第4話 使者の帰還 アンネミーケ
――何だ、これは。何が起きている……!?
我知らず、アンネミーケは額を指先で抑えていた。比喩ではなく、乱れた血の流れによって頭が痛くて仕方なかった。人の注目を集めること、政の重圧にも、国の将来を左右する決断を下すことの怖れにも慣れているはずの彼女でさえも、今の事態を捌くのは手に余る。――その自覚が、ほとんど感じたことのない恐れが、彼女の頭と心臓を締め付けていた。
「ギーゼラ……どうして……?」
茫洋と呟く息子は、きっと困ったような笑顔を浮かべているのだろう。視界に入らずともありありと目に浮かぶようだ。まったく情けなくて頼りない。だが、いつものように叱責することは、今の彼女にはできなかった。アンネミーケ自身も、王太子妃の突然の反逆にどう対処すべきか咄嗟に決めかねたのだ。
「妃殿下……! 今仰ったことは本当なのですか!? なぜ、この私の名を出されたのですか!?」
最も早く我に返り、意味のある言葉を発することができたのは、ライムント伯爵夫人アマーリエだった。謂れのない罪を被るところだったから当然と言えば当然だ。同時にこの女の心の強さや思考の冴えを示すものでもある。即座に状況を把握して適切な声を上げることができる――そのような女だからこそ、権力を握る王妃を煙たく思うのは当然と考えていたし、彼女の隙をついて思い切った行動に出ることもあるだろうと納得してしまっていた。
――だが……そのように周到に謀ったことではなかったのか。権を巡っての争いではなく、ただ、単純に……?
単純に――何だというのか。心の中のことでさえ、明確に言葉にすることはできなかった。あまりにもバカバカしくてくだらなさ過ぎて。しかもそのくだらない理由で、彼女は神にかけた誓いを破らされ、息子のために巡らせてきた企みを暴かれようとしている。そのようなこと、容易く認められるものではなかった。
「だって貴女も私をバカにしていたでしょう! 私のお陰であの方に会えたのに、私のことは放って悪巧みばかり! あの方を逃がす計画を立てていたのも、どの道本当のことではなくて!?」
「なっ……」
ギーゼラに詰め寄る勢いだったアマーリエが、高らかな嘲笑で迎えられて怯んだ。同時に、広間の片隅で妻が糾弾される場を見守っていたライムント伯爵アルベルトも、表情を動かして身じろぎしている。アンネミーケの詰問に対してやけに悠然と構えているとは思っていたのだが。疑いに対してしらを切りつつ憤って見せる厚顔さに、内心呆れていたのだが。こうなると、アマーリエは演技ではなく本心からの言動を見せていたことになる。そこへ予期せず密かな企みを暴かれて――この夫婦も、ギーゼラに裏切られたのだ。
「――ならば殿下もご存知だったはず。あの姫君の本心を、あの方が王妃陛下に攫われたに過ぎないことを……どうして先日は嘘を吐かれたのですか!」
「その方がお義母様の得になるからよ! そうすれば息子を返してくれるかと思ったから! でもそうならなかった――だから、その仕返しよ! どうせ私にはなにもできないと思われていたのでしょうから!」
広間のざわめきが高まり、無数の蜂が羽ばたいるかのような騒音となって高い天井に響く。狂ったように嗤うギーゼラと、顔を赤くして彼女に詰め寄る伯爵夫妻。王太子はおろおろと彼らと母とを見比べて。――なんと無様な醜態だろう。ブレンクラーレという大国が、敵国の侵攻に曝されて、その対策を練るべき時にこのような内輪の揉め事に終始しなければならないとは。それも、誰も顧みることがなかった王太子妃ただ一人の暴挙によって!
「皆の者……鎮まれ……」
玉座から立ち上がり、口々に騒ぎ立てる臣下を宥めようとしても、アンネミーケに向けられる視線は虚しくなるほど少なかった。ギーゼラとライムント伯爵夫妻の諍いに注目しているから、隣の者と囁き合うのに忙しいから――それだけが、理由ではないだろう。王妃として、アンネミーケが長年に渡って築き上げてきた威厳、臣下から向けられる尊崇が、急速に失われつつあるのだ。
ギーゼラの捲し立てることは支離滅裂だ。彼女が先に述べたことと矛盾さえしているし、大口を開けて喚くのも人前で涙を見せるのも、高貴の女がすることではない。まったくもって見苦しい――だが、だからこそ嘘偽りを述べる余裕はないだろうと思わせるのだ。つまり、イシュテン王が流布させた噂も真実であろう、と。アンネミーケがイシュテンに対して卑劣な陰謀を仕掛け、結果的にブレンクラーレに外患を招いたのだろう、と。
――このような娘のせいで……!?
アンネミーケが民や臣下から得た信頼は、確かなものだと思っていた。夫君に代わって、国を守り富ませてきた自負も自信もある。イシュテンに対する陰謀を知ってもなお、彼女に従い忠誠を尽くす者も少なくなかったのだ。それほどに、アンネミーケのブレンクラーレへの献身は認められているのだろう、と。そう信じていたのは、思い上がりに過ぎなかったというのだろうか。
『誰も私を大事にしてくれないのですもの』
先ほどのギーゼラの絶叫を、アンネミーケは暗澹として噛み締めた。子供の我が儘同然の駄々、地に転がって泣き喚く幼児のような理屈にもならない理屈で、彼女の全てが崩されたのだ。
――思い通りにならぬのはそなただけだとでも……!?
アンネミーケも、夫君に顧みられず愛されなかったのはギーゼラと同じだ。せめて政においては王妃の務めを果たそうとしても、王族ではない身は最初は官吏たちには受け入れられなかった。寵愛の薄さ、容姿。王子に恵まれて賞賛されたのも一瞬のこと、次は務めの終わった女と言われた。嘲りも侮りも哀れみも、ひとつずつ少しずつ踏みつけて乗り越えて戦ってきたのだ。
無論、簡単に心中を推し量られることこそ屈辱なのだが。――だが、ギーゼラは儘ならさを嘆くほかに、一体何をしたというのか。
ギーゼラに、大国の王妃として政の助けとなる器がないのは分かっていた。アンネミーケと同じように公の場でひとり立つことはできないだろう、と。彼女や、ゆくゆくは息子の采配を妨げることがないよう、あえてそのような野心がない――と見えた――娘を選んだのはアンネミーケ自身だ。容姿の凡庸さ、マクシミリアンの無神経さと相まって肩身の狭い思いするであろうことは明らかだったから、立場に相応しい振る舞いができるようにと、義母として導いてやろうとしたのに。何かにつけては息子を叱って、妻を蔑ろにしないようにと教えてきたのに。
なのに、アンネミーケの努力と気遣いは踏みにじられた。確かに息子にも思いを寄せていたかに見えたギーゼラは、突然現れたミリアールトの貴公子にあっさりと心を移した。少しばかり親切にされたからというだけで! 夫ある身で他の男に熱い視線を送る軽率さ、挙句の果てにはブレンクラーレの世継ぎに恋する男にちなんだ名前をつけた。レオンハルトを遠ざけたのは、この母親には任せられないと思ったから。これで丁重に扱えというのは、あまりに図々しいと言うほかないではないか。――だが、いかに言葉を尽くしたとしても、今のギーゼラには届くまい。
――とにかく、この場を収めなければ……。
思うことも言いたいことも尽きないが、この一連の騒動はあまりにも無様で、しかも意味がない。使者に対してイシュテンがどのような反応を見せるかも分からないし、策が成功したとしても国を挙げて押し寄せる軍がすぐに退くはずもない。
だから――たとえ効果は薄いにしても――アンネミーケは声を上げなければならなかった。どうにかして、この醜態を収めなければ。だが――
「だが、シャスティエには関係ないことだろう! どうして彼女を巻き込んだ!? 彼女に一体何をした……!?」
アンネミーケの声はまたもかき消された。ただし、今度は有象無象の囁きによってではなく、忌々しくも美しい澄んだ声によって。あのミリアールトの公子が、ギーゼラたちの言い合いを見かねたらしく割って入ったのだ。
このような騒動の中にあっても、礼儀をかなぐり捨てた怒声であっても、公子の声は凛としてよく響いた。姫君と見紛うすらりとした手足は、兵に取り押さえられて。制止がなければギーゼラに殴りかかりそうな勢い――いっそその怒りを解放させてしまっても良いのではないか、という誘惑に一瞬駆られたのを、必死に抑える。ギーゼラ本人が
あと数歩のところで、兵に腕を取られた公子が歯噛みする様を、ギーゼラはひどく愉しそうに笑っていた。危ういほど、傍目にも分かるほどの想いを、この娘はこの美しい青年に抱いていた。激しい怒りや憎しみであっても、それだけ強い感情を向けられるのは純粋な悦びなのかもしれなかった。
事実、アマーリエらに対峙した時と違って、公子の詰問に応えるギーゼラの声は優しく、甘く媚びる色さえ漂わせていたのだ。
「いいえ、全てあの方のせいよ。殿下を惑わし、お義母様には無礼な態度を取った。イシュテンがこの国を攻めているのもあの方を取り戻すためでしょう? なのに何も悪くないとでも言いたげに……! 我が子に会えないのはあの方だけではないというのに……!」
