第14話 去る者と戦いに赴く者 アンネミーケ
自室に戻ったアンネミーケは、やっと椅子に掛けると深く溜息を吐いた。
ブレンクラーレの軍が迫る中、実権はマクシミリアンに譲ったとはいえ、まだ彼女が心を配ることは多い。最終的な決裁こそ息子に委ねなければならないのだが、だからこそ将や官吏らとの間を取り持ってやらなければならないのだ。彼女自身の判断で即決してしまえればどんなに楽か、とも思うのだが――そのような考えこそが息子を巣の中の雛に留めていたのだとも、分かってきている。何より、政務の量だけ見れば彼女ひとりで全てを取り仕切っていた時よりも遥かに減っているのだ。この疲れは、マクシミリアンのやることなすことを一々叱らず見守りつつ、危急の判断を擁する件だけは見極めて急かさなければいけないという、どちらかといえば気疲れに属する類のものだ。
「寂しくなりますね、王妃陛下……」
「うむ。だが仕方あるまい」
侍女の淹れる茶は、かつてほどの濃さではなくなっている。強すぎる苦みで無理に頭を働かせ気を紛らわせる必要はなくなった、それも彼女の日々に起きた変化のひとつだった。
「レオンハルトは絶対に安全なところに逃がしておかなければならなかった……」
それどころか、アンネミーケは小さな菓子を出すように命じてさえいた。口の中で溶ける甘い砂糖の味は、孫を抱いた時に鼻をくすぐる乳の匂いを思い出させる。何も知らない赤子がはしゃぐ様子を思い描けばあらゆる疲れも吹き飛ぶというものだった。
――そう、仕方のないことだったのだ……。
今日の務めは、判断の難しさという点では全く簡単なものだった。即ち、レオンハルトとギーゼラを王都から逃がすという、誰もが必要であると瞬時に判じることができるものだったからだ。マクシミリアンが戦場に出る以上、ブレンクラーレ王家の血筋を絶やしてはならない以上、一瞬の躊躇いさえ許されないことだっただろう。
だから官吏たちもすぐに安全と思われる城塞とそこまでの経路、警備に要する兵や幼い王子の生活に必要な物資や人員の計画を立てて提出してきた。一番手間取ったのは、息子との別れを惜しむマクシミリアンの手から、赤子を取り上げることだったかもしれない。
『ただでさえ毎日会えるという訳ではなかったのに。きっと忘れられてしまいますね……』
『レオンハルトが覚えてくれているうちに再び会えるかどうかはそなたの手腕次第であろう。泣き言の前に為すべきことを為すが良い』
人見知りをしないレオンハルトは、久しぶりに父親に抱かれても機嫌よく笑っていた。というか、そのためにこそマクシミリアンは我が子を手放しがたく思っていたようだが。アンネミーケとしては、孫と再会したいという一念が息子を戦場から無事に帰してくれることを願うしかない。
湿っぽい一幕があったとはいえ、マクシミリアンも息子を危険に晒したいとは思っていないから、こちらの別れは比較的滑らかに進んだ。慣れ親しんだ乳母や侍女や召使たちに囲まれて、レオンハルトは生まれて初めて
まだ言葉を解さない赤子に比べて、その母であるギーゼラを送り出すのはより難しくややこしく、よりアンネミーケたちの気力を消耗させた。
『レオは? どうして息子と一緒ではないのですか?』
王宮から離れるように命じられた際は大人しく従う素振りを見せていたギーゼラだったのだが、息子が連れて来られる気配がないのに気づくと、ひどく心外そうに声を上げたのだ。
『……レオは、貴女とは別の場所に送ることになった。今の貴女では、子供の世話は荷が重いだろうから』
『そんなことはありません! 私はあの子の母親なのですよ!? どうして引き離すようなことをするの!? 何てひどいことを……!』
夫として妻を気遣い言葉を選んだマクシミリアンに、ギーゼラは詰め寄って語調も激しく罵った。拳を固めて、マクシミリアンの胸を叩きさえする暴挙に、控える者たちも対応に困って目を泳がせて。妃とはいえ、どう見ても王太子を害するには及ばない非力な拳とはいえ、信じがたい不敬であり無礼であることは紛うことなき事実――とはいえ明らかに心の均衡を乱した者に対しては兵も矛先が鈍るものだし、当のマクシミリアンも困ったような笑顔でギーゼラを見下ろすだけだったのだ。
マクシミリアンは、多分ギーゼラの乱心を自分のせいだと考えているのだろう。だからせめてもの償いに、黙って打たれるに任せているのだ。ギーゼラのしでかしたことを思えば過ぎた寛容にも思えるし、それほどの気遣いを、ここまで夫婦の仲が拗れる前に見せていれば、とも思う。
ただ、とにかく言えるのは、ギーゼラの振る舞いは大国の王太子妃としては全く相応しくないということだ。
――なぜ、と聞くのか。そなたがあのようなことをしたから、であろうに……。
