第8話 再会 ファルカス

 シャスティエの宣言を聞いた瞬間、ファルカスは勝った、と思った。兵を率いて国を後にしながら、剣で戦う前に何度言葉での戦いを制さなければならなかったことか。だが、言葉などと言う慣れない武器も当分は使わずとも良いはずだ。ブレンクラーレと軍をぶつけ合う前の懸念は、これで全て払うことができたはず。臣下の疑いを払拭し、怒りと憎しみをアンネミーケ王妃ひとりに集約させることができた。――シャスティエが引き寄せてくれた勝利だ。ほとんど彼が言わせたようなものではあったが。


「――よく言った! その願い、必ず叶えてやろう……!」


 自らの言葉の意味を、シャスティエは完全に理解はしていないだろう。王妃の使者に対して、彼が何と答えたのかを知る由がないのだから。彼が妻にさせたのは、密かに抱いた望みを踏み躙ること。祖国のための復讐を、彼の――仇のための復讐と捻じ曲げさせること。それを知ったら、この女は改めて彼を憎み詰るのだろうが。だが、臣下たちの前でそれをさせてはならない。


 だからファルカスは大股に玉座――ということになっている椅子――の前から足を進めると、まだ呆然として周囲を見渡しているシャスティエに腕を伸ばした。疲れているであろうところ、それも身重の身体に無理をさせたのではないかと心配でならなかったのだ。

 とはいえ、事前に休息や情報を与えてやることはできなかった。最初に見つけたのがジュラだったのは幸いだが、攫われて囚われていたはずの側妃が予期せず解放されたとの報せは風よりも早く陣内を駆け巡っていた。臣下の前に姿を見せる前に、内々に会うことは不可能だっただろう。ブレンクラーレの使者がもたらした側妃のは、確かにイシュテン軍全体に疑いの種を撒いていたから、口裏を合わせる余地があったと思わせてはならなかったのだ。


「あ……ファルカス様……?」


 数か月振りに妻の身体を腕に収めると、腹の膨らみをしっかりと感じた。懐妊していると聞かされたばかりの頃に攫われて、母子ともども常に無事を案じ願ってきたが――ついに、手の中に取り戻すことができたと実感することができた。だが、まだ喜びに浸りきることはできない。軽く開かれた唇に口づけを落とす代わりに、口の動きだけで黙っていろと伝える。アンネミーケ王妃の陰謀が、憶測でなく真実だと知らされたことで、高位の貴族から一介の兵に至るまで熱狂している。今のうちに、側妃の帰還を全軍に受け入れさせなければならなかった。


 シャスティエが小さく頷いたのを確かめてから、ファルカスは改めて臣下に対して声を張り上げた。


「これで女狐に対して遠慮の必要は欠片もなくなった! イシュテンに仕掛けた卑劣な陰謀の数々を、ブレンクラーレの将兵の血によって償わせよう! そして勝利を収めた暁には女狐自身の首をもって!」


 血と勝利の予感に、もとから興奮していた将兵が一段と湧いた。大地をも揺るがすような吠え声に腕の中のシャスティエが身体を震わせるのを心では案じながら、夫よりはまず王として言葉を続ける。


「明日の夜明けと共に進撃を開始する。各々馬と武器、防具の支度は抜かりなく行っておけ。前祝いとして酒を振る舞うが、決して溺れるような無様は許さぬ! 側妃に――戦馬の神と共に征く雪の女王に、勝利を捧げるのだ!」


 ファルカスは敢えて不遜にも戦馬の神と雪の女王を自身と妻とになぞらえた。イシュテンとミリアールト、それぞれの国を表す神の名を引くことで、彼らふたりが共に手を携えて国を導こうとしているのだと見えるように。復讐を意味する側妃の名が、不吉で許しがたい裏切りなどではなく、頼もしい決意だと信じさせられるように。


 そして彼の思惑通り、イシュテンの王とミリアールトの女王が寄り添う姿は歓呼を持って迎えられた。側妃を疑う声が上がることがないのを確かめてやっと、ファルカスは心置きなく妻を抱きしめることができた。




 兵は一杯の酒で身体を温めた後、心を高揚させたまま眠りにつくことができただろう。だが、ファルカスは主だった将と諮ることが多かった。だから、先にシャスティエを休ませていた天幕に戻ることができた頃には、既に夜も更けていた。


