第11話 慣れない場所で、慣れない人と ウィルヘルミナ
幾つになっても、見知らぬ人と話す時はウィルヘルミナは少々構えてしまうものだった。王妃としてそのような場に居合わせなければならない機会は珍しいものではなかったけれど、これまでは父か夫が傍にいてくれた。彼らの表情を見ていればどのように振る舞うべきかは分かったし、彼女の気が利かない場合でも、それとなく言うべきことを仄めかしてくれた。だから彼女もどうにか体面を保つことができていたのだ。
必ずしもそのようにはっきりと認識していた訳ではないけれど、今になってみれば自身が人付き合いが必ずしも得意でないのを思い知らされてしまう。――このように、初めて会う女ばかりと顔を合わせる席に着いていると。
「王妃様のお言葉をいただくことができるなんて、大変光栄ですわ……」
でも、怖気づいてばかりはいられないだろう。だって、ウィルヘルミナを前にした女たちこそ戸惑ったような引き攣った笑顔を浮かべている。グルーシャが采配して並べさせた菓子も茶も、手が付けられていないままだ。もちろん、身分の高い女が人前でものを貪るようなことがあってはならないのだけど。でも、礼儀として口をつけることさえしていないのは、女たちの緊張を如実に示しているようだった。
――この方たちの方が、不安……なのよね……。
彼女たちは、父とは縁の遠い家の妻や娘たちなのだという。だから当然のようにこれまで言葉を交わすことはなかった者たちだ。つい最近まで父の家の傘下にあったバラージュ家とも、さほど親しい関係ではなかったはず。にもかかわらず彼女たちがこのバラージュ家を訪ねているのは、ひとえに自身の身内のため、今後の身の振り方の参考にできる情報を得るためだ。
『ティゼンハロム侯爵が仰るように、夫が王妃様を攫ったのか。それとも王妃様ご自身のご意思によることなのか、皆、知りたがっているのですわ』
この会が始まる前に、グルーシャ――アンドラーシの妻の――が教えてくれた。だから、ウィルヘルミナ自身の言葉で父より夫を選んだという決意を伝えて欲しい、とも言われた。そうすれば、迷っている諸侯も
「私も、皆様と仲良くなれるのはとても嬉しいですわ」
「まあ、王妃様」
「そのようなこと……」
不安な内心を隠して微笑むと、客の女たちの空気は明らかに緩んだ。たったひと言でこうも反応が変わるとは、ウィルヘルミナは一体どんな女だと思われていたのだろう。――それとも、父がそれだけ恐れられていたということなのだろうか。
「……これまで、お付き合いしてきた方々がとても限られていたことに気付きましたの。イシュテンに恃むべき家々はとても多いのですもの、この機会に、お友達を増やしたくなったのです」
ウィルヘルミナにとっては厳しくも優しい父だったけれど、他の者にとってはどう見えていたのか――それを思うと、胸が苦しくなったけれど。イシュテンの王妃として、実家に連なる者とばかり親しくしていたのも、彼女の愚かさの証拠のひとつなのだろうけど。でも、今はこれが夫のためになると信じるしかない。それに、父をはっきりと糾弾するよりも――たとえ結局はそうなるとしても、気疲れは免れないとしても――新たに交流の輪を広げることのほうがまだしも罪悪感は薄くて済む。
『父君様を悪く言うのはお辛いでしょうから。でしたら、ご無理はなさらずに……』
そう勧めてくれたグルーシャには感謝の念しかない。夫のアンドラーシの方は、ウィルヘルミナが父を声高に罵ることを期待していた風ですらあったのに。父から離れる選択をしてなお、煮え切ることができない自身を、彼女が一番恥じているのだ。ならばせめて、女だけの席ではしっかりと役目をこなさなくては。訪れた女たちが家に戻った時に、王に――夫に利するように語ってもらえるようにしなくては。
「この機会に、と仰いますと……?」
「王宮を離れられたことについて、でしょうか」
「こちらにはいつまでいらっしゃるのですか?」
懸命に浮かべた微笑みの甲斐あってか、女たちも次第に自分から口を開いてくれるようになった。やはり、それだけ彼女たちも知りたいことが多いのだろう。父とは決別したのか、アンドラーシに攫われたのではないのか――直截に訊きたくとも訊けない不安や遠慮もまた、この女たちとウィルヘルミナに相通じるものなのかもしれない。
「夫が帰るまでこちらにお邪魔させていただくつもりです」
自身や夫の立場をいかに守るか、いかに立ち回るか――悩んでいるに違いない女たちを安心させようと、ウィルヘルミナは努めて朗らかに宣言して見せた。まるで何も気に懸かることなどないかのように。ごく当たり前のことを言っているだけであるかのように。
「だって、ブレンクラーレの様子を聞くならアンドラーシ様から、ということになりますでしょう? それなら王宮で待っているより