レオンハルトを王宮から落としたのは、当然のことながら王都を襲うかもしれない難から逃れさせるためだ。反面、その母であり王太子妃であるギーゼラについて言えば、また面倒なことを起こされては厄介だから隔離しておこう、というくらいの意味合いがある。言ってしまえば、ミリアールトの姫――あるいはイシュテン王の側妃、今回の戦いで交渉の札になり得る大事な人質――を勝手に逃がしたことへの罰であり、事実上の軟禁だ。ギーゼラが鷲の巣城に戻ることは恐らくないし、レオンハルトとも――未来永劫、とは言わずとも――この先会うことができる機会はごく限られるだろう。
『そなたの夫はこの国を守るために戦いに出る。レオンハルトがいずれ継ぐ国でもある――妻としてとは言わぬが、せめて未来の王の母としてかける言葉はないのか?』
ギーゼラに言いたいことは山ほどある一方で、彼女自身にも非があったことの自覚はあった。ミリアールトの公子のこと、孫のレオンハルトのこと――対応次第でギーゼラの態度も変わっていただろうと、今なら分かる。だからアンネミーケは非難の言葉を呑み込んで、努めて穏当に指摘したつもりだった。マクシミリアンとギーゼラとの間に夫婦らしい情が芽生えることはもう望めないだろう。マクシミリアンがどう思いどう願ったとしても、ギーゼラが受け入れるはずがない。
だが、それでもアンネミーケは息子が可愛いのだ。生きて帰って欲しいのだ。だから、少しでもマクシミリアンを奮い立たせるような言葉を聞かせてくれたら、と思ったのだが――
『あら。王妃陛下がそれを仰るのですか? この国にイシュテンの兵を招いたのは、他ならぬ貴女様だと思ったのですけれど!』
ギーゼラは驚いたように目を瞠り、次いで鋭くアンネミーケを睨んで来た。その視線に込められた悪意と憎しみの強く激しいこと、手強い官吏や諸侯や軍人たちとも渡り合ってきた摂政王妃をも怯ませるほどだった。否、ギーゼラの目が鋭いというよりは、アンネミーケの中にある後ろめたさがそうさせたのか。確かに彼女がしたことは、結果的にことごとく裏目に出てしまったのだが。
『……そうだ。
ギーゼラに対して自らの罪を認めると、その重さが心臓に圧し掛かるようだった。誰もが戦いに備えて忙しい中、この娘ほど直截に彼女を詰る者は、鷲の巣城の中にはとりあえずいない。だが、各人の内心のことまでは分からない。城の外に目を向ければ、多くの村や街がイシュテン軍によって焼かれ、多くの民が財や家族や命を失い、多くの将兵が戦場に送られることになった。ブレンクラーレを守るつもりで、アンネミーケがやったことの結果がそれだ。ギーゼラの罪などアンネミーケのそれに比べれば軽いものなのかもしれない。――それでも、仮にも王太子妃である女が取るものとして、ギーゼラの態度は信じがたいものだったのだ。
『そなたに命を投げ出せとは妾には言えない。だが――口にするのは息子のことばかりで良いのか? 戦いに赴く者たちは祖国のために妻や子と別れるのだ。レオンハルトのためでもあるというのに』
『ブレンクラーレの臣下がブレンクラーレの王子のために命を賭すのは当たり前のことではありませんか? それに――』
嫁を教育することができなかったのもまた、アンネミーケの咎なのだ。それもあって、ギーゼラが自らの評判を貶めるような言動を繰り返すのは耐えがたい。だが、この娘はあくまでも恨みに凝り固まっていた。夫への、義母への、それに周囲の全てへの。
『王太子妃をきちんと敬わなかった方々でしょう。どうして私ばかりに相応しく振る舞えと仰るのですか』
そこからもしばらく揉めたのだが、結局ギーゼラは宥めすかされて馬車へと乗せられた。だからそれが、息子の妻と交わした最後の言葉になるだろう。アンネミーケには徒労感ばかりが残ったし、マクシミリアンもさすがに落ち込んでいるようだった。母子ふたりして、身内に迎えたはずの女との心の距離を思い知らされて、その埋めがたい距離を広げてしまった経緯、見過ごし軽んじてきたギーゼラの心中に思いを馳せずにはいられなかったのだろう。
過去を振り返れば悔やむことは多い。しかし思い悩んだところでやり直すことはできないのもまた確か。だからアンネミーケは休息もそこそこに居室に客人を迎えていた。といっても彼女が招いたのではなく、相手の方から半ば押しかけてきたのだが。
「王太子妃が今朝がたこの城を去ったぞ。本人はそなたと言葉を交わしたかったかもしれないが……」
「王妃陛下はお赦しにならなかったでしょう。それにまた興奮されるのが目に見えている」
ギーゼラのことに触れても、ミリアールトの公子の美貌はそよ風が吹いたほどにも揺るがなかった。それどころか碧い宝石の目には迷惑げな色さえ浮かんでいて――ギーゼラの思慕を苦々しく思っていた身としては勝手なものだが――冷たいとさえ思ってしまう。あの娘があれほどに常軌を逸した言動を見せたのも、この美青年が半端に手を差し伸べた上で突き放したからだろうに。
――己に非はないとでも言いたげな……それは、ギーゼラについてはそうかもしれないが。