「遅くなった」

「いえ……」


 ろくに家具などない狭い天幕の中、所在なげに寝台に掛けていたシャスティエが立ち上がろうとするのを制して、横に腰を下ろす。休んでいれば良かったのに、と言いかけたが、そのような気分になれるはずがないのに気づいて無駄な言葉は呑み込んだ。


 何より、彼が妻に真っ先に言わなければならないことがある。


「――すまなかった」

「は……?」


 短く告げると、蝋燭の頼りない灯りの下でもなお煌く碧い目が、驚きによってか見開かれた。彼がはっきりと謝罪の言葉を口にしたのはもしかしたら初めてのことかもしれないから無理もない。それにこの女はまだ何が起きたかの全てを知らないのだ。まずはそれを伝えなければ彼らふたりはに進むことはできない。先ほど一瞬だけ抱きしめた身体の細さ柔らかさをまた味わいたいと、彼の指や肌は焦がれるように熱を帯びていたが。――まだ、拒絶されるものと思っていなければならない。


「女狐の使者が、お前の婚家名の意味を明かしてしまった。場を収めるために、復讐とはイシュテンの――俺の、ためのものだと臣下に言った。そう、嘘を吐いた」


 少しでも自身を取り繕う言葉を選びそうになるのを恥じながら、努めて事実そのものを伝えようとした。なるべくゆっくりと、ひと言ひと言言い聞かせるように。あるいは自らの所業を噛み締めるように。その甲斐あってか、シャスティエの目にも次第に理解と驚きの色が浮かぶ。


「――アンネミーケ陛下から、使者を送ったとは聞かされておりました。私のせいでイシュテンの士気が挫かれてしまうことを、案じておりましたが……」

「そうだったか……」


 彼の前に引き出された時、やけに緊張していた様子だった理由が分かった。婚家名の意味が知られて、どのように裁かれるかと不安を隠せなかったということだろう。それでも口にしたのは自身への処遇ではなくイシュテンを案じる言葉なのが嬉しかった。一方で、わざわざそのようなことを教えて嬲るようなことをした女狐への怒りが強まる。

 言葉を途切れさせたファルカスに、シャスティエは一層眉を寄せて困惑の色を見せた。


「あの……なぜ、そのようなことを……? お怒りにはならなかったのですか……!?」

「お前を救うために兵を動かした以上、その大義を揺るがせる訳にはいかなかった。それにお前が俺を憎むのは当然のこと。妻の名の意味を知ることを怠った俺にも落ち度がある」

「そのような……」


 長らく考えてきたことを、初めて口にした――その間にも、シャスティエが未だに怒りを見せないのが不思議だった。怒る余裕もないほどの不安と緊張に苛まれていたのだとしたら哀れだと思う。だが、この隙は同時に好機なのかもしれなかった。彼の言い分を、先に全て伝えることができるのかもしれないのだから。

 シャスティエの、膝の上で握られた手を包もうとして――まだ触れることはできないと思い直して、手を引く。間近に身体を寄せて語らっているというのにそれ以上近づくことができないということが、ひどく落ち着かなかった。


「それに、元から知っていたことだった。フェリツィアが生まれたばかりの頃だったか……諫言してきた者がいたのでな」

「そんな」

「その者には他言しないように重々言い含めたから問題はない。ただ、広まっては問題になることは分かっていたし、どうにかしなければと心の隅でずっと考えていた。だから――その、咄嗟に取り繕うことができたのだ」


 文書院の長の、萎びた顔が脳裏に蘇った。国を案じ、王の不興を買う恐れを乗り越えて真実を彼に伝えた――忠臣と呼んで良い老人だったのだろう。だが、その勇気と忠誠に、ファルカスは刃で報いてしまった。妻を守るためとはいえ、有無を言わせず命を奪って口を塞いだ。人としても君主としても許されない所業は、しかし彼だけの罪。シャスティエには関わりのないこと。ただでさえ苦しむことが多かったこの女は、知る必要がないことだ。


「そう、でしたか……」


 現にシャスティエは、彼に秘密を知られていたということだけでも、信じがたいという表情で喘いでいる。密かな願いを込めた復讐をこのような形で暴かれることになるとは、想像すらしていなかっただろうに。


「フェリツィアが……では、ずっと以前から……? なのに、どうして、あの……あんな……」


 黒松館での日々を思い出したのだろうか、シャスティエの白い肌が首までほんのりと赤く染まった。その姿の愛らしさに、ファルカスはまた抱きしめたいという衝動と戦わなければならない。臣下からの信頼を失ってまで側妃に溺れた日々だった。彼を憎む女だと知っていながら、全霊で抱きしめて労わることができた、その理由――あの頃のことを思い返せば、彼にとっては何ら難しいことではない。