「フェリツィア様が……?」
「ええ」
王妃が生んだのではない、側妃腹の王女の名前を口にすると、客の女のひとりが首を傾げた。王妃がその名を口にするのが信じがたいとでも言うかのように、軽く目を瞠ってさえいる。
――私はフェリツィア様のことを嫌いだとでも思っているのね……。
父が生まれてもいないフェリツィア王女を亡き者にしようとしたことは、世間には知られているのだろうか。ウィルヘルミナも父を唆したと信じられているのだろうか。恐らくは実際に行動したらしいエルジェーベトは恥じる様子もなくウィルヘルミナのためだと言い切っていたけれど。
自身に向けられる目のこと、それにエルジェーベトは父のもとで何をして何を考えているか――それを思うと、胸がじわじわと締め付けられるように痛んだ。
でも、もちろん内心の想いを表情に見せることはできない。彼女の表情が翳れば、目の前の女たちはシャスティエやフェリツィア王女への悪意が理由と捉えるだろうから。だから、あくまでも明るく、何の心配もないかのように。どうせ王妃は何も考えていないのだと多くの人々からは思われていたのだろうから、これまで通りに振る舞えば良いだけのこと。ウィルヘルミナの本心がどこにあるのか、自身の行動がどこまで影響を及ぼすかの認識があるかどうかまでは、この人たちも探ろうとはしないだろう。ただ、形式として王妃は王について、側妃やその子も受け入れている――と、そのように見えるようにすることが大事なのだ。
「ファルカス様が戻られる時にはシャスティエ様――クリャースタ様がご一緒のはず。それなら真っ先にフェリツィア様にお会いしたいに違いないですもの。それなら私もこちらにいれば、夫にすぐに会うことができます」
愚かな王妃と思われても別に良いのだ。女たちがウィルヘルミナを見る目に哀れみが混ざった気がして、それにも胸を刺されるけど、この人たちは全てを知っている訳ではないのだから。夫を他の女に奪われながら、それに気づいていないおめでたい女――でも、夫は彼女のことも妻として扱ってくれると言っていたのだ。
それに、シャスティエへの感情も、多分誰も信じてくれないだろう。ウィルヘルミナは本当に側妃を――シャスティエを好きだということ。無事に帰ってきて欲しいと願っていること。シャスティエの、まだ生まれていない御子だってそうだ。夫に世継ぎを与えるのが自分でなかったことは辛く悲しいことだけど、シャスティエへの妬みが全くないとは言わないけれど、そのことは必ずしも相手の不幸を望むことには繋がらない。
――だって、シャスティエ様のせいではないもの。
父やエルジェーベトは、シャスティエが現れたことが悪いことのように語る。でも、それは違う、と、ウィルヘルミナでさえ思うのだ。父と夫の不仲、王子がいない王の不安定さはシャスティエとは関わりなく常にあった問題だった。むしろシャスティエと出会ったことで、ウィルヘルミナは問題があることを知り、自らの頭で考えることを始めたのだ。それは、決して楽しいだけのことではなかったけど――こうなってからの方が、ちゃんと夫を愛せていると感じている。たとえ悩みはなくとも、何も知らず何も考えていなかった日々は、やはりちゃんと生きているとはいえなかったと思う。
「王妃様は――側妃様と、仲がよろしくていらっしゃるのでしょうか……?」
「ええ。大事なお友達と思っています」
だから、恐る恐るといった表情で探るように問いかけてきた女に、ウィルヘルミナは躊躇うことなく頷いた。当のシャスティエが、ティゼンハロム侯爵家に縁の女たちの前でどのように振る舞っていたかを思い出して、あの凛とした方に倣って、自信に溢れて見えるようにと願いながら。
――シャスティエ様は、やっぱりすごいわ……。
ウィルヘルミナは、グルーシャが隣で見守っていてくれるのが分かっていてさえ、笑顔を保つのが難しいと感じてしまっている。イシュテンに来たばかりの頃のシャスティエは、慣れない異国の言葉で見知らぬ者たちと堂々と言葉を交わしていた。あの頃は美しいだけでなく聡明な方だと感嘆するばかりだったけど――今思えば、シャスティエもきっと不安だっただろうに。ウィルヘルミナは、あの方の支えや慰めになれていたのかどうか。無神経な言動で、あの方を傷つけてはいなかったか。自信がないからこそ、今は夫だけでなくシャスティエの帰る場所を守らなければならない、と思う。
「私どもは、側妃様ともご縁がなくて――とても、美しい方とは伺っておりますが」
「ミリアールトの方だから金糸のような髪と宝石のような瞳がとても素敵なの。旦那様たちの方がご存知かもしれませんね」
「はい。ミリアールトの乱の時、広間に現れた時のお姿は素晴らしかったと……」
