第10話 最後の願い シャスティエ

 眠れるとは思っていなかったが、王の寝息を聞いているうちにやがてまどろんでいたらしい。夜明け近くなって、兵がざわめき始める気配にシャスティエは目を覚ました。

 侍女や召使いがひとりもいないのはさすがに初めてで、身支度には苦労させられた。背中など見えないところ手が届かないところをどうにかしようとしてもがくのを見かねた王が、手伝ってくれたのも申し訳なかった。

 それでも何とか人前に出られる身なりを整えて、シャスティエは数人の客を迎えることになった。王のものとはいえ天幕は狭すぎるし、何より昨夜王と過ごした寝台がすぐ傍にあるのは落ち着かないから、昨晩同様、戸外で対面することになる。冬の夜明け直後の空気は凛として冴えて、ゆうべからの甘い気だるさを拭ってくれる。空と草原と共にあるイシュテンの倣いも、決して野蛮なだけではないのだろう。


 そうしてまず会ったのはジョフィアの父親――フェリツィアの乳母の夫だ。当然のことながら戦場に赤子は連れていけないから、シャスティエが改めて預かることを申し出たのだ。


「クリャースタ様の御手をまた煩わせてしまうことになりますが……」

「お気になさらないで。フェリツィアの乳姉妹なのだから私にとっても娘のようなものですもの」


 黒松館にいた頃から乳母に抱かせてもらっているし、何より旅路の間ジョフィアの世話をしていたのはシャスティエだ。だから赤子もすっかり彼女に懐いていて、父親から受け取った瞬間には可愛らしい歓声を上げてくれた。


「赤ちゃんとはいえ女の子ですから。珠の肌を殿方には見せないようにしなくては」


 恐縮する父親に対して、シャスティエは冗談めかして笑ってみせた。お湯を沸かしたり食事を作ったりは従者に命じることもできるだろうが、彼女ひとりで赤子の世話をするのは難事であるとは分かっている。でも、何もしないで夫の帰りを――戦いの帰結を待つだけの時間には耐えられそうにない。赤子の世話に忙殺されるのは、彼女にとってはきっと救いですらあるのだろう。


「……フェリツィアも、同じくらいに育っているのだろうと思うのです。実の娘にはしてあげられない分、心を込めてお世話します」

「まことにありがたいお言葉と存じます。――ジョフィア、クリャースタ様をお慰めして良い子にしているのだぞ」


 父親にはシャスティエの内心を完全に推し量ることはできないだろうし、娘を他人の――それも、主君の妃の――手に預けるのを心から歓迎できるはずもない。それでも彼はシャスティエの言い分というか建前を認めてくれた。彼女の腕の中で機嫌よく笑っているジョフィアが、父親にとって戦いから生きて戻るためのしるべになることを、シャスティエとしては願うばかりだ。




 ジョフィアの父親が恐縮しながら辞して、赤子を天幕の中に寝かせたところで現れたのは、グニェーフ伯だった。


「クリャースタ様……よくぞ、ご無事で……!」


 氷を思わせる薄青の瞳が涙で緩んでいるのを目の当たりにして、シャスティエの胸にもまた熱いものがこみ上げ、かける声は震えた。


「小父様も。昨晩はお姿が見えなかったので心配いたしました」

「は。すぐにも御前に参じたかったのですが――その、御名のことで余計な疑いを招いては、と思いましたので。不忠を、どうかお許しくださいますように……!」


 差し伸べた手が握られるその強さに、伯爵がどれほど案じてくれていたのかが伝わってくる。昨晩ジョフィアの父親がしていたのと同様、顔を伏せているのは涙を隠すためだろうというのも察せられた。


「事情は伺いました。私と話すことで疑いを招くことを恐れられたのは分かります。ですからそのように畏まらないでくださいませ」

「は……」


 伯爵の手を引くようにして立ってもらうと、身長ではシャスティエを上回る方が、どこか身体を縮めるようにして彼女の顔を窺ってくる。無理なことのはずなのに、上目遣いで見上げられているような気がするほど。シャスティエに傷がないのを確かめるように、頭の天辺から衣装の裾までをじっくりと眺め――でも、この方が最も確かめたいのは、身体の無事のことではないのだろう。グニェーフ伯の表情が完全に晴れることはなかった。


