第6話 夫のもとへ シャスティエ

 馬車の振動が激しくなったことで、シャスティエはブレンクラーレの王都を脱出したことを知った。レフに連れられて最初に城壁の内の街並みを目にした時、主要な通りを彩る建物の整然とした並びように感嘆したものだった。貴族が住まう王宮に近い中心部だけでなく、城門をくぐったばかりの庶民の家々が肩を寄せ合う辺りまでも、壁などが崩れた建物はひとつもなく、高さも図ったように揃えられていた。つまりは、ブレンクラーレの王の権威と慈悲は下町にまでも分け隔てなく届いているということだ。もちろん道も石畳で整備されていて、長旅に疲れた身には滑らかな車輪の動きが大層心地良かったことを覚えている。


 だから、馬車の壁に張り付かなければならないほどの振動は、道が整備された王都を出たことを示しているのだろう。ギーゼラ妃は、確かにシャスティエの胎の子やジョフィアを慮ってくれたらしく、座席には山のようにクッションが積まれて荒れた道が伝える振動を幾らか和らげてくれてはいる。でも、これから運ばれる先に一体何が起きるのか、アンネミーケ王妃の使者は王に――シャスティエの夫に、何を伝えているのか。それを思うと、長距離の移動には慣れたはずの彼女にも、吐き気のようなものがこみ上げてくるのだ。


 ――王の軍は……どこまで来ているのかしら……!?


 アンネミーケ王妃が使者を差し向ける気になった以上、ギーゼラ妃がシャスティエたちを送り届けるつもりになった以上、王都のすぐ近くにまでイシュテンの軍が迫っているのは間違いないだろう。だから、この揺れはいつ止まるかもしれない。今この瞬間にも、扉が開かれてイシュテンの大軍と対峙しなければならないかもしれないのだ。それも、王妃の使者によってシャスティエに怒りと疑いで殺気立った目を向けてくる兵たちと。


 ――その前に、どうにかできる……?


 確実に近づいているその瞬間を思うと、こめかみのあたりで血が脈打つ音が頭痛を催すほどうるさく響く。ジョフィアを抱く腕にも力が篭って、赤子をむずからせてしまうほど。不安と緊張は子宮にも悪い影響を及ぼして、馴染みとなってしまった嫌なと痛みを伝えてくる。

 腕と胎内に抱えた、愛しくも脆い命たち。彼女たちがいては、扉を押し開けて走る馬車から飛び降りるような真似もできない。シャスティエ自身なら手足の骨の一、二本が折れても構わないだろうが、赤子たちにとっては落下の衝撃は命に係わる大怪我になる。もとより、身重の身で赤子を抱えて、馬車から逃げたとしても行くあてもない。ならば、このまま黙って死地――になるかもしれない場所――に着くのを待つしかないのか。まず王と話すことさえできれば、子供たちの命は心配ないだろう。でも、もしも最初に出くわすのが王でもグニェーフ伯でも、面識のあるイシュテンの者でもなかったとしたら。ひと言の弁明の余地も与えられず、殴り殺されるようなことになったら――


「どうなさいましたか? ご気分でもお悪いのですか?」

「いえ……大丈夫よ……」


 あらゆる想像を巡らせては唇を噛み締めていると、同乗している女が微笑みかけて来た。馬車の中にがいるのに気付いたのは走り出してからのことだった。その時と同様に、壁に紛れるように気配のない者が不意に話しかけてくるのはあまり良い気分がしない。それに、いかにも取ってつけたような気遣いも。

 心の底からこちらを案じているとしか見えない表情――でも、心の裡を打ち明けたところで何の益もないのは分かっていたから、シャスティエはただそっと首を振った。その仕草を信じてくれたのかどうか、相手は労わるように笑みを深くする。


「冷やした水や果汁もありますし、少しなら窓を開けても構いませんでしょう。必要ならばご遠慮なくお申し付けくださいませ」

「……準備が良いのね」

「伯爵夫人のお心遣いでございますから」


 シャスティエの声の硬さには気付かないようで、女は恭しく頭を下げた。この女は、馬車を手配したのはライムント伯爵夫人を名乗ったアマーリエという女だと信じて疑っていないのだろう。ギーゼラ妃の暴露は、馬車の扉を閉める間際のことだった。だから、あの叫びは車内からは馬車を出す命令だと聞こえたのかもしれない。どういう訳かブレンクラーレの者たちは自国の王太子妃の言葉も存在も軽んじていた。