「でしょう! 雪の女王に喩えられるのも当然と、すぐに分かると思いますわ」
シャスティエの容姿を美しいと思っているのは紛れもない真実だから、ウィルヘルミナは演技ではなく微笑むことができた。言葉に力が入るのも、きっとはっきりと分かったことだろう。言葉では当たり障りのない受け答えをしながら、客の女たちはウィルヘルミナの答えを吟味するように視線を交わし合っている。父の言い分、アンドラーシの主張、そしてウィルヘルミナから直接聞いたこと。真実はどこにあるか、分かってくれただろうか。謀に長けて、目的のためには手段を択ばない父は、今回のことをどのように語っているのだろう。
――私は、ファルカス様とシャスティエ様の味方なの。お父様とは違う考えなの。
ほとんど生まれて初めて、ウィルヘルミナは父に背いて自らの意思で行動したのだ。そのことを、なかったことにしてほしくない。彼女の意思に反して拉致されたのではないと、この場で示したかった。無理矢理に攫われた者がこんな笑顔を見せるはずがないと、信じてもらわなくては。――そうすれば、父の言い分に理がないということにもなるはず。父を声高に糾弾できないのは彼女の弱さだけど。ここだけは、譲れない。
鎧を纏うような気持ちで笑顔を纏っていると、女たちの空気も和らいできたようだった。最初のように警戒も露な態度ではなくて、もう少し砕けて、冗談めかした口調にもなってくれる。 茶器を持ち上げる者も現われて、かちゃかちゃという程よい雑音が会話を弾ませてくれるよう。
「――では、マリカ様もフェリツィア様とさぞ仲良くしていらっしゃるのでしょうね」
「赤ちゃんはとても可愛いものですもの。まして、やっとできた妹君ともなれば」
――だから、客のひとりが切り出したのも、他の者がそれに乗ったのも、打ち解けてくれた証と捉えて良いはずだった。いずれも子のいる女たちだから、赤子の愛らしさ、きょうだい同士で戯れる様子の微笑ましさを、実感を込めて語ってくれているのだと。その美しくも平和な光景をウィルヘルミナも夢見ることができたらどんなにか良いだろう。
「え……ええ」
でも、実際には彼女は危うく表情を引き攣らせてしまうところだった。卓の下、客には気づかれないようにグルーシャがそっと手を握ってくれて、どうにか堪えることができた――はず、だけど。ウィルヘルミナの心はもう、冷たく凍り付いてしまった。
「そうなの……きっと、姉妹で仲良くしてくれるはずですわ……」
それでも微笑みながら嘘を吐くことができたのは、成長できたと思って良いだろうか。マリカとフェリツィア王女が手を取り合う姿を見て目を細める――そんな日が来ることを、欠片も信じることはできないのに。
このバラージュ家で、マリカはフェリツィア王女にはまだ会っていない。人形でも欲しがるように妹を手元に置きたいと強請ったことだけでも警戒されて当然だけど、だから会せてもらえないということではなかった。――だからこそ、事態はもっとずっと悪いかもしれない。
今のマリカは、周囲の全てに対して心を閉ざしてしまっている。
突然見知らぬ者ばかりの屋敷に連れてこられたこと。そこでは、彼女の妹だという赤子が誰よりも大事に傅かれていること。誰もが祖父のことを冷ややかな声で語る――時にははっきりと罵りさえすること。そのいずれも、幼いマリカには耐えがたいのだ。
母であるウィルヘルミナでさえも、娘の心を和らげることができないのが悲しかった。アンドラーシに助けを求めたあの日、暗く寒い夜明けの庭園に追い出されたのはこの屋敷に連れ出すため。賊だと思わされて恐れた者たちも、実は
夫の面影を見て愛しく思っていた娘の意思の強さは、今の状況では彼女自身をも苛んでいる。寂しさや悔しさや憤りを誰にも――母や、ラヨシュにも――打ち明けることをせず、マリカは与えられた部屋に閉じこもっている。ウィルヘルミナが華やかな席で女たちとのお喋りに興じている間も、きっと。どうして娘に寄り添ってやらないのかと、心の片隅で自らを責める声がするけど。でも。
――いいえ、これは無駄なお喋りではないわ。ファルカス様のため――いずれは、マリカのためにもなるはずだもの……!
ウィルヘルミナのように、父の都合の良いように目も耳も塞がれて育って、もう遅すぎるという時に自身の愚かさに気付くような思いを娘には味わわせたくない。今は辛くても、マリカもいずれ分かってくれるはず。
「マリカと――フェリツィア様のためにも、今から一緒に過ごさせてもらうのは良いと思いましたの」
半ばは自分自身に言い聞かせるように、ウィルヘルミナはその場に集った女たちに微笑んで見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます