第5話 親離れ アンネミーケ
ライムント伯爵夫人アマーリエへの糾弾の時から、
だが、イシュテン王のもとから生還した使者がもたらした情報は、あらゆる者に対して差し迫った危機を突きつけた。貴族や高官が口々に囁き交わす声には、今や切実な怯えと不安が滲んでいた。
「復讐……ブレンクラーレに……!?」
「我々は何も知らなかったというのに」
「王妃陛下が――」
「――国に災厄を招いた――」
――
ちらちらと玉座へ向けられる視線に、恨みがましく責めるような棘を感じて、アンネミーケは唇を噛み締めた。ブレンクラーレが国境を脅かすイシュテンに長く悩んできたのは事実ではないか。厄介な隣人をいかに弱めいかに立ち向かうか、歴代のブレンクラーレ王はそれぞれに策を凝らしてきたではないか。アンネミーケは、置かれた状況と彼女が持つ手札を最大限に利用して彼女なりに戦おうとしたまで。ブレンクラーレを率いる者として当然の務めを果たそうとしたまで。――それがどうしてこのように非難めいた目を向けられなければならないのか。
怒りと苛立ちが喉を詰まらせて、無礼なざわめきを止めさせる言葉を
多くの者が密やかに――だが声量は憚ることなく――周囲の者とのやり取りに終始する中で、ただひとり、声高く使者に詰め寄った者が現れた。
「そんな……では、私はあの方を喜ばせただけなの!? 愛する人のもとに帰してあげただなんて……!」
ギーゼラだ。周囲に言葉を交わせるような人影はなく、言葉を選ぶような心の余裕や遠慮もとうにかなぐり捨てていたために、思ったままをそのまま声にすることができたのだろう。
――愛する人、か……似合いのふたりとでも言うのか……?
美丈夫と名高いイシュテン王と、アンネミーケ自身がその目で麗しさを確かめた姫君と。美しい者たちが物語のように美しい愛を紡ぐのを、彼女も内心で唾棄し嘲ってさえしてきた。愚かで実のないことだ、と。ギーゼラのしでかしたことは理解できないし擁護する気も一切ないが、期せずして同じように卑屈な思いを抱えていたのか、と思うと皮肉に唇が引き攣る。見た目だけ華やかな砂糖菓子のように、甘ったるいだけと思っていた美しい者たちに、築き上げた全てを打ち崩されるとは。美しい者は正しいとでもいうかのような――ならば、この世はなんと理不尽な。
「――そんなはずはない! シャスティエは――彼女は自分で決めた名だと言っていた! イシュテン王が知っているだなんてことは……。そうだ、彼女はイシュテンへの復讐のためだと、確かに言った!」
否、美しくかつ愚かな者もいたか。アンネミーケが密かに抱く偏見に相応しく恋に目を塞がれた金の髪の貴公子は、ギーゼラの声で我に返って言葉を取り戻したようだった。ギーゼラと同じく、姫君とイシュテン王が心を通わせているなどとは認めがたいのだろう。それに姫君と直接言葉を交わしただけあっての確信に満ちた言葉――それも、使者の鋭い声によって叩き落されるのだが。
「ならばなぜイシュテン王が知っていた!? なぜ怒らずに笑ってみせることができたのだ!?」
同胞を喪いながら敵陣から戻ったばかりの男の言葉は重く、公子もさすがに口を噤んだ。その隙に、使者は改めてアンネミーケに深く跪いた。
「陛下。かくなる上は姫君ご自身のお言葉をいただきたいと存じます。イシュテンを恐れるお気持ちも、大事なお身体であることも重々承知。ですが、こうなったからにははっきりと言っていただかなくては収まりますまい。イシュテンを憎むと、側妃になったのは王を欺いたに過ぎないと……!」
――姫の、言葉……。
イシュテン王に死を賜った者と同様、こちらの男もアンネミーケに対する忠誠は篤かった。公子に対するのとは一転して丁重な請願――しかし、アンネミーケもまた言葉を失ってすぐに応えることはできない。
「姫君は――」
ミリアールトの姫は、もう鷲の巣城にはいない。国を守るべき王家の一員――王太子妃が逃がしてしまった。身勝手な、嫉妬じみた衝動によって。たとえそうでなかったとしても、あの強情な姫君がブレンクラーレに利することを述べてくれるかはまた話が別だが――いずれにしても、アンネミーケを信じ、一縷の望みを懸けて乞うた者に告げられるようなことではなかった。
唇を開いたまま言い淀むアンネミーケに、歩み寄る者が現われた。玉座のすぐ下にまで無造作に近づくことができる者といえばただひとり。これまで地位に相応しくなく何ひとつ実のあることを発言していなかったマクシミリアンが、やっと――と言えるのか――この茶番劇の役者として舞台に登って来たのだ。
「……母上。もはや取り繕うことはできないかと」
「マクシミリアン。要らぬことを言うでない」
といっても、先ほどのアマーリエの処分についてのものと同様、息子の進言は決して受け入れることができない類のものだったが。
「臣下の動揺を助長するかのような言は慎め。王たる者の言葉は重いと、常々聞かせているであろう」
息子を叱りつける言葉だけはすらすらと口をついて出るのが不思議なほどだった。それほどに、マクシミリアンは母であるアンネミーケを驚かせ不安がらせ呆れさせる言動を繰り返しているのだ。今もそうだ。取り繕う、などと――まるでアンネミーケがイシュテンにたいして仕掛けてきた諸々を、暗に認めているような物言いではないか。
どうして血を分けた息子までに裏切られるような思いをしなければならないのか――怒りと苛立ちを込めて睨むと、マクシミリアンはいつものように笑顔を引き攣らせて視線を彷徨わせた。
「申し訳ございません。ですが――」
普段ならば、母の一喝で息子は黙る。諦める。だが、今日に限ってマクシミリアンは引き下がることなく食い下がった。
「その、イシュテン王の流言の真偽はともかくとして、あちらの疑いを払拭することは、この場では不可能ではないかと思うのです。姫君ももはやこの城にいらっしゃらない以上は。だから――イシュテンの流儀のようでまことに野蛮だとは思うのですが――戦って、勝利を収めるしかないかと」
「勝利だと……」
イシュテン王は、側妃の名の意味を、自身ではなくその敵への復讐だと言いかえたのだという。イシュテンの復讐の剣の先が向かうのは、ブレンクラーレでありアンネミーケであると断じたということだ。ただでさえアンネミーケに向けられた疑いのせいでブレンクラーレの士気は低いというのに、マクシミリアン自身がそれに言及したというのに、勝利などと口にするとは愚かしい。
「あるいは、イシュテンに兵を退けてもらうだけの戦果……と言いますか。イシュテン王としても、ブレンクラーレ全てを焦土に変えようなどとは思っておりますまい。あちらはとにかく速さだけを
「……だから、何だと言うのだ」
嫌な予感がしていた。マクシミリアンがこれほど長々と公で喋るのは珍しい。アンネミーケが、
「私が指揮を執ります。王太子自身が陣頭に出るとなれば、兵の士気も高揚しましょう。そしてイシュテンの方も。私と剣を交えたという事実は――いえ、自身をそのように大層なものとは思っておりませんが、王太子ですから――遠征を締めくくるに相応しい武功になるのではないでしょうか……!?」
「ならぬ。そなたの身命を危険に晒す訳には行かぬ。自身の立場をよく考えるが良い」
弱気は、息子の――恐らくは――精一杯の訴えを言下に退けさせた。アンネミーケが試みたのは、イシュテンの力を弱めること。そのためのことごとくに失敗した今、戦っても勝利を信じることなどできはしない。まして、剣を習ったのは形ばかりで戦場に立ったこともないマクシミリアンを送り出すなど。
――そんなことをしたら死んでしまうではないか!
ただひとりの息子を失いたくない。否、違う。ブレンクラーレの王太子を死なせてはならない。一戦を交えた後、イシュテンがおとなしく撤退する保証もない。いつものように、息子は無知ゆえにあり得ない夢物語を語っているだけなのだ。
だが――
「考えた上で、です。私の地位と母上の息子であるということ――それに、ギーゼラの夫であるということを」
マクシミリアンはまだ諦めなかった。無言で立ち竦み、夫を睨みつけるような表情の
「恐れながら、ブレンクラーレに危機を招いたのは王家の者の所業が理由だと存じます。ですから、その不徳を
「黙れ! 子が親のすることに楯突くとは何事か!」
――全てそなたのためだというのに……!
ひどく理不尽で偏狭なことを喚いている自覚はあった。それでも最も秘すべきこと、彼女の誇りと息子の体面のために漏らしてはならないことは辛うじて呑み込んだが。だが、今のアンネミーケは理知とも理性ともほど遠い。彼女が常々嗤い見下してきた、愚かな女どものような有様だ。だが、息子を戦場に送り出すことはそれほど恐ろしくあってはならないことだと思った。
「不敬も不孝も承知しております。ですが、他に道はないかと……!」
広間がやけに静かなことに、アンネミーケはやっと気付いた。広間の誰もが固唾を呑んで、母と息子のやり取りを注視していたのだ。彼女の醜態も、マクシミリアンの蛮勇めいた進言も、全て臣下に見られている。その事実に、全身が火で炙られたかのように熱くなり――そして、冷える。彼女の返答如何に、ブレンクラーレの王家が臣下の信頼と忠誠を保てるか否かが掛かっている、その事実に気付いて畏れたのだ。
――妾では、もう無理なのか……!?
彼女はこの間負け続けた。イシュテン王に、ミリアールトの姫に、ギーゼラにさえ。そして何よりも息子に対して、負けを認めなければならないのだろう。
認めるのだ。アンネミーケの指揮に、もはやブレンクラーレは従わないだろう。だが、マクシミリアンに、ならば。これまで母親の影に隠れていたことで、何ら功績のない若者に過ぎないが。だが、一方で悪い印象に塗れていることも、ない――のだろうか。
「……それほど言うならばやるが良い。妾はもはや口を挟まぬ」
「母上……」
告げた瞬間、マクシミリアンの顔が安堵に緩み、そしてすぐに不安に翳る。母に突き放されたことを恐れるようでは、これからどうしようというのか。そんなことを考えると、口元が少しだけ笑いの形に引き攣った。ほんのわずかでも気が緩んだことで、息子に喝を入れる気力も湧いてくる。
「停戦に妾の――ブレンクラーレの王妃の命が必要ならば使え。何よりも国の将来を考えよ」
その言葉に、息子の表情が引き締まった。先ほどの言葉からも分かる。マクシミリアンは母に感謝していない訳でも、その想いを全く理解していない訳でもない。それだけでアンネミーケにとっては十分だった。それに、母を思う気持ちがあるなら、やすやすと敵に渡さぬように努めるはずだ。そう、期待するしかない。
マクシミリアンが何事か言いかけるのを制して、アンネミーケは息子を立たせた。ブレンクラーレの王の代理は、たった今から王妃ではなく王太子が務めるのだ。その者をいつまでも跪かせておくわけにはいかない。
「このような時に重責を渡すのはまことに心苦しくてならぬ――だが。そなたこそが、ブレンクラーレを導くのだ」
言いながら、玉座の前に息子を導く。仮初の戴冠式といったところか。王太子妃は泣き叫んだ後で涙で顔を汚し、髪や衣装を乱している。ミリアールトの公子は兵に腕を取られたまま。敵陣から戻ったばかりの使者は、事態を理解しかねて四方を見渡している。助けを求めるように見やる貴族や官吏たちの誰も、目の前で起きた全てを把握はしていないのだろう。どこか当惑したような締まりのない表情を浮かべている者が多かった。
だが、それでも。マクシミリアンが玉座の高みに立った時、沸き上がったのは歓声だった。本来あるべき、広間を揺るがす歓呼にはほど遠いが。とにかく、マクシミリアンは臣下に歓迎されて迎えられたのだ。――アンネミーケは、もはや必要とされていないのか。
――否、違うな……。
アンネミーケの全身から力が抜けていく。大きな仕事をし終えた時のような、奇妙な達成感があった。そうだ、彼女は負けたのではない。ただ、いずれは必ず来るべき時を迎えただけだ。鳥の雛が巣から羽ばたき、若い狼が群れからはなれるような、ごく自然のこと。
彼女の息子は、母親から巣立つべき時を迎えたのだ。今この時に、ではなく、もしかしたらずっと前に、だったのかもしれないが。ただ、それだけのことだったのだ。
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