 ――王太子妃殿下は、あの女も陥れるおつもりなのかしら……。


 何か理解しがたい激情によって顔を引き攣らせていたギーゼラ妃のことを思うと、背筋を寒気が下りていった。シャスティエのもとを訪れたアンネミーケ王妃は――勝ち誇ってはいたが――神に懸けた誓いを守って彼女や赤子たちを害する素振りは見せなかった。婚家名の意味を明かしてイシュテンを揺さぶろうというのなら、シャスティエは失ってはならない駒でもあるはず。だからこれは王妃に背くこと、罪に他ならないはずなのに。


『八つ裂きにされてしまえば良い!』


 シャスティエを馬車に押し込んだ時の、ギーゼラ妃の叫びが耳に蘇る。恐らくはブレンクラーレの名家の出の方のこと、血腥いこととは無縁の人生を送られてきたはずだから、どこまで具体的な像を思い描いていたかは分からない。でも、あの声に滲んだシャスティエへの悪意と憎悪は本物だったと思う。そしてシャスティエを救うべく王太子妃に取り入ったらしいアマーリエという女も、あの悪意に巻き込まれたのだろうか。シャスティエは大事な捕虜だろうに、逃がしたとあっては罪に問われるのは免れまい。


 ――あの女のことなんて、心配しても仕方ないけど……。


 どの道、アマーリエが王妃に背く陰謀を巡らせていたのは事実なのだから。そしてギーゼラ妃の関与も遠からず明らかになるのだろうけど、それもまたシャスティエには関わりがない。さほど深い縁を結んだ者たちでもないし、彼女自身の方がよほど危険な立場に置かれることにさせられているのだから。

 今のシャスティエにとって問題なのは、馬車を走らせている者たちはアマーリエの命に従っていると信じ込まされていること、王妃がイシュテン軍に使者を差し向けていることもその用件も知らないであろうこと、だ。危険だから引き返して欲しいと乞うたところで、すぐには理由を理解してくれないだろう。そして、シャスティエの言葉を信じてくれたとしても、またアンネミーケ王妃の手中に戻ることになるだけ――そうすれば、二度と逃れる隙を与えてはくれないだろう。


 ――だから、イシュテン軍に届けてもらえるのは良いことのはずよ……。


 有無を言わせず子供たちごと引き裂かれる危険さえ免れることができれば。シャスティエが今のイシュテンにどう思われているかは分からないが、ジョフィアはイシュテンの子だ。ひと目見れば分かるその事実に気付いてもらえれば、可能性は十分にあると、そう信じるほかなかった。


 ――結局、王太子妃殿下は私を逃がしてくださったのよ……そう思うしかない。怯えていても、何にもならない……。


 季節に合わない汗が背を伝うのを感じながら、シャスティエは馬車の扉を塞ぐように席を占める女を睨みつけた。彼女の内心の恐れも葛藤も知らない相手は、ただ穏やかに微笑んでいるだけだったが。




 馬車の扉が開くと、冬の冷たい風が頬を撫でた。ギーゼラ妃に与えられた毛皮の外套を掻き合わせ、ジョフィアをその中に守る。見渡せば、視界の届く限り枯れた色の草が風に揺れる草原だった。馬車の後ろを見れば、王都の城壁は既に遥か遠く。地平のあちこちに農村と思しき民家の集まりは見えるけれど、歩いて辿り着くことはできないだろうと思うほど遠い。シャスティエが履いているのは、宮廷の屋内で過ごすための柔らかい絹の靴でしかなかった。


「この辺りはすでにイシュテンの斥候が行き交っているとか。伯爵夫人があちらに密使を送ってくださっているとのことです」

「そう……」


 つまりは、ギーゼラ妃がそのように嘘を吐いたのだ。否、斥候については本当のことなのかもしれないが。ならば、シャスティエはその斥候が見知った者か、せめて彼女やミリアールトに対して隔意のない者であることを祈るしかない。そう、斥候ならば人数はそれほど多くないはずで、ならば話をする冷静さも期待できるかもしれない。