この公子もまた、アンネミーケの過ちの象徴のようなものだ。思いがけず得難い駒が転がり込んできたかと思えば、彼女の期待を裏切る行動を何度もしでかしてくれた。それでもなお斬り捨てることはできなくて、むしろ陰謀を盾に脅されさえして、そうして今に至ってしまったのだ。
だから、この青年と対峙するとアンネミーケの口内には苦いものが満ちる気がする。とはいえ目を背けることができないのも、ギーゼラの時と似ているのだが。
何度見ても妙な苛立ちを覚える、ひたすら整った麗貌を睨みながら、溜息交じりに溢す。
「……何の用で参られた? 生憎と公子の無事を心から願う気にはなれないし、妾の激励など望まれないのであろうが」
イシュテンとの決戦には、公子も出陣するのだという。姫君を攫ったことで直接的に外患を招いたと見える彼がひとり安穏とするのを、ブレンクラーレの臣下たちは許さないだろう。そしてそれ以上に、愛する姫を――心の上でも肉体の上でも――奪ったイシュテン王を、この青年は許す気がないらしい。
とはいえアンネミーケにとって、公子の遺恨はもはやどこか遠いことのように思える。かつては焚き付けて利用してやろうと考えを巡らせたこともあったが、そのように策を弄したことで自らの首を絞めていったようなものだと思うと、もはや自らの才覚とやらに自信を持つことは難しいのだ。
「イシュテンとの戦いに当たって、考えていることがありまして。王妃陛下に、念のためお赦しをいただいておこうかと」
「公子が今さら妾に何の遠慮をなさるというのか」
「それは、陛下の名誉に大きく関わることですから」
「ほう?」
公子としても、常に何よりも優先したのは従姉の美しい姫ただひとりのはず。ブレンクラーレでさえ、彼の愚直な想いの前には単なる駒にすぎなかったのだ。
――何度となく勝手な真似をした癖に。
アンネミーケが滲ませた棘や皮肉に気づいていないはずもなかったが、公子はただ艶然と微笑んで見せただけだった。実際、整った唇はごく滑らかに動いて彼の提案とやらを紡ぎ出す。
「ティグリス王子の件――シャルバールの
「何を……」
今さら何を言われても動じるまいと思っていたのだが――思わず言葉を失ってしまい、アンネミーケは悔しさに唇を噛んだ。息子と同じ年頃の若造に意表を突かれ、しかもその様を嗤われるなど屈辱でしかない。
それも、公子が言い出したのは確かにアンネミーケの声望を今以上に損なうものだった。ミリアールトの王女を庇護したのではなく、イシュテンの側妃を誘拐したのだということはもはや誤魔化しようもない。だが、イシュテン王が流した噂のうち、少なくともかの国の内乱についての部分は彼女は公には認めていない。ブレンクラーレの臣下でさえも、内心では恐らくは事実と信じているのかもしれないけれど。でも、彼女自身が事実であると明言するのはまた別の話、もっとずっと重大かつ恥ずべきこと。ブレンクラーレの王妃たる者が卑劣な企みに手を染めていたと、他国にも後世の者にも喧伝することになってしまう。
何を考えている、と。言葉にはできずとも全身で伝えていたのだろう。公子は軽く微笑むとさらに続けた。
「無論、意味もなくやろうとしている訳ではない。あの罠に対するイシュテンの怒りは相当なもののはず。攻撃が僕に集中すれば敵の足並みは乱れるだろうし――王太子殿下を狙う剣は、減るかもしれない」
――この男、やはり悪辣だな。
ひと際低く囁かれた最後の言葉は、どのような矢よりも正確にアンネミーケの胸を貫いた。彼女の為したことは全て息子のため、マクシミリアンのためなら何でもしてしまうと、見抜かれているのだ。
「そして、公子はイシュテン王と剣を交える機会を得る、か……。そうして姫君を悲しませるというのだな」
「イシュテン王を討ちとることができれば良し――たとえ無理でも、シャスティエはまたあの男を憎むことができるだろう」
精一杯の反撃として皮肉ってみても、公子の艶やかな微笑みは崩れなかった。彼女の表情から、許しはもう得たものと理解したということだろう。――あるいは、そもそも彼女の許しなど必要としていなかったのかもしれないが。
だが、そのようなことはどうでも良い。息子が生還する可能性を少しでも上げることができるなら、母の名誉など何ほどのものでもないではないか。
「良いだろう。そもそも妾が仕組んだことに間違いはなし――此度の争乱の責は全て妾のもの。シャルバールでの非道の汚名、後の世までも語り継がせてやろうではないか」
「見事な御覚悟です。王妃陛下の御心に報いるためにも、微力を尽くして戦いましょう」
恭しく頭を垂れて跪いて見せた公子の仕草は、やはりわざとらしく優雅過ぎて、癇に障るものとしか思えなかった。だが、そのように感じることは多分間違っている。
この青年も、命を賭して戦場に赴こうとしているのだから。後に残るだけの者が、死を覚悟して戦う者に不快を感じて良いはずがない。
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