「俺はお前から多くを与えられた。ミリアールトとの同盟を得られたのはもちろん、マズルークの件でも助けられた。ミーナの命を救ってくれたこともあったし、お前がいなければミーナの想いに目を向けることもなかっただろう」

「…………」


 妻の功績を挙げていくのは、彼の夫としての不甲斐なさを数え上げることでもあった。更には、ミーナの――もうひとりの妻の名を出したのはどう聞こえたことだろう。だが、とにかくもシャスティエはファルカスの言葉に耳を傾けてくれている。


「――何よりもフェリツィアのことだ。娘を見るお前の目があまりに優しくて美しくて……子が生まれたことを、あれほど喜んでくれるとは思ってもいなかった……」

「フェリツィア……」


 娘の名を聞いて、シャスティエの口元が微かに微笑んだ。たとえ彼に向けられたものでなかったとしても、母娘を別つ距離に心を痛めたとしても、柔らかく美しい微笑みは、彼に次の言葉を口にする勇気をくれる。イシュテンの王として男として、ともすれば気恥ずかし過ぎてとても言葉にはできないようなことを。


「それだけのことしてくれた――我が子の母でもある女だ。だから何に替えても守らなければならぬと思った。どうして怒り憎むことなどできる?」


 ひと息に言い切って――それでもシャスティエの碧い目に見上げられるのを受け止めかねて、ファルカスはふいと目を逸らした。仇に好意めいたことを伝えられて、喜ぶ者などいるはずがないのだ。怒るか嘲るか、とにかく相手が我に返ればこの一件和やかな空気は終わってしまうだろう。


「――では、ミリアールトでのことは……? ミリアールト語を禁じる命を出されたと、それも、その命を実行したのはグニェーフ伯――イルレシュ伯だったと……」


 ――やはり聞かされていたか。


 またひとつ、彼の咎を挙げられてファルカスは息を吐いた。シャスティエを攫ったのがミリアールトの者なら、彼の非道の証拠として必ず教えるだろうとは思っていたが。黒松館での表面上は甘い日々の影で、彼はまた妻を裏切っていたのだ。


「……イシュテンの者がお前の名の意味を知る機会を極力減らしたかった。イシュテン語であらゆる用が足りるとなれば、わざわざ異国の言葉を学ぼうとはしないだろうから。イルレシュ伯を遣わしたのは、せめてミリアールトの不満を和らげようとしてのことだった」


 改めて口にすると、言い訳にしか聞こえないであろうことに暗澹とする。否、事実言い訳でしかないのだが。シャスティエにしてみれば、信頼していた祖国の老臣にさえ裏切られたと聞こえただろうに。


「レフは――従弟は、これこそがイシュテン王の本性だと言っていたのです。自国が儘ならぬことの腹いせに、ミリアールトを虐げたのだろう、と……」

「……そうだろうな」


 そんな場合ではないとは分かっていても、妻が他の男の名を呼ぶのを聞くと心穏やかではいられなかった。シャスティエによく似た美貌を持つという男。きょうだい同然に育った親しい従弟だという男。その男も、シャスティエに対して並々ならぬ思いを抱いていると聞かされているからなおさらだ。

 シャスティエの胎の子の父親はファルカスに間違いない。女狐アンネミーケも、イシュテンとミリアールト両国の血を引く子を利用しようとしていたのだろうから、滅多なことを起こさせるはずもない。だが、黒松館から攫われて以来今日まで、祖国を亡くした肉親同士はごく近くに日々を過ごし、語らってきたはずだ。イルレシュ伯もシャスティエの侍女も、口を揃えて主はされることなど望んでいないと断言していたが。少なくとも娘への情は直に見て知っているだけに、ファルカスもそれを信じようとしていたのだが。


「……かつての私ならば、従弟が望んだ通りに怒り憤っていたのでしょう。でも、私は彼と同じように考えることはできなくて。彼を、失望、させてしまいました」

「何……?」


 シャスティエが先にしたように、今度はファルカスが眉を寄せていた。鏡写しのような美しいふたりが、懐かしい祖国の話を語らう場面を思い浮かべていたところだというのに――そうでは、なかったとでも言うのだろうか。