「ここは風が冷とうございます。中でお待ちになられては――」

「外で良いわ」


 胎の子とジョフィアのことを慮れば、馬車の中にいる方が良いことは分かっていたが、シャスティエはあえて断った。たとえ無力だとしても、自らの運命が決まるところは自分の目で見たかった。枯草の地平から現れるイシュテンの馬――それに跨るのが何者か、最初に見つけたいと思ったのだ。


 季節は冬――とはいえギーゼラ妃は一応は毛皮を与えてくれたし、ミリアールトの酷寒に比べればブレンクラーレの冬は何ほどのこともない。ただ、ジョフィアだけは寒風にあてないように外套の内側に庇って、地平に目を凝らす。――と、やがて黒い騎影が幾つか現れる。あちらも、荒野には不似合いな豪奢な馬車に気付いたようで、次第に寄り集まり数を増やして、そして近づいてくる。アマーリエの手の者たちも同様に気付いたようで、それぞれに身構え、男は剣に手を伸ばしている。話が通っていると信じさせられているとはいえ、武装したイシュテンの一団が迫って平静でいるのは難しいのだろう。その思いはよく分かるが――


 ――でも、余計な衝突が起きないようにしないと。


 ここからは、彼女自身が対峙すべき事態。そう判じて、シャスティエは一歩進み出た。結う暇もなかった髪を風になびかせれば、遠目にも彼女が何者か分かるかもしれない。――その結果、相手の感情が不審から憎悪や怒りに変わらないことを願うばかりだ。


 騎馬の一団は一直線に馬車を目指して駆けてくる。そして先頭の騎手の顔を認めるなり、シャスティエは思わず叫んでいた。


「――ジュラ殿!」

「クリャースタ様……!?」


 顔だけでなく、親しみのある声が驚きに喘ぐのを聞いて、緊張に強張っていた頬を少しだけ緩めることができた。図らずもシャスティエの目の前に現れたのは、アンドラーシと並んで彼女と縁の深いイシュテンの武人。更には王の側近でもある男だったのだ。


「これは、一体……?」


 斥候の任の途中だからか、兜で顔を隠していなかったことでジュラの困惑の表情がよく見えた。馬上からシャスティエと馬車の御者や護衛を見比べては眉を寄せている。――だが、取りあえず姿を見るなり斬りかかられるようなことがなかったことに安堵する。

 事態がこれ以上ややこしくなる前に――馬車の者たちに余計な口を利かせないように――、シャスティエはジュラの馬に駆け寄った。これならば上手く行くのかもしれない、という希望が心臓に熱をともすのを感じながら、早口に訴える。


「ブレンクラーレも一枚岩ではないということのようです。私を逃がしてくれた者たちですから、どうか酷いことはなさらないで」


 見逃して欲しい、と暗に告げると、ジュラの眉間の皺が深まった。出自を示すような紋章こそさすがにつけてはいないが、シャスティエが囚われていた場所、それに馬車の豪華さを考えれば、尋問の必要があると感じても無理はない。


「ですが……」

「お願いします。イシュテンの本陣にはまだ距離があるのでしょう? 馬車を抱えていては探るような動きもできないはずだから――」


 ギーゼラ妃によって騙されるようにしてこの役目を負わされた者たちだ。どうせ大した情報を持ってはいないだろうし、敵陣に捕らえられるようなことになっては哀れだ、と思ってしまう。もちろん、無傷で帰したところで何らかの罪に問われる可能性は相当にあるけれど。それでも、目下交戦中の敵国の者よりは、同じ国の者からの扱いの方がまたマシなのではないだろうか。


「……は。それでは仰せのままに」


 重ねての乞いに、ジュラはようやく渋々ながらも頷いてくれた。




 シャスティエが礼を述べて促すと、馬車は王都の城壁を目指して来た道を戻って行った。彼らはイシュテン語を、ジュラと部下たちはブレンクラーレ語を解さないから、双方共に話に齟齬があったのには気付いていないだろう。


「クリャースタ様……御子様も。ご無事で何よりでございました……!」


 改めてイシュテンの者たちの方へ向き直れば、一様に馬を降りて跪いている。王の妻に対いては確かに妥当な礼儀だろうが――ならばシャスティエはまだ、側妃として遇されると思って良いのだろうか。