「ギーゼラ……私は……」
マクシミリアンが呆然と呟いた。妻に公然と詰られる立場に息子が置かれたことが、悔しく悲しくて堪らなかった。ただでさえ侮られがちなマクシミリアンが、このことで臣下からどのような目でみられるようになるのか――たとえ責任の一端は息子にあるとしても、到底許せるものではなかった。息子が恥を晒す時間を少しでも短くできるように、アンネミーケは息を吸い――そして、三度、遮られる。ギーゼラが開け放した広間の大きな扉、それでも兵に守られているそこを、通り抜けようとする影が現れたのだ。
「陛下……! イシュテン王に遣わした使者団が、戻りましてございます……!」
礼を重んじる鷲の巣城を警護する者にとっては、先触れもなく玉座に駆け寄る無礼など許しがたいのだろう。その影は、兵によって無情にも押し止められた。交差する槍の柄に手を掛けながら叫ばれたことは、しかし、アンネミーケが待ちわびていた報せだった。
「おお……首尾はどうであった?」
玉座の高みから降りて、通せ、と指先で兵に命じる。すると埃塗れのその男は、転がるようにしてアンネミーケの前に跪く。
単純に人々の耳目をギーゼラから逸らすことができる――その切っ掛けとしても、使者の帰還は天祐のようだった。そして何よりも、彼らの報告はブレンクラーレをも救うかもしれないのだ。
「それが……」
「――あの者は、務めに殉じたか……!?」
跪く男の顔は、アンネミーケがイシュテン王の使者に任じた者とは異なっていた。この者も一団に加わってはいたが、主に王と対峙して
決して、やすやすと失いたくはない忠臣――それでも、同時にあの使者が生きて帰る見込みがごく少ないのは覚悟していた。アンネミーケも、当人も。イシュテン王の面目を潰す秘密を、臣下の目の前で暴露しようというのだ。その場で八つ裂きにされて当然、生きて帰ることを許された者がいることこそ驚きだった。
アンネミーケの命によって酷い最期を迎えた者がいるということ。それ自体は心臓を引き裂かれるように辛い。だが、これは必要な痛みのはずだった。イシュテンの士気を挫き、ブレンクラーレに勝機を引き寄せることができさえすれば。使者の死も、決して無駄にならないはずだ。
「は。――いえ……」
「……どうした。イシュテン王は何と言っておったのだ?」
息せき切って質して――しかし、生還した者の顔色が悪く歯切れが悪いのに気付いて、嫌な予感を覚える。イシュテン王の怒りを思い出したか、あるいはひとり生き残ったのを恥じてでもいるのか。そういうことならば、問題はないのだが。幾らでも宥めて労って、慰めることもできるのだが。
――何があった……? 何か、予期せぬことが……?
駆けつけたばかりのこの者は、広間の空気の重さ不穏さの理由は知らないはずだ。なのにどうしてこう言い淀むのか。務めを無事に果たしたならば、すぐにも皆に伝えたいものではないのだろうか。
「イシュテン王は……知っていた、と言いました」
いつの間にか、広間のざわめきは静まり返っていた。ギーゼラやアマーリエでさえ、ただならぬ気配を察したかのように口を噤んで報告に耳を傾けている。ブレンクラーレに、自身の行く末に何をもたらすのかを、見極めようとでもするかのように。
「知っていた。何を、だ」
アンネミーケは臣下とのやり取りには常に簡潔であることを求めてきた。言葉は常に明瞭で端的でなければならない。それでも、今の相手の言葉はあまりにも短すぎて理解することができなかった。――あるいは、理解したくなかったのか。決定的な失敗を、はっきりと認めることが恐ろしかった。
「側妃の名の意味を……知っていて、許していたと……!」
だから聞き直すことでアンネミーケは時間を稼ごうとしたのだ。だが、彼女の逡巡は、広間全体にことの成り行きを叫ばせる結果になった。それは、ブレンクラーレが勝機を託した策が、あえなく潰えたと――この場の全員に知らせることだ。
「復讐とは夫君の敵に対するもの、あの方も王妃陛下への復讐を望んでいるだろう、と……! 王は全て承知していたのです!」
何者かに顔を捏ねられているのではないかというような歪んだ表情で、生き残った使者が叫ぶ。事態を注視して誰もが口を噤んでいた静寂の中、その絶望の声は良く響いた。
そしてその叫びの残響が消えた次の瞬間、鷲の巣城の広間を悲鳴と怒号が満たした。
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