第9話 奇跡の夜 シャスティエ
その夜、シャスティエは王と同じ寝台で休むことになった。王の居所とはいえ、戦場において個人に与えられる空間は限られたもの。
「明日には出陣なさいますのに。私がいては邪魔でしょう……?」
だから、最初はどこか――具体的な案は彼女にもさっぱり浮かんでいなかったけれど――別の場所をもらおうと思っていたのだけど。王はシャスティエとは違う考えのようで、彼女の手を頑なに握ったまま真面目な顔で言うのだった。
「そんなことはない。妻に見送られて戦場に発つことができるなど、これ以上に奮い立つことはない」
そう言われても、彼女の夫が戦いを前に怯むことなどあり得ないのは分かり切っている。そもそもシャスティエのせいで既に時刻はかなり遅いはず。明日のことを考えるなら、しっかりと身体を休めて万全の体調で臨んで欲しいと思うのに。
「……その、戦場に女を伴うのは良くないものと聞きますが。軍紀の乱れというか、他の方々は妻子と遠く離れているのでしょうに」
「戦場まで妻を連れ回すなら愚王の
「そのような……」
蝋燭の灯はもう尽きかけて、大きく揺らめく炎が影を乱している。そんな頼りない灯りだから、顔が赤くなったのは見られていないはず――でも、気恥ずかしさと、そして後ろめたさにシャスティエは王に掴まれていない方の手で頬を包まずにはいられなかった。ここは戦場で、明日にはブレンクラーレの王都を目指して軍が動く。二度と愛する者と会うことができない者も出るのだろうに、夫の言葉に無邪気に喜んでいる場合ではないのだ。
でも、誰よりも自身を危険に晒さなければならないはずの王は、あくまでもシャスティエを抱き寄せて甘く囁くのだ。
「お前の寝床を分ければ、それでまた警備の者が必要になるのだ。このままここで休むのが一番早い。――俺が、守ってやるから」
警備の都合など、多分シャスティエを納得させるための方便に過ぎない。王の本音は、手を捕らえて離さない指先や耳元に囁いてくる唇の方が雄弁に語っている。イシュテンを率いる立場にあるはずの方が浮かれてさえ見えるのは、何と不埒なことだろう。
「はい。それでは、失礼いたします……」
でも、方便に騙された振りをしてしまう彼女の方こそ、よほど不埒で身勝手だ。戦いを前に夫とのひと時に溺れる――その罪深さに心を刺されながら、シャスティエは寝台に横たわった。
ミリアールトからイシュテンに連れ去られた時、ミリアールトの乱を収めるために一瞬だけ祖国の土を踏んだ時。それについ最近、レフに攫われてブレンクラーレを目指した時。シャスティエの人生で、旅路の不便さ不快さはもはや珍しいものではなくなってしまっている。
でも、この夜は今までの経験とは違って奇妙なほど安らかだった。他の人間と狭い寝台を分け合っているというのに、相手の――夫の近さ温もりこそが、愛しいのだ。
「お痩せに、なりましたか……?」
先ほど篝火の灯りで見た時から、王が窶れたようで気懸りだった。抱き寄せられて距離が縮んだのを幸いと頬に触れると、一日の後で伸びた髭がちくちくと指先を刺した。シャスティエの身体を受け止める胸板の厚さは変わっていない気もするけれど、敵国の只中を軍を率いて斬り進む道のりが簡単だったはずはない。
「王が戦場で肥え太る訳にはいかないからな。まあこんなものだろう。多分ミリアールトの時もそうだったぞ」
「そう、ですか……」
それは最初に祖国を滅ぼした時のことか、それともグニェーフ伯の乱の時のことか。とにかく、いずれの時もシャスティエは王の顔などまともに見ようとしなかったのだろう。それが、いつの間にか何と変わったことだろう。
感慨に耽っていると、王の腕がシャスティエを一層間近に引き寄せ、固い掌が膨らんだ腹を撫でた。
「――お前は変わっていなくて良かった。胎の子は――今度は、体調は大丈夫なのか?」
「はい。アンネミーケ王妃はこの子を利用しようとしていたようですから、衣食の不足はなくて――私ひとりだけ、お恥ずかしいことですが」
フェリツィアを懐妊していた時は
そう思うと、薄っすらと肉がつきさえしたのを知られたくないと思ってしまって、もがく。でも、王の腕はささやかな抵抗も許してくれなくて。軽く揉み合うようになると、寝具が乱れて足の先が夜の冷気に触れる――それも、すぐに王の足に絡め取られて温かい寝具の中に引き戻されたけど。仕方なく王の胸に頭を預けると、髪を梳かれる感触が蕩けそうなほど心地良い。
「大事な身体なのだから恥じることなどない。女狐にもその程度の情があったとは喜ぶべきかもしれぬな」
「……ありがとう、ございます……」
「フェリツィアのことも気になっているだろう。バラージュ家に任せているから安全だ。もうすぐ、会わせてやれる」
「フェリツィア。はい、きっと大きくなっていますね……」
娘のことに話が及ぶと、こみ上げる愛しさと成長を見守ってやれない寂しさに声が震えた。目の奥が熱くなって王の胸に顔を伏せようとすると、目尻に口づけが落とされて涙は溢れる前に拭われた。
――ああ、温かい……。
寝具に包まれた身体だけではなく、心も。
こうしているとまるで黒松館での日々のようだ。王もシャスティエも、そうすべきでないと承知していながら互いに離れることができなかった。臣下の不信を招いてでも、王はシャスティエを訪ねてくれたしシャスティエは王を引き留めてしまった。――でも、今の状況はあの時よりもずっと切迫している。夜明けが来れば王が発つのは同じでも、イシュテンの王宮に戻るのではなく戦場に向けて。それも相手は大国のブレンクラーレだ。
