そして、これまでの穏やかな表情が一変して、険しく剣呑なものに取って変わる。
「レフとか言ったな。シャスティエを攫った男――その者を、俺は許すつもりはない。イシュテンの王としても、夫としても父としても。その男が犯した罪は重すぎる。この手で討たねば気が済まぬほどに。――ミリアールトの臣としては、受け入れ難いか?」
「いいえ。そのようなことは、決して」
だが、王が覗かせた殺気よりも、旧主に連なる若者への断罪よりも、王が示唆することの方がアレクサンドルの心を冷えさせた。レフを殺せばシャスティエと話すことができなくなる――あの方に憎まれると、王は信じているのだ。
「ミリアールトはイシュテンと共にあると、それこそが女王の御意思でございますから」
王も自らの目と耳で確かめたはずのシャスティエの意思を、改めて強調する。だが、彼の言葉にどれほどの説得力があるだろうか。出立の前に対峙したシャスティエは、今にも泣きそうな顔をしていた。あの言葉も、まるで自らに言い聞かせるかのようだった。
『もしも王が彼を殺したとしても、私は王を責めることはできません。憎むこともない――、と思います』
事実、アレクサンドルの声は自分でも情けなくなるほどに精彩に欠けていた。当然のごとく、王も再び首を振って彼の進言を退ける。
「――だが、肉親を
だが、心は離れるだろう。
言葉を途切れさせることで、王の諦念がむしろはっきりと伝わって来た。レフを許さないのは、王として国を乱されたこと以上に、シャスティエを思えばこそあの青年の所業を見過ごせないということのはず。なのに、その想いこそが王とシャスティエを引き裂こうとしているのか。
「まあ、夢は覚めるものだし、他にしようがないのだから仕方ない。ただ、一時とはいえ心を通わせることができた――と、思う――のはそなたが話せと言ってくれたお陰だ。礼というのはそのことだ」
掛ける言葉に悩むうちに、王は一方的に会話の終わりを告げた。下がって良い、と言外に命じられてしまえば、臣下の身には更に踏み込む僭越は許されなかった。
王の青灰の目は、しっかりと前だけを見据え、金の煌きを追っている気配はもはやない。それを見て心が一層重くなるのを感じつつ、アレクサンドルは王の御前を辞した。
その後、彼は再び奔流のような戦馬の群れをかき分けて進んだ。今度は流れに逆らうようにして、目指すのはイシュテンの者の中でももっともよく知る男のひとり。イシュテンに来てからではなく、ミリアールトにいた頃から侵略し支配する者とされる者として、しかしお互いに決定的な破局は避けようと譲歩と折衝を続けて、相応の信頼を築くことができた者――ジュラだ。
「イルレシュ伯……どうなさいましたか」
彼が王に召されていたことは、この男の耳にも届いていたのかもしれない。全軍の中でも
「貴公の忠誠を見込んで頼みたいことがある。陛下と、クリャースタ様に関わることだ」
「――何なりと」
戦いに身を置くイシュテンの男らしく、あるいは王の側近を自認する者らしく、ジュラは王と側妃の名を聞くとすぐに表情を引き締めた。同時に周囲の兵に目配せして彼らふたりから遠ざからせる。多くの者が聞くべきでないことだと、すぐに判じてくれたのだろう。それをありがたく頼もしく思いながら、アレクサンドルはそれでも声を低めた。
「クリャースタ様を攫ったミリアールトの元王族のことは知っていよう。その男も恐らくは戦場に現れる。――陛下の御目に留まる前に、必ず討ち取って欲しい」
「それは……」
ジュラは、途中まではレフを逃がせとでも言われると思っていたのかもしれない。険しく寄せられた眉が、次は困惑を示して少し下がり、最後まで聞き終えた時には戸惑ったような声が漏らされる。重ねて疑問が投げられる前に、アレクサンドルは強い口調で訴える。軍の先頭で、しかも明確な殺意を持ってレフを探す王に先んじるには、彼ひとりでは難しいだろう。シャスティエのためにも王のためにも、ジュラの協力はなんとしても取り付けなければならないのだ。
「クリャースタ様もその男の罪はよくご承知だ。もはや死をもって報いるほかに道はないことも。だが、だからといって肉親の死に全く心が動かないという訳ではないだろう」
「……だから、その者は陛下によって討たれてはならない、と……?」
「そうだ。今のおふたりが心を通わせていると、貴公にも見えるであろう? せっかく結ばれた絆が、再び断ち切られるようなことがあってはならぬ」
ジュラに語りかけながら、アレクサンドルの脳裏にシャスティエの声が蘇っていた。王との一夜を過ごした後の微笑みは穏やかで美しかったが、その幸せを信じられないとでもいうような戸惑いや――後ろめたさに似た思いも、確かに見えた。それにやはり、敵対する従弟のことがあの方の心を痛ませているのは明らかだった。
『レフのことで、お願いしたいことがあるのです』
記憶から聞こえる震える声を、アレクサンドルは必死で聞こえない振りをした。
『もしも、戦場で彼に会えたら。その、もしもの場合だけで良いのです。――伝えてください。私はイシュテン王を愛していると。肉親よりも、祖国の仇の方が大事になってしまったのだと。だから私のことなど見捨てるように。そんな女のために、彼が命を捨てることのないように。どうか伝えてくださいませ……!』
シャスティエだとて、レフがそのような言葉を受け入れるなどとは心から信じている訳ではないだろう。囚われている間、あの方が従弟の説得を試みなかったはずがない。ただ、イシュテン王を愛していると明言して突き放したことはなかったのだろう。だからこそ、最後の最後の試みとして、伝言という形ではあってもレフを諦めさせることができれば、と。一縷の望みをかけたということだと思う。
――だが、それすらも甘い……!
王の考えは、弱気ではあっても完全に間違っているという訳ではない。たとえ嘘を吐いている自覚はなくとも、責めない憎まないと述べているとしても、王がレフを殺した時、シャスティエが言葉通りに揺らぐことなく受け止めることができるとは思えなかった。
「クリャースタ様に憎まれる役を、陛下に代わって負うことになる、と……アンドラーシあたりならば、貧乏くじだと愚痴るのでしょうが」
「貴公も、そうか?」
とはいえアレクサンドルの心も完全な強さを持ち合わせている訳ではない。女王が彼を信じて託した最後の望みを、叶えようと足掻くこともなく握り潰そうとしている――その後ろめたさもまた、彼の心臓を締め上げて彼の寿命を削っていくようだった。
心にかかる重荷からくる余裕のなさに、ジュラに対しても詰め寄るような調子で問いかけてしまったのだが――相手は穏やかに、しかしきっぱりと否定した。
「いいえ。確かに心苦しくはありますが、クリャースタ様ならばいずれお分かりくださるでしょう。陛下との間柄が損なわれてはならぬとのお考え、全く同意いたします」
「そうか……!」
少なくとも、味方をひとり得ることができた――その喜びと安堵に表情を緩めると、今度はジュラの方から提案してきた。
「戦場は広いですからな。俺ひとりでは目が届かないかも……だから、信頼できる者にこの話を伝えても良いでしょうか」
「できるならば助かる。ただし、陛下には知られぬようにしなければならぬ」
シャスティエへの想いは別として、王はイシュテンを乱されたことへの報復としてもレフを自ら討ちたいと思っているようだった。そこへ水を差すような動きを、決して知られる訳にはいかないだろう。
「心得ております。伝える者は選んで、かつ他言しないように念を押しておきましょう」
主君の気性をよく知るであろうジュラも、多くを語らずとも分かってくれたようだった。寡黙で迂闊なことを口にしない性格であることも知っている。異国の者であるアレクサンドルよりも、こういう時に頼れる者にも心当たりがあることだろう。
だから、レフが戦場に姿を現したなら、四方から殺意を向けられる状況になることだろう。アレクサンドルの記憶にある青年は、シャスティエとも似通ったほっそりとした身体つきで、荒事はさほど得意ではなかったはず。そんな若者が怒りに燃えるイシュテンの剣や槍をどこまで捌くことができるのか。
――仕方ない……仕方ないことなのだが……。
自ら仕向けること、他に道がないと分かっていることではあっても、子供の頃からよく知る青年が血に塗れて斃れる姿を思うと、アレクサンドルの心臓はまた痛んで軋みを上げた。
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