「王とは、話されましたか……?」

「はい」


 おずおずと尋ねられたのに対して、しっかりと頷く。伯爵が何を恐れて何を期待しているのか、シャスティエの心変わりをどう受け止めるのかはまだ分からなかったけど。それでも、この方には全てを打ち明けなければならないと思えた。王もその従者たちも間近で彼女たちのやり取りを見てはいるけれど、彼らにはミリアールト語を理解することはできないから。婚家名の意味を暴かれた後でなお、夫たちには分からない言葉で語らうのは後ろめたいことではあるけれど。でも、伯爵の不安を解くことは、何よりも必要だろうと思えた。


「私の、婚家名について――臣下の方々にはどう説明されたのかを伺いました。本当の意味はとうにご存知だったことも、その上で私のために計らってくださっていたことも。――小父様には、とてもお辛い思いをさせてしまったと思います」


 ミリアールトでのことも聞いたと仄めかすと、グニェーフ伯の眉がますます寄せられて肩は萎んだ。祖国で憎まれる役はさぞ辛かっただろうに、彼女に対してまでも罪悪感を負わせてしまっていたのだろう。女王に知らせず祖国を苦しめたと――やはりシャスティエは何も知らず見えていなかったのだと、またひとつ思い知らされる。


「そのような……。むしろ、女王陛下に何も知らせぬままであったことこそが――」

「いえ。全ては私が招いたことですから。小父様のご心痛も、祖国の屈辱も、私のせいです。――でも、その上で、王の言葉は嬉しかった。私が戻る場所を作ろうとしてくれたことも。だから、このようなことが許されるかは分からないのですが――」


 シャスティエが言い淀むのを、グニェーフ伯は辛抱強く見守ってくれた。氷のような色の目に宿る想いは温かく、口に出すのも怖いような大それた願いを、はっきりと声に出すための勇気をくれる。


「王がイシュテンの臣下に述べたことを、真実にしたいと思っています。私の復讐は、ミリアールトのためだけでなくイシュテンの――私の、夫のために。私が夫と共にある限り、ミリアールトとイシュテンは共に歩めるように……!」


 シャスティエが必死に舌を動かすうちに、グニェーフ伯の表情は安堵したように緩んでいた。言い切った時には、先ほどまでとは一転して、微笑んでさえいた。許されたと思って良いのかどうか――その表情を見てなお悩んでいると、伯爵はシャスティエの手をそっと包み込んだ。


「臣もそのお考えに賛成いたします。クリャースタ様を救い出すために王がどれだけ心を砕いたか……! そもそもフェリツィア様がお生まれになった後で、どれだけ貴女様を見る目が変わっていたことか……!」

「そう、なのですか……?」


 戸惑って視線を彷徨わせると、王と目が合った。異国の言葉でのやり取りを不審に思っても良いだろうに、シャスティエの方を見て軽く微笑んでくれる。理解できてはいないはずの伯爵の言葉に頷いたかのようで、シャスティエは頬が熱くなるのを感じた。それを見て、グニェーフ伯は一層目元を緩ませる。


「は。まことに僭越な考えとは存じますが、王にならば我が主を任せても良いとさえ考えるようになりました。此度の遠征も御身を救い出すためとなれば、ミリアールトの感情も和らぎましょう」

「そうでしょうか……」

「そうですとも」


 グニェーフ伯がまた大きく頷いて、シャスティエの不安を少しずつ溶かしてくれる。仇を許し、その男と共に歩むのは決して間違いではないと――もちろん、ミリアールトの民の全てが同じように思ってくれるはずもないけれど。でも、ひとりでも彼女の想いを理解してくれる人がいるという事実だけでも、シャスティエの心の重荷を取り除いてくれる。


「臣が生きて戻れましたら、またミリアールトに赴きましょう。王がどのように女王のために戦ったのか、この口で語って聞かせたいと存じます」

「それは……とても嬉しいお言葉ですわ」


 信じがたいほどの幸運に恵まれた思いで、呆然と呟いて――また、我が身のことばかりになっていたことに気付く。王も伯爵も、これから戦いに赴くというのに。年老いた伯爵にまた祖国への長旅をさせることも当然と考えてはならないけれど、まず再び会うことができるかどうかも分からないのに。


