第3話 告発と告白 レフ

 ブレンクラーレの王宮、鷲の巣城アードラースホルスト。その最奥の玉座の間は、またも不穏な空気に包まれていた。

 先に王妃や王太子、国の中枢を預かる廷臣たちが集った時は、迫りくるイシュテンの軍に怯えた者たちが、その侵攻の原因と見做されたアンネミーケ王妃やレフを糾弾しようとしていた。その時は、レフがシャスティエの婚家名の意味――祖国を滅ぼした仇敵への復讐の誓い――を明かしたことで、ひとまずアンネミーケ王妃への糾弾の矛を収めさせることができた。それどころか、イシュテンの士気を挫き戦いを有利に進める可能性すら見出されて、王妃がイシュテン王へ使者を出すことを決めた頃には、集った人々の表情はかなり明るくなっていた。レフも、イシュテン王への復讐が叶うこと、シャスティエがあの男のもとへ道を閉ざすことができたこと、ふたつの喜びを噛み締めたものだ。


 ひやりとする場面もあったが、乗り切ることができた、と思っていた。この戦いを生き延びさえすれば、シャスティエとミリアールトを取り戻すことができる、と。なのに――


「私は、何も存じません!」


 王妃の前に引き出されて必死に訴える女を、レフは歯軋りしながら睨みつけた。


 身にまとう衣装は明らかに上質なもの、それなりの年齢だろうに染みも皺も見えない肌や艶やかな髪。一目で高位の地位にある者だと分かる。広間中の人間からの視線を浴びて、不快と不機嫌を露にした王妃から氷の刃のような目で見降ろされて、物怖じせずに声を張り上げることができる気丈さも大したものなのだろう。事実、ブレンクラーレの社交界でも名高い才女なのだと、集った人々の噂話で知らされた。

 だが、この女の評判など、レフにとってほとんどはどうでも良いことだった。重要なのは、この女の夫は、先日アンネミーケ王妃に楯突いてシャスティエをイシュテン王のもとに返すべきだと主張したあの何とかいう伯爵だということ。シャスティエが匿われていた鷲の巣城の一角から消えたということ。そして何より――それはこの女の手引きによるものだと、使用人が証言したということ、だ。


「今の状況であの御方をお逃がしする意味などないではありませんか! 私や夫のことを快く思わない者による陰謀ですわ!」


 ――白々しい……!


 怒りに身じろぎしたレフの腕が、隣に控えた兵によってそっと抑えられた。この広間に呼び出される道中で、おおよその事態は聞かされたレフが、そのまま走り出しそうになったからだ。理性を失った振る舞いをしないよう、制止役がつけられたというところだろう。確かに、もしも間近に止めてくれる者がいなければ、彼はシャスティエを死地に送り出したという女に殴りかかっていてもおかしくなかった。

 だから仕方のないこととは理解しているのだが――身に覚えのない嫌疑をかけられたとでも言いたげに言い訳を連ねる女を前に、糾弾することもできないのは苛立たしく歯痒いことこの上なかった。アンネミーケ王妃からの伝言で、何も発言するなと彼は言い含められているのだ。ブレンクラーレの臣下を挑発し混乱させることがないように、と。

 それでも王妃の追及が甘いようなら、命令になど構わず声を上げてやろうと思っているのだが。臣下に裏切られた形のアンネミーケ王妃も、レフに劣らず怒りを滾らせているようだった。


「確かに我が国には何ら益をもたらさぬ蛮行だ。殺されると分かっていながら姫君を野獣どもの牙に放り込むなど……! だが、全くの無意味ではないであろう? 害ならば確実にもたらすであろう? わたしは姫君の胎の御子と、王女殿下の代わりに攫われたという赤子の無事を保障していた。ほかならぬ我が夫君と睥睨するシュターレンデ・アードラーの神の名に懸けて! イシュテンとの戦いが迫るこの時に、国のことよりも妾の名を貶めることを選んだとは、何と見下げ果てた心根か……!」

「そもそも、この難を招いたのは王妃陛下ご自身の行いによるものと理解しておりますわ。悪評をお気になさるというならば、まずはご自身の権などよりもブレンクラーレのことを慮っていただきたいものでした!」

「差し出がましいことを……だからこそ妾を退けんと目論んだと、認めたと取って良いのだな!?」

「陛下こそ。イシュテン王の主張を肯定しているように聞こえてしまうのが不思議でございます」

「何と無礼な……!」


 アンネミーケ王妃の骨ばった手が、玉座の肘掛けを固く握りしめている。白くなった皮膚が、力の入れようと王妃の怒りのほどをありありと伝えているようだった。糾弾されるべき立場に引き出されたのを、女は逆に王妃を直接問い詰める機会に利用しているのだ。イシュテン王の主張――イシュテンの内乱に干渉し、側妃のにも関わったという疑いを蒸し返されて、アンネミーケ王妃は、内心さぞ焦っていることだろう。

 監視の兵に、さりげなく動きを見張られ封じられ、レフの心中にも焦りが嵐のように荒れ狂っている。王妃は、シャスティエの不在が発覚するとほぼ同時に追っ手をかけたとも伝えられたが、果たして追いついて彼女を取り戻すことができるのか。間に合わなかった時には何が起きるのか。この場にいて何ができる訳でもないからこそ、嫌な予感は膨れ上がるし万が一のことを思うと心臓が引き裂かれるような痛みに苛まれる。


 そして何よりも激しく彼の心を揺さぶるのは、この状況そのものへの怒りだった。


 ――つまりは、ブレンクラーレの権力争いのせいで……!