「私は真っ先にことの真偽を確かめなければ、と思ってしまったのです。陛下が――ファルカス様がそのようなことをなさるからには、何か理由があるのだろう、と。……自分でも、どうしてだか分からなかったのですが」

「……まだ名で呼んでくれるのか」


 夫婦となり、子を生してなお、この女は長く彼のことを称号で呼んでいたのだ。やっと名で呼ぶようになった――呼ばせるようになったのは、黒松館での幻のような日々の中だけでのこと。今になって思えば、シャスティエは生き残った肉親を案じて、しかしその男を見逃すことで生じる事態の重大さも予感して、気も狂わんばかりだったのだろう。だから彼に縋る素振りを見せたのも気の迷いのようなもの、再会した時には態度も変わっていることを覚悟していたのだが。


 かつては思ってもなかったこと、ミーナがそうしてくれるから当たり前に捉えていたことだが――妻が名で呼んでくれるというのは、ひどくくすぐったく、同時に嬉しいことだった。

 ファルカスはきっと間の抜けた表情を浮かべていたのだろう。シャスティエの頬がわずかに緩み、微笑みに似た形を作った。


「私のことを元の名で呼んでくださるのも不思議でしたわ。婚家名を――復讐の誓いを、呼ばれる度に噛み締めなければと思っていましたのに。元の名で呼ばれる方が嬉しかった……!」

「おい」


 だがその微笑みも一瞬のこと、シャスティエはくしゃりと顔を歪めると掌で覆った。まさか泣くのか、と疑って肩に触れようとしたところで、掌の陰から潤んだ目が現れた。案じた通りに今にも涙がこぼれ落ちそうな――だが、どこか晴れやかな。笑顔と、呼んで良いのだろうか。


「我が夫を信じたことは、間違いではありませんでした。間違っていたのは私の方……! 後先を考えずに私が復讐を名乗ったせいで、祖国には屈辱を味わわせてしまいました。肉親の情に目が眩んで、従弟やブレンクラーレの企みを打ち明けることができなかったことも。――私は、イシュテン王の妻としてもミリアールトの女王としても愚かな振る舞いばかりで……!」

「それは――」


 違う、と言いかけた唇が、そっと触れてきた指に止められる。どこまでも白く滑らかな指に、再び触れられる日が来ようとは。睫毛を震わせ、軽く俯きながら、シャスティエは恐る恐る、といった調子で言葉を紡いだ。


「先ほどの言葉……嘘ではありません。アンネミーケ陛下のなさったことはあまりに非道……! ティグリス殿下のことはもちろん、従弟はティゼンハロム侯爵からも助力があると言っておりました」

「リカード。やはりか……!」


 ファルカスが呻くのも聞こえないかのように、シャスティエは続ける。どこか怯えた様子で、なぜか彼の機嫌を窺うように。そんな必要は、ないだろうに。


「だから……アンネミーケ陛下への怒りは真実です。復讐は、今や我が夫のためのものであるということも。私は……あの、過ちも、沢山犯してしまいましたが。ファルカス様にはミーナ様やマリカ様もいらっしゃいますが。それでも、お傍にいたい……共に、歩んでいきたいと、今は思っております。そのような道を、望んでも良いのでしょうか……!?」


 碧い目が、風を受ける水面のように揺らいでいる。彼の答えを待って、同時に恐れているのが分かる。早く答えてやらなければ、安心させてやらなければ、と思っても、言葉が容易には喉から出てこなかった。あまりにも信じられない言葉を聞いて、現実のことだとは思えなかったから。――だが、妻は確かに目の前にいる。


「……無論だ。俺こそお前から奪うばかりだったというのに。そのような道はあり得ないと思っていた。だが、望んでくれるというなら……」


 それ以上に何を言えば良いのか分からなかった。言葉で思いが伝えられるかも分からなくて、そもそも喉に詰まってそれ以上を声に出すこともできなかった。


 だから、そっと手を伸ばす。今度こそ確かに妻に触れるために。それでも最初はおずおずと――だが、白い指先が彼の手を捕らえるようにしっかりと絡みつく。


「――よく、帰った」

「はい。ファルカス様……!」


 万感を込めて呟けば、やはり震える声が彼の胸に落ちた。まだ敵国の最中、しかも明日には出陣を控えた夜のこと。戦いに出れば無事に戻れるかは分からない。それでも、今この瞬間に妻が腕の中にいるということが、ファルカスにとって何ものにも代えがたい喜びであり幸せだった。

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