「もしも、のことなど口にしないでくださいませ。小父様はもちろん――王にも、無事に戻って欲しいと思っておりますの。まだ、話さなければいけないことが多すぎて……」


 慌てて――取り繕うようになってしまったけど――言葉を紡げば、グニェーフ伯は全て分かっている、とでも言うかのように微笑んでシャスティエを押し止める素振りをした。


「そのようになさるのが良いと存じます。王もクリャースタ様も、夫婦でありながら今まであまりに語り合って来なかったと見受けられますからな。御心にあることを、全て打ち明けなさいませ。王ならばきっと、怒るようなことはございませんでしょう」


 グニェーフ伯はちらりと王に視線を向けた。その悪戯っぽい目の意味を量りかねたのか、王は軽く首を傾げる素振りを見せた。――でも、やはり会話の内容を疑っているようではなくて。それが、伯爵の言い分を裏付けてくれてくれるようで――シャスティエもやっと微笑むことができる。


「はい。ありがとうございます。でも、無事に帰っていただきたいのは小父様も、ということを忘れないでくださいませ。……本当は、もう誰も傷つくことさえして欲しくはないのですけれど」


 傷ついて欲しくない――その言葉の裏を返せば、傷つき命を落とす者が必ずいるということだ。王もグニェーフ伯も、ジュラも、ジョフィアの父親も。絶対に生きて帰って欲しい。祈り待つしかできない身がもどかしくてならないし、シャスティエの言葉で彼らの戦意を高めることができるなら、そのような言葉を教えて欲しいものだと思う。


 でも、を案じる想いは口に出すことができるから、まだ良い。今のシャスティエの心に何よりも重く圧し掛かっているのは、斃されるべきのこと。――そうであると、よく理解していながらそれでも命を惜しんでしまう肉親のことだ。


「……ずっと、レフと一緒でした。話をすれば分かってくれるかもしれないと願っておりましたが、旅の間も鷲の巣城アードラースホルストに着いた後も、ついに叶いませんでした……!」


 レフの名を口にした瞬間、グニェーフ伯の眉がまた曇った。


「シャスティエ様。――クリャースタ様。あの者のことは、もう――」

「分かっています。彼がもたらした被害はあまりに大きい。許されることはないでしょうし、私も王に命乞いする言葉を持ちません」


 王に不審を覚えさせることがないよう、口元だけは微笑みを保とうとして、でも成功したかは分からない。グニェーフ伯の口調も、強張ったものに転じてしまった。シャスティエの方だって、声は震えてしまっているのだ。昨晩覚悟したこととはいえ、レフを見捨てるということを言葉にするのは、彼女の心の一部分を無理に切り離すようなものだった。叔父と従兄たちによって生かされておきながら、彼らも愛した末の子の想いを、シャスティエは踏み躙ることしかできない。自身の非情さと勝手さが、彼女自身を苦しめる。続けて口にするのは祖国と、彼女のために命を投げ出した叔父たちへの裏切りとしか思えないことだからなお更だ。


「だから――もしも王が彼を殺したとしても、私は王を責めることはできません。憎むこともない――、と思います。でも……」


 肉親よりも、彼らを殺した男に心を傾けてしまう。しかもそれをはっきりと述べてしまう浅ましさ。同時に、夫に対しては理解できない異国の言葉で聞かれたくない話をしている。こちらもまた、不実としか言えないだろう。自分の愚かさを思い知らされてばかりだというのに、また愚行を重ねてしまうなんて。――でも、これで最後のはずだ。夫への隠し事はこれで最後。戦いの結果、何が起きたとしても王と共に生きていく。その決意は変わらない。ただ、ひとつだけ――ほぼ確実に叶わないと分かっていても、足掻きたいのだ。


「レフのことで、お願いしたいことがあるのです。――聞いて、くださいますか……?」


 恐る恐る口に出しながら、目で王の方をまた窺う。青灰の目はシャスティエを見て柔らかく微笑んでいて――なのに鋭く彼女の胸を貫いた。

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