またこのように甘く満ち足りた時間を持つことができるのか――不安に駆られて、シャスティエは手を突っ張って王から身体を剥がした。寝具の隙間に冷気が入り込んで肌を粟立たせるけれど、心が感じる寒さに比べれば何ほどでもない。戦いがどのような結末を迎えるのかという不安と恐れに比べれば。
「あの……今回の遠征の決着は、どのようになさるおつもりですか……? ブレンクラーレの内部も、アンネミーケ王妃の陰謀を知って揺らいではいるのですが――だからといって、自国の王妃を言われるがままに引き渡すなどとは――」
「うむ。こちらとしても引き際を見極めねばと思っている。今の手勢と兵站では王都を落とすことなど無理な話だしな……」
王の身体が微かに強張ったのが、触れているところから感じられた。暗闇の中でのことだから表情こそ見えないが、青灰の目が鋭く光っているところはありありと思い描くことができる。甘い空気はやはり場違いなもの、決戦を控えた前線にいるということを思い出させられて身体の芯に寒気を覚える。
でも――
――前ならば、お前には関係ないとでも言っていたのでしょうね……。
シャスティエだけではなく、王も変わったのだ。女とは妻とは、愛玩するものではなくて、ただ心配いらないとだけ言い聞かせておけば良いものではなくて、不安を見せることもできるのだと、分かってくれたのだろうか。信じてくれていると、思って良いのだろうか。まず夫の無事と勝利を願うべきだろうに、まずは変化を喜んでしまう――これも、場違いで身勝手な想いだから胸が苦しくなるけれど。
シャスティエの無言をどう捉えたのか、王が軽く笑う気配がした。
「名のある将の首でも挙げられればこちらの将兵の溜飲も下がるだろうがな。後は、女狐の所業を盾に領土の幾らかでも割譲させれれば、というところか」
「はい……」
「いつものことだが無事で戻れるように全力を尽くす。お前を守れるよう、兵も多少は残しておく。待つだけは辛いだろうが――」
「ファルカス様」
王の声も髪を撫でる手も、あくまでも優しいのに耐えきれなくて、シャスティエは王にしがみついた。さっきは自ら突き放した癖に、そうしたいという衝動に逆らうことができなかった。
「ティゼンハロム侯爵のことを利用なさいませ。アンネミーケ王妃は侯爵とも通じていたのですから。どうせ心からの信頼がある同盟でもないでしょうし――ブレンクラーレを見逃す代わりに、侯爵が確かに関わっているとの言質を取るのです」
「シャスティエ……?」
王に名を呼ばれると心臓が跳ねるように高鳴った。婚家名で呼ばれないのを、ずっと不思議に思っていたけど。王が、
「陛下が――ファルカス様がしてくださったように、神の名に懸けて誓ってもらいましょう。異国の神とはいえ、それなら出まかせと断じることはできないでしょうし。王妃に汚名を着てもらうのも、意趣返しになるでしょうし」
「そうだな……」
「……申し訳ありません。差し出がましいことでしたが……」
王の戸惑ったような相槌に、シャスティエは早口になり過ぎていたことに気付いた。久しぶりに一緒にいることでの浮かれ、戦いを前にして夫と抱き合っていることへの後ろめたさ、明日への期待と――不安と、怖れ。それらの感情を紛らわすためには、言葉を紡ぎ続けなければいられなかったのだ。
「いや。参考になった。停戦の交渉をする時にはお前に同席してもらっても良いかもしれぬ」
王がまた笑ったのは、シャスティエの想いをある程度見透かしてのことだろう。口づけも、彼女の不安を取り除くため。唇を塞いで、もう分かった、これ以上言わなくても良いと伝えるため。
「お前も疲れていることだろう。もう休むが良い」
「……はい」
そしてきっと、彼女が言うべきでないことを言わないで良いように。
――戦いを収めるため……それなら、レフは生きていてはならない……!
王は名のある将の首を、と言った。ミリアールトにグニェーフ伯がいたように、ブレンクラーレにも他国にまで名の知れ渡った将がいるのは当然だろう。事実シャスティエはライムント伯爵の名を耳にしたことがあった。
でも、今のイシュテンの者たちが真っ先に思い浮かべる
レフだ。
彼がいつからアンネミーケ王妃の企みに加担していたかは分からない。でも、今回の事件の直接の切っ掛け――黒松館の襲撃を先導したことは間違いない。イシュテンとミリアールトを争わせ、ブレンクラーレにその背を突かせる――そのように計画したというだけでも、彼が憎まれるには十分すぎる理由だ。シャスティエだって、自ら彼を告発するようなことを口にしてしまった。
――命乞いなんて……できるはずがない……!
レフさえ生きていてくれれば、と思っていたのはもう過去のことだ。これまでのレフの所業と、決して翻してくれない決意のほどを目の当たりにした今、彼を救うことができる理由などシャスティエに見つけることはできない。
でも、それは従弟を見捨てて平然としていられるということでは決してない。今も、王の腕の中で甘えるようにしていながら、これなら願いを聞いてもらえるのではないかという期待の欠片のようなものを抑えるのに必死なのだ。
従弟を助けて欲しい、と――口に出せば、王は断らない訳にはいかないと、ちゃんと頭では理解しているから。果てしないように思える――心と肉体、両方の意味で――距離を越えてやっと手を取り合うことができたこの夜は、奇跡のようなもの。それを壊してしまいかねない言葉を、王の口づけは塞いでくれたのだ。
夫の腕に抱かれる幸せと、肉親の命を諦めようとしている絶望と。闇の中で、シャスティエの心はふたつに引き裂かれていた。
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