 王妃が指摘した通り、今さらシャスティエをイシュテン王に引き渡したところで何の意味もない。側妃の不吉な名の意味は、既に使者によって伝えられている。救い出すはずの側妃の裏切りを知らしめることで、まずは敵の心に一撃を加える策を採るのがアンネミーケ王妃の決断だった。この女の夫が主張したように、王妃を引きずり下ろすことでイシュテンに許しを乞うことはしない、と――ブレンクラーレの宮廷全体で同意したはずなのだ。

 それを、覆すような真似をしたのは。シャスティエの命が危ういことを承知の上で、鷲の巣城から追い出したのは。彼女の子らを守るという王妃の誓いを破らせて、その名を貶めようという企みに違いない。そのような権力争いのために、シャスティエは命を踏みにじられようとしているのだ。


「――恐れながら、姫君をイシュテン王に引き渡すことで利を得る者がいるように思いますわ」


 額に汗を浮かべながら、それでも堂々と王妃に食らいつく女の図々しさが、憎くて堪らなかった。王妃も射殺すような視線で睨み返してはいるが、愛する人を危険に晒されたレフの方が、きっと怒りも憎しみも強いはずだ。


「あの方は、王妃陛下が何をなさっていたか察していたに違いありませんもの。イシュテンを退けたとしても、あの方が鷲の巣城にいる限り陛下の御心が安らぐことはない。一方で誓いがあるからあからさまに害することも思いもよらない。――だから私を身代わりに仕立てたと、そのように考えることもできるのではございませんか!?」

「バカな! それこそ言いがかりにほかならぬ!」

「アマーリエ。王妃に対して不敬ではないのか」


 アンネミーケ王妃が玉座から腰を浮かせかけた時、弱々しい声で割って入ったのは、強い女ふたりの剣幕に気圧されるように黙っていたマクシミリアン王子だ。声と同様、表情も曖昧な笑顔で頼りない。この王太子では大国の世継ぎとして心許ないから王妃はイシュテンに介入してきた節がある。そもそもはこの方の不甲斐なさのせいで、と思うと、整っているはずの王子の顔を殴り飛ばしたい衝動とも戦わなければならなかった。


 自信なげに口を開く息子を見る王妃の目は冷ややかで、アマーリエと呼ばれた女の方も、とりあえずは黙したものの、咎められた非礼を詫びる気配はない。重苦しい空気を察しているのかいないのか、それでも王子はどうにか場を丸く収めようとしているようだった。いっそ健気な――けれど愚かな努力でしかないだろう。ブレンクラーレの全てに怒りを覚えているレフにとってさえも、王子の虚しい笑顔は哀れむべきものだった。


「こうしている間にもイシュテンの軍は迫っている。そなたへの――その、嫌疑はひとまず置いて、迎え撃つことを考えなければ。母上の使者はイシュテンの王と諸侯を動揺させたはずだし、姫君も……間に合わぬと、決まった訳ではなし。ことの次第を糾すのは、落ち着いてからでも――」

「――マクシミリアン」


 深々とした溜息とともに、アンネミーケ王妃が息子の名を吐き出した。その理由はよく分かる。王妃への反逆を目論んだ疑いがある臣下を放置するなど、王子の立場で口にして良いことではない。わだかまりを抱えたままで敵と対峙するのもまた、愚策というべきだ。王子は勇気を振り絞って母に気概を見せようとしたのかもしれないが、逆に失望させ呆れさせてしまったようだ。

 レフもこれまでに何度も目にしたように、王妃は王子を叱り窘める言葉を発しようとしたのだろう。だが、鞭のような声が世継ぎの王子を打ち据えることはなかった。代わりに広間に響いたのは、もっと高く、細い声だった。レフも、聴いたことがある声だ。


「いいえ。今、この場で話しておく方が良いと思いますわ」

「……ギーゼラ?」


 だが、マクシミリアン王子が不思議そうに呟いたのも無理はない。常の王太子妃ならば、もっとおどおどとした口調のはず。言葉の内容も自信なげで、人の機嫌を窺うようなものだったはず。なのに、王妃やアマーリエという女に劣らず堂々と誇らかな声を張り上げることができているとは、一体どういうことだろう。


「そなたの意見は求めておらぬ。若い娘にとって楽しい話でもなし、下がっているが良い」

「いいえ。お言葉ですが申し上げさせていただきます」


 広間の入り口から、最奥の玉座へと。ギーゼラ妃はゆっくりと歩み出る。数多の貴族や高官の視線を一身に浴びながら、怯むことなく。レフの目の前を通り過ぎる時も、背筋は真っ直ぐに伸ばされて、横顔は顎をしっかりと持ち上げた悠然としたものだった。――これも、いつもの彼女らしくない。義母に口答えをすることも。最近は義理の母娘の間柄はぎこちない――というか、はっきり言えば確執が生じていたようではあったのだが。それでも、気弱な王太子妃が衆目の前であからさまに義母に逆らうのを、レフはこれまで見たことがない。