「あの、陛下は……?」

「ああ……変わらぬお姿をご覧になればさぞ喜ばれることでしょう。どうぞ馬に――替え馬を、こちらへ」


 だが、手放しで喜ぶにはジュラの表情は硬いようにも思われた。もとからアンドラーシなどとは違って生真面目な男だとは知っているが、彼女に対して含みがあるように見えるのは、気のせいだろうか。

 ジュラの手が伸べられて、ジョフィアを預けろと促してくる。それに従うと、今度は騎手のいない馬が引かれてきて、シャスティエは瞬く間に馬上の人になっていた。当然のことながら男ものの鞍で、横座りには向いていない。慌てて馬首にしがみつくと、やはり瞬時にとしか思えない早さで騎乗していたジュラが支えてくれた。片手で赤子を抱いて、片手でシャスティエの馬を操って。脚だけで馬を巧みに操るのは、イシュテンの男なら当然の技なのだろうか。


「恐ろしいでしょうがどうか堪えてくださいますよう。大事な御身を歩かせる訳には参りませぬゆえ」

「あ、あの……!」


 ジュラの態度も、支えてくれる手もあくまでも丁重だった。でも、どこか薄くとも固い壁を巡らされているような気がしてならない。王の様子をはっきりと教えてくれないのも、シャスティエが逃がされた経緯を詳しく聞いてこないのも。差し出がましい真似をしない寡黙さというよりは、別の意図があるように思えてならなくて、シャスティエの不安は募る。だから、痛いほどに心臓が早く脈打つのを感じながら、答えを聞くのをこの上なく恐ろしく思いながら――それでも問わずにはいられない。


「アンネミーケ王妃が陛下に使者を送ったと聞かされました。その、使者は――」

「既に帰っております。ひとりは首になって、ですが。確かに女狐の言い分は受け取りました」

「では……」


 ジュラの黒い目が鋭く光った気がした。クリャースタ・メーシェ――復讐を、誓う。シャスティエの婚家名の意味を、既に知っていると言われたのも同然だった。


「今の私からは何も申し上げられません。全ては、陛下の御前にて」


 目の前が真っ暗になるような思いをさせておいて、ジュラは完全に止めを刺すことはしてくれない。裏切りを詰ることも責めることも。ただ、淡々とした口調の影に、確かに何かしらの感情が渦巻いているのは感じられた。その感情が何なのかは悟らせないまま、ジュラは麾下の兵たちを見渡した。とりあえずはシャスティエを守るように、各々騎乗し直して彼女が乗る馬を囲む者たちを。――あるいは、逃げないように見張っているのかもしれないけれど。


「私が何かしらを申し上げれば――それを人に聞かれれば――、余計な疑いを招きますので。御身のためでもあることですから、どうかご理解ください」

「ええ……」


 ――これは、何かの助言なの? 真っ直ぐに言えば私の肩を持ったと思われる、ということ……?


「クリャースタ様」


 ジュラの真意はどこにあるのか。言葉にせずに伝えようとしているのは何なのか。目を凝らして読み取ろうとした時、ジュラが殊更に声を低めた。


「信じております――信じて、よろしいのですね……!?」


 その声の鋭さ、縋るような調子に、反射的に頷いてしまう。


「ええ、必ず……!」


 頷いてしまってから、気付く。ジュラがシャスティエを信じるとしたら、イシュテン王の側妃としての彼女を、にほかならない。ならばアンネミーケ王妃の使者は、確かにイシュテン軍全体に疑いの種を撒いたのだろう。けれど、その種はまだ芽吹いていない。きっと、夫が止めてくれた。王の言葉があったからこそ、ジュラも紙一重のところでシャスティエを信じたいと思ってくれているのだ。


 ――王は、何を言ったの? 使者に何と答えたの……!?


 汲み取らなければならない。王と対面するまでに、行き交う者たちの目線や態度や囁きから。そして、正しく振る舞わなければ。アンネミーケ王妃の陰謀を退け、イシュテンに勝利をもたらすにはそれしかない。それに何より、シャスティエが生き延びるためには。


 これからの一言一句、一挙手一投足にかかる重圧に、シャスティエの肌を震えが走った。

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