「ギーゼラ……? 一体何を……?」


 何かがいつもと違う。その不穏さと緊張感を、さすがのマクシミリアン王子も感じているようだった。へらへらとした笑顔は変わらないが、どこか妻の顔色を窺うような、下手に出るような空気があった。

 レフはかつて、王太子妃が夫に顧みられないのを哀れんだ。彼に向けられる熱い目線とはまた別に、ギーゼラ妃の方でも夫であるマクシミリアン王子への思慕はあるように見受けられた。だが、今の彼女は夫の呼びかけをごく滑らかに黙殺した。先ほどと同じく張りのある声で語りかけるのは、義母であるアンネミーケ王妃に対してだけ。


「アマーリエを放してあげてくださいませ。この者は何も知らないのですもの」

「何の根拠があってそのようなことが言えるのだ……? ライムント伯爵夫妻は確かにそなたに近づいていたようではあったが。だからといって庇い立てなど――」


 息子の進言を却下しようとした時と同様、王妃は嫁の言葉に対して露骨に顔を顰めてみせた。愚かなことを、と。言外に言うのがはっきりと聞こえた気がするほどだ。それに対して、ギーゼラ妃はふ、と微かに息を漏らした。


「根拠? 根拠は、あります」


 その吐息は、苦笑の響きを帯びていた。義母の方こそ愚かなことを聞いてくると、嗤うような。恐らくは慣れないであろう嘲りと侮りに、アンネミーケ王妃は一層眉を寄せて唇を震わせた。だが、叱責の声を発するよりも、王太子妃が高らかに宣言する方が早かった。


「だって、私がアマーリエの名前を騙ったのですもの。皆に、言うことを聞いてもらうために。王太子妃の命令は聞けないのにたかだか伯爵夫人の言うことなら皆従うの。この国は本当に、おかしい……!」


 言いながら、ギーゼラ妃はくるりと回って広間を見渡して見せた。集ったブレンクラーレの貴顕に、異国の者ながら出席を許されたレフに、勝ち誇った表情を見せつけようとでもするかのように。特にレフと目が合った瞬間、彼女は唇に弧を描かせた気がした。この方が彼を見る時は、いつも上目遣いで、恥じらうようで、正面から目を合わせることなど――礼儀に適わないから、ということを別にしても――なかったのに。この、得意げな表情は何だろう。この方が、これほど優雅に自信たっぷりに振る舞ったところなど、いまだかつて見たことがない。

 不思議に思う間にも、ギーゼラ妃は次の言葉を紡いでいる。広間の誰もが――アンネミーケ王妃さえ――呆気に取られて言葉を失っている、その隙を突いて。


「――だから、あの方をイシュテン王のもとに返したのは私がしたことです。皆さま、とても残念なことになりますわね。あの方、お義母様の企みを全てご存知ですもの! ああでも、きっと使者が着く方が早いわ。あの方の名前を知った後で、イシュテン王が聞く耳を持ってくれるかどうか――企みが暴かれるのと誓いを守れないの、一体どちらがマシなのかしら!」

「バカな……っ!」


 ギーゼラ妃が高らかに笑っている。愉快で堪らないとでも言いたげに、この上なく愉しそうに、悪意を込めて。おっとりとしていると思っていた方の、似合わぬ狂態に呻いたのは、レフだけではなくアンネミーケ王妃もだった。この方が自分の意思で何かしらを為すこと、しかもそれが義母に背くことだった、などと。本人の告白があってなお、容易に信じられるものではなかった。


「どうして、そのようなことを……!」


 問いかける声も、広間のあちこちから湧き上がるものだった。広間に集った者、ブレンクラーレの中枢にいる者たちの誰もが、王太子妃の突然の行動に戸惑い、何をすべきかを見失ってしまっているのだ。


「どうして? どうしてですって? 皆にそう思わせたかったからに決まっているでしょう! いったいどうして、って!」


 ゆっくりと、ざわめきが広間を満たしていく。人が囁きかわす声、身じろぎする時の衣擦れ、兵が鎧や剣を鳴らす音。それは、人々が王太子妃の言葉の意味を理解する速さだった。その鈍さを嘲笑うように、ギーゼラ妃はまた声を張り上げる。


「私は王太子の妻なの! 世継ぎの王子の母なの! なのに、誰も私を大事にしてくれないのですもの。皆、あの方のことばかり……! だから、教えたかったのよ。私に何ができるか。私だってちゃんと考えて感じることがあるのだと……!」


 首を四方に巡らせながら、ギーゼラ妃が訴える。ブレンクラーレの全土に呼びかけるかのように。引き攣って歪んだ形相は、笑っているのか――それとも泣いているのか、もはや区別がつかなかった。

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